第58回NHK障害福祉賞 佳作作品
~第1部門より~
「これが私の生きる道」

著者 : 豊間根 冬美 (とよまね ふゆみ)  千葉県

私は、双極性障害という名の病気と闘っている。昔は、「躁うつ病」とも呼ばれていた病気だ。しかし、この診断が付くまでに12年もの年月がかかった。
私は、12年間、「うつ病」と診断を受け、「うつ病」の治療をしていた。だが、それは無駄な時間だった。
双極性障害は、気分が高揚して楽しくなる「躁」の状態と、気分が落ち込んでしまって何もやる気が起きなくなる「うつ」の波を繰り返す疾患である。
躁状態では、テンションが上がったり、イライラしやすかったり、浪費をしたりと、困ったことばかりだ。
一方、うつ状態では身体が重く、何もやる気にならない。食欲も落ちる。いわゆる「うつ病」のうつ状態と同じである。
双極性障害は、早期に治療を開始すれば、症状をコントロールしつつ普通の生活を送ることができる。
逆に言えば、一生のお付き合いになる。
双極性障害だけではなく、精神疾患には「完治」はない。
ゴールは「完治」ではない。いわゆる普通の人と同じように生活ができることや、社会の中で生きていける状態、いわゆる「寛解」を目指して治療をする。
双極性障害の治療の柱は三本柱で、「躁状態を抑えること」「うつ状態からの回復」「再発の防止・安定した生活の維持」になる。
双極性障害の原因は、よくわかっていない。遺伝とも言われるし、ストレス等の外的要因も原因の一つではないかとも言われている。
私は、虐待を受けて育った。
気分の波が激しい母に、罵詈雑言を浴びせられながら育った。
布団の中ではいつも、母の寝息が聞こえるまで身動き一つせず待っていた。身体が弱く、喘息持ちだった私は、夜中にせきこんでしまうことがあったが、「うるさい」と母は怒り、ぬいぐるみと二人きり立たされていたこともあった。「明日は怒られませんように」と祈りながら眠りに就くのが寝る前の儀式だった。
私は、とある海沿いの街で生まれた。
父と母は今で言うところの「授かり婚」だった。
私は望まれていない子どもだと、あんたなんか産まなければよかったと、よく言われたものだった。
いつも母の機嫌を伺っていた。
中学時代は成績優秀だった。
しかし、母が私を褒めてくれることはなかった。
高校に入って、今で言うところの出会い系にハマった。
母から得られない愛情を、他に求めた。今思えば、私が今闘っている病気の片鱗が出始めていたのかもしれない。
高校で成績はガタ落ち、大学も浪人したにもかかわらず、しがない大学にしか受からなかった。しかし、親元を離れられることは、私にとっては、喜ばしいことでもあった。
大学進学と同時に、実家を出た。
水を得た魚のようだった。もう母の顔色をうかがいながら生活しなくていい、過度に干渉されることもない、と思った。
しかし、これはこれから始まる闘いへのゴングが鳴った瞬間でもあった。
それは、19歳の夏だった。ある夜中、私は妙に楽しくなってしまって近所の公園の遊具で遊び狂っていた。そこに職務質問をされてしまった。
今思えば、これが双極性障害のいわゆる「躁エピソード」の始まりだったかもしれない。
しかしながら、当時の自分にはそんなことはわからないので、楽しく過ごしていたように思う。
またある時には、日中は大学の講義、夕方から朝方までバイトをし、寝ずに大学の講義に出るという、今思えば無謀なことを数か月ほどの間にやっていた。これも、きっと躁エピソードに入るだろう。
そんな無謀なことをしてエネルギー切れになってしまって、ある日布団から起き上がれなくなった。やる気も出ず、身体も重い。
その時は、「さすがに疲れたんだな」程度にしか思わなかった。だがそれは、今思えば躁状態から一転してうつ状態の波に入ったサインだった。
楽しくなったり、逆にテンションが落ち込んでしまったり、とにもかくにも「ジェットコースター」のような日々を送っていた。
周りからは、「変わり者」「不思議ちゃん」と言われていた。
そんな大学4年間を過ごし、就職した。
就職して半年ほどはバリバリと仕事を頑張れた。しかし、ある日布団から起き上がれなくなってしまった。身体が鉛のように重い。何のやる気も出ない。
これはまずいと精神科を受診した。その時に付いた診断は「うつ病」だった。
その時から、「うつ病」の治療が始まった。
テンションが上がった時には「本来の自分」に戻った気でいたので、定期的に受診しても「うつ」が良くなっているかどうかにフォーカスされてしまったこともあり、しばらくの時間を「うつ病」の治療に費やすことになってしまった。
