【序章 天井にうつる私の心】
この十年間はずっと天井を見ながら生活してきたものだから、いつの間にか天井の壁紙にあるシミの位置や、ちょっとしたでこぼこの位置まで覚えてしまった。でも、そんな不完全な天井を愛おしく思えている自分が少し誇らしく感じられる。
私は十年前に体調を崩してから、ベッドの上でほとんどの時間を過ごしてきた。たった一畳程度のこの場所で悩み、苦しみ、もがきながら、自分の体と心と周りの人達と向き合ってきた私の大事な場所。今はしんどかった時期も含めて、自分の過ごしてきた時間に価値を見出すことができている。だからきっとこの天井を愛おしく思えるのだろう。
今は寝たきり生活を送っている私の時間を、少し巻き戻してみる。
【第一章 おてんばな時代】
生まれた時の体重は三千五百グラム超の健康優良児。幼いころはおてんばで公園を走ったり、崖や木に登ったり、二つ年上の兄の後ろをついて行ったりと、とにかく好奇心旺盛で、母いわく何事にも一生懸命な子どもだった。元気が有り余っているものだから体のあちらこちらに青あざができているのも当たり前で、まるで勲章かのように一人でその数を数えていたのを思い出す。
そんな私が小学五年生で転校することになった。転校した先で初めて特別支援学級という存在を知り、そこに在籍する友人達と仲良くなった。そこには、運動機能やコミュニケーションに障害のある子が数人在籍していた。なぜか私は彼らと遊ぶのが楽しくて、長い休み時間の度に遊びに行っていた。
六年生になって放送委員長と料理クラブ長をしていた私は、特別支援学級の子を誘って一緒に活動していた。今から思うと、彼は体を動かすのも難しくて言葉も不明瞭だったのだが、そんなことは気にも留めず一緒にできることを探していた気がする。料理クラブでは、うまく動かせない手でも彼が動かした先にボールやお鍋を移動させれば一緒にできたし、放送委員では、お昼の放送で流す音楽を放課後一緒に選んだり、機械(ミキサー)の操作をしたり、担当者をアナウンスする時は自分で名前を言ってもらったり、できることはたくさんあった。
何かができる度に少しどや顔になったり、できなくて悔しそうな顔やふくれっ面になったり、全身で力いっぱい笑っている彼の近くにいるのが楽しくて心地が良かった。私がいきいきと活動している様子を、先生方も「えぇなぁ!」と認めながら、温かく見守ってくれた。小学校を卒業する時は担任の先生が達筆な字で「あなたは将来、世のため人のため、弱い立場の人のために尽くす仕事につくことを確信しています。本当に立派でした」と毛筆でしたためてくれた。このメッセージの背景には薄墨で大きく『夢』と書かれていた。これを見た時に自分の進むべき道が定まったような気がした。この時の書は額に入れて毎日読んでいた。
【第二章 不安定な学生時代】
中学生になった私は部活に一生懸命取り組んでいたが、中学一年生の十二月、部活の試合中に倒れてしまった。物が二重に見えて、手足に力が入らなくて痺れもあったので、救急搬送後にそのまま入院になった。状態が徐々に悪化して最終的には寝たきりになった。痛い検査や辛い治療を繰り返して、半年後に退院できた。退院してからも体力が戻るまではなかなか登校もできず、一時間だけ車椅子で授業に出るなど少しずつ学校生活に戻っていった。入院中に学年もクラスも変わっていて、私は治療の影響で見た目も変わっていた。自分だけ置いてきぼりになった気がするかと思いきやそうでもなかった。
元々明るい性格だったからかみんなが周りに寄ってきてくれたし、部活で一番仲が良く入院中も支えてくれた友人が同じクラスにいてくれたことで、打ち解けるまで時間はかからず、男子達は入院前と同じく「ボス!」とあだ名で呼んでくるようになった。部活のメンバーにも支えられて、その年の秋には試合にも出られるようになった。勉強はかなり遅れてしまったし、部活でも入院前のようにうまく身体を使えなくなっていたけれど、みんなと一緒にいられる嬉しさの方が勝っていた。
