二〇二二年の春、娘の診断が下りた。
診断名は《八番染色体短腕欠失重複症候群》、二万二千人~三万人に一人の割合で発症する染色体異常だそうだ。親ならそんな診断をされたら普通ショックを受けるかもしれないが、娘の発達の遅れで悩んでいた私は安堵した。そして、私の勘が間違っていなかった事にホッとした。なぜなら、ここまで来るのが決して平坦な道のりではなかったからだ。
娘が産まれたのは二〇一九年の夏の日の事だった。
娘が産まれて本当にうれしかった。だが、なぜか違和感があった。娘の産声が小さいように感じたからだ。今考えれば、それは母親の勘だったのかもしれない。
初めて娘をこの手に抱いた時には、その違和感はどこかへと消えていった。
この子はどんな子に育つのかな?
気が早いが、これから訪れるであろう未来を考える事が、とても楽しかった。
娘が産まれて二日目。娘は保育器の中にいた。
原因は《初期嘔吐》、その後、《心室中隔欠損症》と診断された。
娘はあまりミルクを飲む事が出来なかった。後でわかった事だが、哺乳力が弱かったのだ。
不安になり看護師さんに相談しても、点滴をしているから大丈夫だよ、と言われるだけだった。
入院中、娘の事を考えると涙が出るようになった。
これから娘はどうなってしまうのだろう。どうして健康に産んであげられなかったのだろう。この子は元気に成長出来るのか? そんな考えが頭の中で回っていた。
そしてついに、感情が爆発して夫に強く当たってしまった。
その日の夕方、それを知った看護師さんが病室にきた。その時に娘の事が心配で悩んでいる事を看護師さんに伝えた。すると
「ここで産まれた赤ちゃんの中には、すぐにお母さんから離されて手術をする赤ちゃんもいるんだよ。それに比べたら井出さんの赤ちゃんは良い方だよ。だからそんなに心配しなくてもいいからね」
今考えると、その看護師さんは私を励ましてくれていたのだと思う。だけどその当時の私は、素直にその言葉を受け止められなかった。
症状が重い、軽い関係なく、わが子のほんの些細な事でも心配する。それが親なのではないのか? 不安で泣いているのに、それもさせてもらえない。誰も私に寄り添ってくれない。
その時に私は初めて孤独を感じた。
その後、娘は生後十二日目で退院した。
その間に出生届も出して、娘には『香奈美(かなみ)』と命名した。
私は娘が退院出来てうれしい反面、「本当にこの子は大丈夫なのか」と不安もあった。
娘は、まだミルクを上手く飲めなかったからだ。苦肉の策で、哺乳瓶の乳首に針で穴を何か所か開けて、少しの力でもたくさん出るようにした。だが、娘は頑張っても四十ミリリットルを飲むのがやっとだった。
一か月健診では体重が増えていたからか何も指摘されなかった。
それでも周りの赤ちゃんたちと比べると、娘が痩せているのがよくわかる。
看護師さんに体重の増え方を相談しても、「心疾患を持っているからだね」で終わった。
それから私は、娘にミルクを飲ませる事に異様に固執した。
泣いたらすぐにあげて、二口で止めても一時間程咥えさせた。用意したミルクの量は六十ミリリットル。それでも娘は飲みきる事が出来なかった。
「飲まないと死んじゃうんだよ」
私は泣きながら娘にミルクをあげていた。
育児書なんて意味がない。相談しても、「回数を増やして」「心疾患を持っているから」で、取り合ってもくれない。
追い詰められた私は、だんだんと娘の事が可愛いと思えなくなった。娘との二人の時間が苦痛で、だけど外に出ることも出来ず、そして自然と涙が溢れるようになった。
あぁ……このまま消えてなくなりたい……。
娘が産まれて三か月後、私は産後うつと診断された。
娘の四か月健診は、精神的にも不安定な時だったが、服薬もしていた為、何とか受ける事が出来た。その頃の娘はまだ首も据わらず、体重も四キロを超えたあたりで、発達の事を相談しても「人それぞれだから」で、すまされた。
その後、心雑音を指摘された為、帰りの際紹介状をもらった。
私は、もともとある心室中隔欠損症の事だと思ったが、かかりつけ医に受診をしてみると、「動脈管開存症」だった事がわかった。
