第58回NHK障害福祉賞 佳作作品
~第2部門より~
「これが僕の身体(からだ)」

著者 : 西島 勝真 (にしじま かつま)  岡山県

「僕の右手いつか生えてくるん?」
子ども特有の無垢な目でまっすぐこちらを見つめながら、五歳になったばかりの息子が私に聞いてきた。あまりにもまっすぐな眼差しに私は目を逸らすことができないまま思案を巡らせ、何とかうまく答えようとするが何も思い浮かんでこない。変に空いた間に耐えかねた私は、
「……残念だけど生えてはこないかな」
とそっけなく伝えてしまった。あぁしまった。もう少し気の利いた言い方ができなかったのか。私は内心後悔したが意外にも息子の反応は薄く、「ふうん」と短く返事をして何事もなかったかのようにまたすぐブロック遊びに戻った。あまりにもあっさりしたやりとりに拍子抜けしながらも、いくらか安堵している自分がいた。だがしかし幼い彼は自分の障がいをどのように受け止めたのだろう。想像すると胸が痛くなった。思えばこのときが初めて彼自身が自分の身体と向き合った最初の瞬間だった。
息子は生まれつき先天性四肢障害(右前腕欠損)をもって私たちのもとにやってきた。雷鳴轟く吹雪の夜、私たちのもとに産まれてくれたことへの喜びと、同時に突きつけられた障がいの宣告。当日の天候も相まってこの事実は私を不穏な気持ちにさせた。ただ、同じく事実を告げられた妻の表情は穏やかで、そのことだけで私は少し救われた気持ちになったのを覚えている。
数日後、次々と寄せられるお祝いのメッセージに答えていく。電話を切るとき、メールの送信ボタンを押したあと、決まってよぎるのは息子の障がいのことだった。妻の胸に抱かれ泣き声をあげる息子を見ていると、嬉しさと悲しさ、喜びと不安がない混ぜになったこれまでに感じたことのない感情が込み上げてきた。混沌としたこの感情は何と呼べばいいのだろう。ただひとつ、濁流の中で確かなものは「この子を守りたい」という気持ちだけだった。
退院し、自宅に帰った妻と子。身内や近しい友人たちには子どものことは伝えているが、職場の先輩方や近所の方などにはうまく伝えることができなかった。そのため自宅を訪ねてくれた方たちには息子をおくるみにくるんだ状態で見せた。見せたときの反応を見るのが正直怖かったのだ。しかし当然のことながらそうしてごまかせるのも1年ともたず、体が大きくなってある程度自由に体を動かせるようになると、息子はくるまれることに激しく抵抗するようになった。そして1歳を過ぎたころ、よちよち歩きができるようになった彼を連れて出かけているうち自然と周囲に認知されていった。しかし知人はともかく他人の場合、その視線や彼を見た反応に過敏になっていた。二度見する人、追いかけたり回り込んだりして手を確認する人、こちらを指差し仲間内に告げる人、直接聞いてくる人。もちろん私の主観なので直接聞いてきた人は除き、いくらか勘違いもあったことと思うが、要するにそれくらい心に余裕がなかったということだ。慣れるまでいろいろな葛藤を感じつつそれでも積極的に外出し、家にこもるようなことは避けた。
さて、職場の先輩といえば私が最も尊敬していた大先輩のHさんには、1歳を過ぎても子どものことを伝えることができていなかった。なぜならHさんはがん治療のためずっと休職しているからだ。前職が看護師だったHさんには妻が妊娠中からあれやこれやと助言をしてもらったり普段から悩みを聞いてもらったりと大変お世話になっていた。そんなHさんにはまず感謝の気持ちを伝えたいし、私たちの今を包み隠さず話しておきたい。他の先輩から一時的に体調が安定したと聞き、Hさんのもとを私たち3人で訪問して挨拶できる機会を設けてもらった。安定しているとはいえ周りから病状が思わしくないと聞く。正直なところ残された時間はあまりないのかもしれない……、などと良くないことを考えながら自宅に向かった。玄関で呼び鈴を押し、挨拶するとHさんは杖をつきながらゆっくりと出てきてくれた。痩せてしまったHさんの足取りは弱々しく、元気だった頃に比べて体が一回りどころか二回りも小さく感じられた。その姿を見て今日はあまり時間をかけられないことを悟った私たちは早速に無事に出産できたことを報告し、抱っこしている息子をHさんに見せた。Hさんは微笑みながらじっと私たち3人を見つめ、か細くはあるがはっきり聞き取りやすい声でゆっくり話し始めた。
「大丈夫。この子はあなたたちが思っているよりずっと強い。そしてこの子はあなたたちを強くしてくれる。だから心配しなくても大丈夫」
なんて温かく、そして力のこもった言葉だろう。伝えたいことは山ほどあるはずなのに私は「ありがとうございます」という感謝の言葉以外何も言えず、深々と頭を下げるのが精一杯だった。妻は大粒の涙を流していた。そうこうするうち最初はきょとんとしていた息子がHさんの姿を見て泣き出してしまった。息子が泣き止まず、何よりHさんの体に障るといけないので私たちはすぐ帰ることとした。「ここで大丈夫です」そう強めに伝えていたにもかかわらず、Hさんは丁寧に門まで出て私たちを見送ってくれた。あの様子ではとてもつらかっただろうに。バックミラー越しに小さくなっていくHさんをみた。両手で杖を持って壁にもたれかかり体を支えるHさんの姿は、今でも鮮明に思い出すことができる。それからおよそ5か月が経ったころ、私たちのもとにHさんの訃報が入った。その日はくしくも息子が2歳を迎える誕生日であった。思えばあのときのHさんの言葉には気迫のようなものを感じていた。自分の体の状態を一番良く知るHさんは、自ら最期を悟って辛いなか無理に私たちに会ってくれたのではなかろうか。最後にお会いした日から程なくして入院したと聞いたので、私たちが会えたのは本当にぎりぎりだった。そういう意味では、あの言葉はHさんが一命を賭して伝えてくれた言葉と言っても過言でない。以来、毎年息子の誕生日にはHさんがくれた言葉を思い出し、改めて胸に刻むようにしている。

