第58回NHK障害福祉賞 優秀作品
~第1部門より~
「狭間にいる私」

著者 : 木村 汐里 (きむら しおり)  茨城県

思えば、何かと寸足らずな人間だった。
目に見えて人より劣っているとかそういうことはなかった。人付き合いも苦手ながらそれなりに出来ていたし、勉強も漢字や計算は得意で、そろばん教室にも通っていて2級まで合格することが出来た。しかし、国語の文章問題や図形や小難しい公式を使った計算など苦手な分野に関しては、「出来ない」なんてレベルを通り越して壊滅状態だった。純粋に理解することが出来なかった。何が分からないのかも分からない。目の前にある自分が解くべき問題が何を答えとして求めているのか、どれだけ問題とにらめっこしてもちんぷんかんぷんだった。どんなに勉強を教えてもらってもちっとも分からなくて、泣くまで叱られることが日常茶飯事だった。さらに人の話を理解することが難しいこともあって、言われたことが出来ず、教師やクラスメート、挙句の果てには母親にまで呆れられることも度々あった。幼少期からそんな感じだったので、私の心の中にはいつも劣等感が渦巻いていた。

自分は出来が悪くていつも間違っていて、要領も悪くて、誰かに正されても理解出来ない、どこまでも出来損ないの人間だと思ってた。こんな子供を持った両親が不憫で仕方なかった。

人と同じことを同じペースで出来ない自分に生まれて初めて気づいたのは、幼稚園年長の時だった。
年長になると、外で遊んだり先生と手遊び歌を歌うことから少しずつ勉強に近いワークをやることが増えていった。
とは言っても、動物の名前と同じ動物の写真を線で結んだり、書かれた数字と同じ数のシールを貼ったりするなど至極簡単なものだった。
でも私は、それが出来なかった。

問題の意味も、先生が説明している意味も分からなかった。ワークを前に、固まることしか出来ない。回答の仕方も分からない。全てが分からない。どことどこを線で結べば良いのか。どこにシールを貼れば良いのか。何一つ分からないし、出来ない。周りがスラスラと問題を解いていく中、先生に聞くことも出来ず半泣きでうつむくしかなかった。
しかし、そんなことをしていれば当然怒られる。何故一問も解いていないのか。何故説明を聞いていなかったのか。他の皆は出来ているとなじられ、恥ずかしくて惨めだった。ちゃんと聞いていたのに。皆と同じようにやろうと頑張ったのに。でも出来ていないことは事実だし、唇をかみしめて涙を堪えるのが精一杯だった。
結局、ワークの問題を間違わずに解けたことは一度もなかった。

思い出すのもつらい、幼少期の記憶の一つだ。

小学校に入学すると、ますます周りとの差に愕然とする日々だった。
入学して一番最初につまずいたのは、連絡帳を書くことだった。黒板に書かれた文字を連絡帳に書き写すだけ。たったそれだけのことが本当に難しかった。
日付を書くマスや配布物を書く行、そこから改行して宿題の内容を書くなどの簡単なことが途方もない作業に思えてならなかった。
周りはさっさと書き終えて先生から押印をもらっている。大慌てで写し終えて先生に提出しても間違いだらけで、赤ペンで間違っている箇所にバツを付けられ再提出と言われた。それでも何が間違っているのか分からなくて、言われた箇所と違う箇所を書き直して再提出しては呆れ顔の先生に叱られていた。
連絡帳を書いて再提出なんて言われているのは私だけだったし、連絡帳が赤ペンで訂正されたバツまみれで真っ赤だったのも私だけだった。心から情けないと思った。
とにかく練習しかないと思い、家で母親に黒板を模した紙に連絡帳と同じような文章を書いてもらい、それを書き写す練習を重ねてようやくまともに連絡帳が書けるようになった。

同級生と同じスタートラインに立てなかった私は、入学してからあっという間に授業についていけなくなった。周りが10問解く間に、私は1問しか解けない、なんてことは当たり前だった。どうにか得意と言えたのは、算数の計算問題と国語の漢字のみ。でもそれも、学年が上がると得意と言えるものではなくなっていった。
ついていけなかったのは授業だけではない。友だちと雑談したり遊んだりしている時もだ。相手の言っている言葉の意味が飲み込めず、見当違いな言葉を返して笑われたり、遊ぶ際のルール説明をされてもピンとこなくてルール違反をして怒られることもよくあることだった。でもどんなに説明されても分からない、とは言えなかった。だって私以外は、同じ説明でちゃんと理解していたから。私の頭が悪いのが原因なんだ、そう思っていた。

