第56回NHK障害福祉賞 佳作
〜第2部門〜
「伝えたいことがありすぎて」

著者 : 西村 彩香(にしむら あやか)  奈良県

オラはアホなのか? みんなと違うのか?」 そんな訳ない。真那斗(まなと)は真那斗の良さがある。人と違って何が悪い。ママは普通なんて言葉が大嫌い。笑って生きられることがどれだけ幸せなことなのかを知っている貴方は幸せである。もっと早くに、たくさんの言葉でそう伝えてあげることが出来れば何かが変わっていたのかもしれない。それでも私は自分のしてきた子育てに後悔はない。
「真那斗は真那斗のままで、真那斗らしく生きて行けばそれでいい」
私はそう言って息子を抱きしめることしかできない。今までもこれからも。そんな私達の日常を面白おかしく人に話せるようになるまでに、私達家族は、どれだけ傷つきどれだけ涙を流したのか。そして、私達の戦いの日々は、一生続いていく。
私は、そんな会話を繰り返す息子を含めて3人の子供の母親。長女は常識という世界の中で自縄自縛に陥りながらも私を支えてくれている。長男は、自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症(ADHD)を抱えている。妊娠19週目に脳の異常が見つかり、産まれてきても重度障害の可能性がありどの程度の障害が出るかは分からないが、まだ中絶可能時期でもあるので来週までに決断を、と。当時の私は、自分が障害児の母親になることなんて想像もしておらず動揺したが、頑張って育てる、と前向きだった。胎児に出来る限りの検査を行った。出産時は、病院についた時には頭が出ており、夫が入院手続きをしている短時間での出産。今となっては笑える。産まれた瞬間からもうすでに、落ち着きがなくあわてんぼう。新生児から乳児にかけての特徴は抱っこが嫌い。反り返りが強く母乳を飲むのが下手。泣くことも少なく、くるくる回るおもちゃを眺めいつもニコニコし、滅多に泣かない手のかからない子。6か月を過ぎて離乳食が始まった頃からこだわりが始まり、食事では自分の決めたご飯粒しか食べない。喃語もしゃべらない。難聴も疑われたが多動のため検査出来ず。保育園に入ると集団行動が全く出来ず、部屋に入ることも難しい毎日が続いた。やっぱりこの子はみんなと違う。発達障害? もしそうなら私の違和感の説明は全て辻褄が合う。2歳になった頃、児童発達専門の病院に連れて行った。するとたった5分で診断がついた。
「この子は、一生誰かの力がないと生きていけない。よく頑張ったよ。お母さんのせいじゃない。お母さんが強くならな。前向き!」
医師の言葉を冷静に聞き、ショックという気持ちより診断がついたことにほっとした。はずだったが、帰りの車の中で息子と2人になった瞬間に今まで体験したことのないくらいの涙があふれた。大の大人が、久しぶりにワンワン声をあげ泣いた。それでも、夫は結果を聞いてもピンとこず、どこが病気なん、となかなか受け入れることが出来ない様子で関わり方を理解するまで時間を要した。多くの親が成長を感じる参観日や運動会が、私達にとってつらい、消えてしまいたい地獄の時間。泣き叫び支援の先生に抱っこされている姿。違う部屋に逃げてしまう。泣いて奇声を発して先生を叩いて噛んで、時には椅子を投げて暴れまわる。お友達とのトラブルも日常茶飯事。高い所が大好きだったので保育園の柱から屋根に登り下りてこなくなる。車に乗るのも嫌がり保育園から家に帰るまでに毎日2時間。このまま車ごと崖に落ちようかと親子で泣きながら帰った日々。
「ママ、いつもと違う道。はいやり直し」
と暴れ出す息子によって我に返る日常。
丁度そのころ私は、3人目の子供を妊娠中。
悪阻があり仕事でくたくたの毎日。もし生まれてくる子も障害があったら。3人も育てられる自信がない。もっと早くに診断がついていたら。そんな気持ちがお腹の赤ちゃんに伝わってしまった。妊婦健診で突然胎児死亡の診断。どうして私の子供ばっかりこんな目に。あんなことを思った罰、家族で水子供養に。
