「回復とは何か?」
依存症の支援に関わるようになってから、何度となくこの問いにぶつかってきた。
回復ってなんだろう。
断酒? 断ギャンブル? 再発しないこと? 就職すること? 家族との関係を修復すること? 信頼を取り戻すこと? 一見すると、そうした「状態の改善」が回復として語られることが多い。でも、本当にそういった尺度でいいのだろうかと、私は何度も立ち止まってきた。
支援者として日々向き合う中で、ある人は一度ギャンブルをやめても、ふとしたきっかけで再びホールに向かってしまう。ある人は、三年断酒していたのに、父親の七回忌の場で口にした一杯をきっかけに飲酒が続いてしまう。
そうした出来事を目の当たりにするたびに、何が回復なのか、その定義が少しずつ揺らいでいった。もちろん、やめられるならやめた方がいい。でも、やめ続けることが難しいのが依存症だ。「どうしてやめられないの?」と問われるたび、本人が一番わかっている。やめたいのにやめられない。そのことがどれだけつらいか。なのに、外からは「意志が弱い」「また裏切った」と責められる。そんな日々の中で、ある人が言った言葉が、今でも忘れられない。「話せる場所があるだけで、少しだけマシになる。正直に気持ちを言えるだけで、戻らずにすむこともある」
その人は、ギャンブル依存とアルコール依存の両方を抱えながら、それでも週に一度、自助グループに通い続けていた。
その場所で彼は、ときに嘘もついたし、ときに話さない日もあった。それでも「来ていいよ」と言ってもらえることが、支えになっていたのだという。私はそのとき、はじめて実感をもってこう思った。
回復とは、正直に今の気持ちを話しても、大丈夫だと思えること。いや、たとえ話せなかったとしても、「安心してそこにいられること」。その関係性の中で、人は少しずつ生き直す力を取り戻していくのかもしれない。
それはつまり、「何かができるようになること」ではなく、「何かをしていない自分でも、そこにいていい」と思えることだ。
私は支援者として今の仕事に就いたつもりだった。
でも気づけば、自分自身の回復のために、この現場に引き寄せられていたのかもしれない。
なぜなら私も、支援を重ねていく中で、ある日はっとしたのだ。「あれ? 私も依存症だったんじゃないか」と。
大学時代、ギャンブルにのめり込み、借金をし、誰にも言えずに孤独を抱えていた過去。仮面をかぶって、「楽しいフリ」「明るいフリ」「大丈夫なフリ」をしていた幼い頃。人に頼ることができず、自分でも気づかないまま、どんどん苦しさの沼に沈んでいた。今、支援をする側に立ちながら、私はもう一人の自分に出会っている。かつて助けてほしかったけれど、誰にも言えなかった自分。その声を、今やっと言葉にできるようになった。だから、これは一人の支援者の話ではない。支援を通して、自分もまた回復の道のりに立っていることを知った、一人の当事者の話でもある。
子どもの頃、私はいい子でいなきゃいけないと思っていた。父は障害があって働けず、母は朝から晩まで働き詰めで、いつも疲れていた。そんな母の顔を、父の顔を曇らせたくなかった。迷惑をかけちゃいけない。手のかからない子でいなきゃ。私は、そうやって邪魔にならない存在であろうと努めていた。とはいえ、まだ子どもだった。
本当は泣きたかったし、甘えたかった。わがままを言ったりしたかった。でも、そうすると母や父がほんの一瞬だけ困った顔をする。その表情を見るのが、たまらなくつらかった。だから私は、いつしか感情を表に出さないようになった。
怒らない。泣かない。困らせない。そう心に決めても、私はもともと「いい子としての適性」が高いわけではなかった。気持ちを押し込めながらも、うまく立ち回れずに戸惑う日々。そんなとき、私は「アホのふり」をするようになった。それが、自分を守る手段になっていった。
変なことを言って笑わせたり、ちょっとズレた発言をして場を和ませたり、まるで冗談みたいに気持ちを薄める技を自然と覚えていった。「バカだなー」と笑われることで、私は自分の居場所を確保していたのだと思う。そのうち学校でも、いわゆる明るい子で通るようになった。ちょっと抜けてて、でも感じが良くて、人当たりがいい。そんなポジションにいれば、誰にも深く踏み込まれずに済んだ。本音を言えないまま、私は楽しいフリがどんどん上手になっていった。そのうち、自分でも自分がわからなくなった。泣きたいのに笑ってしまう。イライラしてるのに「大丈夫」と口にしてしまう。気づけば、仮面をかぶって生きるのが日常になっていた。
そうするしかないと思い込んでいた。私は、私なりのサバイバルの方法を必要としていたのだと思う。キャラでも、ただの性格でもなく、自分を守るための盾として。
