第55回NHK障害福祉賞 矢野賞
〜第1部門〜
「ある身体障害者の身の上話」

著者 : 西 泰然 (にし たいぜん)  佐賀県

小児麻痺(まひ)による左上肢及び右下肢機能全廃。わたしが中学生になった頃、市(その頃はまだ町)から交付を受けた身体障害者手帳にはそう記されている。程度は第一種の二級に分類されている。小児麻痺の病名は「急性灰白髄炎」というそうだが、通称は横文字では「ポリオ」と呼ばれている。昭和十三年九月十一日生まれのわたしは、今年八十二歳になろうとしている。生まれは旧満州国新京特別市(現中国東北部の長春市)。この病気が発症したのは生後八か月目くらいだったと両親から聞かされている。発症の頃にはしかとしか病名が分らず、身体全体がグニャリとして、両親は、この子は一生寝たままなのではないかと思ったそうだ。しかし、後遺症が左腕と右脚に残ったものの、小学校に入る前には自力で歩行ができるまでになり、日常生活で、例えば衣服の着替えなど、多少時間はかかってもほとんど自分でできるまでに回復していた。ただ、左腕は骨と皮膚だけで筋肉はなく、肩の付け根からだらりと下がっているだけでほとんど機能せず、知覚神経は難を逃れた右腕と変わりがない。脚も右は力が弱くよく転んだ。転ぶとだらりと下がっているだけの左腕を自分の身体で敷くことになり、よくこの左腕を骨折した。
昭和二十年四月、新京特別市八島在満国民小学校(たまたま読んだ小説『裸足と貝殻』三木卓著の文庫本の冒頭にも出て来る学校だ)に入学した。
学校に入る前までは、両親の元で自然に過ごしていた自分が、いざ学校に通いだすと、他の子供たちとは明らかに違う自分を思い知らされた。周囲から奇異な目で見られ、彼らの中には見たまま思ったままの感想をあからさまに浴びせかけてくる者がいた。愕然(がくぜん)となりながらも、それが自分の現実であることを。
その年の八月に大東亜戦争は終戦となり、学校には通えなくなり、ひと冬を越した昭和二十一年八月下旬に内地への引き上げがきまり、貨車に乗せられ、葫蘆島からは船で玄界灘を航海し、くしくも自分の誕生日の九月十一日に博多港に上陸した。その日から両親とわたしと弟と妹、着の身着のままで引き上げてきた極貧の生活が始まった。内地の小学校には、それでも一年遅れで昭和二十三年の三月に一年生として編入し、三学期を十日間ほど過ごした。小学校までは徒歩で四十分ほどかかった。二年から三年の頃までは雨の日は親から学校を休ませられていた。四年生になると、どうにか休まなくても済むようになった。中学・高校は民間のバス会社のバスでの通学になった。バスを降りてから学校まで十五分ほどかかった。ここも何とか自分の脚で歩けた。だが、運動会はもちろん、体操の時間も参加できず、すべて見学だった。ただ、俗にいう読み書き算盤(そろばん)は人並みにできた。他の子供と一緒に飛んだり跳ねたりの遊びも無理で、独りで過ごす時間が多かった。普通の子供には何の苦もなくできることが自分にはできない。口には出さなくても自分を侮蔑の目で見下しているに違いないと思いこんでしまう。そんな視線を感じる。そんな時、自分みたいな半端者がこの世に存在している意味があるのだろうかと、疑問に思うことが度々あった。でも、そんな思いもずっと持続している訳ではなく、意外にのんきな面もあった。そして、こんな身体で生きて行かねばならないとすれば、自分でできる自活の道などあるのだろうかと考えたりして悩んだ。一方では、自分にもできることはないかと、あれこれ取り組み、小学四年生で泳ぎを覚えた。環境がよかった。家の前が遊びに適した海辺だった。高校三年の冬休みに自転車に乗れるようになった。皆の体操の時間には本を読んで過ごした。音楽も好きだった。でも、ピアノもギターも両手でないと演奏できない。そんな時ハーモニカに出会った。これならやれた。家の近くの穏やかな海岸に行き、小学校や中学校で習ったメロディを吹いた。荒(すさ)んだ気持ちが物語に惹(ひ)き寄せられている時や、波の音を聞いている時が、自分の中に滞在している劣等感や屈辱感から解放されるひと時でもあった。