やること成すこと全てに不備がある私は、中学生になる頃にはもうほとんど残っていないなけなしの自信をみるみるうちに失っていった。
それでも1年生の時はとてつもない速さで進む授業に必死に食らいついていた。小学生から中学生になってガラッと変わった人間関係にも適応しようと努力した。ここで変われば大丈夫だ、頑張れ自分、そう言い聞かせてひたすらに頑張った。血を吐く思いとはこういうことを言うんだと思った。
それでも学力は思うように上がらなかった。加速する授業スピードにはついていけなくなっていたし、進級目前の2月にはてんかんを発症し、薬の副作用で四六時中眠気でボーっとしてしまい勉強どころか日常生活を送ることだけで精いっぱいになった。そんな私の身体と精神は限界を超えた。
そして中学2年生の夏。私は完全に壊れた。学校や家庭内での度重なる出来事に揉まれに揉まれ、進級する頃には自信も気力も燃え尽きて、そこに薬の副作用も加わり、日に日に読み書きすらも危うくなっていった。周囲の期待に応えることも、人生を変えることも何も出来なかった私はうだるような暑さの9月に不登校になった。もう何もかも全てを諦めた。死ぬしかない、選択肢は死のみだった。

そうはいっても意気地なしの私は死ぬことも出来ず、毎日泥沼のようなうつに足を取られもがきながら生きていた。この世の全てに怒りを抱きながら生きていた。家の中で発狂しながら暴れ狂い、ひたすらに憎悪の感情をぶちまけていた。
そんな生活を送っていた私は、不登校になったその年の12月、両親に連れられ精神病院へ向かった。私自身は自分を病気とも思っておらず、何故病院に連れて行かれるのか分からなかったが、今思うと私よりも両親の方が切羽詰まった状態だったのかもしれない。
正直言うと、この頃の記憶はそこまでない。指一本身体が動かない、鉛がついてるのかと思うほど身体が重く、睡眠も取れず一瞬の隙もなく怒りと不安とうつが身体中を巡っていた。覚えているのはこれくらいしかない。
ただ一つだけ言えるのは、諦める気力さえもなかった、ということだ。

それから数年後、私は18歳になった。数え切れない負の波に襲われ自傷行為を繰り返し、自殺を試みて失敗して、それでもしぶとく生きていた。通院生活を続けながら通信制高校に在学していたが、ほとんど通学せず自宅で課題をこなす日々を過ごしていた。相変わらず希死念慮は渦巻いていたし虚無感に苦しめられることもあったが、献身的な周囲のサポートのおかげで地獄の底を這うような中学時代よりかは比較的穏やかな生活を送れるようになっていた。

そんなある時、診察後にいつものように私はカウンセリングを受けていた。その日はちょうど記憶を遡り、幼少期のトラウマや許すことの出来ない記憶にスポットを当てていた。
幼少期に過ごす環境は当人の人格形成に強く影響する。それは私自身もよく分かっていた。思い出せば思い出すほど、全ての記憶に怒りや憎しみ、やりきれなさが付随する。それは両親や周囲の人間に対するものもあるが、いつだって人よりずっと遅れながら実りもしない努力をしていた自分にも抱いていた。思い出したくもない、自分に対する無能さを再び思い出した。
その話をカウンセラーさんにしたところ、意外な答えが帰ってきた。
「知能検査を受けてみてはどうでしょう」
そう言われた途端、私の脳内ははてなマークでいっぱいになった。まったく予想もしてない返答だったからだ。知能検査の存在自体は知っていたが、どのような検査をするのかまでは知らないし、そもそも何故私がそれを受ける必要性があるのか理解出来なかった。今まで話してきた暗い過去と知能検査が結びつかなかった。しかしカウンセラーさんが言うには、“得意なことに関しては素晴らしい能力を発揮出来るが、苦手なことになるととことん出来ない、その得意不得意の大きな差に翻弄されていることから人より劣っていると感じている可能性がある”とのことだった。だが、それでもいまいちピンとこない私は知能検査を受けることに対して前向きな姿勢を示せなかった。そんな私を見てカウンセラーさんは検査を受けるかどうかは私の自由だと前置きしてこう言ってくれた。
「知能検査を受ければ、木村さんの“脳の特性”というものが分かります。その特性をたどっていけば今まで人より劣っていると感じていることも単なる努力不足ではないことが分かるかもしれないですし、そうなれば自分自身を責める気持ちが少しでも和らぐのではないでしょうか?」
この言葉で少しだけ気持ちが揺り動かされた私は、カウンセリングに母も交えてもらった。そして3人で相談し合った結果、私は知能検査を受けることに決めた。知能検査は一度に受けると非常に長くなるらしく、2回に分けて受けることになった。

