第58回NHK障害福祉賞 優秀作品
~第1部門より~
「生きた時間を生きる」

著者 : 三浦 律子 (みうら りつこ)  岐阜県

私は毎朝午前6時に起床します。小学生と中学生の娘たちを起こし、庭木に水をやります。朝食や主人の弁当の支度後、家族を送り出します。家事を終えたら地図を広げ、季節の野花の咲く場所やちまたで話題のスポットをチェックし、バイクで出かけます。午後3時までには帰宅し、お腹を空かせて帰って来る娘たちのおやつを作ります。天候が不安な日はギターの練習をしたりパンを焼いたり、手芸工作をしているうちに夕刻になります。娘たちの学校での話を聞き終えたら早めのお風呂にし、ハッピーアワーにビールを飲みながら夕飯の支度、夜は録画していたドラマや映画を視聴し、遅くとも午後10時までには就寝です。これが私の近年の平均的な平日の一日です。趣味も夢も希望も目標もあり、充足した日々です。
私は43歳・身長166センチ・体重58キロ、物理的に外見で欠けている部分はなく、白髪の無い長髪で、一見とても健康な健常者です。私の障害は内部障害、腎臓が一つしかない点です。かつ、小学校卒業までは自分の名前も正確に発音出来ない言語障害を抱えていました。
私は4歳の時に体内に腫瘍が発生し、その腫瘍摘出手術の際に、癒着した右の腎臓も摘出しました。腫瘍はバニシングツインと言われるもので、私は双子の片割れを内包して生まれてきてしまったのだと、私が大人になってから知りました。当時、私はまだ身体が小さく、開腹時に腹圧で内臓が全て出てしまい、輸血量も多く、手術時間がとても長引いたのだと母から聞きました。
「まともな位置には内臓はない。輸血した血が適合するかわからない。腎臓一つだと健常者の6割程度しか体力はないし、身体が成長出来るかもわからない。長く生きられて10歳までです」、医師からそう告げられたと、当時若かった母の記録していた手記に書いてありました。
事実、退院した私はまっすぐ歩くことすら出来ず、少しでも無理して動くと倒れ、身体はむくみ、顔は腫れていました。何とか日常を送れるようになった頃、私は幼稚園に通い出しました。そこで発覚したのが、構音障害と呼ばれる言語障害です。カ行、サ行、ハ行、ラ行が正しく発音出来ない障害で、私は小学校入学と同時にことばの教室へ通い出しました。
身体は浮腫み、顔は腫れ、身体測定時にはお腹にムカデ様の大きなケロイド傷、体育の授業は見学ばかりで、自分の名前「律子」も「じづど」、「先生」も「てんてい」としか発音出来なかった幼少期の私は、一般的な子どもたちの中にあっては異形のものでした。異形のものは排除していい存在であり、罵詈雑言を浴びせてもいい対象なのだと勘違いしている人は子どもにも大人にも一定数おり、私と、異形の私を産んだ母は、格好の的でした。「いじめ」の対象者でした。仲間はずれや私物の破損、暴言、当時の私はどうしてなのかわからず、どう対処していいのかわからず、ただただ泣いてばかりいました。
「ごめんね。私が、お母さんが悪かとよ。ごめんねごめんね」。夜、暗い台所で泣いていた母の姿を私は、一生忘れないのでしょう。母もまた、姑や心ない保護者から罵声を浴びせられていたのです。そのまま心を病んでしまったのは、私ではなく、母でした。弱った母は、傷つき、心ない人たちの言葉を深く受けてしまったのです。
私は、幸せな日々を機嫌良く暮らす大人になれた今、落ち着いて当時を振り返って思うのは、私は持って生まれた心が強靭だったとかではなく、生まれつき鈍い性質で、体力は無いけれど好奇心だけは旺盛、かつ楽観的思考なのが幸いしたのだなということです。
それに私には、幼稚園・小学校と、仲良く優しくしてくれる友達が、一人、居ました。一緒に登下校をし、私に普通に接してくれるその友達のお陰で私には、楽しい時間がたくさんありました。その子が普通に接してくれるお陰で、他にも普通に接してくれる級友も増えました。私は徐々に、私を虐げようとしてくる子を、気にしなくて済むようになったのです。こちらが危害を加えているわけでもないのに、見た目やことばの障害を理由に、嫌がる私をからかったり虐げようとしてくる人の言うことを真に受ける必要はないなと、優しくしてくれる人たちの言葉に耳を傾け、穏やかな時間に目を向けるよう努めました。