休職して、心身休んだところで仕事復帰して、を数年おきに繰り返した。今思えば、躁とうつの波に翻弄されて職を転々としていたのだと思う。
社会人になってからも、相変わらず日々は「ジェットコースター」だった。
月に一度、定期受診はしていたものの、漫然と薬をもらいに行く日々が続いた。
良くなったり悪くなったり、なかなか良くならない「うつ病」であった。当時は、自分が双極性障害だなんて思いもしなかった。
テンションの波が繰り返され、特に躁状態においては浪費をしたり、イライラしてしまうため、仕事においても私生活においても、失ったモノやヒト、お金は計り知れない。
精神科に通ってはいたものの、正しい診断が付かず、12年間もの間に双極性障害という病気と向き合うことができなかった代償は大きかったと、今でも思う。しかしながら、双極性障害と向き合っている今思うことは、うつ状態の方が長いであろう双極性障害において、早期の診断を付けるのはとても難しいということだ。
私もそうであったが、躁状態の時は「調子が上向いてきた」「これが本来の私だ」と思っているために、躁エピソードが診察の中でもなかなか出てこない。躁状態で受診する人はあまりいないのではないかと思う。たいていが、うつ状態に陥って受診をする。
人間という生き物は、良いことよりも悪いことばかりに目が行きがちだ。
テンションの波に翻弄され、仕事も長続きせず、恋愛においても同様で、もがき苦しんだ20代を過ごした。
周りは順調にキャリアを積んでいるのにどうして私だけ、と泣き暮らすこともあった。人生がうまく行かないことだらけで、自暴自棄になっていた。
こんな人生、と投げ捨てたくなることもあった。飲めない酒を飲んで、自分を傷つけてしまうこともあった。自傷行為の消えない傷跡のせいで仕事を失ったこともあった。
やっと仕事に慣れたと思ったら、うつ状態で休職、退職をせざるを得ない状況になった。転職ばかりで、キャリア形成どころか、私はいつも「新人」だった。
好きだと思う仕事も、人も、病気と向き合えていなかったことで手放すことになってしまった。
そんな私にも、人生の転機が訪れた。結婚をした。幸せなはずだった。
しかし、結婚したところで、テンションに波があることには変わりなかった。結婚してすぐ、夫と派手にケンカをした。殴り合いになった。警察が来た。
そうかと思ったら、何故あんなにケンカをしてしまったのだろうと自分を責め、長いこと落ち込んでしまったりもした。
あっという間に、結婚1年目は過ぎていった。
そして、最大の転機が訪れた。結婚4年目の夏。私は、仕事を掛け持ちして週6日働き、さらには通信で通っていた大学のスクーリングにも出て、痩せなきゃと思い立って高いパーソナルトレーニングを二つ返事で契約したことがあった。仕事も、家事もバリバリとこなしていた。調子がとても良い。私は、できる女、できる妻。そう思って疑わなかった。
しかし、本当は違った。
それまで上がっていたテンションの波がガクッと落ち、「ガチうつ」に転じてしまった。
朝は身体が鉛のように重い。起きられない。何のやる気も出ない。外に出るための身支度も面倒くさい。仕事は行けなくなり、そのうちに引きこもりのようになってしまった。食欲もなくなった。コーヒーとチーズしか受け付けなくなった。数か月間、コーヒーとチーズ、チョコレート菓子に生かされていた。そんな生活の中で、体重が10キロ近く落ちてしまった。抜け毛が増えた。爪もよく欠けるようになった。肌がボロボロになった。生理も止まった。状況的には「うつ状態」なのだが、当時の私は、離婚することばかりを考えていた。夫に申し訳なく思っていた。離婚に向けて、動いていた。いろんな相談機関に電話をかけまくった。マンスリーマンションも契約した。
一番厄介な、「うつ状態」なのに身体は動いてしまうといった「混合状態」に陥った。
混合状態は、一番自殺のリスクが高い。
ココロはうつ状態なのに、行動は起こせる。
だから、一番危険な状態なのである。
そんな状況の中、私の誕生日がやってきた。
気分屋の母から罵詈雑言を浴びて育った私は、自分の誕生日が嫌いだった。
望まれて生まれて来なかったことを知っているから。母から、耳にタコができるくらいに聞いた。
だから、毎年の自分の誕生日は嫌で仕方なかった。
嫌でも、時間は過ぎて年に一度の誕生日はやってくる。
結婚4年目の冬、私の誕生日がやってきた。
混合状態に陥っていた私は、夜中にマンションの屋上でお酒を飲みながら景色を眺めていた。
手すりに腰掛けて、星を眺めながら、飲めないお酒を飲んだ。自分の誕生日を、命日にしよう。と決めて、泣きながら屋上で遺書を書いた。母へ。夫へ。自分へ。
もう頑張らなくていいよね、疲れたよね、と自分を労った。
