第60回NHK障害福祉賞 佳作受賞作品
~第2部門より~
「幸せなヤングケアラーから皆さんへ」

著者 : 手島 千鶴 (てしま ちづる)  広島県

一.八人兄弟の十二人家族
私は八人兄弟の三番目。高校を卒業するまでは両親、祖父母、兄弟と暮らしていたので、総勢十二人。近所でも評判の大家族の中で育った。一番目の姉が知的障害者、五番目と七番目の弟が脳性麻痺だった為、物心ついた時から障害者が一緒にいるのは当たり前のことであったし、身体の不自由な弟のお世話をすることも何の違和感も感じることはなかったが、今思えば私はヤングケアラーだったんだなと思う。
私が小学生になった頃、近所のおばさま方から
「矢野さんちは大変じゃね~」、あるいは「矢野さんちの子どもさんはえらいね~」等と言われることが多々あり、その言葉がどういう意味かわからなかった。当たり前の生活をしているだけなのに何が大変なのか、何がえらいのかわからない思いと、私の家は他の家と違うのかなと思い始めた記憶がある。

二.持って行きようのない感情
思春期であったのだろうか、大好きな弟のことで、一度だけ恥ずかしいなと思ったことがある。
私の実家は緑豊かな田舎にある。一番近い店も自宅から三キロメートルは離れており、アイスクリームを買って、帰って家で食べようと思ったことはない。自動販売機さえ数キロ離れたところにある。小学校も三・五キロ、中学校は五・五キロは離れていただろうか。
私が中学生になった時、初めて自転車を買ってもらった。小学校は歩いて通っていたので、自分用の自転車を買ってもらうのは初めてで、とても嬉しかったことを今でも覚えている。小学校と中学校は私の家から上りと下り、反対方向にある。
中学校へ通い始めて少し経った頃、母親からあることを頼まれた。それは、「脳性麻痺の弟を自転車で小学校まで送り届けてから中学校へ通ってほしい」というものだった。それまでは父親が弟を小学校へ送り届けてから仕事へ向かっていたが、仕事の都合でそれが出来なくなったとの理由であった。父は十二人家族を養うために牛飼いや車の運転手、さまざまな仕事をたった一人で頑張ってくれていた。母はその当時、専業主婦であったが、何せ自動車免許は持っておらず、自転車にさえ乗れなかった。家に残っているのは年老いた祖父母のみ。私ほど弟を小学校まで送れる適任者はいなかった。
弟と私はとても仲が良い。今でも仲良しではあるが、小さい頃はお風呂に一緒に入るのは私の役目だったくらいである。何せ素直でかわいらしい我が家のアイドル的な弟が私は大好きだった。半世紀以上生きているが弟とけんかをしたことは一度もない。ただ、自宅から中学校までは、ひと山登らなければならない。自転車も途中の急な上り道は押して進まなければならないほど過酷だ。朝早く家を出なければ遅刻する。一方、小学校は自宅から下った所にある。そうなのだ。弟を小学校に送り届けるには自宅から下って弟をおろし、下った分も合わせて遥か山の上にある中学校を目指さなければならないのだ。何で私だけと思いながらも弟には罪はない。楽しそうに学校に通ってくれる姿には愛おしささえ感じていた。早起きも、体力も問題はなかった。ただ、同じ中学に通う同級生や上級生たちの、中学校とは反対方向に下りていく私を見る視線がつらかった。この時初めて恥ずかしいと思った。でもすぐに、恥ずかしいと思う自分が恥ずかしいと思った。
「何がおかしいか。何が悪いか。障害があってもなくても皆当たり前の生活をしているだけだ」
行き場のない怒りや情けなさを感じながら、「私の将来の夢は施設保母になる」と、この瞬間に決めて現在に至る。