中学一年生の入院以降、高校や大学でも何度か体調を崩して体を動かしにくくなるものの、その都度復活していた。ただ、みんなと同じように頑張れない自分にふがいなさや劣等感を覚えることも増えていった。
【第三章 支援者になる】
大学では発達心理学を専攻した私が就職したのは、重症心身障害児者施設だった。重症心身障害とは、重度の肢体不自由と重度の知的障害とが重複した状態のことを言い、その施設にいる方のほとんどは常時介護が必要な状態にあった。就職が決まってから施設見学に行ったときに、ハッとする出来事があった。ひとりの利用者さんが初めて会う私の手を取り、まるでおもちゃで遊ぶように、握ったりこねたりを繰り返した。言葉を話せないその方の力加減や動かし方に、感情のような言葉のようなものを感じた。その時「うわべだけの関わり方をしたらダメだ」「こちらの心が全部伝わっている」と直感した。中学生から体が思うようにならない経験が増え、劣等感を積み重ねるうちに何でもないかのようにうわべだけを取り繕うことに慣れていた私が「このままではいけない」と思った瞬間だった。
私が最初に配属されたのは、今でいう生活介護という、家で生活している重症心身障害のある十八歳以上の方が日中に通所してくる場所だった。心を開いて向き合うことを決意した施設見学を経て、いよいよ入職した私は十三名の利用者さんと出会った。ほとんどの方に発語がなく、コミュニケーション手段は限られていたけれど、全員がちゃんと気持ちを伝えてくれた。それは表情だったり、手の動きだったり、頭の動かし方だったり、目の動きだったり、言葉にならない声だったり、コミュニケーションボードだったり、体の緊張具合だったり。彼らが伝えてくれることには一切の嘘がなくて、私のようにうわべだけを取り繕うようなこともなかった。だから私も彼らの前ではありのままの自分でいられたし、しんどいことがあっても彼らといる時は心が洗われるような気がして元気をもらっていた。もちろん救われるだけではなく、私もスキルを磨いたし、彼らの生活がより豊かになるように各方面の勉強や連携も欠かさなかった。きっとそれは彼らの魅力が、当時新人だった私を突き動かしたのだと思う。未だに全員の名前を覚えていて、時々夢でも再会している。今は簡単には会えないけれど、思い出しただけでも力をくれる存在。
その後転勤になって入所施設でも勤務したけれど、やはりどこに行っても「命が輝いていること」「ありのままがどれだけ尊いのか」を感じさせてくれた。やりがいも仕事の楽しさも感じていたけれど、やはり私の体調面がネックとなり退職せざるを得なくなった。もう少し働いていたかったので悔しかったし、やるせなさを感じたけれど、この体だから仕方がないかと諦めの気持ちもあり、次に向けて気持ちを切り替えるように自分に言い聞かせた。
気持ちを切り替えて進みだすと、長年興味のあった児童福祉分野での勤務が決まった。とても恵まれた職場環境で、仕事内容は簡単ではなかったが、尊敬できる&ユーモア溢れる上司や先輩のお陰でたくさん笑いながらたくさん学び、やりがいと向上心を刺激されながら過ごした。
【第四章 嫌な予感が的中】
二〇一五年の年明けにそれは突然やってきた。仕事始めの日にコーヒーメーカーの準備をしていたらガラスの容器を落として割ってしまった。落としたというよりすり抜けていった感覚で、この瞬間に嫌な予感が頭をよぎった。「もしかしたら……」と思いながらも、振り払うように仕事に没頭してみた。けれど、嫌な予感はどんどん症状として姿を現してきた。電話の受話器が重くなり、マグカップが重くなり、ノートの字が乱れた。ここまでは自分だけが異常を感じていたが、次は周りからも一目瞭然な異常が現れた。膝から崩れ落ちるような転倒を、前触れなく繰り返すようになったのだ。歩いていても立っていても、突然こけて視界から消えるものだから職場の人も道行く人も二度見状態で、いつも驚いた表情と目が合ってしまう。ズボンが破けて膝から出血するほどなのでもちろん痛いのだが、一刻も早く驚き顔の方を安心させねばと、自分の中の最速で立ち上がって「すみません、大丈夫です」と愛想笑いを返す。この時の私は、毅然と淡々と大丈夫なふりをすることで、これまでとは違う自分の体への不安を紛らわそうとしていたのかもしれない。
