第56回NHK障害福祉賞 矢野賞
〜第2部門〜
「見える障害と見えない障害」

著者 : 津田 由美 (つだ ゆみ)  神奈川県

新たな障害と向き合う日々の始まり

2017年3月30日、朝5時半頃のことです。隣で寝ている夫の「うっっー」という低いうめき声で目覚めた私は、「何か悪い夢でも見ているのかな?」と軽い気持ちで声のする方を見ました。するとそこには全身をガタガタ震わせ痙攣(けいれん)している夫の姿がありました。私は飛び起き、何度も名前を呼んでみましたが反応がありません。慌てて119番に電話をし状況を伝えている間に痙攣はおさまってきて、救急隊が到着した頃には意識も戻っていました。救急隊の方から名前や年齢などを聞かれ、きちんと受け答えもできていたので、
「病院に搬送しなくても大丈夫そうかな? 日中必ず脳外科を受診してくださいね」
と帰られようとしたのですが、最後に
「今日は何月何日?」
と質問をされた時、3月なのに
「5月……」
と答えたので、やはり病院に行こうということになり救急病院に搬送されました。CT検査を終え医師から病状の説明を受ける頃にはすっかり夜が明け、診察室は朝日で明るく照らされていました。そんなまぶしいくらいの診察室で、医師から
「脳腫瘍ですね。詳しい検査をしますからこのまま入院してください」
と言われたあの日のことは今でも忘れることができません。そして、そこから新たな障害と向き合う日々が始まることになりました。
私たち夫婦は先天性の身体障害者です。夫は生まれつき「内反足」という足の障害があり、私は生まれつき右手足がなく、義手・義足を使用して生活しています。2人とも小中学校は同じ養護学校(現在の特別支援学校)に通っていました。当時はほとんど話をしたことはなく、顔と名前を知っている程度の間柄でした。お互い社会人になってから、たまたま共通の友人宅で再会したことを機につきあうようになり、そして結婚することになりました。
結婚した頃の夫は、杖を使わずに歩くことができていました。学生時代も走ったり、自転車に乗ったりもできていて、どちらかというと夫の障害は軽度な印象をもっていました。それが結婚から数年経った頃から、
「最近うまく歩けなくなってきた。ただ立っているのも大変になってきた」
と言うようになりました。私は年齢とともに筋力が低下してきているからだと思い、
「リハビリをやって足腰鍛えなきゃだめだね。リハビリをやってくれる病院を探そうよ」
などと言っていました。転倒しやすくなってきた頃から、安全のため杖を使用して歩くようになりました。そうするとますます足の筋力が落ちてきてさらに歩きにくくなっているように感じました。一方で、夫は付き合っている頃からたびたび頭痛を訴えては市販の鎮痛剤を服用することも多かったのです。
今思えば、歩きにくくなってきたのは筋力低下のためではなく、脳の中に腫瘍ができ始めていて、そのせいで頭痛がしたり歩きにくくなっていたりしたのかもしれません。なんであの時リハビリ病院を探すよりも、脳神経外科を受診するよう勧めなかったのだろう……と今さらながら後悔の気持ちでいっぱいになります。
腫瘍は、頭蓋底という脳の深部にできていて直径5センチほどの大きさになっていました。救急車で運ばれた病院の医師からは、
「高齢の患者なら摘出手術をせずに放射線治療で様子をみる方法もあるが、ご主人はまだ若いから手術をした方がいいのではないか。どちらにするかは自分たちで決めて」
というような説明を受けました。私はネットで脳腫瘍の手術件数が豊富な病院を検索し、家から比較的近い所にあった病院に夫を受診させました。その病院の医師からは、
「正直とても難しい手術になるが、切るしか方法はない。なるべく早く手術をした方がいい」
と言われました。突然脳腫瘍と言われ何が何だかわからず混乱している中で、手術を受けるべきか、どこの病院で手術を受けるべきか等、難しい選択や決断を迫られることになりました。そして、こうした難しい選択や決断は、その後の闘病生活の中でも幾度となく迫られることになるのです。
結局「切るしか方法はない」とおっしゃった医師に夫の運命を託すことに決めました。術前の説明では、
「後遺症として失明や、新たな麻痺が出現する可能性もある。最悪な場合は命の危険もあるかもしれないが、腫瘍はほぼ取りきれるだろう」
と言われました。夫は冷静に受け止めていましたが、私は不安しかありませんでした。それでも「もし脳腫瘍の影響で歩きにくくなっていたのなら、腫瘍を取れば少しでも歩きやすくなるかもしれない」と、ほんのわずかな期待を抱くことで不安な気持ちを払拭させていました。
摘出手術は12時間近くかかりました。ICU(集中治療室)で手術を終えたばかりの夫と面会した時、私のいる方向に必死に顔を向けようとしながら小刻みに震える手で親指を立ててグーサインをした後すぐさまピースサインをしてくれました。まるで、「僕は生きているから大丈夫だよ。安心して」と言っているようで、私は思わず泣きそうになりました。
腫瘍は大きな血管にこびりつくようにできており、重篤な後遺症を避けるために血管に近い部分の腫瘍は残したけれど95%くらいは摘出できたと説明を受けました。そして病理検査の結果、良性の腫瘍であることがわかりました。術後1週間くらいほとんど眠ってばかりいました。腕がむくみ、右目は開かず、会話をする時は囁くような声しか出ません。そんな夫の姿に不安で押しつぶされそうになりながらも、とにかく生きていてくれてよかった、私のことを分かってくれてよかった、会話ができてよかったと心から思いました。
日が経つにつれ、腕の腫れもひき、開かなかった右目は少しずつ開くようになり、声も元の大きさに戻ってきました。ただ、後遺症として両眼の左側視野障害が出現し、知能検査の結果があまり良くなく、足の麻痺もさらに重くなってしまったかもしれないと言われました。そして、さらなる検査と本格的なリハビリを行うために、リハビリ専門病院に転院することになりました。