三.就職・結婚・出産・子育て
八人兄弟の十二人家族。父親一人で家族全員を養ってくれていた。当然我が家は裕福ではなかったが、夢は施設保母だ。地元の公立中学校、公立高等学校を経て、保育士免許を取るためにお金のかかる大学へ進学しなければならなかった。結局受験は一択、岡山の私立短大を選んだ。入学金免除でなおかつ授業料半額という破格の値段で受験出来る特待生制度を、高校の担任が見つけてくれたからだ。大好きな地元を二年間離れ、弟たちのお世話ができないことには心が痛んだが、夢に向けて踏ん張った。二年後、憧れの保育士免許を取得し現在の職場でもある福祉事業団に入れたことは、本当にラッキーなことであった。
最初の配属先は知的障害者入所施設であった。物心ついた時から障害者と生活を共にしてきた私にとって、この仕事はとても居心地が良かった。何しろ素直な心ときれいな目で私を見てくれる。そんな方々と過ごす時間は全く苦にならず、むしろこれでお給料をもらってもよいのかと思えたくらいだ。ただ、昭和の終わりの時代には障害者と共に暮らすという雰囲気はなく、措置から契約にうつるずいぶん前の時代であったため、「しつけ」「指導」という観点からか、利用者の方々は私たち支援員を「先生」と呼んでおられた。そして、その支援員の中には、対等な立場ではなく、自分の方が上なんだというような声かけや態度をされる方が多く、戸惑いも感じたことも事実である。しかしながら二十歳で入職した当時の私には上司に向けて意見する力もなく「私が歳をとって上司になれたら……」と、随分おこがましいことを考えながら仕事に従事した二十代であった。
貧しいながらもけんか一つしないこの大家族の我が家が今でも大好きで誇りに思っている。障害のある子供が三人もいる中で両親は愚痴一つも言わずに私たちを育ててくれた。父は朝から晩まで働いてくれた。母はどの子も分け隔てなく愛情を注いでくれた。そのお陰か、還暦に近くなったこの歳になっても兄弟皆仲良しでいつも実家に集合しては助け合って過ごしている。脳性麻痺の弟も、知的障害の姉も今でも実家で両親と暮らしている。四番目の弟が跡をとり、お嫁さんと一緒に暮らしてくれているのだ。
今の時代になっても障害者差別は根強く残っている。遺伝的要素もぬぐえない中、弟のお嫁さんはよくまあ障害者が三人に小姑がたくさんいる我が家へ嫁いでくれたなあと、半ばあきれるくらいに感心し、言い表せないくらいに感謝している。
遺伝的要素がぬぐえない中、二番目の姉も三番目の私も嫁いでいった。本当は、私は一生結婚はしないでおこうと思っていた。弟も姉も大好きであるが、反面身体が思うように動かせないもどかしさや、成長期に背骨がS字に湾曲し痛みで夜も寝られない日々を過ごしていた弟をずっと見てきた私にとって、「もしもわが子に障害のある子が生まれたら……」という思いがずっと付きまとっていたからだ。
そんな中、そんなことは全く気にも留めずに結婚してくれた主人には脱帽する。障害者が地域で暮らすことも、公の場所に出てくることもそんなになかった二十八年前、百名以上の方に参列いただいた私たちの結婚式のひな壇横の家族席に、弟や姉が出席出来たことは感謝でしかない。私の主人は今でも年老いた両親のために、私よりも積極的に毎週車で一時間以上かかる実家まで食料を運んだり山や畑の力仕事を手伝ってくれている。肺がんや咽頭がんなどを患って大好きなパチンコに行けなくなった父親に、家でも楽しめるようにとパチンコ台をプレゼントしたのには笑った。しかも一台だけではない。二台並んで我が家の特等席、縁側に鎮座している。ただ、これにはおまけがあり、自室からなかなか外に出ず横になっているばかりの脳性麻痺の弟がパチンコ台に興味を持ち、お天道様のあたる縁側で父親と並んでパチンコを楽しむようになり、食事もよく食べ元気になってきたという嬉しい誤算も付いてきた。

