第60回NHK障害福祉賞 最優秀受賞作品
~第1部門より~
「アール・ブリュット」

著者 : 串田 綾香 (くしだ あやか)  奈良県

◎願い
「普通になりたい」
私は、今まで溜め込んでいた感情を全て吐露するかのように、嗚咽した。
「何かあった?」
母は優しい声で、しかし動じることなく私に尋ねた。

「クラスの子たちが、私のことを普通じゃないって仲間外れにする。なんで、私は普通になれないんだろう」
「普通じゃないって、個性的ってことでしょ? 個性的な人って面白いから、私としては少し羨ましいけどな。でも、仲間外れはつらいね」

母はいつだって優しい。私はそんな優しい母が大好きだ。しかし、私が個性的で面白いという言葉には、納得がいかなかった。母が優しいからそう思うだけで、きっと世間から見た私は個性的で、誰もが関わりたくない変な奴でしかないのだ。そのように、学校が自分の世界の全てだと思い込んでは、これからも一生誰とも交わることのできない孤独感に打ちひしがれていた。
私は、物心ついたときから対人恐怖心が強く、母以外とのコミュニケーションがとれなかった。何度も他者との会話を試みたが、自分の思考や行動が周囲と異なると感じていたため、自分が何かを発言することで、相手にどう思われるのかと考えると恐ろしくてたまらなかった。そのため、人を目の前にすると結局何も発言できなくなってしまうのだ。実際に小学校のクラスでは、会話ができない変な奴だと、皆が私のことを遠ざけた。私は、七夕の短冊に「普通になれますように」と書いた。それから多くの本を読み、クラスメートを観察し、「普通」とは何か、すなわちクラスメートの大多数の人たちについて模索した。しかし、考えれば考えるほど正解から遠ざかっていき、結局、友達ができないまま中学を卒業した。あの頃の私は知る由もなかったが、母の言う「個性的」という言葉の先に、私にとってかけがえのない表現の道があることを、後に知ることになる。

◎擬態
高校生になり、私は擬態することを覚えた。皆と同じ行動をし、それぞれの会話パターンを覚え、同じタイミングで笑い、その場の環境に過剰に適応する。そうすると、友達のいなかった私の周りに、一気に友達が増えた。これで、誰が見ても私は普通の高校生だ。携帯のアドレス帳に新しい名前を入れ、手帳にプリクラを貼るたびに、喜びで胸がいっぱいになった。たくさんのアルバイトをして、バイト先でも、同じようにすればうまくいった。しかし、過剰に人に合わせるということは、本当の自分を殺すということ。気づくと、その反動から心はカラカラに乾いていき、まるで壊れかけの機械のように、私の心は空っぽになった。成功したように感じたはずの擬態だったが、結局、その擬態によるストレスから体調を崩してしまった。どうやら、私の心は完全に壊れてしまったらしい。夢と現実の区別がつかなくなり、日常生活を送ることさえ支障が出てしまった。努力はしたつもりなのに、まだ努力が足りなかったのだろうか。結局私は社会に適応できなかった。

◎障害
「広汎性発達障害ですね」知人の紹介で受診した心療内科の先生にそう言われ、驚きの表情を隠せなかった。私が障害? 正しくは特性らしいが、頭がそれをなかなか理解しようとしなかった。「発達障害の可能性があるので、知能検査のWAISを受けてみましょう」と言われ、よく理解しないまま受けたのだが、実際に診断されると、当時は聞き慣れない障害名への困惑と、障害だという事実を認めたくないという気持ちが僅かにあった。しかし、詳しい説明を受けると、とても腑に落ちるものがあり、今までコミュニケーションがうまくいかなかったのは、私の努力不足ではなく、特性によるものだったのだと、ようやく救われた気持ちになった。そして、先生の「今まで、お疲れ様です」という言葉に、生暖かい涙が心に沁みた。

