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NHK厚生文化事業団は、NHKの放送と一体となって、誰もが暮らしやすい社会をめざして活動する社会福祉法人です

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この人に聞きたい

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桑名 正博(くわな まさひろ)さん

歌手

大阪市出身。56歳。1976年「セクシャルバイオレットNo.1」が大ヒット。ロック歌手としてだけでなく、俳優としてドラマ、映画、舞台などにも出演。1992年豊能障害者労働センター「風の華」コンサートの出演をはじめ、車いすバスケットボールチーム「ネットライダース」を主宰するなど、障害のある人達の支援も継続的に行ってきました。阪神・淡路大震災のときには、バイクライダーたちを率いて被災地でボランティア活動を展開。桑名さんのボランティアについて話を聞きました。


Q阪神・淡路大震災のときは、バイクライダーを率いて、被災地に乗り込んだことが話題になりましたね。当時のことを教えてください。

A地震が起きた日は、東京で舞台の仕事をしていて、大阪へ帰ってきたのは3日後でした。
おふくろが西宮に住んでいたんですけど、家が倒壊しなかったので、たまたま助かりました。
でも神戸に住んでいる友達は、誰とも連絡がとれない。道路は車がぜんぜん動かないっていうし、どうしようかな……と大阪へ帰る新幹線の中で考えたんです。
あっバイクがいいんじゃないかって。

バイクをやっている芸能人に声をかけたら、「売名行為のようになるのはちょっと……」って言われてね。
芸能人なんて売名行為して暮らしているようなものなのに、なんでこういうときにちゃんとやらないんだって思いました。
それで知り合いの若い人やボランティアをやっている人たちに「中古のバイクや使っていないバイクを借りて、一緒に行きませんか」ってFAXを流したの。
そしたらバイクが15台くらい集まりました。

どうやって神戸に入ろうか……。そうだ、海から行けばいいやって。知り合いが石炭とかを運ぶ船を持っていたんです。
3階建ての大きな船で、8人くらい一度に入れるようなお風呂もついていました。
自走じゃないのでタグボートで引っ張るんだけど「あの船を貸してくれないかな」って相談したら、「ガソリン代だけ持ってくれたら」と言って貸してくれました。

救援物資を全国から集めて、大阪住之江区にあるスタジオに運びました。
地元の商店街の人たちがすごく協力してくれてね。物資の仕分けを手伝ってくれたんです。
バイクと物資を積んだ船が大阪を出発したのは2月。みんなの善意をすごく感じました。

Q被災地ではどんな活動をされたのですか。

A船を基地にして、そこからバイクライダーが救援物資を被災地へ運びました。
僕は、バイクに乗れないので、ボランティアの受け入れをしたり、物資の仕分けをしたり、いろんなことをしました。
常に30人から50人はいましたから、延べでは大変な数の人が手伝ってくれました。

“元暴走族”みたいな人達もいっぱい来てくれました。
不良のネットワークって結構すごいんですよ。まっすぐだし。あのときはあいつらが一番がんばってくれました。
運び終わった後にこんな手紙をもらいました。「若いときを振り返ると、人に迷惑かけることしかやってこなかった俺が、こういう形で人を助けることができて、一生忘れられない体験になりました。」

Q忘れられない出来事はありますか。

A 僕、一度だけ殴っちゃったんです。来てくれたやつを。なぜかっていうとね。俺が口をすっぱくして言っていたことがあるんです。それは物資を届ける相手と親密な関係にならない、ということ。「いろんなことをやってあげたいという気持ちはよくわかる。でも突然、活動が終わって、そこへ行くことができなくなったとき、おばあちゃん、どんなにさびしい思いをするか。一生手伝うことは出来ないのだから。君の役目は荷物を運ぶということなんだよ」って。でもやっぱり特定の人のところへばかり行くやつがいてね。あるとき口論になって、パーンと頭はたいちゃったんです。あっしまった、と思ったんだけど。ちょっと感情的になってしまって。あれはよくなかったな、と今でも思うんですよね。

船を拠点に集団生活をしていましたから、いろんな話が出てくるんですよ。若い人ばかりなので、恋愛感情も出てくるだろうし。船を通して一つの社会のようになっていました。僕には若い人たちをまとめるのも大変だったけど勉強にもなりましたね。