四.意思決定支援と家族の本音
二〇一七年に厚労省から公表された「障害福祉サービスの利用等にあたっての意思決定支援ガイドライン」が二〇二四年四月から障害福祉サービス事業の指定基準に反映され、私が従事している障害者支援施設でも利用者様の意思決定支援についてさまざまな取り組みを開始したところではあるが、一方障害者のいる家族からの立場で考えたとき、さまざまな思いが頭の中で渦巻く。
知的障害のある一番目の姉は高校生の時、地元の高校へは通わず、広島の瀬戸内にある障害者の入所施設で三年間過ごし、卒業と同時に地元へ戻り障害者雇用で缶詰工場で働き始めた。私が中学生の頃である。姉は当然自動車免許は取得しておらず、自宅から車で二十分はかかる缶詰工場までは送迎バスを利用していた。送迎バスは自宅から三キロメートル離れたバス停までしか来てくれないので、バス停までの三キロメートルは毎日歩いて通っていた。部活帰りの私とバス停で降りた仕事帰りの姉がたまに鉢合わせすることがあった。私は姉を見つけると自転車から降り一緒に自宅までの三キロメートルを歩いて帰る。帰り道に唯一、一か所道端に自動販売機がある。姉は必ず自動販売機の所で立ち止まり、自分用のジュースと一緒に私用のジュースを買ってくれた。お給料はそれほど多くはなく、しかも家にお金を入れてくれていた姉のお小遣いはそんなに多いものではなかったであろうに、
「千鶴、飲みんさい」
と、誇らしげな表情でジュースを手渡してくれたことを今でも鮮明に覚えている。そんな姉も身体の不調を理由に数年で仕事を辞めた後は自宅で家事や弟のお世話をしてくれながら、還暦を過ぎた今でも元気で頑張ってくれている。私が実家に帰ると必ず甘いコーヒーを作ってくれ、
「千鶴、飲みんさい」
と、相変わらず誇らしげな表情でコーヒーを手渡してくれる。そして今では私の主人にまでコーヒーを出してくれている。主人はコーヒーはブラック派なのだが、当初姉が手渡した甘いコーヒーにどうしようかと戸惑っており、
「ねーちゃん、てっしー(主人)は砂糖もミルクも入らんのが好きなんよ」
と、姉妹なので遠慮のない私が伝えると、次からはしっかり私用の甘いコーヒーと、主人用のブラックコーヒーが出てくるようになった。
姉は還暦を過ぎ元気ではあるが排尿障害が出て自尿が難しい分、母とお嫁さんが交代で導尿をしてくれている。お嫁さんは獣医の免許も持っており器用なので、初めから難なく導尿もしてくれたが、お嫁さんが仕事に出かけている間の導尿は母がすることになり、八十歳を過ぎ、医療的な知識もとんとなかった母には本当に大変な作業であったと思う。それでも可愛い娘のために奮闘し、今では難なく導尿ができるようになった。母に拍手を送りたい。母は強しである。
高校を家から離れて生活した姉にとって実家は一番の場所であって、終の住みかも家がよいと思っているに違いない。違いないと書いたのは本人に聞いていないからだ。いや、怖くて聞いていないからだ。
両親も年老いた。特に八十五歳の父親は肺がん、喉頭がん、脳こうそく等さまざまな病気に罹患し、そのたびに救急車で緊急搬送されたり入退院を繰り返したりした。今では酸素ボンベも持って歩いている内部疾患の障害者手帳持ちになった。父は声が出しにくく、私たち家族であれば何となく話の内容が理解できるが、他人様となると、全く話が通じず、間に通訳が必要となる。コロナ感染拡大の時期に入院した父は付き添いも面会も難しく、看護師さんや医師に自分の話が通じず辛い思いをしたのか、無理やり退院した後は肺炎になっても入院はしないと自分で決めてしまった。誤嚥があり、とろみも使っている父はよく誤嚥性肺炎で入院が必要になるが断固として入院を拒否し、点滴の必要がある時はお嫁さんと隣町に嫁いだ二番目の姉が病院まで送り迎えしてくれている。
お嫁さんは時短で働きに通っているが姉や父の病院の付き添いなどで、毎年あっという間に有休がなくなってしまう。休みの日も夜間もいざというときにはお嫁さんが病院に付き添ってくれる。私と同じ、車で一時間以上かかる所に嫁いだ六番目の妹は、休みのたびに弟を風呂につけに実家に帰ってくれている。弟の定期の通院や薬の手筈は私がおこなっている。でも一番負担になっているのはお嫁さんになる。
今から先、両親ももっと手がかかるようになるであろう。還暦を過ぎた知的障害の姉も、脳性麻痺の弟も、介護が多くなるのは目に見えている。国から頂くサービス受給量はたかが知れている。二十四時間代わる代わるにヘルパーが入れるほどの受給量があれば、寝たきりになった両親が、寝たきりになった姉や弟たちを傍で見ながらの生活も可能であろうが、夢のまた夢。姉や弟が終の住みかを自宅にしたいと言ったとき、そうできるだけの人の手と財力がない。そして、何となくそういう事情を理解している姉や弟が、両親や私たちのことを思って「しかたがない」と思い、「どこでもよいよ」と言うであろうことがわかっているだけに辛くて仕方がない。なので私は終の住みかについての意思決定を、弟や姉に怖くて聞けないでいる。

