第57回NHK障害福祉賞 矢野賞作品
〜第2部門〜
「自閉症の長男との伴走─成長と希望の軌跡」

著者 : 西本 功(にしもと いさお)  愛知県

護(まもる)は昭和五十年四月三十日生まれの四十七歳、知的障害を伴う自閉症の障害があります。幼少期、オウム返しの言葉しか話せず、テレビのコマーシャルや音楽の音でさえ、耳を押さえて泣き叫んでいましたが、本人や家族の気の遠くなるような地道な挑戦により、今現在、社員二十人ほどの段ボール会社で正社員として働いています。また、考えもつかなかった、車の免許を取得し、休日はドライブや買い物を楽しんでいます。護の成長の過程を振り返りながら、障害者の可能性と、家族の願いと希望の軌跡を綴(つづ)ってみたいと思います。

子供の障害に気づく
私、西本功と妻ヨシヱが結婚したのは二人とも二十五歳の昭和四十九年四月で、護は翌年、長男として生まれました。
私は、薄給のサラリーマンであったうえ、当時はオイルショックの真っただ中で賞与もまともに支給されず、会社では希望退職が募られていました。私は、小牧市の本社工場勤務でしたが、安城工場を閉鎖し、小牧へ移管する実務を担当し、朝早く安城工場へ行き、遅い帰宅の毎日で、長男の誕生も安城工場で知らせを受けた記憶があります。
妻もはじめての出産、子育てで、無我夢中での育児でした。
三歳になる頃、ほかのママ友の子供と比べ、言葉も覚えられず、動作もおかしいと気づきましたが、まさか障害があるとは思いませんでした。妻のいとこが保育士をやっていたので、電話で状況をはなし、相談したところ、早く専門機関に見てもらい、診断してもらった方がよいとアドバイスを受けました。私は、妻から、その話を聞いても、まさか深刻な障害があるとは思わず、会社の経営危機の方に心が奪われていました。しかし後日、私は「明日は早く帰ってきてください、大事な話があります」とのメモを机の上に見つけ、やっと事の重大性に気づきました。妻と真剣に話し合う中で、まず、専門の医師の診断を受けようと決め、春日井市の医療機関に勤めている私の友人に紹介してもらい、名古屋大学病院の専門医に見ていただいたところ、「自閉症で知的障害もあります、また障害者特有の運動神経の鈍さもあります」と診断され、「一つのことをやれるようになるのに人の百倍やらないと覚えられないと思います。親として覚悟して子供とかかわってください」との話でしたが、正直、気が動転して話の最後まで聞き取れない状態でした。また、時を前後して、幼児の言葉遅れの専門医に受診したり、東京、大阪と、こんな有名な医者がいると聞けば夫婦で連れて行きましたが、期待を打ち砕かれるだけでした。もう覚悟して、護を育てるしかないというのが私達の結論でした。

幼稚園への入園
たまたま、私がお世話になった人の娘さんが保育士をやっており、障害を理解してもらった上で入園させてもらいました。しかし、普通の子は入園時から日を追って成長していくのに対し、護は、ほとんど何もできませんでした。私が、大変な衝撃を受け、生涯この子のために働き、守っていかなければと本気で決意したのは幼稚園の運動会の時でした。多忙な中、一回ぐらい参加しなければと軽い気持ちで参加しましたが、かけっこの時、みんなと並んで待機していましたが、ピストルの音がした途端、耳を押さえてしゃがみ込み、泣きじゃくってしまいました。先生が駆け寄っても、どうしようもありませんでした。
運動会は、予定通り進行していきましたが、お遊戯もかけっこも、護の躍動する姿は見られませんでした。私は言葉を失いました。「何故(なぜ)、何故、うちの子だけがどうして」と心で叫び続けました。今振り返ると、私の父親としての決意が固まったのはこの時だったと思います。

小学校生活
護は自閉症ですが、ごくたまにパニックになっても、日常的にパニックや多動性があるわけではなかったので、入学時、支援学級に入るか普通学級に入るか検討され、とりあえず普通学級に入れてもらえました。他の生徒の迷惑になるような行動はとりませんでしたが、自閉症特有のコミュニケーションが苦手で話せず、また先生の話しかけにも答えられず、担任の先生は半年であきらめ、普通学級ではついていけないと判断されてしまいました。そして支援学級に入り、運動会や学校行事には普通学級の児童と一緒に行動するよう配慮されました。
私達が今も振り返って、感謝しているのは、基本的にいじめがなかったことです。同級生からも「護君」「護君」と大事にされてきました。今でこそいじめ問題が社会的に報じられ、学校のいじめ防止対策がされていますが、当時はそれほどでもなかったにもかかわらず、護がいじめを受けなかったことが信じられないくらいです。陰に、先生方の大変な苦労と配慮があったと感謝しています。
私は相変わらず、仕事が多忙でしたが、なんとか護に自転車だけは乗れるようにしようと、休日に家の前で、何百回と後ろを押しながら練習をしました。やっと乗れるようになり家族で大喜びしましたが、それが支援学級のある中学校の通学に役立つことになるとは思ってもいませんでした。