その後、県内にある《県立こども病院》で精密検査をする事になった。
初めて受診するこども病院にとても緊張した。ここには県内からはもちろん、県外からも受診をする子供たちがいたからだ。もちろん症状もさまざまで、娘のような経過観察の子や今すぐ手術が必要な重度の子もいる。
検査の後、主治医の先生は事細かに娘の症状の説明をしてくれた。娘の心室中隔欠損症は完治し、動脈管はまだ塞がる可能性があるとの事で、半年に一回の経過観察となった。
生後半年を迎え、嬉しい事に娘のミルクの量が少しずつ増えてきた。だが同時に気になる事も出てきた。それは発達の遅れだ。あやしても笑わない。声かけしてもこっちを見ない。首は最近据わってきて、寝返りはしないが、寝返り返りをする。
私はネットで調べるようにした。すると出てくるのは《自閉症などの発達障害》だった。それを見て私はなんとなく、娘はきっと何かを持って生まれてきたんだな。そう思った。
その頃には私の産後うつも寛解状態になっていた。
それも、すべて夫のおかげだ。私が産後うつを患ったと知った夫は仕事を休職し、一番傍で私たちを支えてくれたからだ。夫にはいくら感謝をしても、し足りない位だ。
娘は十か月健診の二日前に腰が据わるようになった。健診に行くとそこにいた子達は、はいはいで動き回っていた。発達の事を相談すると、個人差がある事、一歳過ぎても立つ様子がなければリハビリの可能性がある事を示唆された。
また紹介状をもらい、かかりつけ医に相談して一歳過ぎても立てなかったら理学療法のリハビリをする事が決まった。
それから二か月後、娘は一歳の誕生日を迎えたが、娘は何も成長していなかった。
一歳を過ぎてから一か月後、小児科にかかり、予定していたリハビリを同じ病院内で始める事になった。初めてのリハビリではこれまでの経緯を説明して、理学療法士の先生達に娘を見てもらった。すると娘の身体の柔らかさに驚いていた。娘は仰向けの状態で両足の裏を両耳にくっつける事が出来るし、関節があるのか疑ってしまう位ぐにゃぐにゃだ。私はそれが普通だと思っていたが違っていたのだ。
とりあえず週一回、身体の過敏を慣らしながら筋肉の発達を促していくことになったが、くしくもその時期はコロナ禍という事もあり、リハビリは不定期で行うことになった。
次に娘は保育園に通う事になった。娘は人見知りをしなかったので、とてもスムーズに園に慣れていってくれた。
娘の事を理解して受け入れてくれた保育園には感謝しかなかった。
そして娘が保育園に通いだしてから数週間後、私は第二子となる息子を出産した。
息子の妊娠が分かった時、出産する時、不安はなかったと言えば噓になる。
だが、産まれた息子は私の不安をすぐさま払拭してくれた。
娘が飲み切れなかった二十ミリリットルのミルクは一瞬で飲みきり、まだ足りないと大きな声で泣いたのだ。吐くまで母乳を飲んでぷくぷくと育つ息子の姿に私は困惑し、娘の発達を改めて考えるようになった。
一歳を過ぎても座る事しか出来ない。起き上がる事も出来ない。ここまできたらさすがに個人差だけではすまされない。
そこからの私の行動は早かった。
息子が一か月を過ぎたあたりから娘のリハビリも再開した。その都度小児科へ寄って、発達障害があるかどうか検査をしてもらいたい。と何度かお願いに行ったが、その度に断られた。「一般的には発達検査は三歳から」「子供成長は人それぞれだから」「特に香奈美ちゃんは心疾患を持っているから、ほかの子達と比べて発達が遅いのはしょうがないんじゃない?」、そう何度も否定されると、だんだんと自分がおかしいのではないのか? 娘は本当に普通で、私がこの子を病気の子にさせたいだけじゃないのか? と疑心暗鬼になってしまった。
そんな中、こども病院の定期健診の日がやってきた。私は思わず、循環器の先生に心疾患で発達の遅れはあるのか? と聞いてしまった。
先生の答えはNOだった。娘の心疾患程度では発達の遅れはないようだ。その言葉に私は自信が持てた。そして、私はまた小児科へ最後の勢いで向かった。
「一歳過ぎても立つ様子もないのは、さすがに何かがおかしい。お願いですから検査をしてください!」