五.幸せのヤングケアラー
昔から家族みんな、自分のできることを自分の役割として行っていた。
我が家の子供は全員産婆さんに来てもらい自宅で生まれた。小学生のころ、夜中に騒がしいなと思って朝を迎えると、一人兄弟が増えていたということも何度かあった。我が家は田舎の大家族のだったため、田んぼも畑もあり、家畜も飼っていた。私が乳飲み子の時には母の乳が出ず、飼っていたヤギの乳で大きくなったと聞いたことがある。脳性麻痺の弟が小さい頃はまだ歩けていたため、田んぼや家の周りでよく遊んだ。七番目の弟が縁側から落ちて病院へ頭を縫ってもらいに行ったり、ポットン便所に片足落ちて近くの堤(池)に足を洗いに行ったが匂いがなかなか落ちなかったりしたことも、今では笑って話せる事件となった。物心ついた時から就職するまで、私はヤングケアラーだった。でも、それは不幸でもなくあんがい幸せな時間だったと思っている。
我が家には笑顔が絶えなかった。両親も祖父母も自分のことは後回しで、私たち子供のために汗水垂らして働いてくれていた。そういう背中を見て子供たちみんな育ったからだと思う。障害があろうがなかろうが関係なく愛情をかけてくれたからだと思う。お金がかかるので旅行に行った記憶はないが、毎年夏になると一家総出で海へ行き、キャンプをしてくれていた。非日常の場で食べるバーベキューやカレーは格別においしかったし、今でも再三話題に上る我が家の楽しいイベントであった。
車椅子などはなく、キャンプ場に弟たちをおんぶして連れて行くのは大体私の役目だった。兄弟の中でもひときわ力が強い私は、牛飼い、田んぼ仕事、雑多な力仕事を一気に引き受けていたので、今でも人一人は軽く抱えられるくらいの腕腰の強さと体力があり、介護の仕事は天職だと自負しているくらいである。これも子供の頃の経験が、現在の仕事に役立っている項目の一つである。元気に生んで元気に育ててくれた両親に感謝の思いしかない。障害のある方々に屈託なく接することができるのも知的障害の姉や脳性麻痺の弟と共に暮らすことができたからだと思う。私は人に恵まれたヤングケアラーだったとつくづく実感している。
永く生きた人生の中にはもちろん苦しいことも何度もあった。数年前に大事な大事な私の娘を白血病でなくしてしまった。抗がん剤では完治が見込めず、私の骨髄で骨髄移植までしてからの五年間の闘病生活を経て、ある日突然あっけなく逝ってしまった。残った私と主人と息子で途方もない暗黙の中、それでも亡くなった娘に恥じないようにと、もがき苦しんで今年三回忌を迎える。
娘の闘病中、何度も何度も仕事を休み、同僚や上司に多大なるご迷惑をかけた。いっそ、仕事を辞めて娘の傍にいようとも思っていたが、娘が亡くなってしまう未来は全く考えたことがなく、娘が元気になった時に生活に困らないよう、娘が簡単な仕事しか出来ず安月給でも安心して生きていけるように私が働いてお金を貯めなくてはと、休みがちではあったが仕事を辞めなかった。