小学生の頃だっただろうか。テレビでサーカスを見ていて、初めてピエロの存在を知った。顔中に白いメイクをして、大きく笑った赤い口。観客を笑わせる道化役。でも、そのピエロの目から、ぽろっと涙が流れていた。右目は笑っていて、左目は泣いていた。その不思議な表情に、私は目が離せなかった。「あ、私だ」、なぜだかわからないけれど、そう思ったのを今でもはっきり覚えている。笑っているように見えても、ほんとは泣いている。明るくふるまっても、内側では苦しくてたまらない。でも、それを誰にも言えないから、笑って見せるしかない。あのとき、テレビの中のピエロは、初めて「自分と似た誰か」に出会ったような存在だったのかもしれない。
そんな私の本当の姿は、わがままで、負けず嫌いで、嫉妬深くて、嫌なことを言われたら引きずるし、ウジウジしてる。
私はずっと「正直になること」が怖かった。本音を出して、誰かにそんなふうに思ってたの? と引かれるのが怖かった。誰かを困らせる存在ではいけなかった。だから、「正直さ」そのものを否定することもあった。表面的なやりとりばかりが増え、表面だけが肥大していく。
大学に入っても「天然だよね」とか「何言ってるのー」とか言われて、そのたびに私はホッとする。心の中ではどこかむなしいのに、そんな軽さを演じることで、大学生活という大きな流れの中に、自分を滑り込ませていた。そんなとき、友人に連れて行かれたのがパチンコだった。最初は軽い気持ちだった。
でも、あの音、あの光、何も考えずに機械の前に座っていればいい時間に、私はひどく安心してしまった。頭の中が真っ白になる。余計なことを考えずにすむ。それが、私にとっては救いだった。当たりが出たときの快感もあった。けれどそれ以上に、イライラした時に無になれる時間がありがたかった。それが私の居場所だった。そうして私は、だんだんと通うようになった。大学の一限目には起きれないくせに、パチンコ屋には開店前に一番に並んでいた。
気づけば、バイト代も仕送りもすぐに消えるようになっていた。負けると「取り戻したい」と思って、また行った。勝てば「調子いいかも」と思って、また行った。どちらに転んでも、行き着く先は同じだった。
やがて借金をするようになった。クレジットカードのキャッシング枠、友人からの借り入れ。最初はこれで終わりと思っていたのに、終わらなかった。誰にも言えないまま、私はどんどん深みに沈んでいった。
誰にも見せられない自分を抱えたまま、私は大丈夫なふりをして、日々をやり過ごしていた。今思えば、私は何かに依存していたのだと思う。ギャンブルそのものに、というよりは「感情を感じずにすむ時間」に。私はお酒に強くなかった。違法薬物に手を出す勇気もなかった。私にとっては、たまたまギャンブルだったのだと思う。当時の自分と、周囲の環境、時代背景もあると思う。それらぴったり噛み合ってしまったのだと思う。一人になれて、考えずにすむ。感じずにすむホールに足を運ぶ。そうして私は、感情を「感じないこと」に頼っていたのだと思う。
就職して、生活の場所が変わった。配属されたのは、非常に多忙な部署だった。朝は早く、夜まで仕事。時間に追われる毎日。気づけば、周囲にはギャンブルをする人なんて誰もいなかった。気軽にホールに行けるような時間も、余裕も、もうなかった。やがて家庭を持ち、子どもが生まれた。生活がどんどん現実的になっていく中で、ギャンブルに行きたいと思うことさえ、少しずつ遠のいていった。もちろん、心のどこかでは、またやりたいなと思う瞬間もあった。強い意志でやめたというより、そういう流れの中で、孤独にならず、ギャンブルから離れることができたのだ。ある意味、とてもラッキーだったのかもしれない。今でも本気でそう思っている。
数年が経ったある日、私は偶然、依存症支援の分野に関わることになった。
最初はまったく知識も経験もなく、なんとなく社会的に意義のありそうな仕事という程度の認識だった。けれど、現場に立つうちに、それが想像以上に生身で、時にしんどく、そして何より自分自身の奥を揺さぶってくる仕事だということを、思い知らされるようになった。薬物、アルコール、ギャンブル。依存という言葉の裏には、いつも「誰にも言えなかった苦しみ」が隠れていた。表面的には「だらしない」とか「どうしようもない」とか、「失敗の多い人」に見えるかもしれない。でもその奥には、怒りや悲しみ、恐怖や孤独が、何層にも折り重なっていることを、私は支援の中で知っていった。
年齢は中年くらいの男性。アルコール依存症で、ある支援機関に通いながら、断酒を継続している。第一印象は、正直あまり良くなかった。無愛想で、タメ口で、面談もどこか投げやり。「どうせ、俺のことなんかわからんやろ」、そう言いたげな態度だった。