中学校生活
私も妻も大きな期待を持ち、願っていたのが地元中学への入学でした。それには二つの理由があります。一つは護の同級生から「護君一緒に中学へ行けるね」と言ってもらい、みんなに守られながら、地元中学へ行けるのではないかとの淡い期待があったこと。二つ目は地元中学には支援学級がなく、もし支援学級で学ぶことになれば、遠いS中学まで通わなければならない事情があったのです。
親バカな立場で言えば、はた目から見れば、障害者であることがすぐにわかり、上手にコミュニケーションが取れず、会話が成り立たないかもしれないけれど、家庭生活では九十パーセント以上、何の支障もなく普通の生活ができているとの思いがあったのです。
しかし、最終的には辛(つら)い、厳しい裁定が待っていました。
「普通学級は無理です」との通告でした。
六年間必死に育て、祈ってきた私たちの落胆は言い表せないほどのショックでした。しかし、躊躇(ちゅうちょ)している余裕はありませんでした。幸い、自転車が乗れるようになっていたため、遠い道のりを三年間、休むことなく通学することができました。夏休み期間も自分が担当する花壇の水やりのため、学校へ通う真面目さと優しさをもつ子供へと成長していきました。

就職
中学でも私たちに知らされるようないじめの報告もなく、修学旅行も、みんなと楽しく行ってくることができたようです。
そして、進路を決める時がきました。担当の先生は、養護学校の高等部に進む方法もありますが、まだとても就職できない生徒が行く場合が多いので、私は勧めません。護君は必ず働けると思うので、体験実習をして、就職することを勧めます。と言われました。
護も働きたいというので、先生のアドバイス通り就職のための体験実習をさせることにしました。ハローワークの担当者に「どんな仕事がしたいですか」と聞かれると、「段ボールを加工する仕事がしたいです」と答えたそうです。なぜ段ボールの仕事と言ったのか、いまだにわかりませんが、運よく、小さな段ボール会社が実習を引き受けてくださり、結局「これならなんとか面倒見させてもらいます」との経営者の判断で入社させていただきました。