「大丈夫やで。また赤ちゃん戻ってくるで。ママが笑ったり泣いたりする姿見て、助けるために産まれた。その時3人いたから。私が1番に行くって約束してん。だから心配しやんでも、もう1人後から来るで。出てくるの失敗しただけと思うで」
胎内記憶が本当にあるのかは私には分からない。それでもこの時の娘の言葉が今度もずっと私の支えになった。胎内記憶の本を買い、私はこの子達に選ばれた母親だ。自分を責める必要なんてない。赤ちゃんごめんね。ママは3人のお母さんになるからね。元気になってもう1度会いに来てね。そう供養の言葉をかけた。またそんなことを願った罰が当たったのかもしれない。4人目の子供は、FLNA遺伝子異常という超希少疾患で全身にさまざまな関連疾患を抱えて産まれてきた。娘が産まれた当時この病気の研究は進んでおらず、日本に同じ疾患の子はいない、同じような症例の報告がなく治療法もわからないと言われていた。この診断がつくまで4年がかかった。生まれつき心臓と肺に病気があり、泣いたり便を気張ったりするだけで命を落とす可能性があり、いつ命が尽きるか分からない状態が続いていた。赤ちゃんは泣くのが仕事。娘の場合、命を守るために泣かせる訳にはいかない。水分制限があったため常にお腹が減っており、ミルクを求め泣く。そのたびに睡眠薬を飲ませて寝かせる。目が離せなかったので、医師や看護師が体調確認に来た瞬間に「私、先トイレ」と走ったことも数知れず。医師や看護師は、母忙しいと笑いながら娘を見てくれていた。そんなある日の夕方、娘が、自力で便を気張ってしまった。みるみるうちに顔色が悪くなり全身にチアノーゼが。真っ黒になっていくわが子の名前を呼び、泣きながら抱くことしか出来なかった。変わってあげることも出来ない。私の命を削って分けてあげることすらできない。異変を感じた仲間がナースコールし、医師の処置が始まった。病院で出会った母達が集まり私の背中をさすって喝を入れてくれた。
「ママが信じたらんな。杏(あん)ちゃんは強いから大丈夫」
何で皆そんなに強いの? 先輩母は、ここに入院してる子達は皆こんな日を乗り越えて来たからや、と。言葉の通り一命を取り留め、ICUに運ばれた。呼吸器をつけ、触る所がないくらいの医療器具に囲まれた。このままでは肺移植しか助かる方法がない。今の日本の医療では、赤ちゃんの肺移植はまだ1例も行われていない。このまま何もしなければ、助からない。そのような説明があったかと思う。当時の私は、目の前で懸命に生きようとしているわが子を見て、こんな姿になって、ママが健康に産んであげなかったから、元気に戻ってきてなんて望んだから、逆に苦しめてしまったと。このまま死んでしまうのなら、もう何も痛いことはさせたくない。もう私の腕の中で死なせてあげたい。きょうだい達に会わせてあげたい。そんな気持ちばかりで心は荒んでいった。それでも医師は、こんな私に対して、心臓外科の医師と話す機会を作ってくれた。
「このままだったらもって2日。もしかしたらこの瞬間に命が尽きるかもしれない。術中死のリスクもあり、手術が成功してもたった1週間ほどしか伸ばすことが出来ないかもしれないが、心臓手術をすれば肺の治療が出来るようになる。少しでも家族と過ごせる時間が長くなる可能性があるなら、この子の生命力を信じたい」
1日だけ時間をもらい、夫と娘の手術のことはもちろん、息子の障害のことも話し合った。娘が入院中、上の2人の子供にはほとんど会えておらず、手術が成功したら家に連れて帰って家族で過ごしたかった私達は、娘の生命力を、医師の言葉を信じることにした。手術室に運ばれる娘のことを主治医も一緒に見送ってくれた。心臓外科の医師に向かって深いお辞儀をしてお願いします、と。後から看護師に、ずっと泊まり込みで治療してくれていたこと、論文を探し、難病児が集まる他の病院の医師に電話をかけ、治療方法を探してくれていたことを聞いた。こんなにも周りの人達が娘のために頑張ってくれていたのに。娘は、生きることをまだ諦めていないのに。一生かけて償うのでどうか娘を助けてあげてください。夫と2人で手術前に近くの神社の御神体に登り、無事を祈った。感染対策のため両親しか娘に会うことは出来なかったが、親戚や家族が遠くから会いに来てくれ、友人たちは手紙を送ってくれ励ましてくれた。奇跡は起こり、娘の手術は無事成功した。しかし、本当の戦いはこれからだった。手術で心臓の問題が解決したことで心臓の血流が良くなり、肺の疾患が急激に悪化した。心臓と肺の両方に疾患を抱えている娘の場合、どちらか一方が良くなるともう一方は悪くなる、治療は難航し手探りの治療であった。治療のことは、もう主治医に任せよう。私達は、毎日笑顔で娘に会いに行く。娘がICU管理になったことで、付き添うことが出来なくなったため、上の子供達は
