出あい─一九八二年─
夫とは見合い結婚である。私は新米教師、夫は物理学を研究する研究者の卵だった。見合い当日現れた夫は「誠実そうな人」だった。翌日から、毎日電話があり会話を続けた。今日の出来事、仕事の事、趣味の事。価値観が同じであることを感じていった。二回目のデートでプロポーズされ、三回目のデートで結婚を承諾した。健全な明るさ、人を尊重する姿勢に好感を持った。出あいから半年後、二十五歳と三十歳で私達は結婚した。
新婚生活は贅沢ができる経済状況ではなかったが、不相応な贅沢をしたことがある。私の二十六歳の誕生日に夫が高級ホテルのディナーを予約した。店に入るとウエイターさんが女性の椅子をひき、着席を促していた。私も席に案内された時、椅子をひいてもらえるものとドキドキしながら待っていたが、ウエイターさんは来なかった。暫く立っていたが、格好がつかなくなり、自分で椅子をひいて座ろうとした時、夫が椅子をひいて「どうぞ」と着席を促した。「ありがとうございます」と礼をして椅子に座った。あの時のことを楽しく思い出す。
夫は学生時代ワンダーフォーゲル部に所属し、日本中の山を友人たちと登っていた。南アルプス縦走、屋久島での急な吹雪との遭遇、宝満山での歩荷訓練などの話を聞いたことがある。登山、スキー、テニスとスポーツ好きな人だった。「好きなだけで上手くなかった」と言っていた。
昭和五十九年一月十五日、長男を出産。休日、公園に行くと「見て。あの子、かわいいね」という声が聞こえてくる。抱いていた夫が「いやー、注目されているなあ。視線を感じて鼻くそもくじれん」と言うので大笑いした。
夫の帰りは遅いし、生活も豊かではなかったが、「幸せだ」と感じていたのは、温かくて誠実な夫の生き方を尊敬していたからだろう。この穏やかな生活はずっと続くと思っていた。
発病─一九八五年─
五月上旬、夫は「首が痛い」と言いながら、論文を執筆、提出後、尿が出にくくなった。大学病院整形外科で診察を待つ間に歩行困難になった。大学病院に空きベッドがなく、民間病院に入院した。病状はどんどん悪化し、夜には手が動かなくなり、呼吸困難に陥った。夫の息が止まるのではないかと、心臓に耳を当てたり、鼻に手を当てたりして夜が明けるのを待った。夜を乗り切って、朝になって手術をすれば治ると思っていた。
翌朝、救急車でS病院へ転院。S病院に着いた時、夫の手足は全く動かなくなっていた。検査の結果、頸椎が腫れて圧迫されていることがわかり、骨を削る手術をすることになった。「兎に角、呼吸困難を改善するために手術をします」と説明を受けた。十八時半から翌日二時半まで手術が行われた。その手術で呼吸困難は改善し、九死に一生を得た。が、数日後、集中治療室から出てきた夫と私達家族に医師は過酷な診断を下した。「残念ですが、現代の医学では、機能の回復は望めません。このまま寝たきりでしょう」手術後、首を固定され、天井を見つめながら説明を聞いていた夫は、「寝たきりでどれ位生きるのですか?」と医師に尋ねた。「病気を併発しなければ、健常者と同じ位生きられます」と医師。「それならば、治していただかなければ困ります」今の医学ではどうにもならないと説明を受けてなお、夫は医師に回復のための治療を託した。そして、横でうろたえる私に「必ず治る。心配しないで」と力強く言った。夫三十三歳。私二十七歳。長男一歳の春だった。
首が痛いと言いながら論文を執筆していた夫に、なぜ、論文執筆をやめさせなかったのだろう。後悔と不安が頭の中をぐるぐるまわり、涙が止まらなかった。「蛇の生殺しではないか」と嘆く義母。「命さえあればよい」と険しい表情で黙りこむ義父。黙って私を強く抱きしめた父母。横ですやすや眠る長男。過酷な宣告を受けた夫は、一人、病室で夜を過ごした。翌朝、病室に行くと、夫は目を開けていた。夫を覗き込みながら涙を流す私を、「おはようさん。眠れた?」と気遣った。そして、「大丈夫! 今日できることをして今日を精一杯頑張っていく。一日一日を精一杯生きていく。過去のことは振り返らない。遠い未来のことは考えない。今のことだけを考えて今を生きていく。必ず治る」と言った。夫の言葉は私を勇気づけ、わずかな希望を灯してくれた。それから、夫は、愚痴一つ言わず、厳しいリハビリに耐えていった。