運転免許の取得
護が就職し、仕事も一生懸命覚えていると聞き、一安心していた矢先、平成五年、十八歳になったある日、突然、私たちに
「僕、オートバイの免許を取りたい」
と言い出し、びっくりしてしまいました。
会社までは自転車で通い、なんら支障はなかっただけに、私達夫婦は困惑と心配で、どうしたら、諦めさせられるかと苦慮しました。まず、試験に受かる可能性はないと思いました。
もし、合格しても事故を起こしたときなど警察への対応ができない。等々、否定的な推測や不安だけが広がっていきましたが、本人の思いは想像を超えるもので、強い決意は揺らぐことはありませんでした。
結局、次男が
「成長している証だし、あれだけの思いを否定すると弊害の方が大きいと思うよ。事故等にはその時対応するしかないよ」
と言ったことを受け入れ、免許取得の試験を受けることを了解しました。しかし、それからが大変で、私達夫婦と護とで休日や夜に試験勉強を開始しました。護は、自閉症特有の記憶力の良さがあり、次男から「動く電話帳」と言われていました。当時はスマホもない時代。電話をかけようとするとき、護に聞くとスラスラと記憶している番号を教えてくれていました。そのため、交通法規や標識等は丸覚えしましたが、試験の問題はそんなに簡単ではありません。すぐに壁にぶち当たったのは、まぎわらしい表現や、間違っているのはどれか等々、ひねってある問題です。このような問題には、なかなか対応できないことがわかってきました。私達はこれでは相当むずかしいと感じ、再度諦めさせようとしましたが、本人の受けたい一心でテキストに取り組んでいる姿をみると、もう何も言えませんでした。
まず、ともかく受験させてみようと、休日、妻と護の二人で愛知県平針運転試験場に行かせました。試験中、妻は祈るような思いで試験が終わるのを待っていました。試験終了後約一時間以上待つと、試験場の壁面の電光掲示板に合格者の受験番号が表示されます。発表直前には電光掲示板前に受験者が群がって集合し、息を殺して待っていますが、やがて、合格番号が表示されると、歓声や、ため息が広がります。妻と護もそんな喧騒(けんそう)の中で受験番号を探しましたがありませんでした。妻は
「一回目だから、仕方ないね。また頑張ろう」
と護に声をかけ、帰路につきました。
試験場へは片道、中央線、地下鉄を乗り継ぎ三時間近くかかります。妻は、本当に受かるだろうか? との思いと、何としても合格させたい。いや諦めてくれれば、バイクでの事故の心配はしなくていい等、複雑な思いをしながら護の横顔を見つめました。
ただ、護が
「お母さん、僕また頑張るね」
と言っている姿に、もう後戻りはできないなと思ったと言います。
実際、試験の結果は不合格でしたが、記憶力がいいため丸暗記したところからの出題もあり七十点ほど取っていました。合格の九十点まであと二十点。十問正解なら合格です。再び、ひねってある問題の克服を目指して挑戦がはじまりました。そして、私達もこれなら、三回ぐらい挑戦すれば合格するだろうと思っていましたが、そんなに甘くありませんでした。毎回、八十点ぐらいまではとれても、合格点まであと五〜六問が正解できなかったのです。そして、いつしか夏が過ぎ、秋になり、冬を迎えても合格できず試験回数は七回を数えました。私達は、今後どうしようと、相談をはじめました。今度不合格だったら、諦めさせようとの結論に達し、護にも言い聞かせることにしました。しかし、護の気持ちを考えると、かわいそうで、胸が切り裂かれる思いでした。そして臨んだ八回目も不合格でした。ただ、ほんのあとわずかで合格の点数でした。もう十二月を迎え、その年も暮れようとしていました。妻は、護に
「今年最後の試験日に九回目を受験し、もしダメだったら諦めようね。いいね」
と言うと、護はしぶしぶ、
「わかった」
と答えました。
平成五年十二月二十七日、寒い年末、私は祈るような気持ちで二人を送り出しました。良くも悪くも今日、決着がつくと思うと、親として祈るしかありませんでした。夕方、連絡を待ちに待っていると、護のはじけるような声が公衆電話口からきこえてきました。
「お父さん、合格したよ」
一瞬私は胸が詰まって声がでませんでした。
「よかった、よかった、気を付けて帰っておいで」
というのがやっとでした。
年明けてしばらくして、新しいバイクにヘルメットをかぶった護が喜んで会社に行く姿を見送りながら、これから、このような経験の積み重ねが続くのだろうなと思いながら、親として全力で支え、守っていかなければと決意しました。
その後、護は二十歳を迎える年、今度は、成人のお祝いに普通車の免許を取りたいといいだしました。私たちはさすがに、躊躇して、引き止めましたが、護の熱意は変わりませんでした。
やむなく、自動車学校にこのような障害の子でも入校が可能で、試験を受けられるか聞いたところ、まれであるが、今までそのような障害者の入校事例があるといわれ、入校させてもらいました。
夢中の熱意に勝るものはなく、学科は一回で合格し、実地試験も三回で合格してしまいました。自動車購入後、中学時代の同級生のところへ行った際、車で玄関に横付けした護を見て、同級生の親は目を丸くして驚いたと妻に話したそうです。

失業と再就職
護の会社は、段ボールの加工部門と大手企業の構内外注を請け負う部門がありました。段ボール加工の仕事を覚えた後、護は大手企業の構内外注の社員として、組み立てラインでの作業をするようになりましたが、大企業の経営方針から構内外注契約が打ち切られ、会社の構内外注部門は解散することになり多くの人が退職しました。護は、段ボール加工部門へ戻ってもいいと言われました。しかし数人での家内工業程度の規模では将来が不安だったので、思い切って護も退職させることにしました。
それからハローワーク通いが始まり、最初に働いていたような、段ボールの加工の会社の求人がないか担当者に何度か依頼しました。
その間、失業中の護は、家でストレスを抱え、悶々としていました。ただでさえ、障害者の就職が厳しいとき、どうなるのかと心配しました。しかし運よく、約一か月後、ハローワークの担当者から小さな規模ではありましたが、段ボール会社を紹介してもらえました。会社では高齢の創業者の会長が面接し、気に入ってもらえたのか入社を決めてもらえました。しかし、私の記憶では前の会社の待遇は聞かれたものの、雇用条件も示されず、私達も雇ってもらえるだけでもありがたいとの思いから、強く言えないままでした。
当初は、授産施設のようなところの賃金程度なのかと心配しましたが、前の会社と同等以上の賃金でほっとしました。以後、会社の先輩からいじめを受けたり、怪我(けが)をしたこともありましたが、辛抱強く懸命に働く姿に、やがてみんなに「まもる」、「まもる」と可愛(かわい)がられるようになりました。自閉症の最大の課題であるコミュニケーションも、少しずつではありますが取れるようになっていきました。