『人の不幸は4歳から始まる』
昔読んだ本に書いてあった。なんでも他人と比較できるようになる年齢が4歳であり、人と比べて今の自分が満ち足りたものかそうでないかが分かってくるらしい。そこから人の不幸は始まるという。息子は5歳でこれまで一度も聞いてこなかった疑問を言葉で伝えてきたということは、概ねそれが正しいということだろう。そうやって「来るべき時が来たのだ」と自身に言い聞かせ、その日から少しでも息子の気持ちが満ち足りたものとなるようあらゆる情報をかき集めた。そんななか、ある日ふと目にした新聞記事に目がとまった。それは筋肉を流れる微弱な電気を感知して動く義手に関する記事である。「筋電義手」というものらしい。現在でも国内で義手といえば、見た目を重視した装飾義手が8割ほどのシェアを占めている。肌色のラバー素材で人の手をかたどった可動式ハンド(手のひら)部分と微弱電流を感知するセンサー付きソケット(接合部)を備えた筋電義手は、見た目にも機能性においてもまさしく私たちが探し求めていたものだった。「これだ」、私は息子が足りないと感じる部分を補うツールとしてこれこそがベストなものと確信した。隣県で片道3時間あまり車を走らせることとなるが、この分野では国内有数の医師やスタッフがいる病院を見つけた。幼い息子が分かるようにかみ砕いて説明すると「やってみたい!」と目を輝かせてせがんだ息子の姿を見て、私たちはすぐに病院にコンタクトを試みた。ほどなく病院から受け入れ可能との返事があり、私たちはそれぞれの職場の理解もあって平日のみ診察しているリハビリテーション病院へ親子で通えることとなった。
通い始めてしばらくは、貸与される筋電義手をセッティングするため毎月病院に通うことになった。病院の先生や作業療法士、義肢装具士の方々は皆優しく、何より私たち家族に寄り添ってくれた。おかげで調整は順調に進み、息子の右腕サイズにぴったりの義手はものの数か月で完成した。初めて筋電義手を装着した彼はとても誇らしげで、嬉しそうにブロックで遊んだり、縄跳びをして見せたり、バドミントンを一緒にやったりと楽しみながらリハビリに励んだ。
貸与品とはいえ仮にもドイツ製の筋電義手はそれ一つで軽四1台が買えるくらい高価なものである。子ども同士でじゃれ合ったり、好奇心旺盛な小学生たちがおもちゃ代わりに扱えば最悪壊してしまうかもしれない。小学校入学前に学校の先生と話し合いながら、学校に義手を持って行くことができるようルールづくりを行った。先生方も初めてのケースにきっと戸惑っていたことだろう。大人たちの心配をよそに、筋電義手を持って通学する小学校生活は順調に運んでいった。通院のペースもおおよそ3か月に一度と落ち着き、3年生になる頃には遊びがメインだったリハビリの内容も、より生活に密着する内容にシフトしていった。例えば、私たちは普段食事の際片方の手で食器を持ち、もう片方の手で箸やスプーンを持って正しい姿勢で食べることができる。しかし彼の場合、どうしても机に食器を置いたまま前傾姿勢で箸を口に運ぶかたちになってしまう。これを補うため義手の先端部に取り付けるアダプターを作ってもらった。アダプターの先は茶碗の縁と底を挟み込む作りになっていて、茶碗を持つことで正しい姿勢を保持したまま食事がとれるのだ。こうして一つの課題にぶつかるたび私たちは対策を練り、彼の心が満ち足りたものとなるようあらゆる手を尽くした。そして翌年には行政の補助を受けて正式に彼専用の義手を購入するにまで至った。ソケットからハンドまでの部分は好きな柄を入れることができるというので少しでもモチベーションを保つことができるよう、好きなキャラクターのモノグラムをいれてもらった。世界でたった一つの彼専用の義手が完成したことで、全ては順調に運んでいたかに思えた。しかしその日は突然やってきた。とはいっても予兆はあったのだけど。