「ママがお家に帰ってきた」
と無条件に喜んだ。当時上の子達は、私の母や夫が順番で見てくれていたが、長期入院になるにつれ、多動があった息子の世話は母では体力の限界で、体調を壊して寝込んでしまうようになった。そのため夫が有給を使ったりしていたが、それだけでは足りず、会社を辞めた。私達は少しでも子供と長くいることを選び、独身時代の貯金で生活することを決意した。昼間は上の子達を保育園に預け夫婦でICUに通った。今から思えば他の方法はあったかもしれない。夫は娘のことはもちろん、私の精神状態が心配だったのだと思う。呑気に思えるかもしれないが、面会時間までの間、夫とランチをしたりもした。どうでもいい話をした。しんどいからこそ笑うんだ。娘の前では泣かない。このランチの時間が私達の切り替えの時間。そして、本人の生命力・医師の頑張りのおかげで、娘はどんどん元気になり、ICUから一般病棟に戻ることが出来た。それは同時に上の子達とまたしばらく別々の生活が始まることでもあった。きっと息子は暴れるだろう。泣き叫び私から離れないだろう。そう思っていた。息子は長女の足にへばりつき泣くのを堪えていた。その姿を見た時に、この子は、何も分からない子なんかじゃない。こんなにも頑張って成長している。この子の何を見て来たんや。生きたくても生きられない子もいるのに、なんてちっぽけな悩みやったんや。命さえあればなんだって出来る。皮肉にも娘の病気が、息子の障害を本当の意味で受け入れることが出来たきっかけとなった。その後娘は何度か危機はあったが、約2年間の入退院を繰り返し、在宅酸素を要する状態で退院した。今でもこの2年間を思い出すと、苦しかったことより楽しい思い出の方が多い。仲間達と一緒に泣き笑い、多くを語らずとも分かり合え、苦楽を共にした仲間達の存在が、自宅での生活を私の心を支えてくれた。病院受診では、知らないおばあちゃんが娘を見て
「かわいい子やな。強くなるんやで」
と身代わりお守りをくれた。可哀想じゃなくてかわいいという言葉に勇気つけられた。
絶対に泣かしてはいけない安静が必要な娘。
些細なことで泣き叫ぶ多動の息子。両極端な子育ては想像を超える大変さでもあった。もちろん心無いことを言う人もたくさんいた。退院記念に水族館に行った日のこと。まだまだ、息子の特性を理解しきれていなかった私達はすぐに後悔することに。知らない人達、初めての場所。人の頭で魚が見えない。パニックを起こし暴れ始めた。同世代の子供が耳をふさいで、うるさい、耳が痛いと怒っている。母親は、
「こんなしつけ出来てない子こんな所連れてくるな。迷惑にも程がある。あ。下の子病気やから可哀想やから許してあげ」
わざと聞こえるように言った。私は娘を夫に預け長男を抱きかかえ、魚も見ず出口に走った。こんな場所に連れてきた私が悪かった。息子にとっては、特別な場所に連れて行くことよりも、毎日同じことを繰り返し、安心できる場所を作ることの方がずっと幸せなことだったのだ。当時は息子をけなされて悔しくても言い返すことも出来ず。娘を可哀想と言われ、可哀想なんかじゃないと否定することも出来ず。人目を気にして泣きながら逃げることしかできなかった。それでも懲りずに行き慣れた場所なら大丈夫だろうと、近所の花火大会に連れて行ったことも。人がいっぱいで花火が見えないと電信柱に登り、警察の方のお世話に。家を飛び出してしまうことも。娘とは違う意味で目の離せない子供であった。今では、友人達が協力してくれ、娘の酸素の機械を持ち込める場所の事前調査をしたり、息子に行動パンフレットなどを作ったりして、皆と一緒に旅行に行けるまで成長した。長女は、息子入学前、