◎療養
心療内科の主治医から、ストレスのない環境での療養を勧められた私は、自宅で静謐(せいひつ)な時を過ごした。社会から完全に距離を置き、読書をしたり、絵を描いたりした。母はそのような時でも優しく、感謝の気持ちが積もる一方で、何もできないことへの惨めな虚無感も同時に抱いていた。そこへ同級生が結婚や就職をしたという噂が重なり、不安と焦燥感に追い打ちをかけた。皆についていけないのは今までだって同じなのだが、さらに自分だけが取り残されていくような感覚に、この世から消えてしまいたいと何度も思った。

◎絵との出会い
そんな中で、唯一自信が持てたものが絵だ。絵を描いている時だけは、過去の苦しみや不安を忘れることができた。今まで、ほとんど絵の経験はなかったし、美術の成績も並以下だったが、偶然、抽象画を描くアーティストが、ペンの進むままに絵を描いている制作動画を見て、自分も無性にペンを取りたい衝動に駆られたのだ。そして、思うがままに絵を描いてみると、案外それなりに様になったので、嬉しくなって、それから毎日絵を描くようになった。絵を描いているうちに、擬態により失っていた自己も、自然と取り戻していった。
初めは完全な自己満足で描いていたが、一か月ほどすると、誰かに見てもらいたくなった。そして、いろいろ調べているうちに、Webから作家登録し、作品が採用されると収入を得ることができる福祉団体があることを知った。私はすぐに、今まで描いた絵の中で、特に見てもらいたいものを何枚か提出した。すると、登録して数か月ほどで、大手企業様の会議室に原画を展示していただくことが決まった。その後、企業様からいただいたとても温かいコメントに、初めて社会で誰かに認めてもらえたような気がした。絵を通じて誰かとコミュニケーションが取れたことがとても嬉しかった。母も心から喜んでくれて、ようやく親孝行ができたような感じがした。それからも、多くの企業様に絵を採用していただき、心から、登録団体様や、企業様への感謝の気持ちでいっぱいだった。それから、絵は私にとって、社会へ参加できる大切なコミュニケーションツールになった。
この時、私が無心に描いていた絵は、後に「アール・ブリュット」という言葉で表現される芸術と深く結びつくものであった。既存の美術教育や流行にとらわれず、内なる衝動のままに生み出される表現。それは、まさに「普通」であろうと足掻いていた私自身の、偽りのない「生の芸術」だった。

◎個性
そこには多様な人たちがいた。車椅子に乗っている人、精神的な病を患っている人、耳が聞こえない人、私と同じようにコミュニケーションの苦手な人。
少し体調が良くなってきたので、社会への復帰を目指して、私は職安から「就労継続支援A型事業所」を紹介してもらった。内容は、週五日の九時から十五時まで、芳香剤のシール貼りや、お菓子の箱折りといった内職的な作業を行うものだった。体調が悪くなったら、事務室のベッドで休むことや、早退することもできるので、自宅で療養していた私が社会復帰へのはじめの一歩を踏み出すには、それでも少し難しいが何とかできそうだと感じられる場所だった。そこに入所されている利用者は約二十名ほどで、五名の職員がサポートしてくれていた。職員の方々は、とても個人を尊重してくれる優しい方々で、些細なことでも気軽に相談することができた。体調の悪い時は、いつも優しい言葉をかけてくれ、どんな些細なことからでも良い面を見つけてそれを評価してくれた。利用者の方々も、すぐに私を受け入れてくれて、否定的なことを言わず、笑顔で接してくれる人が多かった。そして、皆、はっきりとした個性の色を持っていた。正直、作業所の外に出れば、少し浮くかもしれないという強めの個性だ。でも、とても輝いていた。
そのような環境だからか、私も安心して、自然に話すことができた。両親以外の前では、このようなことは初めてだったので、スラスラと自分の口から勝手に出てくる言葉に、これは自分が本当に話した言葉なのかと、少し疑うぐらいだった。私は、母以外との会話はできないのだと思っていたが、理解してくれる環境でなら、このような会話をすることができるのだという自信につながった。入所して一年も経つと、自身もはっきりとした色を持つようになり、周囲もそれを面白いと言ってくれた。昔、母に言われた「個性的な人って面白い」という言葉が、この時になってようやくわかった気がした。
作業では、時には体調を崩して早退することもあったが、芳香剤のシール貼りの枚数が少し多く貼れるようになっただけでも評価してもらえる環境は、もっといろいろなことができるようになりたいというモチベーションにつながり、毎日が本当に充実していた。その後、調子がいいからと、職員に、社会復帰のための次の段階へ進むために、就職に強いことで有名な「就労移行支援事業所」に行くことを勧められた。今の環境から離れたくない気持ちと、新しい環境へ行く不安があったが、信頼する職員の方の勧めならと思い、私は次の段階へ進むことを決意した。
作業所を卒業する日には、お別れ会を開いてくれて、利用者の皆から手紙やプレゼントをいただき、最後に職員の方から、「無理はしないでくださいね」と花束が贈られた。生まれて初めて、集団の輪に本当の自分を受け入れてもらった喜びは、あれから十年以上の年月が経った今でも鮮明に覚えている。彼らの個性が輝いているように、私自身の個性もまた、社会の枠には収まらない、かけがえのない表現の源泉となり得るのだと、この場所でようやく確信できた。アール・ブリュットが既存の枠に囚われない表現を肯定するように、この場所は、私自身の「生の個性」を包み込んでくれたのだ。