小学校五年生の頃だったか、親から「算盤」をあてがわれた。日本の伝統的な計算の道具だ。それが自分にとっては暇つぶしの玩具でもあった。その頃は、パソコンは無論のこと電卓も無かった時代で、計算の道具といえば昔ながらの「算盤」と相場が決まっていた。これで加減乗除のすべてをこなしていた。この中で割り算については、今日では教科からはずされているが、明治・大正時代の尋常小学校では「割り算の九九」というのを学ばせられたそうだ。わたしは両親からこれを教わった。これがマスターできたことで割り算の演算スピードが速まった。母親から勧められ、気晴らし・憂さ晴らしから始めた算盤だったが、要領が解かってくるにつれて興味も深まっていった。遅々とした上達ぶりではあったが、それでも商業高校を卒業する頃には簿記と算盤の検定試験は共に二級のところまでにはなっていた。これが後々、思わぬ財産になった。
家計は厳しかったが、幸い奨学資金の貸与を受けられて、両親は商業高校に入ることを勧めた。まだ世間のことはよく分からなかったが、家が商売をやっている訳でもないのにか? と思いながら、はっきりとした目的意識もなく三年間を過ごしていた。
昭和三十三年春、高校を卒業した。学校には全国の有名企業や銀行などから卒業予定者への求人の依頼が寄せられていたが、その頃の社会は、身体に欠陥のある者は入社試験も受けることが叶わなかった。貧乏な家に育った自分もどこかには雇ってもらわないと生計が成り立たない。焦燥感ばかりが胸を占めた。
卒業の時、珠算クラブの顧問の先生が社会へ巣立つに当たっての「はなむけ」の言葉として話された言葉が耳に残った。何とか他人の厄介にならず自力で生きて行けるようになりたい、それが念願だったが、その先生は普通の五体満足な生徒に―そのなかに障害者の自分がいることなど意識されず―こう述べられた。
「世の中は人並みならば人並みだぞ」
という趣旨だった。しかし、これを聞いた時思った。自分にはハンディがある。人並みでは駄目だ。人並み以上でないと人並みのレベルにはなれないと―。
卒業して一年ほどして、市内のある税理士事務所に雇ってもらえるようになった。経緯はこうだ。これも満州の奉天から引き揚げ、その後、市内で食料品や日用雑貨の小売店を営んでいた従兄(いとこ)の奥さんが紹介してくれたのだ。彼女の親友の旦那さんが家庭の都合で佐賀市へ引っ越さなければならなくなって、それまで勤めていた税理士事務所を辞めなければならなくなり、その後釜を探している、面接を受けてみないかといって貰(もら)ったのだ。面接を受けた事務所の所長さんは「算盤ができるなら来よってみやい」と言ってくれた。先ずは試用期間ということだったろうが、心が和んだ。昭和三十四年四月一日からそこの事務所に勤務することになった。それから十日後の四月十日は、皇太子殿下と美智子様の世紀の御成婚の日だった。街頭には道行く人々がテレビが備えてあるレストランの前で黒山の人だかりを作ってパレードの様子を首を伸ばして見入っていた。以来、わたしは経理の世界のことはよく知らないまま、働き続けることになった。
商法という法律で、会社も個人の商人も、少なくとも年に一度は決算を行ない、彼らは成績と財務内容をつまびらかにしなければならない、とされており、これに基づき納税義務を履行しなければならない。彼等の大半はそれを実施するにあたり、専門家に依頼するのである。それを引き受けるのが巷の税理士事務所であった。
その事務所に入ってから三年ほどは所長さんの指示に従って、言われるままに与えられた仕事をしていた。総勘定元帳という帳簿を記載し、毎月の試算表を作成し、決算期が来れば決算書に仕上げる。それから、決算に基づく数字を元に税務の申告書というものを拵(こしら)えて、会社は法人税、個人は所得税の税額を算出して期限内に納税してもらう、という一連の作業に没頭した。
三年目が過ぎた頃には税理士というものの中身が解かってきた。この事務所を自分で開業するには国家資格が必要な職業である。そして戦後の自主申告納税制が施行されるようになってから、公務員として税務行政に携わってきた人たちが一定の条件のもとにその資格を付与されたことから始まった制度であり、民間人も国家試験に合格すれば公務員の資格がなくても開業することができるという道も開かれていた。しかし、民間人の誰にでもその国家試験を受けることができるのか。自分の場合はどうなのか。高校までしか行ってない者に受験資格があるのか。