突きつけられた現実

リハビリ専門病院に転院したその日からすぐに評価が行われ、入院中は理学療法(PT)、作業療法(OT)、言語療法(ST)を毎日休むことなく行うことになりました。ここでのリハビリを頑張ればまた元の生活に戻れるとその時は信じていました。
夫の足は術前よりも動かしづらくなっていましたが、平行棒や杖を使って懸命に歩行訓練に取り組んでいました。しかし今後は安全面を考えて車椅子での生活を考えていかなければならない、産業医が車椅子での通勤を認めてくれなければ復職も難しいだろうと理学療法士から言われました。幼い頃から旅行好きだった夫は鉄道関係の会社に就職し、20年以上切符販売等の窓口業務に携わっていました。夫がいた部署は車椅子で働けるような職場環境になっていなかったので、車椅子でも働ける他の部署への異動を視野に入れて復職に向けた準備をしていました。そして発症から約10か月後に、長年在籍していた窓口職場からバリアフリーな環境になっている事務職場へと異動することで無事に復職を果たすことができました。全く未経験な事務職場への異動に不安がなかった訳ではありませんでしたが、その時はとにかくやっと復職までたどり着けた喜びをかみしめていました。しかし喜んだのも束の間、新職場でさまざまなトラブルが起きることとなりました。そしてその時初めて夫の高次脳機能障害が思ったより深刻な状況にあることに気付かされたのです。
まず、新しい仕事を覚えることが難しくなっていました。マニュアルを渡されて、
「これを見ながらやってみて」
と言われてもそれができず、説明をしてもらっても、1度や2度聞いただけでは理解できなくなっていました。また、同時に複数のことを処理しようとするとうまく対処できずに混乱してしまうようになりました。例えば、人の話を聞きながらメモを取るなど、ふたつのことを同時進行で処理することが難しくなってしまったのです。会話の中で相手の言っていることを思い違えて理解してしまったり、自分が言いたい言葉がすぐに出てこなかったり、言いたい言葉とは違う言葉が出てしまうことがあったりして、それが原因で会話自体が怖くなり、人間関係をうまく築けなくなってしまいました。職場では与えられた担当業務からすぐに外されてしまいました。そして、
「何でこんなこともできないのですか? 一体どんな仕事ならできるのですか? しっかりしてください」
等と毎日のように言われるようになりました。その部署では、何人かの障害者が働いていました。夫が
「脳の術後の影響でうまく仕事ができない」
と訴えても、
「ここにいる人たちは何かしらの障害を抱えながら頑張っている。努力や工夫が足りないのではないか」
と言われるだけでした。日に日に夫の表情から笑顔が消え、家でもほとんど話さなくなりました。朝は「おはよう」も言えなくなり、時には苛(いら)立った気持ちを伝えたいのか、玄関で自分の身体をバンバン叩きながら出勤していくこともありました。それでもしばらくは休まず出勤していましたが、その部署に配属されて4か月ほど経った頃、
「もう明日から仕事には行けない」
と職場からメールを送ってきました。そして受診したメンタルクリニックで適応障害と診断され、再び休職することになりました。
私は結婚する前、言語聴覚士(ST)として働いていました。そのため高次脳機能障害についてある程度の知識はありました。高次脳機能障害と一言で言っても、脳の損傷部位や程度によって現れる症状はさまざまです。夫の腫瘍は前頭葉に近い箇所にありましたが、一般的に前頭葉を損傷すると、例えば今まで穏やかだった人が急に怒りやすくなる等の性格変化がみられたり、意欲や注意力が低下する等の症状がみられたりします。夫の場合も、注意力が低下していてミスをしやすいということはリハビリの中でも指摘されていました。また、病前は私が怒ったり文句を言っても微笑みながら聞いてくれていた穏やかな人でしたが、自分の思い通りにいかないことがあるとすぐにイライラしたり、私が何気なく言った言葉に対して時にひどく落ち込んだりする様子がみられるようになりました。また急に何かを判断したり、臨機応変に対応したりすることが少し苦手になっている印象も受けました。そういう変化がみられたので復職への不安がなかった訳ではありませんでしたが、まさかここまで精神的に追い込まれる状況になるとは想像もしていませんでした。車椅子で働ける場所であればどこでもいい、とにかく復職できればそれでいいと思ってしまいましたが、高次脳機能障害のことを考えると、全く経験のない新しい職場への異動はかなり負担になることだったのです。復職を考える際、身体障害=「見える障害」のことばかりに気を取られ、高次脳機能障害=「見えない障害」についてはほとんど考慮できていませんでした。
1日も早く復職をしたいと願う夫を説得してでも、もう少しじっくりリハビリに取り組んでいればこんなことにはならなかったのだろうか。言語聴覚士としての経験がありながら何でこういう事態が起きることを予測できなかったのだろうか。いろいろなことが悔やまれました。

