第56回NHK障害福祉賞 佳作作品
〜第1部門〜
「ずっと、つづく」

著者 : 桑田 彩那(くわだ あやな) 岡山県

私は、自分にアスペルガー症候群という障害があることを小学2年生で知りました。同じ年に今も通院するクリニックで診断を受けるまでに、いくつもの病院を母と一緒に受診して回っていました。その中で私は「どうして体が元気なのに病院に行くの?」という疑問を抱き、母に何度も聞きました。診断を受けて間もなく、母は丁寧にそして正直に、私に障害があるということやアスペルガー症候群について教えてくれました。それは想像していたよりもはるかに複雑な回答でした。何だかすごい話になってきたぞと戸惑った記憶もあります。それでも、母が私の疑問に真剣に向き合って答えてくれたことが、私はとても嬉しかったです。早い段階で自分に障害があるという事実を知れたことは、私にとって今の自分をつくる大切な要素であったように思います。もう約12年もの間、私は自分の障害に関心を持ち続け、向き合い続けることができました。その過程で、障害があることを素敵に思えたり卑下したりすることを何度も何度も繰り返しました。これは、私の障害受容の変化の記録です。
告知を受けてからの私は、アスペルガー症候群という障害に興味を持つようになりました。母の本棚から「アスペルガー症候群」と背表紙にある本を探して、保護者や教師向けに書かれたそれらをよく勝手に読んでいました。そこに書いてあることの中には、わかるわかると納得できるものもあれば、私はそうじゃないと思うものもありました。後者のような記述に出会うと、実は私は障害者ではないのではないだろうかとも思いました。母は、同じ障害を持つ人であってもみんなそれぞれに違うこと、本に書いていないことでも障害として体験することがあるかもしれないことを教えてくれました。
私は、小学4年生の3学期から特別支援学級に在籍することにしました。支援学級では、知的障害や発達障害など何らかの障害がある友達と出会いました。その多くは、自分がなぜこのクラスにいるのか全く知らなかったり、何か理由があるんだろうなと薄々気づいていても保護者から何も聞かされていなかったりする人たちでした。私はこの時初めて、自分と同じように障害を持っていても、そのことにあまり興味が無かったり、話したくなかったりする人がいることを知りました。そして私は、小学校を卒業する頃には、自分は障害を受容していると考えるようになりました。この時の私にとっての受容とは、自分自身に障害があることを知っていて、困り感を理解しているということでした。知っている、理解している、それがそっくりそのまま受容していることだと考えていたように思います。周りの支援学級の友達と比較して、私は確かに障害のことを知っているし理解している、そして何より興味がある、それイコール「自分は障害を受容できている」でした。
中学3年間も引き続き特別支援学級に在籍していました。中学3年間の記憶は忘れてしまいたいものばかりです。支援学級の友達は大切だったけれど、先生のことは信頼できず衝突がとても多かった日々でした。先生たちの私や他の支援学級の友達に対する態度に、怒りや悔しさをどうしようもないほどに感じていました。特別支援学級で出会った仲間たちはみんな、本当に素直で優しい人たちでした。それぞれに問題行動を起こしてしまったり、けんかをして関係が気まずくなったりする時もありました。それでも、気を遣ったり遣わせたりしながらみんなで助け合えていたと私は思います。先生たちより、人の痛みが分かったり人に優しくしたりできる知的障害や発達障害のある人の方がよっぽどましだと思っていました。そう思うことで、自分を肯定しようとしていたのかもしれません。中学卒業の段階でも、私は障害を受容できていると思っていました。私には障害があるけれど、その分他人とは違う経験ができ、普通の人が気づかないことに関心を向けることができていると感じていました。そう思えていることや、自分自身で障害を前向きに評価していることを理由として、私は障害を受容していると思っていました。
高校は、地元の普通科高校に進学しました。高校入学前、私は久しぶりの「みんなと一緒」の生活に不安と期待の両方が胸いっぱいにありました。学校側には、事前に自分の障害のことをお伝えしていました。高校で出会えた先生方には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。先生方の、さりげない配慮がありがたかったし、校内ですれ違いざまにくれた言葉がとても優しくて嬉しかったです。支援学級ではほぼマンツーマン授業だったのが、高校で一気に集団授業となりました。ペアワークやグループ活動などで困難を感じましたが、授業らしい授業を受けられることが楽しかったです。普通科で授業を受ける中で、きれいにノートを取ることの喜びも知ることができました。学年である程度良い成績を取れたことが、自信にもなりました。