娘が亡くなり、もうお金を稼ぐ必要がなくなったが、再三休んでご迷惑をかけっぱなしの私に文句のひとつも言うことなく職場での私の居場所を空けてくださっていた上司へのご恩返しのつもりで未だ辞めずに仕事を続けている。
ただ、娘のいなくなった空っぽの心の隙間を埋めてくれたのは、主人、息子、両親、兄弟は言うまでもなく、毎日顔を合わせている利用者様の笑顔だった。私の働いている知的障害者施設の利用者様とは永い付き合いで、就職して初めてお会いしてから三十九年目の方もおられる。
「前、担当だったんよね~」
三十九年経過した今でも顔を合わせると毎日同じセリフ、同じ笑顔で話しかけてくださる。生活棟に入ると近くに来て手をつないでくださる方や、言葉はなくても笑顔で挨拶してくださる方など、たくさんの利用者様に毎日元気と癒しを頂いている。そんな時につくづく辞めなくてよかったと感じる。
私も来年還暦を迎える。体力はまだまだと言いながらもあちこちにガタがきている。いつまで続けられるか不安はあるが、もう少し利用者さんの笑顔で癒される日々を過ごしたいと思っている。同時に年老いた両親と障害のある姉や弟が安心して過ごせる終の住みかを、本人、家族と共に考えていけたらと思っている。そしてそれは本人の「しかたがない」というあきらめでの意思決定ではなく、心からの希望。思いが反映されるものにできたらよいと思うし、そういう方向で進められるよう私なりに尽力していこうと考えている。
今回、職場に回ってきた一枚のチラシ「NHK障害福祉賞体験作文」に何か惹かれるものがあり、何となく書いてみたいなと思った。それは多分、自分の中にあるいろいろな感情を書面化することで、心の整理がしたかったのではなかったのかなと思う。書き終わった今、私の今まで生きたモヤモヤする感情や、伝えたいけれども伝えられないこと、心の奥にしまっていた苦しい感情を再認識出来て、スッキリした気持ちになった。このご縁に感謝してこれを終了したいと思う。

受賞のことば

還暦を来年にひかえ、自分自身を振り返った時、まわりの人に支えられた人生だったと感じました。そして、まだ感謝の気持ちを伝えられていない事に気がつき、何か文章に残したいなと思っていた頃に今回のNHK障害福祉賞のチラシを目にしました。何かご縁を感じ、応募させて頂いたものが賞をいただくことになり、大変嬉しく光栄に思っています。支えてくれた方々にご報告と改めて感謝の気持ちを伝えたいと思います。

選評

私にも障害のある弟がいます。笑顔が絶えない家族や平等な愛情の大切さも、持っていきようのない感情も、結婚や終の棲家の課題も、そして、自分の経験や周囲の方々への感謝も、人生では様々なことが起こることも、共感と敬意をもって読ませていただきました。自分は幸せだと胸を張って言えるように、自分自身も家族も周囲もそう思えるように、小さなことを一つずつですが、日々できることを積み重ねていきたいと改めて決意しました。(藤木 和子)

以上