「弟が来たら恥ずかしい。友達や先生に迷惑をかけるに決まっている」
と初めて弟の障害のことで泣いた。凸凹発達や多動で発達検査を受けられないことも重なって知的障害の診断もおりず、養護学校にいけないという、法律の壁にぶつかった。大変さでの判断じゃないんや、本人を見ず診断名でしか判断出来ない社会に法律にすら怒りを感じるも、何も出来ない自分の無力さを痛感。娘の通う小学校に相談はしたが、発達障害の子供の通学は、親が付き添うことが当たり前という環境であった。しかし我が家の場合は、次女の酸素ボンベを抱えてベビーカーに乗せて息子を連れて行かなければならず、何度か練習したが、ベビーカーに息子が乗りたがり、酸素ボンベと次女を私が抱っこ、長女が2人分のランドセルと荷物を抱え1時間。すれ違った人には同情され、時には息子を叱る人まで。叱られた息子はもっとひどい状態に。入学式では数名の男の教員に抱きかかえられ車に運んでもらった。1年生の支援の先生が1年で3人変わった。しかし、3人目の先生との出会いが、その後の私達の人生を大きく変えていくことに。虫に詳しい先生で、パニックになり教室から脱走する息子に気が済むまで付き合ってくれ
「真那斗はすごいな。僕らには見えていない世界が見えていて。僕らがなんの疑問も感じない世界に疑問をもって一生懸命生きている」
といつも褒めてくれ、虫を通して息子の居場所を作ってくれた。その先生との出会いで、医療ケアが必要である次女も、地域の小学校に通わせたいと思うようになった。このままでは何も変わらない。周りの環境を変え人を納得させるには、自分が賢くなるしかない。弱かった母親とはもうさよなら。そう思い、情報も集め勉強もした。元々看護師でもあったが小児科経験はなく、医療的ケア児等コーディネーターの資格を取ることにした。医療行為が必要な子供が、地域の小学校に通うということは、ここでは伝えきれないくらい、たくさんの問題や課題がある。しかし、病気や障害があっても健康な子供と同じように地域で育てていきたい。どんな子供も平等に学校を選ぶ権利がある。この子達にとってはこれが当たり前の姿なのだから。次女にとっての酸素は、私が、眼鏡をかけるのと同じくらい普通のこと。もちろん、何年も話し合いはかかり理不尽な対応に涙した日もあった。地域の保育園にはここでは書けないくらいの酷い言葉をなげかけられ、酸素を理由に入園も断られた。しかしそのおかげで、看護師在住の園に入園出来、理解のある先生達が一緒に市との交渉にも加わってくれるようになった。娘のパンフレットを作製し、それを元に講習会などを開いた。その後は、本当に多くの人に助けられ、看護師不在の親の付き添いなしという環境下に関わらず、無事に地域の小学校に入ることが出来た。現在2年生になった娘は、息子同様素晴らしい支援の先生に出会い、酸素ボンベを自分で運び、時には友達の手をかり関係性を築いている。学校の先生方も、伝え続けたことで全体の問題であることを理解し、もちろん、健康な子供と比べ沢山の配慮は必要だが、酸素をしている以外は他の子供達と変わらない、と平等に接してくれている。
現在6年生になった息子は、友人に誘われ少年野球をしている。その友人の母親は、私を支えてくれる友人の1人でもある。悩んでいる私の代わりに、監督や周りの親たちにも事前に交渉をしてくれていた。お気に入りの決まった服しか着なかった息子が、満面の笑みでユニフォームを着た日の喜びを、私は一生忘れることはないだろう。試合中も虫が気になってしまい集中力が切れる。知らない人の目が、怖いと固まってしまう。私がいないと練習に通えない息子。そんな私達に、コーチは、勝つことだけが全てではない。野球が、好き。この気持ちがあれば大丈夫。野球でヒット打つだけが全てじゃない。ボール磨きの1番だって、上手くなるまでに時間がかかったって、その姿を見て他の子も学ぶことがたくさんある。真那斗は迷惑なんかかけてない。