妻が扶養家族に
私が六十五歳で退職後、国民保険に切り替えた時、妻を護の扶養にできないか健康保険組合に問い合わせたところ、私の年金額と護の所得との関係で決まると言われ、一応、護の会社にお願いし申請してみてください、とのことでした。私と妻で、護の会社を訪問し、その旨を話したところ、会社として妻の扶養申請をしますと快諾していただきました。その後、私は車の中で待機していましたが、妻は社長に、護の働く職場を案内してもらっていて、随分経ってから戻ってきました。妻が感激した様子で、
「西本君に、段ボール加工の機械を操作してもらっているが、多くの種類への段取り替えや機械のプログラム設定は誰よりも速く、なくてはならない存在です」
と社長さんに言ってもらったと報告してくれました。今まで、仕事ぶりを本人以外から聞くことはなかったので、護なりに精いっぱいやっているんだと感じました。そしてなにより、妻が護の扶養家族となったことは、私たちが、護を守る立場から、護に守ってもらう立場へと、一歩自立した道を歩み始めたと実感し、うれしくてしかたありませんでした。

私の障害者雇用の挑戦
平成五年、私の人生の中で、最も激震が走りました。それは、赤字協力下請け会社への経営再建のための突然の出向命令でした。三期連続赤字会社へ再建の命を受けて三年間の出向でした。会社はパート従業員含めても十数人の零細企業でしたが、多額の累積赤字を出していました。ところが三月一日出向したものの半年後に今までの経営者の社長が癌(がん)で逝去。当然、会社は整理か親会社へ吸収と思っていましたが、私に社長をやれとの命令が下りました。雇われサラリーマン社長です。経営のイロハも経験のない私は途方にくれましたが、三年間死ぬ気で働き、赤字を解消できました。しかし本社から「お前の代わりはいない」と言われ、出向継続となりました。私は、何か意味があり、使命があると思い、この機会に、障害のある子を持つ親として、障害者雇用に貢献しようと決めました。高等養護学校のY君を職場実習させ、社員に頭を下げ、思いを吐露して、みんなで温かく迎え支えてほしいと訴えました。しかし、そんなに簡単にはいきませんでした。最初は社員から「使いものにならない」、「足手まとい」との陰口を言われましたが、そのうち、皆が障害者へのかかわり方や能力に配慮して、やさしく仕事を教えてくれるようになりました。
まだまだの仕事ぶりでしたが、なんとか愛知県の最低賃金は払ってやりたいと思い、初めての給料を支給しました。後日、家族四人と近くに住む祖父母を呼んで六人でY君の初任給で食事会を持ったそうです。もう、うれし涙、涙の食事会だったと母親から聞きました。私は本当に雇用してよかったと思いました。その後、聾?(ろうあ)の障害者も雇用し、障害者が職場の中にいるのに違和感のない職場になりました。三年の出向がなんと十三年半の長期になりましたが、五十七歳で本社に戻り、人事総務担当になったとき、今度は本社で障害者雇用を増やそうと決意し、雇用を推進しました。障害のある子供を持ったことで、人生観と使命感を高めることができたと、痛感しています。
更に、今後、認知症独居老人が増えることや独居障害者が増える社会が来ることが想定され、市民成年後見人の必要性が叫ばれています。私も、六十九歳で弁護士や司法書士によるハイレベルの市民成年後見人育成講座を一年間受講しました。残念なことに年齢制限で後見人にはなれませんでしたが、何らかの形で、経験、知見を役に立てたいと願っています。
護のおかげで、私は自分に潜む、傲慢性や驕(おご)りを少なからず排することができ、かけがえのない命の尊さと、すべての人が幸せになる権利を有していると考えられるようになったと思います。護に関わってくださったすべての人に感謝し、今後、自分も多くの障害者に希望を与えられる存在でありたいと決意しています。

受賞のことば

今回「矢野賞」という名誉ある賞をいただき、身の引き締まる思いと喜びでいっぱいです。ありがとうございました。応募の動機は、長男の成長に関わってくださったすべての方々に感謝したい。この体験が少しでも参考になればとの思いからでした。今後夫婦と長男で、新たな挑戦課題を見つけ、実践していこうと決意しております。今まで一番苦労してきた妻とお世話になった人々にあらためて感謝の言葉を伝えたいと思います。

選評

自閉症の長男さんとの四十七年にわたる伴走。何百回もした自転車の練習を原点に感じました。九回目で合格する運転免許への長男さんの強い熱意と次男さんのセリフが印象的です。山あり谷あり、気の遠くなるような地道な挑戦の道のりを経て、長男さんが、家族や会社で、守られる立場から守る立場になっていくのは嬉しいことです。お父様ご自身も、会社で障害者雇用に挑戦、奮闘されます。壮大な軌跡です。(藤木 和子)

以上