手術後、よく夢を見た。「足が動くようになった!」「手が動くようになった!」夢の中で私と夫は飛び回って喜んだ。しかし、現実は、全く動かなかった。
私は、患者家族用の宿舎に宿泊し、看病を続けていた。早朝六時、病室に忘れ物を取りに行ったことがある。夫が目を赤くして涙を流していた。「ああ、一人の時、こんなに涙を流しているのか」と思うと、私まで涙が出て声をかけることができなかった。私がいることに気が付いた夫は「治るぞ」と力強く言った。悲しみや不安を胸にしまい込み、周りに心配をかけまいとする夫だった。
頸椎のどの部分を損傷したかで頸損患者の症状は決まる。夫は、C4、5レベルの損傷で完全四肢麻痺のレベルだった。両足、両手が動かず、排尿は導尿で、排便は摘便で他者の力に委ねなければならない。痛覚や触覚、温覚はない。呼吸は自力でできたが、肺活量は成人男性平均の半分位になったので、大声を出すことはできなくなった。
発病後、一年のリハビリを経て、左肩の力と、わずかに回復した左腕の上腕二頭筋の力を鍛え、左腕で電動車椅子の操縦ができるようになった。左手にマウススティックを括り付け、左腕を肩の高さに固定する補助具を使えば、パソコンを打てるようになった。夫は今できることに全力で取り組み前進していった。
学生時代、同じアパートに住み、ワンダーフォーゲル部で数々の山に共に登った無二の親友Nさんが発病を知り、東京から見舞いに来られた。「石川、今、自由になるお金を五十万円持っている。無利子で貸すことができる。準備しようか」と言われた。夫は「ありがとう。しかし、今は大丈夫だ。必要になったらその時は頼む」と答えた。恩師、友人、同僚。多くの人が見舞いにきて励まして下さった。
退院に向かって─一九八六年─
病院の入院期間は決まっていて、夫にも退院勧告の時期が来た。部長らが病室に来られ「石川さん、社会復帰して下さい」と働くことを強く勧められた。職業部の人が「働ける企業を探しましょう」と言われた。パソコンで仕事ができれば、夫の生きがいとなるだろう。自宅に連れて帰り、家族で一緒に過ごそうと決めた。夫は「自分は世話になるだけだろうから何も言えないが、一緒に生活できるのならばそれが一番嬉しい」と初めて自分の気持ちを語った。当時は今ほど、公的福祉サービスは充実しておらず、介護のほとんどが家族に委ねられていた。健康管理、朝夕の洗面や着替え、移乗、食事介助、入浴介助、排便排尿介助など。義父母と私が介助方法を習得した。家をバリアフリーにリフォームし、風呂場も改造した。「医学が進歩して神経が再生できるようになって、僕の番に回ってきた時、治療を受けられるように、体の状態を良好に保っていたい」という夫の願いは家族の悲願でもあったので、起立補助器など在宅リハビリに必要な道具も購入した。
退院を一か月後に控えた頃、夫のことを知ったベンチャー企業の社長が会いに来られた。「波動港の防波堤のシステムを開発してもらいたい。会社をバリアフリー化することは可能ですが、今の石川さんの体の状態だと、会社で働くより自宅就労が良いと思います。毎月、定額の給料を石川さんの仕事に対して払います。ボランティアではありません。自宅と会社をラインで結び、自宅で仕事ができるようにします。必要な論文や資料などは、全て揃えて送信します」と言われた。
発病から二年後、夫は退院した。大学で研究していた知識を生かし、パソコンで身を立てた。左手に装具をつけ、真剣な顔でパソコンに向かう夫をみて、「夫は立ったのだ」と誇らしく思った。それから三十年、今は亡き吉井社長の下でシステム開発の仕事に邁進できたことは夫にとって幸運なことだった。
家族で支えた在宅生活─一九八七年~一九九九年─
(一)日々の生活
私はこれからの生活を考えて教員採用試験を受験し採用された。息子が社会人になるまで働こうと決めた。義父は昼間の全ての時間を夫のために使った。朝の洗面と更衣、朝と昼の食事介助、排尿排便管理、仕事の資料整理、週一回の入浴介助とリハビリ通院。いつも夫の傍に義父がいた。
