第60回NHK障害福祉賞 柳田邦男賞受賞作品
~第1部門より~
「私にできること」

著者 : 籠田 芙佳 (かごた ふうか)  兵庫県

私は今年の春から、ひとり暮らしをしている。鍋振りや、週三回のごみ出しなど、家族に甘えて十九年間やらなかったことが、次々とできるようになっている。私の巣立ちを、「無理だろう」と言う人はいなかった。でも、それはとてもありがたいことだと思う。
私は、幼稚園に入園したときから、家族以外と話せなかった。家族との私は、元気で、お喋りで、笑いをとることが大好きで、どこにでもいるような子供だったのに、他の人を前にすると、口は開かず、体は動かず、声も意思も出なくなった。こういう症状を、場面緘黙(かんもく)というらしい。不安症の一種で、日本では知名度が低く、解明されていないことも多い。私は、その場面緘黙と、一緒に生きている。今は、話せない場面が数え切れるほどまでに減っているが、まだ、疲れていたり、不安が大きくなったりしたときは、話せなくなることもある。不安を感じると、脳の指令が体に届かなくなる性質自体はずっとあるので、動けなくなることも、日常の一部として考えている。私は、二週間に一回はラーメンを食べているが、動けなくなることも、同じくらい日常的なことだ。私は、私以外の日常を知らない。いちばん古い記憶でも、幼稚園にいる私は話せない。他の人が、私になって生活してみたら、不安になることが多すぎて、ずっと泣いているしかできないかもしれない。それでも、私は、これ以外の日常を知らないので、この日常が普通だと思っている。そして、私の要素で、私は楽しく生活している。
もっとも、そうやって、私が話せなくなったり動けなくなったりすることが、私の日常だと理解してくれている人は少ない。大半の人は、異常なことだという反応をする。それを見越して、長く関わることになる人と初めて会うときは、私の日常について説明するようにしている。これは、ある程度話せるようになってから私が身につけた、歩み寄りの一歩目だ。毎回緊張はするが、その緊張も含めて、慣れてしまった。理解されなかった経験が十代の真ん中まで積み重なったからか、私は比較的、自分の話をする方だと思う。話せないときがあるくせに、話す場面に積極的に飛び込んでいくところは、私の長所だなと思う。高校は通信制に通ったが、生徒会や、文化祭の実行委員もした。不安になれば簡単に脳と体の接続が切れるところも、話すのが好きなところも、生まれたときから私の一部だ。話す機会の前には、念入りに準備をして、納得するまで練習をする。この過程を嫌だと思わないのは、好きだからこそのことだ。場面緘黙だからといって、好きなことを諦めなくてもいい世界になるように、私は、これからも話す場面に飛び込んでいく。
学校で全く話せなかった小中学生の頃は、今のような「場面緘黙は私の一部」という考え方は到底できなかった。話せるようになれば、私は学校で楽しく過ごせるし、それができないのは場面緘黙のせいだと思っていた。場面緘黙は、私が背負わされている大きな荷物だった。いつも、話せない自分を自分で馬鹿にしていたし、怒ってもいた。話せる人がみんな、違う世界の人に見えた。自分が大嫌いだった。家では話せたが、学校での私を家族に知られたくなくて、学校の話はほとんどしなかった。学校での私は惨めだと思っていた。本当は話すのが好きなのに、話せなくて落ち込むのが嫌で、話そうともしなかった。当然、挑戦しないうちは一言も話せなかった。
そんな中学生の頃、私は、定期的に同じ想像をしていた。弁論大会や生徒会選挙などの行事の度に、「話せない私が舞台に上がって、スライドを映したり、誰かに原稿を読んでもらったりして話したら、どうなっちゃうんだろう?」ということを、考えていたのだ。自分の声で話さないといけないという、固まった世界を壊してみたい気持ちと、世界が壊れたときに、周りがどんな反応をするのかへの興味で、とてもわくわくした。私は話せない子だったので、誰も、私が舞台に上がりたいかもしれないと考えることはなかったと思う。その、目の前のことを疑わない世界への反発として、私がやりたかったら、どうするんだろう? ということに興味があった。ただ、勇気はなかったので、実際に行動することは、中学生の私にはできなかった。そして、周りの人と同じように、自分でも、自分はできないだろうと決めつけていたので、やりたくても、その気持ちを封印するしかなかった。
高校生になり、話せる場面も増えてきた辺りから、話す機会がある役割にも挑戦するようになった。文化祭実行委員の話し合いで発言したり、準備日に大勢を仕切ったり、話す役割は刺激的で、全てが新鮮だった。話すのが不得意な私でも、意外とできるなと思ったし、何より楽しかった。私の可能性は、「場面緘黙」という枠に詰められなくてもよかったのだと思った経験だった。