数週間後、1回目の知能検査を受ける日がやってきた。おかしいくらい緊張するんだろうなぁ、と予想していたのだが意外や意外と緊張することもなかった。むしろ、どんな検査をするんだろう、なんて呑気にワクワクしてるくらいだった。そして診察後、いよいよ知能検査が始まった。
積み木のような物を組み立てたり、何個か言われた数字を紙に書かず、頭の中で順番通りに並び替えて答えたり、カウンセラーさんが言った単語の意味を説明したり……。
すぐに私の頭はキャパオーバーに陥った。
(申し訳ないが、検査内容がさまざまゆえに1回目と2回目の検査内容の記憶が混ざっており、全てを記憶しておらず詳細を書けないことをお詫びしたい)
1回目と2回目のどちらも検査が終わる頃には私はヘロヘロだった。何が出来て何が出来ていなかったかなんて理解する余裕もなかったし、脳内を掻き回されたようにぐちゃぐちゃで疲労困憊だったが、無事に知能検査は終了した。

それから2か月後。知能検査の結果が主治医から伝えられた。
知能検査の結果、それはすなわちIQ(知能指数)を指す。IQの平均値なんて全然分からない私は、テストの点数の感覚で勝手に想像しており、50もあれば良い方だろうなんて思っていた。そもそも私の出来の悪い頭にIQなんて存在するのだろうか、くらいに思っていたのだ。
そんな私のIQは“81”だった。
その数字を聞いた私は一瞬耳を疑った。この私の脳内からたたき出された数字だなんて思えなかったからだ。なんて素晴らしい、ほぼ満点じゃないか、とうれしくて気持ちが舞い上がった。私は何の根拠もないくせに、IQの上限は100だと勝手に思い込んでいた。
大喜びする私とは裏腹に一緒に診察室に入った母と主治医は苦笑いしていた。思い返すとこの時の診察室はなかなかカオスな状況だっただろう。

予想外の結果に大喜びする私に主治医は、非常に言い辛そうに慎重に言葉を選び、私を傷つけないようにゆっくりと説明してくれた。要約すると、“てんかんの合併症である可能性が高いが、検査結果のIQ81は平均よりやや低い”とのことだった。
主治医の説明の全てを理解した瞬間、子供のようにはしゃいでいた私のテンションは急降下していった。悔しくて情けなかった。どん底に突き落とされたような気持ちで、どこまでも馬鹿な自分が憎かった。でも心のどこかでは、やっぱりそうだよなと納得する自分もいた。自分は利口だなんて、一瞬でも思った自分が愚かに思えてならなかった。
平均以下の検査結果を聞いてぬか喜びしていた、あまりに馬鹿で無知な自分を恥じる様子を見て主治医は優しく寄り添うように言葉をかけてくれた。
「でもね、IQが低いからダメってことじゃないんだよ。得意なことと苦手なことの差が激しいだけで、言ってしまえばIQはただの数字。これから先、どうやって自分自身の理解を深めていくかで大きく変わることが出来るんじゃないかな」
自分に対しての理解も何も、とことん馬鹿で無能で出来損ない生き恥でしかないじゃないか、これ以上どう理解しろと言うんだ、とこの時は主治医の言葉を素直に受け入れることが出来なかった。
納得しないまま返事をした私に主治医は、続けてこう言った。
「IQ81だと、木村さんの場合は“境界知能”って言った方がいいかもしれないね」
私はここで“境界知能”という言葉を初めて聞いた。
境界知能(発達障害の場合はグレーゾーンと言うらしいが境界知能との違いの定義は医師によってさまざま)とはIQ70からIQ85程度を指し、知的障害の傾向はあるが明確に知的障害と診断するには全ての基準を満たしていない、知的障害を持つ人とそうでない人の間に位置するIQを持った人たちのことだ。診断がついているわけではないため、知的障害と診断された人たちと似たような悩みを持ちながらも、本来なら必要である相談機関や支援サービスを受けることが出来ない。そこが境界知能と告げられた人たちの大きな痛手だった。
「知的障害って診断されなかったり軽度だからといって、それが症状が軽くて楽なわけじゃないから。軽度だったり境界知能だからこその辛い部分もあるからね」
主治医が言ったこの言葉の意味が、この時の私には理解出来なかった。知的障害でないんだからいいじゃないか、と至って楽観的だった。しかし、現実はそうもいかなかった。