それでも、何度か顔を合わせるうちに、ほんの少しだけ心の扉が開いたのか、彼がぽつりとこぼした言葉があった。「飲まんと、眠れんのや。飲まんと、思い出すんや。全部」、その言葉に、私は打ちのめされたような気持ちになった。「飲むから問題なんでしょ」「また飲んだの?」「ちゃんとやらなきゃ」、そうやって“問題行動としてしか見えていなかった飲酒”が、彼にとっては「生きるための麻酔」だったという事実。飲まずには眠れないほどの、思い出したくない、何かがあるということ。そしてその何かは、私には計り知れないほどの重さを持っているということ。話を聞くうちに、彼の人生の輪郭が見えてきた。
子どもの頃から安心していられる場所が少なく、若いうちから一人で立っていかざるをえなかったこと。家庭でも仕事でも、人とのつながりの中で孤立しやすく、誰かに寄りかかることも、頼ることもできず、たったひとりで長い年月を歩いてきたこと。「強くなりたかったんやない。ただ、壊れんようにしとっただけや」、そう言った彼の横顔は、どこか私の過去と重なった。私も、子どもの頃から“壊れないように”ふるまってきた。誰にも迷惑をかけないように、感情を隠して、いい子でいようとしてきた。
当たり前だが、私と彼の人生は違う。けれど「感情を麻痺させて生きのびてきた」という点では、似ていた。彼の言葉は、支援者としての私ではなく、一人の私に突き刺さった。
ああ、私もそうだった。誰かに頼れなくて、でもしんどくて、だから行動でごまかしていた。行為の奥にある「感情の扱い方の不器用さ」が、痛いほどわかる気がした。支援の中で、私は人の人生に触れていたつもりだった。でもいつの間にか、自分の過去にも触れ始めていた。
「依存症は、慢性の再発性の脳の病気です」、そう最初に聞いたとき、どこか他人事のように感じていた。言葉としては理解していたけれど、実感は伴っていなかった。けれど、支援の現場で多くの当事者と出会う中で、ある瞬間に思った。
ああ、本当に“病気”なんだと。依存症の人たちが何度も繰り返してしまうのは、意志が弱いからでも、甘えているからでもない。脳の中の報酬系や前頭前野。快楽や衝動、理性に関わる回路そのものが変化している。わかっているのにやめられないという感覚は、まさに脳がうまく機能していない状態なのだ。そうか。だらしないんじゃない。意志が弱いわけでもない。これは「病気」だったのだ。その気づきは、自分の中で静かに、大きく響いた。
たとえば「がんの再発」を考えてみてほしい。再発した本人を責める人はいない。「頑張ってきたのに残念だね」と、一緒に悲しむ。でも、依存症になると、話はまるで違ってしまう。「また?」「反省が足りないんじゃないの?」「信じて損した」、そう言って、再発した本人を責めることが当たり前のように起きている。依存症は、れっきとした病気なのに。
再発が症状として説明されるべきものなのに。社会はそれを「裏切り」や「怠慢」として見てしまう。そういう私も、かつてはその一人だった。
依存症は、何度再発しても、その人の価値が失われるわけじゃない。その視点に立てたとき、私はようやく、「回復させる支援者」ではなく、「一緒にいる支援者」になりたいと思えた。
ある日、支援の現場で出会った若い当事者が、面談の終わりにぽつりとこう言った。「どうせ、俺のことなんか、誰にもわかってもらえないっすよ」その言葉には、怒りでも諦めでもなく、静かな絶望がにじんでいた。私は一瞬、何かを返さなければと思いながら、口を閉ざしてしまった。きれいごとを言っても響かないことは、もうわかっていたから。しばらくの沈黙のあと、私は思わずこう返していた。「私もギャンブルで借金してたよ。誰にも言えなくて、苦しかった」、すると彼は、ゆっくりと顔を上げた。ほんの少しだけ、目の奥の緊張がゆるんだ気がした。「マジすか?」と一言こぼし、それ以上は何も言わなかったけれど、その何も言わなさの中に、かすかなつながりが生まれた気がした。
それまで、私は自分の過去を「黒歴史」だと思っていた。ギャンブル、借金、嘘を重ねた日々。できればなかったことにしたかった。でもその日を境に、私はその考えを少しずつ手放していくようになった。語ることには、力がある。それは解決のための助言ではなく、安心のための共感として、誰かの心の扉をノックする力になる。もちろん、誰もが語る必要はないし、いつでも語れるわけでもない。でも、自分が経験してきた「情けなさ」や「隠したかったこと」が、目の前の誰かの「それでも大丈夫かもしれない」に変わる瞬間を知ってから、私は自分の黒歴史を、誰かとつながる鍵として見られるようになった。そして気づいたのだ。それは、相手のためだけじゃない。自分自身のためでもあるのだと。誰にも言えなかった過去を言葉にするたび、あのときの自分を少しずつ、許せるようになっていった。「よく頑張ってたよな」「ひとりで抱えて、苦しかったよな」と、やっと自分に言ってあげられるようになった。支援とは、誰かを救うことではなく、その隣に座ることなのかもしれない。過去を恥じることも、悔いることもある。けれど、それを「語れるようになること」は、まぎれもなく、回復のプロセスなのだと思う。誰かの前で、自分の傷を言葉にできたとき。そのとき、私たちはきっと「ひとりじゃない」と感じられる。