定期的な健診、尿検査、傷跡の癒着や腸閉塞、イレウスなど、痛い思いを多々しながら私は、死ぬはずだった10歳を越え、少しずつ体力がつきました。身長も平均より伸び、小学校を卒業する頃には言語障害もほぼ克服、正しく発音出来る言葉が増えてきました。私のことばの練習にと、読書感想文発表会に出たり、中学からは弁論大会に出たり、母や先生方が設定して下さったスモールゴールを越えながら私は、少しずつ少しずつ普通に話せるようになっていきました。
当時、ことばの教室には、いろいろな生徒がいました。全くことばの出ない子、耳の聞こえない子、母は、そんな生徒の保護者から「お宅のお子さんは軽い障害でいいわね」と幾度となく声をかけられたそうで、母は極力他の生徒や保護者との交流を避けるようになりました。私は、もっと、他の、ことばの教室に通う子たちと関わりたかった。お互い何かしらことばの障害がある同士としてだからではなく、ただ、無邪気に、そこで知り合った新しい友達と遊びたかった。仲良くなりたかった。好きな本の話、お互いの学校の話、心穏やかな人との会話は楽しいばかりでした。お互いの障害の話に触れることはありませんでした。お互いにとっては、それぞれ自分の境遇しか知らないのです。「普通」とは何かともまだふんわりとしかわからない。そもそもどうやら一般的には異形であるらしい自分たちは、それぞれお互いにとっては異形であるわけではなく、自分にとっては「普通」なのです。そこに意識を向けていなかったから、その話題にはならなかったのでしょう。
物心ついてから現在に至るまで頻繁に「普通はこうだ」「みんなはああだ」と言うことばを耳にしてきました。多くの場合、人はそう言われて意見を引っ込め「普通」に合わせます。私はその一連の流れが苦手です。同調圧力をかける人も、同調圧力を受けて意見をその場しのぎに合わせる人も苦手です。日本はそういう空気を読む国だと大きいふうに見える空っぽの論拠を振りかざす理由が私には理解出来ませんし、その場しのぎの口先だけでも不本意な意見を言う人の気持ちがわかりません。おそらく私のこの思考には、そもそも自身が普通の人とは違うことが根底にあるのでしょう。人と接すると「あなたは私とは違いますよね。どう違いますか?」からのスタートだから。自身をグローバルスタンダードだと思っている人々とは違う思考回路なのかもしれません。共感を分かち合いたい気分はもちろんわかりますし、共感はうれしいものですが、心からではない似非(えせ)共感、私は要りません。もちろん挨拶や世間話程度で話を合わせる程度はのぞきます。「人の気持ちにたって考えましょう」は、普通の人認識の人同士のおごりでしかないのです。その人の気持ちは、その人にしかわからない。お互いが知性と優しさを持って歩み寄るしか、さまざまの解決策は無いのです。
私の腹部にあるムカデ様のケロイド状の傷は、おへそを避けて20センチあります。この傷も、銭湯や温泉へ行くと、気持ち悪がる子どもや、美容整形で取ればいいのにと話しかけてくる大人の方がいます。子どもにしてみれば、そうでしょうね、気持ち悪いと感じる人もいるでしょうね、驚かせてごめんねと思いますが、私自身は気持ち悪いとは思っていません。気にしていないのでタオルで隠すこともしません。不快だから隠せとおっしゃる方は、公衆浴場に来なければいいのにと思います。気にする人は隠せばいい。気にしない人は別に隠さなくてよいでしょう。公衆浴場のルールに傷痕のある方はご遠慮下さいとは書いてありません。むしろ、公共の場で他者にそんな言葉をかけるいい年齢の方が心配になります。気をつけているのは「こんなことを言われてしまった」と、被害者意識を膨らませないことです。若い頃はそうは思えずにいました。考え込んだり気分を悪くしていました。怒りの感情が私は乏しく、哀しみの方へひっぱられてしまっていました。事情も何も知らない人が、思いつきで口にしたこと等、勝手につぶやいているだけに過ぎず、私がいちいちダメージを受ける必要はないのだと、高校生くらいから自分に言い聞かせ続け、心の底から全く気にならなくなったのは最近です。