調べてみるとあるにはあった。日本商工会議所主催の簿記検定試験の一級に合格すればそれが受験資格有りということが判(わか)った。商業高校在学中に二級には合格していたので、先ずはこれに挑戦することだった。年に二回実施されていて二度目の挑戦で合格できた。それからが本番の税理士試験への挑戦だった。しかし、結論から言うと、目的達成に十年の歳月を要した。試験科目は会計学が「簿記論」「財務諸表論」、税法が「法人税法」「所得税法」「相続税法」の計五科目だった。これらは全部必須科目で、他に「国税徴収法」と「地方税法」という選択科目があったが、以後の自分の仕事では必須科目の知識が必要なことだと思い、必須科目の合格を目指した。この頃はまだ「消費税」は施行されておらず、従って勿論(もちろん)、法律もなかった。そして、この試験制度の特徴は、これらを一度に全部合格せよというのではなく、年に一科目でも二科目でも合格すれば、残りの科目をそれ以降の年に合格し、最終的に合格科目が五科目に達すればよいという、取り溜め式だったので、働きながら挑戦する者にとっては都合の良い制度だった。
最後の科目に合格した時は三十五歳になっていた。いろは歌留多に「芸は身を助ける」というのがあるが、自分にとってはこれが人生を支える大きな「芸」になった。これで今まで税理士の補助者という立場で働いてきた自分が、やろうと思えば独立して自分の事務所を開業できる身になった。しかし、これも結論から言えば、それから十五年間、従来の勤務税理士を務めた。
もうひとつの幸運は結婚だった。こればかりは自分の努力だけではどうにも如何(いかん)ともしがたい。なにしろ相手の要ることだ。こんなわたしにおいそれと妻になってくれる女性なんているはずがない。そう観念していた。ところがである。わたしに嫁さんが来てくれた。試験には未だ簿記論の一科目しか合格していなかった頃で、これから先、海のものとも山のものとも知れない、身体に障害を持つ自分のところにである。彼女の親戚は皆、彼女の決意の翻意をうながした。当然だったろう。
全く奇跡が起こったとしか思えない。出発は九尺二間の裏長屋からだった。
歌の文句じゃないが、これが振り出しで、胸突き八丁の坂道が続いた。だから彼女には随分と苦労をかけた。愚痴もこぼさず、よくも辛抱してくれたものだ。自分にできることは、彼女の決断に後々悔いを残させないようにすることだった。
彼女の周囲の人びとに認めてもらうことだと思った。もちろん動機はそればかりではない。自分の生涯を賭けての職業だとするのなら、一生を補助者のままで過ごすというのはふがいない気持ちも働き、何としてでも五科目制覇を達成しようと思った。勤めながら受験科目の最後の五科目めが取れたのは結婚から七年目のことだった。それから幾星霜、我々夫婦は平成二十九年、金婚式を迎えた。
長女・長男・二女と、三人の子供に恵まれた。妻は周囲の心配にも拘らず、わたしのところに来てくれた。だが成長した子供たちはどう思うだろう? という新たな不安が生れた。が、子供たちの反応は意外に穏やかなものだった。
二女(愛称=なおちゃん)などは小学三年の時にだったか、次のような詩を綴って受け持ちの先生に提出していた。

題「あたりまえ」
両手で何でもできる あたりまえ 書ける バンザイできる あたりまえ
両足で走れる あたりまえ そんないいことができない私のお父さん
子どもの時からくやしそうにみていただろう
この前の夜 お父さんはこう言った
「なおちゃんたちはいいねえ 足が早いから……
お父さんが子どものころ できなかったことを なおちゃんたちがしてね」
と…… なみだぐんで言った
お父さんが 子どもの時 くやしかったことが 私にはよくわかる
そのことばを思いだすと 私もなみだがでそうになる
そんなあたりまえのことが 出きなかった人が 出きたら どんなにうれしいだろう
でも 私のお父さんは 一生なおらない

心配していたが、我が家の子供たちはこんな優しい気持ちでいてくれていると思うと、安らぎが胸に湧き、家族の仕合せのために自分のできることで頑張らないと、と、改めて思った。この詩は今も大事にとってある。
平成元年四月。遅まきながら自分の事務所を開いた。丁度(ちょうど)、消費税が始まった年だ。資格を得てから十五年目のことだった。自分が仕えた所長さんが高齢と体調を崩されたことで、勤め先の事務所を譲り受ける形になった。
その間にもチャレンジしたことがあった。自動車の運転免許だ。県の運転試験場に相談に行った。自分の考えでは、自転車に乗れるんだから二輪車ぐらいは何とかできるのではないかと思っていたが違った。オートバイは自転車とは重さが遥(はる)かに違う、車体が右に倒れそうになった時、君の右足では支えることは無理だと言われた。がっかりして帰ろうとした時、その試験官が、しかし、と言った。四輪車は車輪が四つあるから倒れる心配はない、と。思わぬ試験官の言葉を聞いて詳しい説明をして貰うと、県内に身体障害者用の車を備えた自動車教習所があるということが判った。そこへ一か月ばかり通って、ノークラッチの車に限るという条件付で普通免許を取得することができた。これが仕事の上で大きな威力を発揮してくれた。そして、車の運転中は健常者と何ら変わりがなかった―。