私の勢いに根負けしたのか看護師さんはその場で、検査をしてくれる病院の予約を取ってくれた。これで一歩、娘の何かに近づけると思うと嬉しかった。
ここから運が回ってきたのか、半年かかる発達の検査が二週間後に決まった。
受診当日、私は今日娘の事がわかるものだと思っていたが、診察をした結果、「ここでは診られない」と、こども病院へ紹介して貰う事が決まった。私は内心ホッとした。
こども病院の予約を取って一安心している時に、電話が来た。なんだろうと出てみると、こども病院の神経小児科の先生からだった。
内容は、今すぐ治療をしなければいけない疾患の可能性がある為、受診日を早めたい、との事だった。まさに青天の霹靂だ。そんなことになるとは思いもしなかったのでとても驚いたが、私は「治療が出来るならその方がいい」と安易に考えていた。
神経小児科の受診日、先生からは娘の症状、特に低緊張が《脊髄性筋萎縮症》からきているのではないかとの事だった。治療を始めるには二歳までにしなければいけないが、もうすでに一か月程しか猶予がない。その後、遺伝科にも行き、詳しい話を聞いて、血液検査をした。
数週間後、検査結果は陰性と聞いて、少し複雑な気持ちになった。
では娘の症状はどこからきているのか? 娘の《筋緊張低下》と《発達の遅れ》は神経の問題なのか、筋肉自体の問題なのか。神経なら中枢神経の脳か、脊髄か、それとも末梢神経なのか……。遺伝科の先生は、もし脳なら《○○症候群》と呼ばれる染色体疾患の可能性も上げていた。
その後、受診のたび、全身のMRIをはじめ血液検査やいろんな検査をしたが結果は出なかった。
やきもきしている中、うれしい事もあった。
娘は座ったままお尻を床につけた状態で、自分で移動出来るようになったのだ。いわゆる《いざりっ子》だ。保育園に迎えに行った時、それで出迎えてくれた時は嬉しくて、泣いてしまった。
そして何度目かのこども病院の受診で、筋生検を行う前にすべての染色体の検査を行う事になった。
結果は半年後、また待つ日が始まったと思ったら、半年もしないうちに遺伝科の先生から電話があった。
「結果が出ました。お父さんも一緒に来られますか?」
直感的に、娘の病名が出たんだな、そう思った。
診察室に入ると、そこには先生以外にも遺伝子カウンセラーの方もいた。
そして先生から一枚の用紙を出されて、説明があった。娘は《八番染色体短腕欠失重複症候群》と診断された。先生は私達にも分かるように説明してくれた。
ヒトの染色体は二十二対の常染色体と一対の性染色体の四十六本で出来ている。その四十六本の染色体を本棚として、そしてDNAを本とする。娘の場合は八番目の本棚が二つあり、片方は正常に並んでいるが、その片方の本棚では本の数が足りなかったり、多かったり、配置が逆に並んでいるそうだ。その為に主な症状は《精神運動発達遅滞》《筋緊張低下》、ほかにも発語の遅れや発達障害の傾向もあり、あげるときりがない。そして娘がミルクを飲めなかったり、心疾患の原因もここにあったのだ。
私は先生に、娘はいつか話す事が出来るのかを聞いた。
「お母さん、話せる事が全てではないですよ」
その言葉を聞いて、(あぁ、私はこの子に「ママ」と呼んでもらえないんだ)と思った。
先生は優しく言ってくれたが、その言葉は余りにも残酷に感じた。
その後の追加の検査で、娘の染色体疾患は突然変異と結論付けられた。
それを聞いて私はホッとした。息子に遺伝していなかったからだ。息子には《きょうだい児》という重荷を背負わせていることに負い目を感じていた。その後夫とも話し、もし息子が将来娘と離れたいと感じたら、息子の気持ちを優先させる事になった。
娘の診断を受けてから、療育手帳や車いすバギーが必要な為、身体障害者手帳を申請した。結果として娘は重度の知的障害と、体幹の肢体不自由がある事が分かった。
そこから、娘の障害が私に重くのしかかってきた。