私は、この約1年後に、現在も通所している就労支援事業所と契約するため、ワーカーさんや市役所などに境界知能について話す機会があったが、理解はしてもらえても診断がついていない以上はどうすることも出来ない、と境界知能に関する支援は何一つ得られなかった。ここまできてようやく私は、世の中から見る境界知能の立ち位置が分かってきた。
幸か不幸か、私は境界知能であってもてんかんを患い、加えて抑うつ状態も抱えており病院や県から支援を受けることが出来るため、孤立無援ではない。しかしこれが境界知能のみだったらどうだろう。きっとこれだけの支援は受けられなかったに違いない。境界知能だと知らなかった頃にどれだけ苦しんで、その苦しみが今もなお続いていても、診断がつかなければそれで話は終わってしまう。知的障害の人と同じ生き辛さや疎外感を感じていようと、境界知能である以上は手助けも何もないのだ。私たちの苦しみは、境界知能という曖昧な表現で片付けられてしまう。それがどれだけ残酷なことか。
知的障害であるか、そうではないか。
この二つに目を向けられ、その狭間にいる私たちは埋もれて日の目を見ることはない。しかし、その狭間にいて苦しんでいる人たちはたくさんいる。名前のない私たちがどれだけ必死に声をあげようと“診断がついていない”、その事実だけがひたすらに付きまとい、私たちの首を締める。医療、福祉、法律。全てから追い出されてしまうのだ。
そうして何の救いもなく、ただ生き辛さを抱え生きていく。

そんなことが、何故許されるのか。

ここまで私は診断がつかないだのどうのこうのと言ってはいるが、境界知能やグレーゾーンに関して少なくとも私は診断名がつけば解決するとは思っていない。診断書がおりれば解決するとも思っていない。境界知能だと分かったのであればそこから先、境界知能であるがゆえの行き場のない感情を理解して適切な支援が欲しいのだ。必要とすれば共に歩んでくれる存在が、境界知能など曖昧な場所に位置する私たちにとって枯渇しているものだと思う。
そして願わくば、どんな病気であろうとなかろうと必要であれば誰でも救いを求めることが許される、そんな世の中が理想だ。
私たちがいる狭間の暗闇がどれだけ恐ろしく、その暗闇の中で手探りで生きていくことがどれだけ大変なことか、ほんの少しでもいいから知ってほしい。
理想を叶えるには行動しなければならない。そのために微力ながらこうして境界知能である私が世間からは見えない埋もれた場所から声をあげている。
私のつまらないエゴかもしれないし、この声も簡単に踏み潰されてしまうかもしれない。
でも声をあげなきゃ助からない。待っていても助けは来ない。
しかし、既に声をあげることが出来ない人たちがいる。それも1人や2人なんかではない。刻一刻と変わる現代の波に飲まれ、溺れて息をすることが出来ない人が、見えない岸辺に辿り着こうともがいている。私もかつてはそうだった。だが私の場合は本当に幸運なことにさまざまな支援に恵まれて、この世の中で息をすることが出来ている。
認知されない境界知能。そんな私たちの行き場はどこなのだろうか。

私はその行き場を探し続けたい。

名前のない私たち。
暗闇にいる私たち。
岸辺が見えない私たち。
境界線をさまよう私たち。

狭間にいる私たちの居場所を広げるため。
私たちがいる暗闇に光を差すため。
溺れている人たちを岸辺に導くため。
自分を心から愛せる人であふれさせるため。

私はここで叫んでいる。

受賞のことば

この度は数ある作品の中から優秀賞という素晴らしい賞を頂き、身に余る光栄でございます。支援や援助を受けることが出来ない境界知能やグレーゾーンと呼ばれる私たちが感じる不安や恐怖は、灯り一つない暗闇の中、懐中電灯も持たせてもらえずに放り出されて置き去りにされるような感覚と変わらないと思っています。作中にもありました通り、その暗闇に光を差せる作品となりましたらこれほど嬉しいことはありません。

選 評

言葉は、困難を「在る」ことにしてくれる光だ。在ることになった困難は、理解され、手が差しのべられる。しかし、この光は必ず、狭間の暗闇を生み出す。作者の言葉は、この暗闇を照らし出すことに成功した。次は、その言葉を受け取った、読者である私たちの番である。照らし出された現実をまっすぐに見つめながら、言葉を交わしながら、言葉を育てて広げていこう。(熊谷 晋一郎)

以上