しかし高校では、私にとって忘れられない大きな出来事がありました。入学後間もなく、クラスメイトが「ガイジ」という言葉を使っているのが気になるようになりました。最初は、漢字の「害児」が思い浮かびませんでした。しかし、1度や2度ではなく何度も聞くうちに、「ガイジ」が「害児」であることに気づきました。私はその言葉が、まるで若い人の間で使われる流行語と同じような感覚で使われているなと思いました。私自身は面と向かって言われたことはないけれど、自分のような存在を馬鹿にされているように感じて、悔しくて仕方がありませんでした。涙をたくさん流したし、抑えきれないほどの怒りを感じていました。「害児」という言葉を使う人たちは、言われた本人だけではなく、その周りにいる人をも傷つけ得ることに気づいていないと思いました。当事者が意外と身近にいる可能性を想像できていないとも思いました。もしも私に障害が無かったら、私はこのようなことに立ち止まって考えることができなかったかもしれないし、その言葉を使うクラスメイトに同調していたかもしれません。障害があるからこそ気づけることや学べることがあると思うと、私は障害があっても悪いことばかりではないと思うことができました。厳密に言えば、そう思わないと「害児」が頭上を飛び交うあの教室にいることができなかったです。そのうち、私は同世代の「普通学級にいる人」が怖くなりました。私自身がそうであるように、普通学級に在籍しているのは健常者だけではなく、何らかのマイノリティーである人もいるでしょう。何より、健常者のすべてが自分を差別し、障害者のすべてが自分を受け入れてくれるわけではないでしょう。それらのことを理解しても、普通学級の人が怖いという気持ちは拭えませんでした。この気持ちは、友達をつくることへの葛藤に繋がりました。友達がいる人への憧れやうらやましさはありますが、私は誰かと友人関係になることが怖いです。 高校以降、自分に障害があることを悲観することが増えました。高校は私にとって約5年ぶりの普通学級でしたが、「ふつう」に見えるクラスメイトと障害のある自分とを比較して落ち込むことが多くなりました。支援学級時代は、自分の周りの多くの人が自分と似た困り感を抱えているようで、他者との違いをあまり意識せずに済んでいました。周囲の環境が変わったことだけではなく、私自身が少しずつ成長していることも、近年私が悲観的になりやすい理由の一つだと思います。以前よりも周りを見る力や理解力がついてきて、みんなと自分の差に気づいてしまうのです。小中学生の時も、障害をマイナスなものとして捉えることはありましたが、その頻度は高まっている気がします。高校卒業の時点で、私は自分が障害を受容しているのか否か、わからなくなりました。
高校卒業後は大学に進学しました。大学でも、入学前に障害があることをお伝えして配慮をお願いしました。
大学生になり苦労することの内容が変わってきました。まず困ったのは電車通学です。電車や駅には、同年代の若い人が多いからもともと苦手意識がありました。大学受験に合格し進路が決定してから、母と何度も電車通学の練習をしていました。それでも、自分の想定をはるかに上回るほど電車通学はつらいものです。朝の電車は大勢の人が乗っていて、遅延などのイレギュラーな出来事が起こりやすいから大きな不安を感じます。駅に着いて人の波に乗って構内を移動することや、乗り換えで満員の車内に入っていくことにストレスを感じます。大学での過ごし方にも困ります。高校までは自分の教室も座席も決められていましたが、大学ではそうではありません。お昼休みに過ごす場所もどの席で授業を受けるかも決められていないので、自分で探して決めないといけないのが大変です。アルバイトは、挑戦してみたいという気持ちがあり実際に面接を受けましたが、人間関係や気分の波がある中で継続して働けるかという不安などから辞退してしまいました。周りにいる学生たちの多くは電車や駅に慣れている様子だし、大学の講義では座席指定ではない方が友達と好きな席を取れて良いという意見がありました。アルバイトをしている人やする気のある人が多く、そういう話題はあふれています。私はまた、一般的な大学生のイメージと自分とを比較して、多くの学生ができることが自分はできていないのだと落ち込みました。また、支援学級時代の友達の近況を知って落ち込むこともありました。アルバイトを頑張っている人や勉強を頑張っている人、友達をつくったり適度な交流ができていたりする人など、みんなそれぞれに頑張っていることがあってすごいなと思いました。それに比べて自分は……という思考を繰り返していました。大学1年生の間も、私は障害を受容しているのかどうかよく分からないままでした。障害が無ければ今の自分はないという考えはずっとありましたが、障害によって困ることの実感が年齢を重ねるごとに大きくなっているのも事実です。障害の肯定と否定は、対立するものではなく連続していて、どこが自分の本心に当たるのかが分からない感じでした。