どんなに大丈夫なふりをしても、現実はしっかりと襲いかかってくる。次第に歩行が困難になり、三月初旬には座っているのもしんどくなってきた。病院では検査を進めるが、これといった原因は分からず、いよいよ動けなくなってきたので詳しく検査をするために入院することが決まった。入院する頃には杖か車椅子が必要な状態だった。入院するとあれよあれよという間に症状は進み、三月末には寝たきりになり、一時期は自分で体を動かせないのはもちろん、目も口も開くことができず声も出なくなって、自分の感情も人間性も、動かない体の中に閉じ込められてしまったような気分になった。
【第五章 絶望の中の光】
自分では動けないどころかコミュニケーションも取れないと、全ての動作が受け身で進んでいく。痛くても苦しくても、気持ち悪くても、まるで操り人形かのように体の位置や角度が変わり、排泄介助や入浴介助が淡々と進んでいく。声かけをしてくれる人もいれば、無言のまま、まるで物のように扱う人もいる。痛みや苦しみがスルーされていく(周りにそんなつもりはなくても)日常は耐え難いものだった。ある日リハビリに行くために、病室のベッドから車椅子に移った。その時の動かし方が激しくて、動かない手がだらんとなり車椅子の金具に当たった。痛かったけれど、何も言えず、そのまま私の手は体の下敷きになった。洋服も乱れたまま、激しく動いた代償の吐き気とも闘いながら車椅子に乗り、たくさんの人が行き来する廊下にポツンと置かれていた。姿勢を保てない体が車椅子上で崩れていくのを感じながら、「まるで生ける屍(しかばね)だなぁ」と今の自分にぴったりの言葉が思い浮かんだ。看護助手さんが迎えに来てくれて、笑顔を向けて「行きましょうか」と洋服や髪形を整えてくれた。人間として扱ってもらえた気がして涙が頬を伝った。
進みだした車椅子に乗りながら、廊下に差し込む陽の光を見ていると、重症心身障害児者施設で働いていた時の利用者さん達のことが思い浮かんだ。動けなくても喋れなくても、命がきらきらと輝いていて、私はその存在に救われていた。今の自分と彼らが一瞬重なって感じられて、「私の命にも、今生かされていることにも意味がある」と根拠のない確信が生まれた。この根拠のない確信が、それから始まる終わりの見えない寝たきり生活を支えてくれた。
【第六章 長い道のり~前半戦~】
これまで元気に過ごしていた人が進行性の病気になると、自分の心身の状態だけでなく、人のお世話になることにも向き合わなければならない。私にも例外なく厳しい現実が突き付けられた。昨日できていたことができなくなっていく恐怖や、ちょっとしたことでも人に頼まないといけない自分への絶望、お願いするのに気を遣い、気持ちが伝わらないもどかしさを感じ、力が入らない無防備な状態で痛みを何倍にも感じ、乱暴な人に関わられることに大きな恐怖を感じ、たくさんの人が周りにいるはずなのに理解者がいないことに孤独を感じた。まるで荒れた海に浮き輪だけで放り出されたような、生きること・今ここにいることだけに必死な時期が四年間続いた。この四年間は入退院や手術を繰り返し、命とも向き合った。
正直言って投げ出したくなることも逃げ出したくなることもたくさんあったけれど、無理に未来を考えることなく“今”に集中することで何とかその時を過ごしてきた。
【第七章 長い道のり~後半戦~】
