第56回NHK障害福祉賞 佳作
〜第2部門〜
「米ちゃんの癖と地域のみんな」

著者 : 金谷 祥枝(かなや さちえ)  大分県

米ちゃんには収集癖があります。人の物を盗ってはいけないというのは分かりますが、欲しいと思ったら気持ちを抑えることができません。部屋には拾ったものや、泥棒したもので埋め尽くされています。私が子供の頃、投げっぱなしにしていて無くなったものや、どこに置いたか分からなくなると、米ちゃんの部屋に行きます。米ちゃんの部屋に行くと大抵解決できます。そういう状態なので、私の家は大切な物は置きっぱなしにすることができません。子供の頃の習慣で、私は今でも使ったものは、すぐに片付けます。
母から聞いた話では、米ちゃんは11歳の時に我が家に来たそうです。児童相談所から職親の依頼を受け、米ちゃんは我が家に住むことになりました。当時、「就学免除」という制度があって、米ちゃんは対象児童でした。だから学校に行ったことがありません。私が生まれる前から米ちゃんは我が家にいて家の仕事をしていました。私の母を「姉ちゃん」と呼び、職親である祖母のことは「お母ちゃん」と言います。私が生まれる前から米ちゃんは我が家にいて家のことはなんでも知っている先輩です。だから私が50歳になった今でも「お前はバカか」と叱られることが度々あります。
米ちゃんは知的障害者です。兄弟は6、7人いて米ちゃんの祖母が子供達の面倒を見ていたそうです。ホームレスのような状態で生活していましたが、児童相談所が米ちゃんを含む子供達を保護しました。ちょうどその頃、家の仕事で人手が欲しかった我が家へ米ちゃんは来ました。11歳といえば遊びたい年頃です。一緒に生活していた祖母や兄妹と離れ離れになり、突然知らない土地に連れて行かれました。それが最良の選択と行政が判断したとしても、米ちゃんにとっては不安だったことでしょう。それでも米ちゃんは受け入れ、仕事を覚えていきました。もともと愛嬌があって人懐こい性格、職親である祖母が行商に連れ歩いたこともあって町内では知らない人がいないくらい「秀子さんのところの米ちゃん」になりました。
私が生まれる前から米ちゃんは地域にいて生きています。だから収集癖があることも、つい盗ってしまうことも、地元のみんなは知っています。今でこそ障害を持った人のための法律の整備がされました。しかし祖母が米ちゃんを受け入れた時代は、今とは確実に違っていたはずです。福祉を勉強したことのない祖母は、米ちゃんと一緒に行商に行き続けました。
私の実家は島根半島の東の端っこ、日本海に面したところにあります。魚を釣りにくる人が多く、米ちゃんも魚釣りが好きです。自宅から少し離れたところにある米ちゃんの部屋には釣り竿やリール、クーラーボックスがたくさんあります。海岸を歩きながら釣り人の忘れものや捨てられたものを探します。海岸にはいろいろなものが落ちています。巨大なダイオウイカが海岸に打ち上げられていることもあり、波打ち際のチェックも怠りません。毎日のように海岸を歩いてパトロールして今までにものすごいものを見つけたことがあります。
いつものように歩いていた時のことです。周囲をキョロキョロしていると海に浮いているものを見つけました。岩に乗り近づいてみると、浮いていたのは人でした。米ちゃんは慌てて海岸から車道へ行き、通りかかる車に大声で叫びました。車を停めてくれたのは、同じ町内で米ちゃんと親しくしてくれているおじさんでした。
「人が浮いちょる!!」
とおじさんに伝えて警察を呼んでもらいました。おじさんは用事があって出かけようとしたところを米ちゃんに呼び止められ、丸一日警察の聞き取りに付き合ってくれたそうです。おじさんも米ちゃんが警察の質問に話せそうにないから付き合ってくれたのだと思います。その時のことを米ちゃんは
「イカを探して歩いちょったら、人がプカプカ浮いちょった。えらいもん拾ったわ」
と母に話したそうです。母は、
「米に見つけてもらいたかったのだろう。米さん見つけてごいて、だんだんね(ありがとう)ってあの世で言っとるわ」
と話していました。米ちゃんだからこそ特別な経験をするのかもしれません。
米ちゃんは寝る時以外は私たちと同じ家で生活をしています。家の中にお菓子や現金があると、サッとポケットに入れます。我が家で生活するようになってから、祖母も私の両親も
「泥棒したら警察に連れて行かれて牢屋に入らんといけんようになあだど」
と米ちゃんに言い続けてきました。以前、近所のおじさんが、
「米が立派な釣り竿を持っていたから、どこかで盗ってきたのかもしれん。あったところに戻しておけ、と言っておいた」
と話に来てくれたことがありました。その後、釣り竿をどうしたのか聞くと