◎就労移行
その一室には、有名なロボットが置いてあり、それをプログラミングしている人がいる。一見、IT企業のオフィスのような一室で、ロボットが好きだった私は、食い入るようにあたりを見回した。その日は、契約のために就労移行事業所に通所したが、翌日からは在宅でテレワークの訓練に入る。PCの操作に不慣れだった私は、PCの基礎やZoomの入り方から教えてもらうことになった。しかし、在宅訓練なら比較的コミュニケーションの機会が少ないだろうという理由で、在宅訓練を選んだ。作業所で少しコミュニケーションに自信はついたけれど、それは作業所の中だからであって、外に出たらまたうまくいかない気がしたからだ。
職員の方は、また優しい方ばかりだった。所長はユーモアがあり、肝心な時はぴしっと締めてくれる、頼りになるお母さんのような包容力のある方だ。私の全般をサポートしてくださる担当職員の方は、訓練生の心の機微や長所を鋭く察してアドバイスをくださる、“スーパーアドバイザー”のような方だ。この方がいれば、必ず就職できるだろうという根拠のない自信を与えてくれるような、とにかく頼りになる存在だ。テレワーク専門の担当になってくださった方は、とにかく優しい。どんな心境にも寄り添ってくれて、体調面で無理をしてしまいそうな時には必ず止めてくれた。このバランスの取れた強力なサポートに、私はこれを執筆している現在も、本当に救われている。訓練生の方とはあまりかかわりがないものの、皆、親切そうで、口元のキュッと引き締まった方が多い印象を受けた。