このところ義手をつけたがらない息子に業を煮やし、使わないのかたずねると「使いたくない」と言う。そんなときには「なぜ」「どうして」「大人はこんなにも君ができないことができるよう頑張っているじゃないか」そんな思いが頭を巡り自然と口調もきつくなる。そんなことが何度か続いたある日、例によって装着を促す私に息子は言った。
「つけたくない。これが僕の身体だから」
以前、義手の使用回数が落ちてきたことを相談したときの主治医の言葉が思い浮かんだ。先生は私たちに優しく言った。
「使う自由もあれば使わない自由もあります」
先生は使用の是非を肯定も否定もせず、続けるか辞めるかはあくまで本人の意思なのだと言う。気づけば息子も小学6年生。自分の気持ちは自分の言葉で主張できる年齢だ。息子の言葉を聞いて私たちもこれ以上強要するようなことはできなかった。5歳から始めた筋電義手はこうして12歳で幕を閉じた。
出発点は彼を守りたい一心からできない部分を補ってあげたいという、親心だった。しかし、どちらかといえば彼の「できないこと」ばかりに注目して「できること」が見えづらくなってしまっていたことは否めない。事実、彼はこれまでも自分で工夫してできないことに対処していた。幼稚園の頃だったか、彼は「どっちだ遊び」(これが正しい名称なのか不明だが、子どもがよくやるどちらか片方の手に物を隠して相手に当てさせる遊びのこと)をこちらにしかけて来たことがある。欠損している右手には隠すことができないと私は決めつけ、「左」と答えた。だがなんと正解は右だった。彼は右腕の肘にあたる部分にコインを挟み込んで隠していたのだ。私は面食らった。きっと素直に驚いた顔をしていたのだろう。彼はこちらの顔を見てしたり顔でいたずらっぽくニコニコしていた。そういったエピソードを思い出して自分の思い込みに気づいた私は、だんだんと彼のためを思ってやっていたことが独りよがりだったのではないかという疑念が湧いてきた。実際には彼を満たすことで自分が満たされようとしたのではないだろうか。そう考えるとそもそも自分たちのやってきたことは間違いだったのでは? とまで思うようになってきた。しかしその疑念を吹き飛ばしたのも同じく「これが僕の身体」という彼の言葉だった。
7年という歳月のなか、幼かった彼は自分のボディーイメージと筋電義手という補装具とのすり合わせを、実体験をもって少しずつ行っていった。その結果、ありのままの身体でいることが自分らしさであると結論づけたのだ。最初は義手をやめることを肯定的にとらえることができなかった私だったが、その言葉の意味に気づいた今、後悔はない。それどころかここまでの道のりには一瞬たりとも無駄なものはなく、全ての出来事は彼の結論のため必然であったと胸を張って言うことができる。なぜかって? だってそれは彼が自分の意思で出した結論なのだから。
病院には「小児筋電義手バンク」という制度がある。成長スピードが著しい小児期にサイズがあわなくなって使えなくなった義手を寄付し、適合する同じ障がいを抱える子どもたちにシェアする取り組みだ。私たちは義手をバンクに寄付することを決心し、お世話になった病院へ連絡した。しかしコロナの影響により県をまたいでの移動に制限が生じたため、実際に受け渡しができるまでおよそ3年の月日を要した。そんなこんなで時は過ぎ、息子は高校生になっていた。義手を寄付する日、お世話になった作業療法士の先生は部署が変わったのにもかかわらず時間をとってくれ、私たちたちとの再会を歓迎してくれた。そして私たちは先生と会えなかった空白を埋めるかのように今まであったことをいろいろと話した。今現在、思春期を迎えた息子自身が思い悩んでいることも打ち明けた。先生は自らのパーソナルな部分に肉薄した話をしてくれた。先生自身も思春期には複雑な課題を抱え、心が折れそうな時もあったのだと言う。そのうえで息子の今の生き方を肯定してくれた。とても穏やかで有意義な時間だった。こうして義手の受け渡しは無事に終わった。気に入りのモノグラムが入った彼専用の筋電義手は、きっと今もどこかの同じ障がいを持つ子どもたちやその家族の希望に繋がっていることだろう。