「あったところに戻しておいた」
と米ちゃんは言いました。幼い時に良い環境とはいえない状況で生活をしていたから収集癖や泥棒をするようになったのではないか。食べるものが十分になく生きていくために必要だったのかもしれません。
ある日警察から電話がかかってきました。母は以前から心配していたように、あれほど言っていたのに、ついに米ちゃんが逮捕されたのかと思いましたが、事情を聞くとそうではなかったようです。米ちゃんが松江道を自転車で走っていたと通報があり現在保護している、という連絡でした。自転車を括り付けたパトカーに乗って米ちゃんは帰って来ました。
米ちゃんには身寄りがありませんが、以前は家族のお墓があると言い、毎月、松江市にあるお寺さんに墓参りに行っていました。自宅から30キロ離れている松江市に自転車で行きます。車で行っても片道1時間はかかる道を、米ちゃんは自転車で行きます。数年前に松江道ができ、車で行くのにはとても便利になりました。しかし新しい自動車専用道路ができたことによって、米ちゃんが通っていた道も変わってしまったようです。
お巡りさんの話によると、
「松江道を自転車が走っていると通報があり保護をしたが、質問をしても答えることができない。身元を確認できるものも持っていなかったが、なんとか聞き取れた言葉を調べて連絡が取れた。事故が起こらなくて良かったが、今後は、このようなことがないように」
とのことで、厳重に注意されたものの、米ちゃんは逮捕されませんでした。
米ちゃんは字が読めません。しかも子供の頃から前歯がないので言葉がはっきりと話せません。事情を聞き取ったお巡りさんは大変だったと思います。自動車道に入るなと言われても、字が読めないので防ぎようがありませんが、母がいつまで墓参りに行くのかと聞くと
「もう墓は無くなってしまった。もう行かん」
と話したそうです。母は、もし米ちゃんが亡くなったら家族や親族と同じお墓に入ることができるように手配しようと考えていた矢先に、墓がなくなってしまったそうです。もう入る墓もなくなってしまったと悲しそうに言う米ちゃんに、母は、
「うちと一緒の墓に入ったらいい」
と伝えると安心したようです。米ちゃんに松江道を走った時のことを聞くと
「警察がピーポーピーポーやってきて、自転車を乗せて松江から連れて帰ってくれた。楽だったわ〜」
と笑いながら話していました。
私の父は建設業の仕事をしていて、母は農業をしています。米ちゃんは家のことや両親の仕事を手伝い給料をもらいます。生活全般のことは祖母が管理していて、月に一度お給料の日に米ちゃんはお小遣いをもらいます。そのお金で大好きなコーラ、インスタントラーメン、アンパンを買います。食事は母が3食とも準備はしていますが、それを食べた上に甘いものを食べる。それが米ちゃんの楽しみなので誰も注意することはありませんでした。
その米ちゃんも今年70歳になりました。今は私の両親と3人、実家で生活しています。10年くらい前に糖尿病と診断されました。米ちゃんにとって一番の楽しみは食べることです。お菓子や炭酸飲料が好きなのに食事制限をしなければいけません。最初は食事、運動療法で治療をしていましたが、糖尿の数値が安定せず薬を飲むことになりました。
今までの生活とは違い、食事以外で甘いものを食べてはいけないと母は話をします。薬も忘れず飲むようにも言いました。それでも良くならず、血糖値を安定させるために入院することになりました。入院して食事が管理され、薬もきちんと飲むことができると数値は安定し3週間後には退院することができました。しかし家に帰っても入院前のような生活では、また悪化してしまいます。薬を飲めない理由を母は考えました。朝、昼、夜で飲む薬の種類が違います。しかも糖尿病の薬は食前薬でした。米ちゃんにしてみれば「内服しなさい」と言われても何をどうしたら良いのか分かりません。どうすれば良いのか分からないことを伝えることもできません。そこで母は、朝、昼、夕の薬を朝は赤、昼は黄色、夕は青と色のついたタッパーに別々に入れ米ちゃんに色の意味を伝えました。それからは決められた時間にお薬を飲むことができるようになりました。
母は困ったことがあるといろいろな人に相談をします。たくさんの人に相談して、さまざまな意見やアドバイスをもらい余計混乱することもあります。母は一人で悩むよりも、さまざまな人の意見を聞きたい性格です。米ちゃんの糖尿病についても親戚や近所中に相談するので病気のことは地域のみんなが知っています。
「この間、米が自動販売機でジュースを買おうとしとった。お前、そんなもん飲んだら死んでしまう、と言っといた」