涙で綺麗な夜空が歪む。
夫へ、私が最期に見た景色を見てほしいと、夜景の写真を送った。
今までありがとう。さようなら。
私は、屋上から飛び降りようとしていた。
さて、そろそろと思った時、血相を変えた夫が走ってきた。酔っていたのでよく覚えていないが、「ふゆさん!」と私を呼ぶ声が聞こえたことは今でも覚えている。
間一髪のところで、自殺は「未遂」に終わり、夫は命の恩人になった。
義母が、遠くから夜遅く、タクシーを飛ばして来てくれた。
もう離婚しかない。また独りぼっちになる、とポツリと呟いた私を、抱きしめてくれた。「私は、あなたが大好きよ」、そう言ってくれた。実母にすら、抱きしめてもらったことなんてないのに。私が、小さい頃から、本当は実母から一番欲しかったであろう言葉を、義母がくれた。涙と共に、酒が抜けた。
翌日、夫に付き添われて、精神科を受診した。これが、私の人生をガラリと変える出来事となった。
改めて、今までの経過を聞かれた。
そこで初めて、大学時代に職務質問をされたこと、社会人になってからもいろいろとやらかしてしまったこと。夏には仕事を掛け持ちしてフル稼働していたこと。冬になってガチうつになってしまったこと。いろんなエピソードを話した。
それを聞いた医師は言った。「うつ病じゃなくて、双極性障害の可能性がある。薬を変えてみましょう、炭酸リチウムという薬を出します。これで様子を見てみましょう」
炭酸リチウムは、双極性障害の代表的な治療薬だ。それくらいの知識しかなかった。
私は、双極性障害について、イメージ的にはブワーッと多弁になったと思えば急に黙り込む、みたいなタイプの人を想像していた。
到底、私には当てはまらないだろうと思っていた。
頭を、カチーンとハンマーで殴られたような感覚だった。私は12年間、ずっと「うつ病」だった。それが覆された。衝撃だった。
そして、聞き慣れない病名に戸惑った。
薬は、ガラリと変わった。「双極性障害のわたし」がデビューした瞬間だった。
その時から、双極性障害との本当の闘いが始まった。
これは、最大の人生の転機と言っても良いのではないかと今でも思っている。
12年もの間、「うつ病」だったはずなのに、診断が覆ったことに戸惑いながらも私は自分の病気についてリサーチした。
当事者が発信している動画を観たりもした。
自分の病気について、自分で調べることでそれなりに自分の病気を理解できた気がした。
出された薬を飲み始めて一か月くらいが経った頃、なんとなく調子が良くなってきた気がした。それは、本来の自分と思っていた「躁状態」とはまた違ったものだった。
上がりすぎず、下がりすぎず。フラットな波を漂っている感覚。薬が合っていたのだろう、治療が奏功し始めた。
しかし、双極性障害はそうは簡単には攻略できない。
薬を飲んでいても、どうしても気分の波はある。それでも、「今は躁なのかもしれない」とか「うつっぽいな」と自分自身の状態を客観視できるようになったことは、治療を始めてからの大きな成果だと思っている。
双極性障害と診断されてから、生活は大きく変わった。
まず、生活習慣を正した。例えば、夜更かしをしなくなった。
薬の服薬は忘れないようにした。
予定をキツキツに詰めなくなった。
例えば、今までは「〇〇に行ったら◎◎に行って、▲▲に行く」といった無茶な予定を立てがちだったり、休みの日には全て予定を入れたりしていた。
今考えると、躁状態の時に予定を入れまくって、そのうちにうつに転じて予定をキャンセルする、といったことが多かった気がする。
しかし、今は無理をせず、予定のない休みを作るようにしている。
今までは、夜更かしで無駄な時間を過ごし、睡眠不足といった日もあったが、睡眠時間をしっかり確保するために、早く寝るようになった。
夫とは、些細なことでイライラしてケンカに発展していたが、治療を始めてからはケンカも減った。治療が奏功したのか、躁状態が抑えられてイライラすることが減ったからだろうと思う。
夫も、私の病気を理解しようと、パンフレットを見たり、通院に同行したりしてくれている。夫は、家族であると同時に、共に病気と闘う「戦友」でもある。
昔は、刹那的に生きていた。長生きなんて、しなくていいと思っていた。パッと咲いて、パッと散るような、そんな人生に憧れていた。
しかし、夫と出会い、夫の家族と出会い、家族ってこんなに温かいものなのかと、それならこの人と長生きしてみようかと、そんな風に思うようになった。
私は、「家族」を知らない。
3歳の頃に両親は離婚して、7歳の頃には父はもう会いに来なくなった。
それでも、電話の前で、父からの電話を待っていた。電話は、鳴らなかった。