高校生になった息子に改めて伝えておきたい。君は中学生という多感な時期を乗り越え、たくましくなった。でも今日までの道のりは決して平坦なものではなく、ハンディーキャップゆえの差別や誤解、そして受け入れがたい事実に涙した日もあった。残念だけど今でもそれらのことは時々君を困らせている。生きづらさを感じた時、ほんの少しでいいから支えてくれた人たちの顔やその言葉を思い出してほしい。そうした人たちの存在がある限り君は絶対に独りなんかじゃない。そしてまた、君自身の言葉を思い出してほしい。いつかの君は大人たちの柔らかな圧力に「これが僕の身体」と立派に主張し、ありのままの自分を肯定することができた。いつかHさんが命がけで伝えてくれたように、君はどんどん強くなってきている。そして私たちも。でもやっぱり生身の人間だから、どうしてもお互い辛い時だってあるし泣きたい時だって当然ある。そういう時、どうしても辛くてがまんできないのなら逃げたりごまかしてもいい。でもこれだけは忘れないで。君は自分が思っているよりも強く、勇敢で、そして美しいということを。

受賞のことば

この度の受賞をとても喜ばしく思います。
2月に18歳を迎える息子に、とひっそり書き溜めた文章が多くの方の目に入ることは、嬉しくもあり少し照れくさくもあります。
不器用ですが自分なりに当時の気ちを素直に、丁寧に掬い上げたつもりです。その想いが、息子はもとよりさまざまな生き辛さを抱える方やそのご家族に届き、僅かでも励みになればこれほど嬉しいことはありません。本当にありがとうございました。

選 評

書き手のお父様が息子の背を押していた勇気が見事に伝わりました。強く美しく成長されました。7年の筋電義手の過程を得て「自分とは何か」を確立させていく。「あなたたちが思っているよりずっと強い」と言ったHさんの言葉通りでしたね。息子さんに会ってみたい、話してみたいと強く思いました。関わってきた方々からの素敵な言葉の贈り物にも、心が揺さぶられました。息子さんは、ご家族を強くするのみならず、読んだ私たちをも強くしてくれます。(鈴木 ひとみ)

以上