朝食後、夫は手に装具をセットしてもらい、パソコンに向かった。パソコン画面には難しい数式や図が並んでいた。「紙に書くこともできないのに、どうやってあの複雑な数式を覚えて使っていくのか不思議だ」と義父がよく言っていた。夫の仕事ぶりは義父にとって誇りだったのだと思う。午前中は仕事をし、昼食を食べさせてもらった後は一人で近隣に散歩に出た。私が仕事から帰ると、夫を車椅子からベッドに移乗、更衣させた。ベッドの傍で遊んだり勉強したりしている息子が眠るのを待って夫も就寝した。
(二) 外出
夫は、昼間一人で外出した。最初は家の近辺の散歩だったが、そのうち、バスやフェリーを使っての遠出も始めた。夫は公共交通機関を使って外出することを厭わなかったが私は気が重かった。バスに乗り込む時の好奇の目。バス乗降に時間がかかると、「この急いでいる時に」とあからさまに言う人もいて、こめつきバッタのように頭を下げ小さくなって乗り込んだ。バスの運転手さんも「大変ご迷惑をおかけします」とアナウンスされた。「私たちがバスに乗ることは迷惑なの?」と憂鬱になった。夫が在宅生活を始めた昭和六十年代初めはそんな社会環境だった。が、夫は気にせず、毎週木曜日を外出日と決め、道路の状況、JRやバスの運行状況を丹念に調べ上げ、博物館や美術館、自然公園、商業施設などに一人で出かけた。文化や季節の移ろいに触れ、感動すると、「日曜日は一緒に行こう」と私達を誘った。
五十歳位から左腕の筋力が落ち始め、ガイドヘルパーさんと外出するようになった。外出日に雨が降ったら、車椅子ごと覆う電動車椅子用レインコートを着て出かけた。「今日行かないと行けなくなるかもしれないよ」が口癖。三十五度の炎天下に、頭に氷のうを乗せ、帽子で押さえて動物園に出かけたこともある。極寒の日は、カイロとダウン、登山用ズボンにくるまれて出かけた。
外出は、社会参加と自己研鑽、体力維持のために大切にしていた時間だった。週一回の外出は、急死する二日前まで続いた。
(三)仕事
就職したシステム開発会社の方々は、四肢麻痺の夫を快くサポートして下さった。社長がご勇退された時、夫は感謝の葉書を出した。
【ご勇退されたこと、私もご一緒に仕事や勉強をさせていただきましたので、自分のことのように思えて嬉しいです。四肢麻痺になっても、大学や拙宅でゼミに参加し、勉強と仕事ができて社会から孤立することなく、有意義で楽しく生きてこられました。これは、社長をはじめ周りの方々のお取り計らいのお陰であると感謝しています。ありがとうございました。ゼミは楽しかったです。(略)二〇二〇年四月】
若い頃は左手でパソコンを操作していたが、左腕の筋力が低下してからは、口にマウススティックを加えてのパソコン操作になった。システム開発の仕事は生きがいとなり六十八歳まで続けた。
(四)夫と息子
息子は夫と一緒に山登りをしたり、天体観測をしたりすることはできなかったが、夫の膝の上で、登山の楽しさや宇宙の広大さを語ってもらった。「おとうさんはいつ病気がよくなるの?」と聞いていた息子は、やがて何も問わなくなり、長身の夫を年老いた義父が抱えきれなくなった時、義父に代わって夫を支えるようになった。指針を与えてくれた夫がいたから、息子も心正しく育ち一人前の社会人になった。夫の送り支度の時、息子は夫の内ポケットに手紙をしのばせていた。
(五)夫と義父
夫の発病後、全ての時間を夫のために費やしていた義父が慢性肝炎から肝硬変になり、肝臓癌の宣告を受けた。義父は「世話することが生きがいだから、まだ頑張れる」と言ったが、何か方法がないかと思い区役所に相談に行った。初めて、障害者支援があることを知った。訪問看護で、平日九時から十時半まで、義父がやっていたこと全てをやってもらえるようになった。平日の看護体制が整ったのを見届けて一年後の一九九九年、享年七十九で義父は逝った。義父の日記には「家族のために生きなければならない。孫の将来も見極めたい」と記されていた。