大学2年生の今、私は障害を受容できていないと思っています。私はずっと、自分に障害があることを知っていてアスペルガー症候群に興味があることや、障害の無い人生は考えられないと感じていることから、障害を受容していると考えてきました。しかし、この考え方を改めるきっかけがありました。私は小学生の頃から服薬を続けていますが、今でも自主的に飲むことができません。母に促されてしぶしぶ飲むか、何も言われなければ飲まないこともあります。服薬は面倒くさいし、しなくてもいい人生もあり得たと思うと嫌になるのです。それでも、薬を飲まない日が続くとイライラしたり気分が落ち込んだりすることを経験しているので、私にとって薬は必要なものだと分かります。ある日の夜にいつも通り服薬に抵抗していて、薬を飲まない人生だってあるとか、みんなは飲んでいないとか言っている私は本当に障害を受容しているのかとふと思いました。服薬は私が少しでも楽に生きるための助けになるのに、その行動を積極的に選択できない自分は、まだ障害受容の段階にいないという考えに至りました。そして、私は自分なりに障害受容の定義を考えました。それは、「自分が生きやすくなる行動を前向きに選択できること」です。自分が生きやすくなる行動を前向きに選択するということは、服薬以外の場面でもいえることです。例えば、アルバイトです。みんながアルバイトをしているから私も挑戦するという考えのまま突き進んで失敗に終わりましたが、するにしても自分に合った方法を選べばよかったと今は思います。新たな人間関係が増えることに疲れるなら内職を探すとか、継続して仕事場に通うことが不安なら短期のアルバイトから始めてみるとか、自分の可能な範囲でみんなと同じことに取り組むことが大切だったのです。私は、自分が障害者であることを理解し認めることはできていたかもしれないけれど、障害者としてうまく生きていくための行動を受け入れることができていないようです。私はよく、自分の障害を中途半端な障害だと表現します。障害者と健常者の間にラインが引かれているとするならば、私はそのラインにまたがったまま生きている感覚です。将来の就職について考えると、一般枠で働くのがいいのか、精神障害者手帳を取得して障害者枠で働くのがいいのか悩みます。現在の私の社会性では一般枠は難しいと思います。しかし、高校以降特別支援教育から離れてきて、健常者の中で生活できると自他ともに判断してきたから、障害者枠で働くことに抵抗を感じるというのも本音です。現実的に決断する時まで、自分が生きやすいと感じる方を前向きに選ぶための模索を続けていきたいです。
ここまで、私の障害受容の変化を時系列に沿って書いてきました。この文章を書くにあたって、改めて母と昔のことを思い出しながら話をしました。母は、私に障害があることを伝える時に「さっちゃんのまほうのて」という絵本を思いながら話していたと教えてくれました。「さっちゃんのまほうのて」には、生まれつき右手の指がないさっちゃんがお母さんに、自分の手はどうしてみんなと違うのか、小学生になったら指が生えてくるのかと聞く場面があります。さっちゃんのお母さんは、手はずっと今のままだと正直に言います。そして、5つの指のない手がさっちゃんの大事な手であることを伝えます。私の母はその場面を思い浮かべていました。「どうして? どうして?」と病院に行く理由を何度も聞く私に、もうごまかせないと母は思っていたそうです。母は当時のことを振り返って「彩ちゃんはまだ幼かったけれど、さっちゃんのお母さんがしたように、嘘はつかず本当の情報を伝えようと思っていた。彩ちゃんがショックを受けても前を向いてくれるようにしたかったし、2人で一緒にがんばろうという気持ちだった」と話してくれました。
小学2年生のある日の夜、私たち親子は一緒にお風呂に入って湯船につかりながら話をしていました。「病院に行った理由はね……」「アスペルガー症候群っていう障害がね………」母は言葉を選びながらゆっくり話していたし、私は落ち着いて聞いていました。「私の病気は治るの?」「治らない。一生上手に付き合っていくものだよ。お母さんも協力する」そのころには、2人とも涙があふれていたと思います。忘れられない、私の原点です。
私がアスペルガー症候群であることは、どうしたって変えられない事実です。誰が悪いのか何がいけなかったのか、答えはありません。苦しいのは私だけではなかったです。母も苦しいのです。「障害がなければよかった」「障害者の自分なんて」私が一時の感情に任せて吐き捨てた言葉の数々は、私が想像している以上に母を傷つけてきたのかもしれません。私が謝らなくていいと言っても母がごめんねと言うのは、やっぱり私が謝らせているのかもしれません。私は、自信をもって障害を受容していると言えるようになりたいです。自分に対しても母に向けても言いたいです。原点から12年の月日が流れました。障害受容の問題は私の人生のテーマであり続けます。

受賞のことば

受賞したことを伝えたい相手が何人もいます。この文章を読んでもらいたいなと、自然とその人たちの顔が思い浮かびました。私の成長を信じて根気よく関わってくれた人や、笑顔になれる言葉をくれる人など、多くの人の協力があって今の私があるのだと思います。
この文章が多様なアスペルガー症候群の一例として読まれ、障害への偏ったイメージが少しずつ変わっていくことに繋がるなら幸いです。この度はありがとうございました。

選評

この作品を読んでいると、障害を受け入れることに、いかに長い歳月と心の葛藤が必要であるかがわかる。作者は最初の段落で「これは、私の障害受容の変化の記録です」と宣言し、小中高校そして大学と各段階での自分の障害受容の意味を客観的に分析している。その分析力は本質に迫るものがある。作者は迷いながらも常に前向きだ。その原点は小学2年生のある日の夜の母親のことばであろう。「治らない。一生上手に付き合っていくものだよ。お母さんも協力する」なんと誠実で愛情にあふれた言葉だろうか。(鈴木 賢一)

以上