改めて今の私の体について説明すると、四肢麻痺で左手だけ少し動く。寝る・座る・食べる・排泄をするなど、日常生活すべての動作に誰かのサポートが必要。発声は昨年の十二月に奇跡的に戻ったけれど、寝たきり生活十年間の半分以上はまともに声を出せない状態で過ごしていた。開口障害や嚥下(えんげ)障害があり、眼球を動かすのが苦手。薬の影響で痙攣(けいれん)発作を起こすこともある。足には発赤・熱感・腫脹(しゅちょう)・強い痛みがあるため、季節を問わず保冷剤で冷やしている。医療的ケアは胃ろう(胃に穴をあけて直接薬や栄養を注入する)と喀痰(かくたん)吸引(口の中や喉の唾液や痰を吸引する)と。一応指定難病の病名はあるけれど、それとは別の症状も複数あり、治療法はない。常時介護が必要な状態のため、私の近くにはいつも誰かがいてくれている。ありがたいとは思っているし、いつもすごく支えられているけれど、なぜか自分の人生を生きている感じがしなかった。〝お世話になっている自分”〝支えてもらうだけの自分”〝何もできない自分”は生きてはいるけれど、社会の中では役割はなくて、透明人間のようにひっそりと生きていかないといけない感覚だった。いつしかお世話になっているヘルパーさんや看護師さん、他の支援者さん達とうまく関係性を築くことだけに全エネルギーを注ぐようになっていた。表情だけを切り取ると、ほとんどの時間笑っていた。けれど、寝たきり生活五年目以降は、心の中で物足りなさと抑圧している本当の自分がむくむくと大きくなっていった。
【第八章 再び支援者として】
そんな時にALS患者嘱託殺人事件が起きた。地域が近かったこともあり必要以上にその事件の情報が入ってきた。知れば知るほど被害者の方と、それまでの自分が重なって、大きく心が揺さぶられた。自分と同じような状況で過ごしていた人がいたのだという驚きと、この苦しみは自分だけではなかったのだという安堵感、と同時にこのままではいけないという焦燥感と使命感が湧いてきた。
自分も被害者の方と近い経験をしてきたけれど、それを他の人達も経験しているかもしれない、これから誰かが経験するかもしれないと思うと、居ても立っても居られなかった。必死で自分にできることを考えたけれど、どう考えてもその時の私は力不足だった。
それでも意識が外の世界や、誰かのため、未来へと向かうと、不思議とご縁が巡ってきた。くしくも社会はコロナ禍でオンラインでの活動が一気に進んだタイミング。興味のあったセミナーのオンライン開催の案内に飛びついた。寝たきりで書字や発声も困難な私がファシリテーションのセミナーに参加するというのだから、無謀な挑戦なのは明らかだったが、主催者側が快く受け入れてくれた。「受け入れてくれた」というのはただ参加を承諾してくれただけではなく、私の状態でも参加できる環境を一緒に検討してくれて、参加者の一員として同じように体験し学べるように調整をしてくれたのだ。寝たきり生活六年目にして、初めて社会とつながり、〝お世話になっている自分”から解放された瞬間だった。それまでどこか受け身の状態で過ごしていた私が、社会の一員として受け入れてもらえたことで、自分の色を取り戻すことができた。
そこからは、ベッドの上に広がる景色が彩りを増していった。オンラインセミナーでスキルを磨き、そこでの出会いをきっかけに社会福祉士を目指し、通信制大学への編入も決めた。ありがたかったのは、通信制大学でも国家試験の受験でも私の障害が原因で参加を拒否されることなく、私の障害状態でも参加できる方法を一緒に模索してくれたことだった。出会いに恵まれ、仲間に支えられて、社会福祉士国家試験に合格した私は、再び支援者としての一歩を踏み出した。
【第九章 どんな状態でも自分だけの色で輝けるように】
踏み出した先は未知の世界。支援者といってもどこかに所属する専門職ではなく独自の活動なので、必要とされるかすら分からなかったが、不思議と不安はなかった。
私がやりたいことは、「どんな状態でもその人の人生をその人だけの色で輝けるように」サポートをすること。深い苦しみの中にあっても近くに理解者や伴走者がいれば、その人の人生を輝かせるきっかけになると信じて。私自身が理解者・伴走者になることと、その人の周りや社会に理解者・伴走者を増やすことを目指して活動をしている。対象は当事者の方だけでなく、ご家族や支援者の方までと幅が広い。