さて、無事に育った私も高校3年生、人生の岐路に立ちました。母はもちろん、私を実家から出すことは考えていませんでした。出しても、祖母の暮らす街への進学でした。ですが私は、家を出て、外の世界を見てみたかった。
一つしかない腎臓で、やってみたかった運動も部活も諦めてきたけれど、このままだと私はずっと諦めてばかりの何もしない人生になります。ですが私自身身体に不安があり、一人暮らしに不安があり、悩みました。
ある日、ふと目をやったテレビで、片脚のスキーヤーが雪山を滑走していました。パラリンピックです。私はスキーをしたことはありませんでしたが、その片脚のスキーヤーは明らかに健常者より速く上手に滑走をしていましたし、何より格好よかった。私は、家を出て、京都の大学へ進学することを決めました。一歩、踏み出してもみないで、自分の限界や身の丈を自分で低く見積もって、出来ない言い訳にしていた格好の悪い自分を止めようと決めました。安心安全な場所だけれど、自分の本当の想いをことばにするのが許されない、好きなこと、やってみたいことが出来ない。行きたい場所へ行けないなんて、ぐずぐず言い、動かないのは格好悪い。私は運よく生き延びたのだから、生きているのだから、生きた時間を過ごしたい。確かに私は腎臓が一つしかありません。でも、癪じゃないですか。そんなことに飲まれるのは。私は、親元から自立・自律しました。
進学は反対の両親でしたので、奨学金をもらい、アルバイトをしながら生活費も学費も稼ぐ生活を送りました。両親は、早々に私が音をあげて帰ってくると思っていたようです。どうせ生きるなら、細く長い人生より、短くとも太い人生を生きようと若い私は考え、興味のあった二輪免許を取得、少しの休日を利用してあちこちへ出かけました。体育の授業も見学していた私は、外で思いっきり走った経験も少なく、私は18歳にして初めての体験をたくさんしました。毎日、新しい世界が開けていきました。食べるものと睡眠にだけは気をつけて大学生活を送りました。
大学4回生になり、それまでアルバイトくらいはなんとかなったものの、大学新卒での就職となると、腎臓一つの身体ではハードルがあがりました。就職氷河期も重なり、「普通」の人でも文系出身女子の就職率は2割の時代に、無理がきかない身体の私を雇ってくれるところがあるだろうか。私の出来ることはなんだろうか。結果、全国に支部のある学習塾に就職をしました。入社して2週間後、親に事情があり一緒に暮らせない子どもたちが暮らす山間部の施設へ研修に行きました。そこで暮らす子どもたちは皆、概念的な「子ども」ではありませんでした。葛藤しながらも懸命に生き、親から自立し、しっかり考えを持っている印象を受ける子どもたちばかりでした。世の中には、私のように身体的に何か事情のある人だけではなく、さまざまな境遇に生まれ、話をしてみないとわからないさまざまの事情がある人がたくさんいるのですね。私は社会人1年目、まだ何にもわかっていませんでした。研修を終え、学習塾で多くの子どもたちと接していく中で私は、ずっと隠し持っていた、可能なら私も子どもを出産してみたいという想いが膨らみだしました。子どもを生むとは、子どもを持つとはどういう感覚だろうかという好奇心が抑えきれなくなったのです。
25歳で知り合った主人の実家へ挨拶をしに行った折、私は身体やことばのことを伝えました。子どもを産める身体なのかわからないし、生まれて来ても障害の懸念は皆無ではないと。主人の父は少しの沈黙の後、こうおっしゃいました。
「そんなことは、神様しかわからん。健常者でもそれはかわらん」
その1年後私は、運よく第一子を授かりました。産婦人科へ行きさまざまな検査をした結果、