Q桑名さんも、まっすぐだったんですね。
桑名さんは、以前から障害のある人とのおつき合いがあるそうですが、被災地でも皆さんの支援をされたのですか。

A避難所では、知的障害のある子が、ちょっと目を離したすきに、倒壊した自分のうちに帰ってしまうことがあるんですね。そうすると電話がかかってくるので、ぼくら捜索班つくって捜しに行ったりしました。雨の中、その子を見つけるのが大変でね。「いたー!」って。
知的障害のある子は、大きな声をだすこともあるから、避難所の体育館でもやっぱり疎外されてしまうことがあるんです。避難所でも小社会ができていて、そこでもまた弱者が差別され、すみに追いやられていく。何とも言えない感じがしましたね。

Q改めて気づいたことはありましたか。

A初めてボランティアをするという人も多かったんです。テレビで被災地の惨状を見て「私が行ってあげないと」という思いで来たんだと思うけど、逆にその人たちで電車がいっぱいになったり、道が通れなくなってしまったり、ということがありました。

炊き出しのときには陣地とりもあったんです。公園に炊き出しに行くと、他のボランティアが「ここは私たちの陣地やねんから、あんたら出て行って」といってけんかになったり。いったいなんなんやろう。一緒にやればいいじゃないって思いました。

ミニスカートをはいた女の子たちが、ペットボトル1本持ってぞろぞろ歩いていたり、夜、瓦礫の中を一人でうろうろしている子もいました。危ないですよ。そういう若い子を集めて話したんです。
「来てくれたのはものすごくうれしい。みんな喜んではると思う。震災でみんなボランティアに目覚めたというけど、ちょっと待って。あなたの家の近所に寝たきりのおじいさん何人いるの。一人暮らしのおばあちゃんいない?その家へ学校や職場の行き帰りにピンポーンって訪ねて、今日は大丈夫?って声をかけたり。飛行機代かけて神戸まで来なくても、やれることがあるんじゃない?」って。

“下駄履きのボランティア”をしよう。ちゃんと靴をはいて出かけるんじゃなくて、サンダルとかツッカケはいても行けるような、隣り近所でできるボランティア。地域でやれることがたくさんあるはず。実はそういうことが大切なんだって、僕自身も気がついた。手の届く範囲で意味のある事をする方が大事に思えてきた。なるべく自分の身近なところからやろう、と思うようになったんです。

Q阪神大震災の体験で、桑名さん自身は何か変わったことはありますか?

A2ヶ月間ボランティアをやってきたけど、毎日落ち込む話ばかりでね。なんか、俺らは本当に役にたっているのかって自問自答してきたんです。
でも船を引き上げる日が近づいたとき、たくさん届いたFAXの中に「もう少し桑名さんの船を浮かしておいてもらえませんか。桑名さんの船がそこに浮いているということで、元気が出て毎日やってこれたんです」って書いてあった。やっぱり意味があったんだって思った。

じつは40代に入って、自分はこのまま歌っていていいのか、わからなくなっていた。仕事のためだけに歌っているような気がしてね。お芝居とか歌なんて、世の中にいらないといえば、いらないものだし。

避難所の公園で、焚き火を囲んで被災した人たちと歌ったりしていたら、歌は必要だと思った。みんなが歌えるからね。歌うということは人の役に立つんだって改めて感じました。
歌を歌うしかない。FAXを見て、俺ら浮いたような商売やから、ずっと浮いていたらいいのかなってね。僕にとってはそれが一番よかった。そこからまた一生懸命音楽をやるようになったんですよね。

Q去年9月には、大阪の応援団「大阪いっとこ会」という会を立ち上げられたそうですが、これからはどんな活動をしていきたいと思われているのですか。

A親しい友人が、去年亡くなったんです。大阪の川を愛する人で、川をきれいにしよう、とずっと取り組んでこられたんです。「大阪を楽しい街にしようや」というのが彼の口ぐせだった。その意思を引き継いでいこう、と立ち上げたのが「大阪いっとこ会」。

町自体をきれいにするということ、そして“下駄履きのボランティア”。近所でできることがいっぱいあるよっていうことを、小学生、中学生にも知ってもらいたい。
「ネットライダース」っていう車いすバスケットボールチームをずっと障害のある人たちとやってきたんだけど、車いすや障害のある人たちの事も子どもたちに知ってもらいたい。
世間では不良と思われているようなおっさん仲間がたくさんいるんだけど、その人たちの元気が発揮できる場がなかなかないんです。そういう仲間を集めて、みんなに元気をうつしていきたい。そうしたことの架け橋になれるといいかなと思っています。

取材 大和田恭子



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