私は娘の事がわからなかった。言葉は理解出来ず、娘自身も感情を伝えるすべが、クレーン現象か泣く事しか出来ない。特にこの泣く時が本当にわからなかった。お腹がすいたのか、喉が渇いたのか、眠いのか、寂しいのか、ただ単に泣いているだけなのか……原因を突き止めようとするがわからず、何度も娘を怒鳴りつけた。何度も一緒に泣いた。そんな時に限って息子も一緒に泣き出すので、そこはまるで地獄絵図になっていた。
娘の育児に疲弊していたある日、私は夢を見た。
その夢では、娘と二人で買い物に行っていた。娘は「ママ」と私を呼びながら抱きついて、私も娘を抱きしめた。その後手をつなぎ、会話をしながら一緒に買い物を楽しんだ。それは私が娘を産んだ時に思い浮かべた光景だった。とても幸せで泣いてしまった。
目が覚めると、娘は扉の陰からこっちを見ていた。私は娘の名を呼ぶと、娘は呼ばれて嬉しかったのか「きゃ~」と甲高い声を上げながら近づいて、私の前にゴロンと転がった。娘は私を見上げながら、「いひ。いひぃ!」とうれしそうに笑っていた。私も一緒に笑おうとしたが出来なかった。これが私達の現実なんだ。そのまま娘を抱きしめながら私は悔しくて、悲しくて泣くしかなかった。
その後も私は現実に打ちのめされた。
療育園に週一で通っていたが、娘には合わなかった。サーキット遊びの時間もあったが娘は満足に動くことが出来ない為、他の子達が楽しそうに動いているのを二人で隅で見ていた。その時の娘の表情を思い出すと今でも胸が張り裂けそうになる。内容も保育園とあまり変わらないと思ったので、こども病院の先生と相談して、療育園は少し休む事にした。
また、週一で理学療法のリハビリに通っていたが、そこにも意味が見出せずにいた。娘は三歳になり、二年もリハビリに通っているのに何の進歩もなかったのだ。先が見えないせいか、私はリハビリが負担にも感じた。
その時の私は、娘の為に行っている事は全て無意味だと思っていた。この子は話せないし、話しかけたとしても理解が出来ない。食事はお皿をすぐに投げたりする為、娘の手の届く範囲には何も置けない。話しかけるのも、笑いかける事も、お世話をする事も、嫌で仕方がなかった。
娘はもちろん大事だ。だけど、娘の全てを否定したい。どうしてこの子は障害を持って生まれて来てしまったのか。この子は生きている意味があるのか? ここで生を終わらせた方がいいのではないのか? それなら寂しくないように私も一緒に逝こう。そして、もう一度娘を産もう。そう考えてはボロボロと泣いた。
産後うつの比ではない位、私の感情はもうぐちゃぐちゃになっていた。
子供達が寝静まったある晩、夫に心情を吐露した。すると夫は
「俺は、かなちゃんの可能性を信じているよ。直美が諦めても俺は諦めない」
現実を見てほしいと思った。純粋に娘の事を信じている夫に腹が立った。それと同時に、とても羨ましいと感じた。私はその感情をとうに捨ててしまったのだから。
娘の保育園の担任の先生は、娘が出来た事や、園での娘とお友達の様子も逐一教えてくれた。
私も実際に見たが、保育園のお友達は娘がコミュニケーションをとれなくても、歩けなくても気にしていなかった。むしろ娘が出来ない事、やりたい事を率先して手伝って、時には娘を巡ってけんかをする時もあった。
「他のお友達はダメでも、香奈美ちゃんならいいよってみんな言っているんですよ」
先生に教えてもらって衝撃だった。三歳の子達がありのままの娘を受け入れていたのだ。
また、園の先生方や保護者の方達も、娘を優しく見守っていてくれた。
「かなちゃんは幸せ者だね」 教えてもらう度、娘に言っているつもりで、私は自分に言い聞かせていた。
私以外の人達が娘の事を受け入れている事に対して、私はまだ受け入れられず、終わりが来るのか不安だったが、その日は突然訪れた。
いつものように娘が家の中を縦横無尽に動き回っていた時だ。私は娘の行動を観察してみた。娘は衣装ケースから服を漁っては全部出し、床に落ちていたペンを拾うと、とても嬉しそうにしていた。落書きされると困るので、ペンを回収する為に娘の傍へ行くと、娘は私の手をつかんでどこかへと行こうとしていた。
「何々? どこへ行くの?」
手を引かれながらそう言って、私はハッとした。
私は今、娘と手をつないで歩いている。