◎在宅訓練
在宅訓練では、意外にも職員の方とのコミュニケーションをとる機会が多かった。テレワークと聞けば、正直、コミュニケーションはあまり必要ないイメージがあったのだが、テレワークだからこそ、日常会話は必要ないものの、報連相(報告、連絡、相談)のコミュニケーションがとても必要だった。相手が何をしているのか目に見えない分、言語化して伝える必要があるからだ。人に簡潔にわかりやすく伝えるというのは、昔から苦手だったが、発信のタイミングや伝え方を教えてもらうことで、安心して報連相が行えるようになった。それに、発信のケースはいろいろとあるものの、ある程度の定型を覚えておけばいいので、交わされる言葉がわからない日常会話に比べると、まだ楽に感じた。
PC基礎も本当に勉強になった。まずZoomに慣れることだ。Zoomに入室はできるものの、チャットの使い方や、画面共有の仕方、マイクやビデオの設定を覚えるのは少し時間がかかった。でも、ミスをしても、笑顔で丁寧に教えてくれるので、教えていただいたことをメモし、学んだことの振り返りさえ行えば、安心して覚えることができた。その他、ビジネスメールのマナーや、クラウドの使用方法なども学び、今でも使用する機会は頻繁にある。
あと、自己整理を学んだことで人生が一八〇度変わった。私は、頭の中が散らかりやすい。そのストレスで、自暴自棄になったり、体調を崩したりすることも多かった(後にそれが障害の特性だということがわかった)。しかし、フレームワークの一つであるマインドマップを使用しての自己整理の方法を学んで、毎日思考を書きだす習慣をつけることで、頭の中が散らかっても整理することができるようになり、頭の中が散らかるストレスから体調を崩すことがほぼなくなった。最近では、思考を書きだす代わりに、AIと対話する方法で、思考の整理をすることが増えた。

◎事務職
訓練から数日後、私は事務職の面接を受けた。しかし、PCスキルが基準値に届かず、不採用となった。事務職が向いてないとなると、テレワークは難しいのではないかと心配になった。しかし、所長が以前、私の絵を見たことを覚えていてくださっていて、訓練と並行して続けている絵の仕事はどうかと提案していただいた。当時、Webでは多くの人に絵を見ていただく機会は多かったが、直接誰かに絵を見てもらうのは所長が初めてで、とても緊張した。でも、「見ていると元気がもらえるような素敵な絵ですね」と言ってもらえて、絵を続けていて良かったと、喜びで胸がいっぱいになったのを覚えている。しかし、テレワークで絵の仕事となると、なかなか求人がないため、まずはデザインコンペなどに積極的に応募し、実績を作る所から始め、ある程度の基盤が固まってきたら、収入について考えることを前提に就職活動を進めていくことになった。

◎絵の仕事
在宅で絵を仕事にすることを目指す訓練では、まずは多くの人に絵を見てもらえるように、ポートフォリオサイトやXアカウント、名刺を作成した。ポートフォリオサイトは、Webサイトビルダーを使用すると、意外と簡単に作ることができた。多くの人に見てもらうという目標は達成できなかったが、誰かに自身の絵について聞かれたときに、説明がとてもスムーズになった。
休日はひたすらデザインコンペに応募した。しかし、訓練と休日のオン・オフがつけられず、精神的に疲れを感じてきたように思えた。それを職員の方に相談すると、今度はスケジューリングの方法を教えていただいた。Excelで創作活動の進捗票を作成し、作業内容、優先順位、締切日などを記録し、管理するというものだ。その記録を毎日欠かさず行うことで、疲れることなく、短い時間で集中して作業に取り組めるようになり、結果、作業効率が上がって、数々の公募展で入選を果たした。
絵の仕事を目指す上で必要最低限だと思われる実績ができた頃、いよいよ本格的に絵の仕事を探すために、企業の社員としてアーティストを公募しているところを徹底的に探した。しかし、福祉事業所ならあるが、社員としての求人、ましてや在宅勤務となると、なかなかそのような都合の良い条件は見つからなかった。しかし、ある日、まさかのタイミングで、まさに探していた条件での、障害者雇用の公募の案内が、所属の福祉団体経由でメールで送られてきた。絵画コンテストで受賞すると、その企業の社員になれるというものだ。私は、何としても掴みたいチャンスを目の前に、全エネルギーを込めて、まるで画用紙から飛び出してくるように、躍動する大きなキリンたちを描いた。私の創作活動における渾身の一作だ。そして全身全霊を傾けて応募したところ、受賞には及ばなかったがなんとか入選を果たした。翌日、社員になれるのは受賞者のみと聞いていたが、入選者にも社員雇用への案内が来た。もちろん即座に面接にエントリーした。