公的介護の利用を始めた在宅生活─一九九九年~二〇二三年─
一九九九年から、訪問看護、訪問介護、ガイドヘルプ、訪問リハを約二十五年間利用した。これら事業所のスタッフと出あえたことで、我が家の生活の質はあがり感謝している。介護方針の話し合いで「何か不満な点はありませんか?」と問われると夫はいつも「不満はありません。皆さんのお陰で生活できています。最高の看護を受けています」と感謝の念を述べていた。
(一)旅行~飛行機でハワイへ、北海道へも~
息子が大学生になった時、ハワイ旅行に行った。旅行会社の方には、全行程で福祉タクシーを利用するように勧められたが、現地の障害者の生活を体験してみたい夫は、全行程で公の交通機関を利用した。ハワイには街の優しさと人々のおおらかさがあった。その後、大型福祉車両を手配し、息子の運転で北海道も旅行した。走行した距離は九百キロメートルを超えた。
(二)還暦を迎えて気胸の手術─二〇一二年(六十歳)─
還暦を迎えるまで、仕事とリハビリに励み、外出を楽しみ、在宅生活は順調だった。体の異変は八月に起きた。左胸の気胸を発病し手術を受けることになった。介助のため、七時から二十時まで病室での付き添いが認められたのは有り難かった。一か月後退院できた。今まで夫と生きてこられた事の有り難さを感じた。今後の生活を考え、私は退職の準備を始め、翌年、職を辞した。
(三) 穏やかに過ごした日々─二〇一三年(六十一歳)~二〇一六年(六十四歳)─
日曜日、夫は一日中パソコン。そんな時、私は、傍でシャンソンとイタリア歌曲を歌って過ごした。アリアを歌い終わると、その都度、夫は甲高い声で「ブラボー」と褒め称えた。
洋画で見たという老夫婦の会話を教えてくれた。気に入った私は、その画面を再現した。
私:ポーズを作って「How look?」、夫:「Off course perfect」
出かける時の私のポーズに夫は毎回つきあってくれた。
夜、夫を車椅子からベッドに移乗させていると、「しわが増えたなあ。苦労かけてるんだなあ」としんみり言うので思わず顔を覆った。
(四)夫の入院と義母のくも膜下出血─二〇一七年(六十五歳)─
多量の血尿が出て泌尿科で検査入院していた時、義母がくも膜下出血で倒れた。夫が親友に出した葉書に義母への想いが記されていて胸が詰まった。
【五月から色々ありました。私が血尿と結石を患って入院している間に母がくも膜下出血で倒れてしまいました。そして、その後遺症で重い認知症になってしまいました。病院からは改善の見込みはないので、近々退院してほしいと言われました。在宅は無理なので施設へと考えています。わけがわからない母を見る度に、切なくて、せめて見舞いだけでもと思い、毎日病院に行っています。施設に入所しても母は言葉もわからず、コミュニケーションがとれないだろうから、孤独になるのではないかと心配で不安です。こんなに四肢麻痺を悔しく思ったことはありません。本来なら家に連れて帰って面倒をみたい。(略)】
(五)七か月に及ぶ入院の始まり 焦らず慌てず諦めず─二〇一八年(六十六歳)─
褥瘡による敗血症で入院した。褥瘡は切開しなくてよいという医師と切開した方がよいという医師と意見がわかれるなか切開された。手術後、糖尿病まで併発し、二週間と言われた入院は七か月に及ぶ長期入院となった。「あせらず、慌てず、諦めず、頑張るのでよろしく」と夫は耐えた。
(六)八回(延べ百二十日)の入退院を繰り返す─二〇一九年(六十七歳)─
結石治療手術のため、四月、六月、七月、八月、十月、十二月に八回(入院日数延べ百二十日)の入退院を繰り返すことになった。病院食を苦しそうに食べるので、「もう残していいんじゃない?」というと「完食が今の僕の仕事だから食べる」と回復への努力を続けた。
(七)結石破砕術成功─二〇二〇年(六十八歳)─
一年間に及ぶ結石手術が終わった。
六十六歳からの大病との闘いに区切りがついたが、障害者であるがゆえに、検査や治療や手術が難しいことがあった。
仕事を全てやめることにして、今まで開発したプログラムと資料を全て会社に渡した。