それを認識したとたん、涙が溢れた。あの日見た夢とは少し違うが、現実になっていたのだ。
娘にとっては歩けない、話せない事が普通で当たり前なのだ。そして娘からして見たら、自分以外が立って歩いて話している事が普通では無い。そう考えたら我に返った。
いつも泣いているけど、泣く暇なんてあるのか? 何か娘の為ににもっと出来る事があるのではないのか? そう考えたら心が穏やかになったのがわかった。
前なら娘がやった事に過剰に反応して怒っていたが、落ち着いて声をかける事が出来た。
その心境の変化に、自分でも驚きを隠せなかった。
今年の春過ぎから、娘は劇的に成長した。元々音楽が好きな娘は、歌をそれっぽく歌ったり、また、手引きで少しずつ歩けるようになったのだ。
最後の保育園の運動会では、種目のかけっこの長い距離を歩く事が出来ない為、半分の距離を歩く予定だった。だけど私は今の娘の可能性にかけたくて、無理を言って他の子と同じ距離にしてもらった。
運動会当日。私はゴールの場所で娘を待っていた。かけっこが始まって数歩で娘はしゃがんでしまった。ここまでか。そう思ったが、娘は立ち上がり先生に手を引かれながら再び歩き出した。娘が頑張って歩く姿を見て、私はこれまでの事を思い出した。
娘が産まれて来てくれた事。産後うつになった事。娘の障害を診断された事。将来を悲観してたくさん泣いた事……。
リハビリが始まった当初、理学療法の先生と娘のリハビリの目標はどこにするかという時に、こう伝えた。
「私は、香奈美が卒園式の時自分で立って歩いて、卒園証書をもらえたら何も言う事はありません」
その後の娘の様子で私は諦めた。だけど私が間違っていた。
娘の小さな身体には、たくさんの可能性が詰まっていたのだ。
「話す事が全てではない」、そう言われた娘は、それっぽく歌えるようになった。
今もそうだ。手引きで歩く姿だけでも、私はこれまでの事が報われた気がした。
涙はとめどなく溢れ、娘を呼ぶ声は震えていた。号泣したかったが、娘の姿を見る為必死に我慢した。夫も私の後ろで泣いていた。そんな私の代わりに、たくさんの人が娘の事を応援してくれた。
娘はもちろん最後にゴールした。その直前、私を見つけると誇らしそうに笑った。歩ききった娘がとても誇らしくて、抱きしめてたくさん褒めた。
娘は今年の夏で六歳になる。来年度からは養護学校の小学部に通う予定だ。
これから先、娘がどう成長していくかわからない。新たに疾患が出てくるかもしれない。自立出来るのかわからない。もちろんたくさん悩む事も、泣く事もあると思う。だけどそれだけではなく、きっと笑顔が絶えないと私は思っている。
娘は上手くコミュニケーションを取れないし、まだ歩けない。それが出来ないだけの、他の子と変わらない普通の女の子だ。
娘が私達の元に産まれて来てくれたのは、障害児の育児だからこその経験を私達にさせてくれる為なんだ。
私は娘がそう教えてくれている気がした。
受賞のことば
娘が産まれるまでまさか自分が産後うつになり、障害児の母になるとは思いもしませんでした。辛く苦しい日々でしたが、沢山の方々が私を支えてくれました。産後うつの辛さ。娘の染色体疾患の事。そして障害受容の事。それを少しでも知ってもらえたら幸いです。私は今、障害児の親だからこそできる事があると思い、公私共に障害児に向けた活動をしている最中です。この度はこの様な素晴らしい賞を頂きありがとうございました。これも夫や息子、私達家族に関わってくださった皆様のおかげです。
香奈美。私をあなたのママに選んでくれてありがとう。愛してるよ。
選評
お母さまに大きな幸せをもたらすために生まれてきた香奈美ちゃんですね。失望や怒り、時には孤独感でご本人が壊れそうになる、挙句はお嬢さんを愛せない時期があったことを赤裸々に吐露されています。筆者の感情の揺れが伝わり、読む側も一緒にジェットコースターに乗っているようでした。苦しみが人の千倍あったからこそ、その後に千倍の喜びを受けておられます。むしろ障害児をご自分の娘としてくれたことに意味を見出しています。この作品は障害児を持つ家族に希望をもたらすものでしょう。(鈴木 ひとみ)
以上