◎面接
こんな素晴らしいチャンスには、おそらく二度と出会えないので、面接に向けて質疑応答のデモンストレーションを何度も行い、できることは全てやった。職員の方にも協力していただいて、対策を考えてもらったり練習に付き合ってもらったりした。
そして、いよいよ面接本番。デモンストレーションの成果により、回答内容に困ることはなかったが、時々緊張で先走った回答をしてしまい、皆を困惑させたり、ジェスチャーの動きが大き過ぎてZoomの画面からフェードアウトしてしまうなど、我ながら不器用な行動で、担当職員に何度も冷や汗をかかせてしまった。しかし、そんな私の行動には慣れっこだという様子で、担当職員が最高のフォローをしてくださり、無事に内定をいただくことができた。

◎就職
同級生に比べるとかなり遅れたが、晴れての初就職だ。その知らせを聞いた母、所長や職員の方々、以前の作業所の職員の方々も、本当に喜んでくださった。就労移行事業所では、最後に卒業式を開いてくださり、所長から、「そのままのあなたでいてください」と花束が贈られた。生まれて二度目の花束だ。担当の職員の方が、私のイメージで選んでくださった、白や薄紫色の花々が、昔は荒れていた私の心の内が、今では穏やかになったことを、なんだか担当職員に見透かされているような気がして、嬉しさと恥ずかしさで、思わず花束から目を逸らした。

◎アール・ブリュット
職場の方々も、私の特性を理解し尊重してくれる優しい人ばかりだ。私はそんな大好きな人たちにアートを通じて恩返しがしたい。
私は立ち止まってばかりで、前に進むのがとてもゆっくりだ。でも創作活動には、無駄なことなど何一つない。むしろ、一見無駄なように思える療養期間などの経験が、面白い視点だと言われ、創作の糧となったりする。
そして、今でもやはり会話が苦手だ。しかし、コミュニケーションは好きだ。
今でも、障害というだけで理解してくれない人はいる。でも、理解してくれる人の前では安心して話せるし、アートだって作品が誰かの目に触れれば、間接的なコミュニケーションだ。
現在、私は「うまくいかなくてもコツコツと重ねることがやがて意味を持つ」をコンセプトに、毎日絵画の制作を行っている。アール・ブリュットは、既存の枠に囚われない、生の表現であり、同時に、描く者の内面と外界をつなぐ懸け橋となる。それは、まさに「普通」になろうと苦しんだ私にとって、自己を肯定し、社会と共鳴するための希望の光だった。
私の絵は、私の言葉であり、私自身だ。このアール・ブリュットという表現を通じて、私は、障害の有無にかかわらず、一人ひとりの「個性」が持つ唯一無二の輝きを伝え、多様な人々が互いを理解し、尊重し合える社会の実現に貢献したいと願っている。

これからも、企画やイベントなどのさまざまな人との出会いを通じて、多くの人たちと、未来というキャンバスに、可能性という個性の色を塗り続けることで、誰もが「そのままの自分」で輝ける世界を創造していく。私の創作活動は、そのための小さな一歩だ。

受賞のことば

「普通とはなんなのか」─問えば問うほど、その答えは集団の中で摩耗し輪郭を失う。
「消えてもいいや」と思いかけたとき、手を差し伸べてくれた人が、二人、三人と増えていき、目の前の世界に色が差した。
その色が“個性”なのだと教えてくださった方々へ、感謝の気持ちを伝える貴重な機会をいただけたことに、心よりお礼申し上げます。
この賞は、私を支えてくださった皆さまへ贈られたものです。

選評

まわりの人たちに適応しようとすると、体調を崩してしまうというのは辛いですね。でも絵を描くことで、人とも社会ともつながれるようになり、自身を取り戻したという。人は自分の内面を表現できるようになると、人と交われるようになり、自己肯定感を持てるようになるものです。就職もできたとは、すばらしい成長です。これからも、自分をいろいろなかたちで表現する道を探してくださいね。(柳田 邦男)

以上