高次脳機能障害支援センターとの出会い

再び休職することになり、これからどうしたらいいのか私たちは途方に暮れてしまいました。こんなにつらい思いをするくらいならいっそ退職して好きなことをやりながら心穏やかに過ごしてもらいたい、私はそう思っていました。しかし夫は辞めたくはない、いずれは長年携わっていた窓口業務に戻りたい、と思っているようでした。藁をもすがる思いでいくつかの相談機関に相談をしました。そんな中、高次脳機能障害支援センターに電話をした時に対応して下さった職員の方が、
「脳の病気は周りには理解されにくいですからね。辛い思いをしましたね。すぐに今後の対策を考えましょう」
とおっしゃってくださり、その言葉で重たかった気持ちがすーっと軽くなっていくようでした。そして、センターにて高次脳機能障害の再評価をしていただいた後、センター内にある就労支援に通いながら再び復職を目指すことになりました。夫は就労支援に通うことに最初はあまり乗り気ではありませんでした。元の窓口職場に戻りたいだけなのに、なんで就労支援に通わなければいけないのか、と思っているようでした。それでもしばらく通ううちに病気に対する認識が出始め、とにかく今は焦らずにゆっくり復職を目指そうという気持ちに変わっていきました。そして、少しずつ穏やかな表情を取り戻していきました。
就労支援に通いながら、職場の方と再度復職に向けての話し合いを進めていきました。前回の復職では車椅子で働ける職場であればどこでもいいと、見える障害のことばかりに気をとられてしまいましたが、今回は高次脳機能障害という見えない障害についても配慮していただきたいことをしっかり伝えなければいけないと考えていました。しかし、外見ではわからない障害のことをどう伝えたらいいのか悩んでしまいました。
目に見える障害であれば、何ができなくて、どんな配慮が必要かといったことをこちら側から詳しい説明をしなくても、相手側に理解してもらいやすいように思います。実際、前回の復職の際には、車椅子でも入りやすいようにトイレの入口部分にあった段差にスロープを付ける等の対応を職場側はすぐにしてくださいました。しかし、脳の術後の影響で注意力が低下しているのでダブルチェック体制をお願いしたいとか、仕事内容を配慮してほしい等と訴えたとして、果たしてどれだけの職場が理解を示してくれるでしょう。そもそも高次脳機能障害について知っている人はほとんどいないのが現実です。職場との話し合いや産業医との面談の際には就労支援のスタッフの方が立ち会ってくださり、就労支援ではどのような作業をやっていてどれくらいこなせているか、障害によってどんなことが苦手で、どういう配慮が必要か等について説明してくださいました。そして、就労支援に通い始めてから約半年後に、以前配属された部署とは異なる新たな部署で2度目の職場復帰を果たすことができました。今回配属された部署も事務職場です。新しい仕事を覚えるまでに時間がかかったり、いくつかの仕事を並行して行うと混乱してしまったり、何か話そうとすると言葉がすぐに出てこなくて話せなくなってしまうなど、いろいろ苦労することもあるようですが、職場の方の理解と配慮をいただきながら現在も毎日出勤しています。