私の日常が少数派で、理解されにくいからか、福祉の世界をもっと知りたいと思っている。今は、発達障害の子たちが対象のキャンプでボランティアをしていて、それに参加し始めた頃は、驚きの連続だった。深く考えずに始めたが、私にとって、大きな影響があった。まず、発達障害の子しかいない場は初めて経験するものだった。世間ではマイノリティーとして扱われる対象の子が、そこではマジョリティーだ。叫びながら走ったり、同じ遊具を五十回楽しんだりしているのも、当たり前のこととして扱われる。その状況に驚いた。次に、一人ひとりが違いすぎることにも驚いた。ASDの子は電車が好きだとか、ADHDの子はお喋りだとか、そういうステレオタイプが、ほとんど覆された。予想外のことしかなかったが、それが気持ちよくて嬉しかった。そういう人もいるよね、と思える場所だった。そして、ボランティアの大人たちが、「手伝ってあげる」とか、「遊んであげる」という目線ではなく、「ただ一緒に楽しんでいる」ように見えたことで、完全に私の世界は壊れた。そこには、「障害があるのはかわいそう」という認識は一切なかった。だから、純粋にその子の行動が面白いと笑うし、だめなことは理由を説明しながら怒る。「発達障害の子だから」という前置きはなかった。逆に、「楽しませてもらっている」と思っているように見えた。もちろん、その子が苦手とすることは手伝ったりもするが、子供たちに楽しませてもらっているからこそ、上下関係なんてなかった。肩書きや年齢が違っても、平等に関われるんだと知った。枠にはまろうともしない子供たちや大人たちを見て、障害というラベルは、その人を表す一部でしかないんだなと思った。私の「場面緘黙」にも、実際は枠なんてないんだと気づいた。今でも、ボランティアは毎回楽しく活動していて、私の居場所でもある。出会えてよかったと、心の底から言いたい。
私の中には、話せる世界と話せない世界、両方が存在している。話せる世界は、私が息を切らしながら努力して、運よく手に入れた。「場面緘黙だけど、話すのが好き」な私が、場面緘黙らしくないことをしていけば、世間にある「当たり前とされること」を壊せると思う。話すのは不得意でも、好きだ。人とは違う場面で困ることが多いが、ひとり暮らしはできる。日常的に動けなくなるが、動きを伴う活動は好きだ。もう、そんな私が、「場面緘黙」という枠の中に入れば、窮屈すぎることはお分かりだろう。だから、ひとり暮らしを「無理だろう」と止められなかったことには、とても感謝している。ありがたいことだ。
私は、世の中に叫びたいことがある。SNSで、「場面緘黙」と検索すると、「場面緘黙を知ってください」という文が目につく。知ってもらおうとすること自体は、私も賛成だが、もう一つ、付け加えたいことがある。それは、「場面緘黙以外の部分も知ろうとしてください」だ。分かりやすい言葉があると、先入観が邪魔をして、その人自身を見ることが難しくなってしまう。これは、場面緘黙だけにある問題ではなく、性別、国籍、家族関係、仕事など、全ての「枠組み」に絡みついているのではないかと思う。枠の中は、とても苦しい。次第に、枠の外に出る気力や勇気も失われてしまう。一人では、周囲の世界を変えることは困難だ。だから、あなたが次に会う人には、できるだけ、先入観のないまなざしを向ける意識をしてほしい。「その人」と向き合ってみてほしい。私も、あなた自身を知りたい。どんな枠組みも、あなたや私を表現するには不十分だ。
準備はできた? さあ、飛び出そう!

受賞のことば

この文章を書き終わったとき、これまでにない満足感があり、友人やお世話になった人たちに読んでもらいました。読んでくれた人たちは、私との思い出を話してくれたり、私が生きていくことを祝福してくれたりして、受賞する、しないより前に、自分の文章が、私と大切な人とを繋ぎ止めていることに幸福を感じました。
私が生きてきた年月の三倍長い歴史がある取り組みに、こうして加わらせていただき、ありがとうございます。

選評

幼い頃から家族以外の人の前では話したり行動したりすることができなかったが、自ら話す機会があると、飛び込んでいくようにしたという。「場面緘黙だけど、話すのが好き」という籠田さんは、「私の中には、話せる世界と話せない世界、両方が存在している」「場面緘黙以外の部分も知ろうとしてください」「あなたが次に会う人には、できるだけ、先入観のないまなざしを向ける意識をしてほしい」と言う。大事な視点ですね。
籠田さんの文は、やわらかく淡々としていますが、文全体を通じて、自分の内面と人生を大切に思う心情を熱く語っており、障害福祉賞の柔軟で幅広い視野の中で、「こういう作品(人生記)もいいですね」という選者の思いを投影させて、今回の特別受賞作品に選ばせていただきました。(柳田 邦男)

以上