私は小さい頃から、一番信じたい父や母を、信じることができなかった。母も、父と同じように出て行くんじゃないか、捨てられるんじゃないか、そんなふうにいつも心の中はざわざわしていた。捨てられないように顔色をうかがって、褒められたくて「良い子」でいた。良い子でいないと、捨てられる。そう思っていた。
しかし、私が出会った「新しい家族」はそうではなかった。
自殺未遂をしてしまった時、離婚を切り出されるのだろうと思っていた。また独りぼっちになってしまうと思っていた。でも、それは違った。病気を抱える私と向き合ってくれた。
この人たちと、これからの人生を歩んでいこうと、初めて人生に前向きになれた。
私は、これからも双極性障害という病気と一生ものの付き合いをしていくだろう。
一人きりなら不安で仕方ないけれど、私には大切で心強い「家族」がいる。
この病気も、きっとこの人たちとなら乗り越えられると思っている。
私は今、自分と同じような障害を抱えながら就労を目指す人たちの伴走者として、就労支援に携わる仕事をしている。
人は皆、平等と言うけれど、現実はそうはうまくいかない。私自身、テンションの波に翻弄されて悔しい思いをしたことも、悲しい思いをしたことも、たくさんある。障害を抱えながら生きていくということはとても大変なことだと、身をもって実感している。
だからこそ、それを知っている自分が少しでも誰かの役に立てるかもしれないと、今の仕事を選んだ。
私が家族に支えられているように、私も誰かの支えになれたらと、奔走する日々だ。
私は、双極性障害の診断が付いてからは、これからが人生のリスタートだと思うようになった。
治療を始めてから2年目になる。
今でも気分の波に翻弄されてしまうことはある。まだまだ、病気と付き合えていない。
これから長い付き合いになるだろう。「たゆたえども沈まぬ」の気持ちで、波に無理に抗うのではなく、波にプカプカと浮くような、でも決して沈まないという気持ちで日々を過ごしたいと思う。
今の病状はというと、前のような激しい波はなくなった。躁状態に特有の、イライラ感や散財はなくなったし、ガチうつに転じて自殺未遂をするようなこともなくなった。
もちろん、波がないわけではない。
危ないと思う波もある。
でも、何とか踏ん張れるだけの力を、薬と今までの経験則、家族の支えから得ることができている。
「うつ病」から「双極性障害」に診断が変わるまでに実に12年の年月を要した。
12年。失ったお金、ヒト、モノ。
数えきれない。
あの時、こうだったら、とか、これをしていれば、もっとどうにかなっていたかな、と思うことは正直なところたくさんある。
人生とは、壮大なる「タラレバ」だ。
しかしながら、過去を振り向いてシクシクと泣いているだけでは前に進めない。
病気で失ってしまったものはたくさんあるが、反対に得られたものもある。
私が小さい頃には知ることができなかった「家族」を知ることができた。何よりも私が欲しかったもの。
過去は変えられないが、今と未来は変えることができる。
私の人生がリスタートしてから、まだたったの2年だ。まだまだ先は長い。そして、病気とは一生ものの付き合いだ。まだまだ闘いは終わらない。
今、私には小さな目標がある。それは、嫌いだった自分の誕生日を自分でお祝いできるようになることだ。
この世に生を受けてよかったと、自分自身に言えるようになりたい。
正直、長い長い12年間ではあったが、ここからが私の第二の人生と、治療に、そして今後の人生に前向きに生きていくことを日記の一ページに記した。
「結婚5年目、双極性障害のわたし、何とか幸せに暮らしてます」

受賞のことば

自分は一人で生きられる、なんて思いながら生きてきたけど、病気になり、こんなにも多くのヒトやモノに支えられているのだと、人は一人きりでは生きてはいけないことを実感しました。今回の応募によって、自分の経験を残す機会に恵まれたことを、大変嬉しく思います。この作品をきっかけに、双極性障害という病気の認知度が少しでも上がることを、また早期発見に繋がることを願っています。

選 評

双極性障害のリアルな日常生活、「戦い」ともいえそうな日々。そしてここには、もう一つのストーリーが描かれています。「自分の誕生日が嫌い」で「望まれて生まれて来なかった」と感じる女性が、「家族」を取り戻していく物語。生きづらさを極限まで感じた時、真剣に向き合ってくれる人たちがいた。一人で戦わなくていい、と実感する様子に胸打たれました。「人生とは壮大なるタラレバだ」……確かに。だからこそ、未来を向くしかないのですよね。誕生日を自分で心からお祝いする日がきますように。(水高 満)

以上