見える障害と見えない障害

私たち夫婦はともに身体障害=見える障害を抱えて生活しています。今回夫は新たに高次脳機能障害=見えない障害とも付き合っていかなければならなくなりました。見える障害と見えない障害、どちらも大変なことには変わりありませんが、周囲からの理解を得られにくいという点では見えない障害の方がはるかに大変だと、闘病生活を支える中で実感しました。
足が不自由な私たちに、
「なんでちゃんと歩けないのですか。しっかり歩いて下さい」
などと言ってくる人はいませんし、私が片手で重たい物を持ち上げようとすれば、周囲の方はすっと手を差し伸べて助けてくれます。それはできない原因が目に見えてはっきりしていて、何に困っているかが明確だからだと思います。一方、高次脳機能障害は障害そのものが目に見えないので、仕事がなかなか覚えられなかったりミスが多かったりするのがたとえ脳の障害が原因だったとしても、やる気がないのではないか、努力が足りないのではないか等と思われ、
「なんでできないの? しっかりしてください」
と言われてしまうのです。
新しい作業を習得するまでに時間を要したり、同時に複数の作業をこなすことや臨機応変に対応することが苦手だったりという高次脳機能障害の特性について、普段の生活の中で学ぶ機会はほとんどありませんし、どのようにサポートしたらいいのかその方法もほとんど知られていないことがこの障害の抱える問題を大きくしているのではないかと思います。
例えば、車椅子を使用している障害者にとって不便な段差も、スロープを付けたり車椅子を持ち上げてもらったりすることで段差の問題が解消されます。高次脳機能障害者にとって、この「スロープ」に代わる、不便さを解消するために必要なことは何なのだろう、そんなことを考えるようになりました。なかなか明確な答えはみつかりませんが、高次脳機能障害について知ってもらうことが何よりも大事なのではないかと思います。そしてひとりひとりの障害の特性を理解し、温かく見守りつつ必要な声かけをすることが、「スロープ」に代わるものになるのかなと思います。とはいえ、常にそんな声かけや接し方ができるわけではありません。ちょっとしたことでパニックになったり、一度落ち込むとしばらく黙ったまま塞ぎこむ夫の態度がたとえ病気によるものとわかっていても、ついイライラしたり、夫のマイナス思考に引っ張られて私自身も落ち込んだりしてしまうことがよくあります。私自身に心の余裕がない時ほど余計にそうなってしまいます。私がイライラした態度をとると夫が余計パニックになり、そして私もさらにイライラする……という悪循環を生んでしまいます。そういう意味で、高次脳機能障害者と接する家族や職場の方々等をサポートする体制作りもとても重要なのではないかと思います。私たちがお世話になった就労支援では、復職後もしばらくは本人からの相談はもちろん、職場側からの相談にも応じてくれる体制ができています。そういう相談機関がもっと増えれば、高次脳機能障害者にとってもサポートする人にとっても生活しやすくなるのではないかと思います。