「お腹の傷も古い傷で、裂けることはないでしょう。腎臓の数値だけ気をつけながらですが、自然分娩いけますよ」
全て運がよかったとしか言いようがなく、結果私は自然分娩で五体満足の娘を産みました。その3年後には下の娘も問題なく出産。
二人とも幼かった頃の私とは違い、2歳を過ぎた頃からきれいな発音でおしゃべりをしてくれるようになりました。「おかあさん、おかあさん」、娘たちは元気に外を走り回り、遠くから私を呼びます。そうか。これが「普通」なのだなと、ようやく自身が母になり、わかりました。当事者の私は、私の身体・私の人生しか知らないから、人と比べようと思わなかったけれど、障害を持つ子の親は、かわいい我が子が何か抱えていたら、それだけで苦しい。児童館で会うお母さんたちの中には、昔の私の母と同じように思いつめた顔をした方もおられました。
私が母に「おかあさん」と正しい発音で呼びかけてあげられたのは、いつだったでしょうか。私の母は、孫である私の娘たちがきれいな発音で話すのを聞き、ようやく笑うようになりました。私のトラウマは、内部障害由来でも言語障害由来でもありません。いじめや嫌がらせを受けていたことでもありません。母が私を理由に泣き、病み、私の気持ちを見てくれなかったことです。私は昔も今も、母に、笑って楽しく過ごして欲しいだけなのに、年老いた母はさらに頑なに、人を嫌い、殻に閉じこもってしまいました。
子育ては、自分の生い立ちをなぞる作業だと何かの書物で読んだ通り、私は大人になる過程ですっかり忘れていた幼少期の記憶を、娘たちの姿に重ねるようになりました。
娘たちのおむつが外れ、二人とも小学校に行きだした頃私は、再びバイクに乗り出しました。子どもがいるのにそんなに危ないことをしてどうするの、ママ友さんたちの中から声は聞きましたが、いえ、私は、子どもを何かを諦める理由にしません。歩いていても四輪でも二輪でも気をつけないと危ないのは同じです。私にはまだ行ってみたいところも見てみたいものもたくさんあります。何より私は「お母さん」ですが、私自身でもあるのです。バイクで一人出かけた先で小さな冒険を楽しむ時間が私は何より好きなのです。小さい頃、クラスの子達と一緒に行けなかった遠足も、バイクでなら、バイク仲間と出かけられます。娘たちが私と暮らす中で、お母さんいいな、素敵だな、楽しそうだな、格好いいなと思えるような生きた時間を、私は生きます。
ある日、バイクで出かけた先、道の駅で左ハンドルについているはずのクラッチレバーが右ハンドルについている二輪車両の隣にバイクを停めました。よく見るタイプの中年男性のバイク乗りで、「バイク屋さんをしているから、何か困ったら是非うちに」と名刺だけもらい、特に話もせず帰途につきました。帰宅後、名刺を見ると、「片腕ライダー」の肩書きがありました。事故で片腕を失った後もなお、バイクへの情熱を失わず、片腕で大型二輪免許を取得した福井勝一さんでした。道の駅で、福井さんは軽々と大型二輪を取り回して「普通」どころか巧みに乗っておられました。何度かツーリングを御一緒させていただきましたが、バイクに乗るのが下手な私は福井さんに叱られてばかり。両腕があるのに私は、と、思いかけて気がつきました。関係ないのだと。無いものに目を向けなければ、あとは個人差であり、障害の有無は関係ないのだと。今までにもたくさんバイク乗りに出会いましたが、福井さんの走りは、比類なく断トツ安定した走りです。私のバイクは福井さんが片腕で修理したり、オイル交換をして下さいます。私は両腕があっても、バイクの修理は出来ないし、オイル交換一つさっぱりです。福井さんに出会えた感動で私は、叶えきれていなかった夢を一つ思い出しました。ことばの練習だった弁論大会への出場はいつしか私の趣味になり、言語障害がある人とは聴衆に気付かれない完璧な演説をして日本一になるという夢を、学生の頃の私は抱いていました。妊娠・出産・子育てですっかり遠のいていた演壇へ再び、私は奮起しました。くしくも私がことばの教室に通い出した年から30年目の節目に私は、演説の全国大会で優勝させていただけました。やっと私は「お前は駄目だ」の母の呪縛から解き放たれた気がしました。