(八)家族の幸せを祈る日々─二〇二一年(六十九歳)─
朝晩の祈願で、原稿用紙一枚ぐらいの願いをする私。その願い事を夫に話すと「これからは、全て裕子の言うとおりにお願いします。と願おう」と笑った夫の願いは「家族が幸せになりますように」のみだった。
(九)古希を迎えて体力維持に努める─二〇二二年(七十歳)─
息子夫婦が古希祝いをしてくれた。孫が「じいじ、大好きっ子」と書かれたスタイをしてお出迎え。「今日はありがとうございます。健康に頑張ります」と夫が挨拶をした。その時の心境をはがき通信に投稿していた。
【コロナ禍が少し落ち着いたということで延び延びになっていた古希の祝いをしてもらった。還暦の時は赤の帽子と赤のチャンチャンコだったが今度は紫になった。着せられた時は、還暦と同じく恥ずかしかった。しかし、気持ちは随分違っていた。還暦の時は、この齢まで元気にこられて良かったと単純に嬉しかった。そして、将来に対する不安はなかった。古希の場合は、嬉しさ半分、不安半分である。直前の六十六歳から六十八歳までたて続けに大病を患い、体が衰弱し、健康が不安になり、もうすぐ人生の終わりかと思う時が出てきた。「このままではいかん。なんとか踏みとどまり、次の十年を頑張らねばならない」と自分に気合を入れている次第だ。(略)二〇二二年七月】
(十)突然の別れ─二〇二三年(七十一歳)─
「裕子、長生きしようね。二人で長生きしようね。一日一日生きる日を延ばしていくよ」と夫が言って、「うん。一人にはしないでね」と話していたのに、十二月三十一日十時三十一分「ご臨終です」と医師にお知らせのように言われ、夫は急死した。
あなたへ
あなたが生きるためには、多くの人の助けが必要でした。「皆さんのお陰で生きています」と事あるごとに感謝の気持ちを口にしていたあなた。あなたが残した宝も大きかったんです。
「あんないい人はいなかった。ユーモアがあって、優しくて。ケアは大変だったけど、みんなここに来ることを楽しみにしていて、私達の方が力を貰っていました。石川さんをケアできてよかったと担当者はみんな言っていたんです。出会えてよかった」と看護師さん達が話されます。周りの人にも生きる力を残していったあなたの生き方を誇りに思います。
仕事に全力投球。外出にも全力投球。「今日行かないと行けなくなるかもしれないよ。今日しないとできなくなるかもしれないよ」命の有限さをいつも感じていたからこそ、今を精一杯生きて人生を輝かせたのだと思います。
「何も成しえなかったなあ」と言ったことがありました。持てる力を生かして今を懸命に生き抜いたこと。そのことが、あなたが成したことだと思います。あなたのお陰で心豊かに生きられた。あなたが一家の大黒柱として生き方を身をもって示し、家族を見守りながら優しく力強く生きたから。
四十一年間、大切にしてくれてありがとう。幸せでした。
受賞のことば
夫との突然の別れを受け入れられず耐え難い喪失感に苦しんだ日々。夫の生きた証を残そうと思いたち、夫との四十一年間を一気に記しました。「今」を大切に温かく強く生きた夫の傍らで、夫に支えられて、家族も心豊かに生きられた事に改めて感謝しました。
社会の優しさと哀しさを感じながら夫と過ごしました。全ての人が安心して生を全うできる社会であってほしいと思います。すばらしい賞をいただきありがとうございました。
選評
頚髄損傷C4~C5番はこの障害の中でも最重度に入ります。合併症も重く、ご本人は日々苦しかったことでしょう。介助する側の体力にご主人の命が掛かっていると言っても過言ではなく、その負担は大きかったはずです。しかし壮絶な介護の話ではなく、ご主人の人柄に重点が置かれています。常に冷静で思いやりに溢れ、家族の支柱となり、家庭に幸せをいっぱい降り注いでくれました。この文章は奥様からの尊敬や感謝を込めたラブレターに思えます。知り合った時から亡くなるまで、ずっとご主人に恋をされていたようです。奥様の溢れる愛情が私たちへも穏やかに伝わり、素敵な人生を送られていると感じました。(鈴木 ひとみ)
以上