これからの願い

夫は今でも
「昔のように窓口で切符を売りたい」
とポツリと呟くことがあります。臨機応変な対応や瞬時に判断することが難しくなってしまった現状では、窓口職場に戻ることはかなりハードルが高いことかもしれません。それでも、例えば高次脳機能障害について専門的な知識を持った人に、一定期間職場に付き添って障害によって苦手となってしまったところをサポートしてもらえるような仕組みがあれば、ひょっとしたら以前のように切符を売ることができるかもしれません。そして職場内で高次脳機能障害に対する理解が広がるかもしれません。理解が広がれば、「何でこんなこともできないのですか?」等と言われることもなくなるかもしれません。
見えない障害によって職場で辛い思いをしている人や、働く機会さえ奪われてしまっている人が世の中にはたくさんいらっしゃると思います。それは、見える障害を持った人も同じかもしれません。どんな障害を持っていても働きやすい、生きやすい世の中になればいいなと心から思います。
今朝も「おはよう」と挨拶を交わし、車椅子で出勤していく夫を玄関先で見送ることができました。発病前は当たり前だった朝の風景ですが、今はそんな生活が送れていることをとてもありがたく思いますし、そんな毎日が一日でも長く続くことを願っています。
そしてもう少し欲を言わせていただけるのなら、いつかお客様の注文に混乱しながらも駅の窓口で切符を販売する「高次脳機能障害を持った車椅子の駅員」として働く夫の姿を見てみたいですし、そんな駅員がいても許される世の中になればいいなと思います。

受賞のことば

身体障害とは違う困難さが、高次脳機能障害等の見えない障害にはあるということをひとりでも多くの人に知ってもらいたい……そんな思いから応募させていただきました。今回矢野賞という名誉ある賞をいただけることを大変嬉しく思います。これまで私たち夫婦を支えてくださった方々に改めて感謝の気持ちをお伝えしたいです。
これからも障害とうまく付き合いながら、笑顔を忘れずに過ごしていきたいと思います。

選 評

障害のある筆者だからこそ分かる目に見える障害と見えない障害の大きな違いや気づきには、障害と共存する社会にしていくためのヒントがありました。どんな障害のある方も働きやすく、生きやすい世の中にする、言葉で書くのはたやすいですが、簡単には実践できません。見えない障害の不便さを解消する「スロープ」に代わるものを皆で考えていくために、まず、その存在を広く知ってもらう一歩を踏み出さなければ……と強く感じました。(山名 啓雄)

以上