今回ご紹介するのは、工房集(埼玉・川口市)の杉浦 篤(すぎうら・あつし)さんの作品です。
キュレーターは中津川 浩章さん(画家、美術家、アートディレクター)です。

作者紹介……杉浦 篤さん

自分の気に入った写真を何年も触り続けた物が色々な形となり、一つの作品となっている。
篤さんは生活の中で、ホッと一息出来る夕食後の時間やのんびりと穏やかなひと時に自分の部屋で楽しそうに写真を見ている。
時に箱を抱えながら、時にベッドに並べて寝転がりながら、楽しそうに過ごしている。
でも、気持ちが落ち着かずソワソワしている時や、ちょっとした諍(いさか)いからイライラしている時などに、写真を見ながら気持ちが落ち着いてくる…なんて姿もある。
篤さんにとって写真と向き合うひと時は安心出来る大切な時間なのだろう。(工房集より)

キュレーターより 《中津川 浩章さん》

杉浦 篤 ―触覚としてのイメージ―
角がすり減って丸くなり、色はあせ、無数の傷で覆われた画像。一見レトロでノスタルジックな雰囲気を醸した作品に見える。じつはこれらは、所有者の杉浦篤が強い愛着とこだわりをもって触り続けるという行為の結果、何が写っているか判別しがたいほどに変形してしまった「写真」なのだ。そこに映っているのは何気ない風景やちょっとしたスナップ、彼が父と一緒に旅行に行った時のものなど思い出のシーンの数々だ。

この「写真」を見たのは杉浦が暮らす入所施設を訪れたときだった。自室で彼がおこなってきた行為の結果であるこの写真たちは、それを施設のスタッフがすべて保管しておいてくれたことによって私たちの目に触れることになったのだ。

家族とともに生きた痕跡、そして今は失われてしまった場所。これらのイメージは彼にとってかけがえのない貴重な記憶そのもの。写真を触るという行為にはどんな意味があるのだろう。繰り返し触ることで、写真に映る像は記憶にいっそう刷り込まれるのだろうか。彼の脳裏に取り込まれ、より深い内的なイメージが生成されているのかもしれない。
触り続けることによって劣化した写真は、劣化することでよりいっそう物質性が強く現れている。触られ続けることによって傷を帯び、物質性とイメージが交錯した未知の「なにか」に変容している。イコン(icon「聖画像」)のような聖性を帯びて奇跡のような「なにか」になっていくのだ。

彼はこうした日常的に触れる行為によって、写真という光学的機械によるキアロスクーロ(chiaroscuro(伊)「明暗法」)の世界に触覚や記憶を呼び起こし、一人の人間にとってかけがえのないイメージを浮かび上がらせる。杉浦の写真を見ていると、人にとって写真とは何なのか、イメージとは何なのか、という根本的な問いが浮かんでくる。紙に写り込んだ染みのような陰影は、それを人が見ることによってイメージとなる、その事実にあらためて気づくのだ。

杉浦の写真は直接的で一次的でより本質的な表現として成立している。これらは決して意図的にレトロなスタイルをなぞって写真の中にあるイメージを揺らし物質化しようとしたものではない。記憶、生と死、母性、障害、福祉など多義的なイメージと意味がそこに共存し、アートに回収されない個人的な切実さと同時に社会的な拡がりを内包しつつ、アートに対する根源的な問いかけにもなりうるのだ。そしてそれこそがアートの重要な役割であると考える。


プロフィール

中津川 浩章(なかつがわ・ひろあき)

記憶・痕跡・欠損をテーマに自ら多くの作品を制作し国内外で個展やライブペインティングを行う一方、アートディレクターとして障害者のためのアートスタジオディレクションや展覧会の企画・プロデュース、キュレ―ション、ワークショップを手がける。福祉、教育、医療と多様な分野で社会とアートの関係性を問い直す活動に取り組む。障害者、支援者、子どもから大人まであらゆる人を対象にアートワークショップや講演活動を全国で行っている。


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