うちの息子頑張っている、と堂々としていたらいい。俺たちに任せて、少しずつ離れる時間を作ればいい。皆同じ気持ちやから、と私達に社会での居場所を作ってくれた。「おらは、みんなと違う」と泣いて自信をなくしてばかりいた息子も、チームに出会い本来の笑顔を取り戻し、数々の困り事を一生懸命乗り越えている。現在は、小学校入学時と同様に、知的障害がなければ中学校では支援級に入れないという、またもや法律の壁と戦っている最中だ。いつになったら書類や診断名ではなく本人を見て理解しようと声をあげる人が増えるのだろうか。しかし、私達にはもう怖いものはない。どんな困難の日々があったとしても、乗り越えていける自信がある。
そして、長女は中学校に入る頃、弟のことを友達に言われ、公園で泣きながら
「弟が障害者でごめんなさい。迷惑をかけてごめんなさい」
と土下座したことがあった。私は泣きじゃくる娘を迎えに行き自宅に連れ帰った。いつも冷静な娘が泣きながら
「ママが障害者なんか産んだから、私の人生まで台無しや。差別があかんなんて学校は嘘ばかり。家族にしか本当の大変さ分かる訳がない。もう死にたい。私を殺してよ」
ずっと我慢していた思いがとうとう爆発した。
こんなにも長女に負担をかけていたなんて。
私は、悔しくてもう一度娘をつれて公園に戻った。そして娘の友達にこう言った。
「真那斗は、発達障害という障害をもっている。だから、興奮して迷惑をかけることもある。迷惑をかけていたとしたらおばちゃんが謝る。だけど、この子が謝る必要なんてない。障害がある弟がいることも含めて娘だから。それも含めて友達としてこの子を支えて行ってくれないか。それが出来ないなら、娘を責めるなら、もう仲良くしてくれなくて結構だ」
親として正しいかどうかなんて関係ない。娘を守る方法がそんな形でしか思いつかなかった。そんな長女も、今では2人のことを受け入れ、友達にも囲まれ、長女らしさを取り戻した。同じように障害を抱えたきょうだいをもつ子供達のこと支える仕事につきたい、そのためには病気や障害のことを勉強しないといけないと看護師を目指している。
病気や障害を抱えた子供を持つ親は、時に自分を責め、迷惑をかけているのではないかと、社会から孤立し孤独と戦っている。私はたまたま、運よく理解のある人達に恵まれ、子の成長を多くの人に見守ってもらうことが出来た。母親失格同然だった日もある。子供と一緒に死んだほうがずっとましだと思いつめた日も、前向きに生きて行こうと思えた日も、強くなろうと決めて様々な問題と戦っていくと決めた日も。どんな時も受け止め、ずっとそばで支え、私を強くしてくれた大切な人達がいた。
私達は、絶対に諦めない。どんな病気や、障害があっても。そして病気や障害の程度の中にも理不尽な差別はまだまだ沢山ある。しかし、諦めなければ、絶対に道は開けると信じている。前例がなければ作ればいい。どんな子供も当たり前に生きていけることが出来る世の中を作りたい。そしてそんな世の中を作るため、私は伝えることを辞めない。どんなに時間がかかっても、知ってもらうことが第一歩だと教えてくれた子供達のために。

受賞のことば

佳作という賞を頂けた喜びと同時に身の引き締まる思いです。どんなにつらい事があっても、小さな幸せに気付く事が出来る人こそが大きな幸せを手に入れることが出来る。そんな想いを伝えたくて一文字一文字に想いを込めました。今後も多角的な視点で発信していけるよう、この賞に恥じないよう前向き人生をモットーに精進して参ります。
最後になりましたが、私達家族に関わり、支えて下さった全ての皆様に感謝致します。

選評

正に「伝えたいことがありすぎて」。世の中は、病気や障害のある子ども、きょうだい、親御さんを温かく勇気付ける人と冷たく傷つける人の玉石混交。「ベビーカーに息子が乗りたがり、酸素と次女を私が抱っこ、長女が2人分のランドセルと荷物を抱え1時間」ができてしまうパワフルさに周囲からの同情や叱りは不似合いだと感じました。では、何が求められ、私はそして社会は何ができるのか? 大きな宿題です。 (藤木 和子)

以上