趣味といえば、私は下手なギター弾き語りもします。まだまだですが、将来、流しのギター弾きになるべく、日々精進し、たまにアマチュアライブにも参加させてもらっています。小さい頃、うまくことばをしゃべることが出来なかった私は、歌いたかったのですが、人の目を気にしていた母に歌うことを禁止されていました。今なら、誰にも止められません。歌いたいように、私のことばに節をつけ好きなことばを歌います。私が作った曲を娘たちも一緒に大きな声で歌って遊んでくれます。私は歌うのがとても好きです。私は私のことばを聞くのがとても好きなのです。
ギターの腕を上達させるべく、ユーチューブで演奏を参考に見ていた時、超絶技巧の長谷川きよしさんの動画にたどり着きました。ギターにはいろいろな弾き方があるけれど、これだ、私が目指すスタイルはこの弾き方だ。格好いいの極み。なんだろう、フォルクローレ、スペイン、独特の奏法で分からず、歌はなんとなく聴いたことがあるくらいで、ネットで長谷川きよしさんについて調べてみたところ、全盲の方。有名な方でした。これは是非生で聞きたいと、一番近かった開催日のライブのチケットを取り、一人新幹線に乗りました。小さなライブハウス、奥様に手を引かれ舞台に上がられてからは、パワフルな歌声に、動画で観たよりはるかに難易度の高いギター演奏。全盲の方が書いたのだと考えながら最前列で聞く歌詞のことばひとつひとつが、私の想像の向こう側にありました。ライブ後、握手させていただいた長谷川きよしさんご本人の手は、私の手より小さく華奢でした。
両脚あっても私は怖くてスキーが出来ません。両腕あっても私はバイクに乗るのが下手です。でも、バイクに乗るのが好きです。両目しっかり見えていても、私はギターを弾くのが下手です。でも私は、ギターで弾き語り歌うのがとても好きです。
43年の人生の中で、私は3回、障害のある方の行動に感動し、一歩も二歩も進みました。彼らは皆、弱者ではありません。強く、美しい。影があるから、より輝いて見えるのかもしれませんが、感動や好きに理由はありません。
私は太く長く生きるつもりです。もう太く短くなんて悲観的にはなりません。4歳の腎臓摘出手術後、麻酔から覚めて目が覚めた時私は、ビニールカーテンで仕切られたベッドの上にいました。起き上がり座って見えたその時の光景を私は、今もまだ鮮明に覚えています。この仕切りの向こうには何がある。私は手を伸ばしました。そこで記憶は途切れていますが、私の好奇心は4歳の時と変わらず旺盛です。お母さんは、強いんだから。我が人生の本舞台は将来にあり。これからも楽しく生きて、生きた時間を私は過ごしていきます。

受賞のことば

如何なる境遇にあっても、お母さんお父さんが楽しく笑って家庭での時間を過ごせたら、世の中の子ども皆、穏やかで幸せになれるのではないでしょうか。特に、障害のあるお子さんのおられる保護者の方々、どうか、笑って下さい。子どもは、お母さんお父さんおじいちゃんおばあちゃんの笑顔が大好きです。大好きな人とただ一緒に居られて、穏やかな時間を過ごす時間こそ、至高の幸いではないでしょうか。
私の拙文に目を通して下さった全ての方に幸多からんことを願って。有難う御座居ました。

選 評

素敵なご家庭を築き、ギターの充実した時間を持ち、更に弁論大会で優勝を遂げられた。現在、青春を取り戻すかのようにバイクで颯爽と行動範囲を広げている。まるで三浦さんの上からキラキラと陽光が射しているように見えました。
障害によるいじめも傷にならず、しなやかに生きている三浦さんとは対照的に、時間が止まってしまった感のあるお母さまの存在。
皆に元気を与えている行動の全ては、実はお母さまに笑顔を取り戻して欲しいという三浦さんの思いが凝縮されているようにも感じました。(鈴木 ひとみ)

以上