その安心感が、また次の一歩を踏み出す力になる。黒歴史は、恥ではない。それは、ここまで生きてきた証でもある。私のそれが、誰かのために使えるなら、もう隠さなくていいと思えるようになった。
そしてもうひとつ、過去を見つめ直す中で気づいたことがある。私は、いつからか自分の親を責めるようになっていた。勉強を重ねるうちに、依存症の背景に家族関係の影響があることを学び、私がこうなったのは、あの家庭環境のせいかもしれないと思ってしまうことがあった。
でも、それは違った。父も、母も、あの状況の中で、必死だったのだ。父は病気を抱えていた。それこそ、慢性的な病気だった。救急車で運ばれることも珍しくなかった。そして十五年以上前に亡くなった。そんな父を支えながら、働きながら、私を育ててくれていたのが母だった。どれだけ手を尽くしても、生活はギリギリで、心の余裕なんてあるはずがない。そんな中で完璧な子育てなんて、できるわけがない。
それでも、ふたりは親であろうとしてくれていた。今の私は、心からそう思う。あのふたりが親で、本当に良かったと。言葉にするのは、少し照れくさいけれど、母に、父に、「ありがとう」と伝えたい。そう言えるようになったことも、回復のひとつだと思っている。
私は今、依存症についてこう思っている。
行為にしろ、物質にしろ、続けていたっていい。続けないと、苦しいのだから。やめたくてもやめられない日がある。それが依存症という病の本質でもある。それでも、そばに誰かがいてくれる。「大丈夫だよ」と言ってくれる。正直な気持ちを話してもいいし、話せなくたっていい。その安心のなかで、人は少しずつ呼吸を取り戻していく。それが、回復のはじまりなんだと思う。誰かが壊れてしまわないように、いろいろな人が、毎日、必死で支え続けている。それは家族だったり、友人だったり、支援者だったり、自助グループの仲間だったり。みんなが、それぞれの距離感で「つながり」を絶やさないようにと願っている。
だけどそれが、相手の苦しみや混乱をかえって長引かせてしまうこともある。支えるつもりが、結果的にその人の問題行動を後押ししてしまうことがあるのだ。どこまで手を差しのべるか、どこで線を引くか、その加減は、いつだって簡単ではない。
支援は、何でも許すことじゃない。けれど、「やめてくれないなら、もう関わらない」という姿勢でもない。依存症支援は、“見捨てないこと”と“巻き込まれないこと”の、あいだに立ち続けることでもある。
それでも、私は味方でいたい。
変わろうとする気持ちも、変わりたくない葛藤も、まるごとその人の一部だと思う。良くも悪くも、そのままで存在していい。その人がその人として、ここにいてくれることに価値がある。私は、そう思って関わっている。ある人が、「ここにいていいと思えたのは、はじめてかもしれません」と言ってくれた。何かが変わる瞬間は、いつも劇的ではなく、とても静かで、ささやかだ。でもそのささやかな安心の積み重ねが、人を少しずつ回復へと導いていく。
やめることがゴールじゃない。「正直にいられる場所」があること、「ここにいてもいい」と思える関係性があること。それが、たとえ話せなくても、つながっていられる時間が続くこと。それが、回復のはじまりであり、生き直しのスタートになる。
やめられなくても、話せなくても、それでも、ここにいていい。
それが誰かにとっての安心になるなら、私は今日も、そばにいることを選びたい。
受賞のことば
振り返ってみると、自分自身の歩幅の小ささや回り道、要領の悪さばかりが目についていましたが、この受賞は「その歩き方でいい」と人生そのものを肯定してもらえた気がします。
支え合ってきた人たちと分かち合い、これからも等身大の声で、迷いを抱く誰かのそばに寄り添える存在でありたいです。過ごす日々が、本当に明るくなったように思えます。いただいた光を胸に、現場や日常に返していけたらと考えております。
選評
「回復させる支援者」ではなく「一緒にいる支援者」、「やめられなくても、話せなくても、それでも、ここにいていい。それが誰かにとっての安心になるなら、私は今日も、そばにいることを選びたい」。私自身もきょうだいの立場のピアサポートを運営しています。語ることの力を信じつつも、自分は何もできていないのでは? という無力感をどこかに抱えていましたが、この作品を読ませていただいて、原点回帰して救われた気がしました。(藤木 和子)
以上