次が我が夫婦念願のマイホームだった。商業高校時代の同級生が銀行の支店長代理のポストにいた。それで首尾よく住宅ローンを借りることができた。彼は税理士の資格も持っていて仕事も安定していることがよかったんだよ、と言ってくれた。それが四十二歳の時だった。家内のお袋さんが、男の厄年には厄除けに何か造作事をした方が良いと言われているから家の棟上げなら立派な厄除けだ、と言って喜んだ。以来、そこで暮らしている。多分、ここが終の棲家になるのだろう。
事務所を開業して二十二年目、自分にとって、思ってもみない椿事があった。それは、春の叙勲で瑞宝双光章が授与されることになったことだ。夫婦して仰天した。実は、開業して間もなくの頃、当地の簡易裁判所から我々が所属する税理士会の支部に誰か調停委員を推薦してくれないかという要請があった。たまたま当番で支部長になっていたわたしは、年配の支部会員に要請に応じてもらえないかとお願いしたのだが、応じる方もなく、已む無く支部長をしていたわたしにお鉢が回ってきたのだ。それから二十年間、民事・家事の調停員を務めることになり、そのことを裁判所が授与の対象にして推薦したということだった。その年の五月下旬、夫婦揃(そろ)って皇居にお招きを戴き、集まった方々と共に天皇陛下から祝福とねぎらいの言葉を賜った。
返りみると、子供の頃、からかわれ苛(いじ)められすることもあったし、辛(つら)い思いも味わって情けなく、自分の身体を呪ったことも多々あり、将来の展望についても具体的に「何になろう」などという目標もなかったが、ただ、なんとか親兄弟に厄介をかけず、自力で生きたいものだとだけ考えていた。そうした中で、周囲の人びとの善意に見守られながら自然に道が開けていったように思える。後に家内が話してくれたことがある。結婚して間無しの頃、近所の何人からも、「〇〇君のお嫁さんになってくれたってね……、ありがとね……、よろしく頼むね……」と言われたと。そしてその後で家内は、
「みんな、あなたのこと、優しく見守っていたのよ……、でも飛び込むことまでしたのは単細胞のわたしだけだったけど……」
と、笑って付け加えた。七十八歳で仕事から身を引いて以来、日常は車椅子の生活になったが、これまでわたしを守り、支えてくれているのも、みなこの家内なのである。なにが単細胞なものか……。
その妻が麻痺を免れた右腕に『黄金の右腕』と名前を付けてくれた。
仮に、もし自分が皆と同じ健常者だったなら、どんな人生を送ったのだろうかと思うことがある。将来に向かっての可能性は目の前に山ほどならんでいてどれでも選択できる。だけど、必ずしも正しい選択ができたか、となると、それは判らない。ひょっとしたらどれにも目移りがして虻蜂取らずになったかもしれない。
その点、わたしの場合は好むと好まざるに拘(かか)わらず、選択のメニューがごく限られたものだった。算盤の能力が活かせる道だけが残されていた。どれにしようかなどと迷う必要がなかった。却(かえ)ってそれが道をあやまらずに済んだとも言える。
そして、周囲の人たちが温かかった。時代もよかった。身体に障害はあったものの、内臓にはこれといった疾患はなく、大病も患わずに済んだ。事務所のスタッフやお客様にも恵まれた。また身障者のそれ自体をひとつの個性だというふうにとらえようとする考え方、公共施設の中にもユニバーサルデザインの普及の推進がはかられるなど、社会全体の意識の変化もあるだろう。それやこれやの幸運な条件がわたしの今日をあらしめているのだと思う。
中国の故事に「人間万事塞翁が馬」というのがある。人間、先のことは判らない。今、仕合せだからと言って何時(いつ)不幸に見舞われるか分らないし、反対に現状が恵まれない状況だからといって嘆き悲しむこともない。ということだそうだ。不遇感の真っ只(ただ)中にいる時に聞かされても、なかなか、合点しづらかったが、この年齢になって、それが我が身にも起こっていたのかも知れない。
なにはともあれ、自分なりに仕事をこなして五十八年間、何とか人並みの暮らしができればよいが―そう思って出発した人生で、多少なりとも職業を通して社会の中でお役に立てたのであれば、それで思い残すことはなく、あとは残された余生を家内と共に平穏に過ごせることを願うのみの今日このごろである。
座右の銘は「艱難汝を玉にする」。それと我が名に因み「得意淡然失意泰然」。

以上