これまでたくさんの当事者の方と話す中で、可能性や才能を持っていても病気や障害を理由に、夢や目標、社会に出ることを諦めざるを得ない人がとても多いことに気付いた。私達障害者が社会の一員として活躍できることは、社会にとっても意義あることだと確信している。しかしまだ私達が活躍できるだけの環境やシステムが整っていないのも現実である。いつか障害の有無にかかわらず、誰もが対等に尊重し合ってその人の能力や可能性を広げられる方法も模索していきたい。
活動を通して自分の経験をたくさんの人に伝え、同じ苦しみを抱える人と分かち合う機会を得て、これまでの苦しみに価値が生まれた。苦しみに価値が生まれると、今まで向き合うことを避けていた現実とも向き合う勇気が湧いてきた。乗り越えたら同じ苦しみと闘う人の力になるかもと思うと自分も頑張る力が湧いてきた。社会に居場所があること、役割があること、誰かに必要とされることで、生きる活力が湧いてきた。今は、寝たきりでもお世話になるだけでなく、誰かのために自分の時間を使えることに幸せを感じている。
人間は誰もが苦しみを抱えていて、その苦しみは誰かと比較できるものではない。自分のものさしで誰かの苦しみを測らずに苦しみを丸ごと受け止めて、誰もが自分の人生を自分だけの色で輝けるように。できることから一歩ずつ。
【終章 感謝と共に】
私達障害者が一歩を踏み出すには、しっかりとした土台が必要である。土台というのは、理解してくれる人や支えてくれる人や環境のこと。寝たきりになってから、絶望や葛藤、さまざまな苦しみが襲ってきたけれど、私の土台となってくれたのは家族や親せき、友人達だった。家族は、めまぐるしく変わる私の体調に戸惑いながらも必死に支えてくれて、良くなるように信じ続けてくれた。私が何かにチャレンジする時は無条件に応援してくれた。一番心を開いて甘えられる存在だからこそ辛い気持ちをぶつけてしまったこともあるけれど、一緒に歯を食いしばって闘い続けてくれているその後ろ姿にいつも感謝している。今は一緒に笑ってお互いの生き方を尊重し合えていることが奇跡のように幸せ。
友人達は病気になっても変わらずにいてくれた。医療に携わっている友人が多いにもかかわらず専門知識や専門職としての見解を言われることは一切なく、時には私に悩みを相談してくれて、時には黙って体をさすってくれた。忙しい時間の合間を縫って会いに来てくれた。綺麗だと思った景色や、嬉しい出来事を知らせてくれた。社会での居場所を失い、お世話になっている自分に後ろめたさを感じていた時も、友人達との時間だけは“お世話になる自分”から解放されていた。私を私のままでいさせてくれた友人達は、今も私の活動を見守り、一緒に人生を重ねてくれている。何よりも心強い私の一生の宝物。
こんなにたくさんの想いに支えられてきた私にできる恩返しは、同じように苦しむ方の人生に伴走し、その可能性を一緒に広げていくこと。未熟な私だけど、ベッドの上に広がる景色をもっと広げられるように、この道をこれからも歩み続けたいと思う。今ここに生かされていることに感謝。
受賞のことば
この度は、大変光栄な賞を受賞させていただき誠にありがとうございました。知人にこの賞のことを教えていただき、寝たきり生活十年の節目の年だったので勇気を出して自分の半生を振り返ってみることにしました。思い出す作業は時にしんどさも伴いましたが、全てのご縁や出逢いが今に繋がっていると実感できるとても貴重な機会となりました。このような機会をいただけたことと、今ここにいられることに感謝申し上げます。
選評
急激な体調の悪化により、四肢麻痺で寝たきりになった筆者。コロナ禍でオンラインの活用が一気に進んだタイミングを捉え、通信制大学への編入を果たし、社会福祉士国家試験に合格。再び支援者として踏み出します。筆者は、障害者が活躍するには「土台」が必要と記しています。「土台」とは支えてくれる人や環境のことですが、逆にいえば「土台」さえあれば、障害があっても輝くことができることを理解させてくれる作品でした。(藤澤 浩一)
以上