と近所のおじさんが教えてくれたそうです。
少し前、私が帰省した際に、米ちゃんにカロリーゼロのコーラをあげたことがあります。その時、
「手や足を切るようになるから、いらん」
と言って断られました。誰かに言われたのでしょう。糖尿病の食事療法は障害のない人でも継続が難しく、悪化することもあります。糖尿病が完治することはほとんどなく、一生病気と付き合っていく必要があります。食事、運動療法の必要性が分かっていても続けることは大変です。それを地域のみなさんが米ちゃんのことを心配して、分かる言葉で気をつけて生活しないといけないことを伝えてくれる。「悪化すれば手や足を切らないといけなくなるかもしれない」ということを米ちゃんは理解していました。近所のおじちゃんやおばちゃんの言葉がどんな薬よりも効果がありました。その効果もあり米ちゃんの血糖値は安定していきました。
家族だけでなく地域のおじちゃんやおばちゃん達が米ちゃんのことを見守り、心配しています。米ちゃんもそのことはちゃんと理解していて魚釣りに行くと、釣れた魚をお世話になった人に配ります。海岸で拾うダイオウイカもお世話になった人に配るために探しています。米ちゃんには米ちゃんなりの地域との付き合いがあり、お世話になった方へのお礼の仕方があります。
私は結婚する前に自宅に夫を連れて行くときに、かなり悩みました。我が家には米ちゃん以外にも知的障害を持った人が3人いて一緒に生活している。そのことを夫にどう説明すれば良いのか分かりませんでした。普通の家とは違っています。それを理由に結婚を断られるかもしれない。それでも事実は変えられないし、結婚できなかったとしても仕方がないと開き直って自宅に招待しました。一緒に自宅に行った後、夫は
「まだ障害がある人が今のように生きることができなかったときに、仕事や住むところを与えることはすごいことだよ」
と言いました。働くところを与えることは、自分が必要とされているということ、住むところがあることは安心して生活ができることなのだと。働く場所を与え社会から必要とされる。そして地域と繋がり社会の一員として生きていく。
「それをした、あんたのおばあちゃんはすごい人だよ」
祖母のことを褒めてくれた人は私の夫になりました。
私は今、障害のある方が福祉サービスを利用するための支援をする相談支援専門員の仕事をしています。生まれた時から障害のある人が身近にいて、それを特別なことと思わず子ども時代を過ごしました。祖母も両親も米ちゃんのことを私たちと同じように接し、私の子供も米ちゃんに子守りをしてもらい遊び相手になってくれました。私の子供たちを米ちゃんは自分の孫のように可愛がってくれました。私の子供たちも
「米ちゃんたちに障害があるなんて思ったことはないよ」
と言います。
私の夫は少年院、刑務所に勤務していました。罪を犯す人は知的能力に障害があったり生育環境が良くなかったりと、能力的なことや環境要因が大きいと話します。善悪の価値観が理解できず犯罪をしてしまう。十分な食事ができなければ罪を犯すこともある。衝動を抑えること、コントロールすることが難しく罪を犯してしまうケースがあると言います。
私は仕事をしていて思うことがあります。障害のある人に支援を行う時、地域や社会に一緒になって考えてもらうことができるか。障害のある人と一緒に生きていくためには、いろいろな人から知恵をもらいベストな方法を考えること。祖母が行商に一緒に連れて歩き、母が米ちゃんの糖尿病を相談しまくりました。みんなが心配し見守ってくれたからこそ米ちゃんは地域で生きることができたのだと思います。祖母や母、地域の人たち、そして米ちゃんから私は学びました。私の仕事の中心に米ちゃんはいます。

受賞のことば

思いがけず素晴らしい賞をいただき、ありがとうございました。
現在、私は障がい者の相談支援に関する仕事を行っています。仕事をしながら感じることは、米ちゃんのような人が地域には必ずいて、少なからず困り事を抱えているということです。地域に困っている人がいるのなら、そこに心を寄せ「手伝ってあげよう」という社会ができるといいなあと感じています。
最後に、米ちゃんありがとう。帰省の際はお土産買っていくよ。

選評

知的障害のある米ちゃんを幼い頃から引き取って世話をし、しかも地域の人たちにオープンにして相談もする。米ちゃん以外に3人も引き取っている。米ちゃんを育て、何十年も見守ってきた金谷さんの祖母と母は、すごいなと思うと同時に、近所のおじちゃん、おばちゃんの理解と見守りもすごいですね。経済性優先、効率主義支配のこの国で希薄になった地域共同体の人間性の豊かさを改めて見直す必要性を感じました。(柳田 邦男)

以上