第55回NHK障害福祉賞 佳作
〜第2部門〜
「あの日から…」

著者 : 植村 ゆかり (うえむら ゆかり)  鳥取県

その日は雪だった。一本の電話で小さな幸福はあっという間に崩れていった。知る人は誰もいないこの地で、生後三か月の子供と私を残して夫は逝った。全てを捨てて来たこの地で小さなペンションを建て、待望の男の子が生まれ、「三人で新しくやりなおそうな」と慣れない雪かきや石垣づくりに精を出していた夫。雪など降らず積もらない所から、一晩で一メートルを越す雪が積もる地で、生まれた子と戻る家のない私の為に無理をしていたのだろう。
葬儀やその後の種々な出来事はほとんど覚えていない。駆けつけた時はすでになにも話せない状態でベッドに横たわる夫をただ茫然(ぼうぜん)と見つめていた。私を「気丈な奥さんだ」と言っておられたらしいが涙も出ないほどの衝撃だったのだ。息子にはミルクを飲ませ、オムツを替え、お風呂に入れる。今考えるとよくやっていたものだと思うが、当時は助けてくれる人が誰もいない中、ただロボットのように動いていたのだろう。それでも故郷に帰ろうと思わなかった。否、思えなかった。
山麓の集落の人々やペンションに食材を配送する方々の温かい協力でなんとかペンションを続けることが出来、便利な所で育った私には考えられないほど遠い場所だったのだが、息子を検診に連れて行った。ハイハイを全くせず、いざるような動きで前へ進み、耳は聴こえているようだがなにも言わない初めての子供。周りに知人も親も誰もいないので、これが当たり前なのかどうかも分からなかった。結果は「療育センターの方で一度診察を受けて下さい」。療育センターなるものがどこにあるのかも分からない。四苦八苦しながらたどり着いた療育センター、そこでの一人のドクターとの出会いは後々、私が障害のある息子を育てるのに大きな力となった。診断は、「自閉傾向・発達遅滞」とのこと。自閉症そのものが分からない私は、本を買い必死で読んだがどんどん落ち込むばかりだった。このまま不便な所に住んでいては病院に連れてゆくのも大変だと考え、ペンションをたたみ市部に降りてはみたものの、どうして食べてゆこうか、一言もしゃべってくれない息子とどう向き合おうかと思い悩みながらある日、いつものように出かけた療育センターの診察日にドクターがなにげなく言われた。
「僕はねぇ、息子さんよりお母さんの方が心配ですよ。あなたを見ていると、常に太いゴムひもを両手でグーッと引っ張っているような状態に見える。片親だからと言われないように、息子に悲しい思いをさせないように。だけどね、両親が揃(そろ)っていても出来ないことはいっぱいあるし、あなたが考えているほど息子さんはさみしいとか悲しいとか思っていませんよ。そんなにいつも気を張っているとすぐ弾けてしまいますよ。もっとたわみを入れなさい。今は一言もしゃべらなくても、きれいな物を見たら『きれいだね』と言い、一緒に歌を歌い、話しかけて答えが返ってこなくても話しかけ続けてみてください。お母さんの方が力を抜いてね」
自分ではそんなに突っ張っているとは思っていなかったので、ドクターに言われてハッと気づいた。確かに息子には、片親だから何かが出来ないなどという思いをさせたくない、そう思ってやってきた。クリスマスでにぎわう街で親子連れを見る時、夏の海辺でお父さんと遊ぶ子供、そんな姿を見ると突然涙が止まらなくなることが何度もあった。「息子がかわいそう」、けれど……。それって息子がかわいそうなのではなく、自分自身がかわいそうだったのではないか。息子にとっては「父」は自分が物心つく時にはもう居なかったのだから、「二人の生活」が日常であり、「お父さん」は黒い木箱の中に写真として居る人という抽象的な存在だったのだから。
ドクターは温かい声で
「彼はなかなか記憶が消えないので昔のことをポッと言うことがあるかもしれないけど、それは懐かしがっているとか以前の生活に戻りたいと思っている訳では決してないので、お母さんが引っ越したことを後悔したりしないように」
と言って下さった。
ドクターは転勤でもう居られなくなったが、障害児・者の共済保険加入や種々の相談窓口等のことを教えて下さった。
言いつけを守り、一言も話さなくても息子に話しかけ続け、養護学校の小学部に入る直前に突然話し出した時の嬉(うれ)しさは今でも忘れられない。
片言ではあったが、私がいつも歌っていた「雪やコンコン」を突然歌い出し、おまけに私が勝手に歌っていた「猫はこたつでコロン丸くなる」をそのまま歌い終えた。本当だった? ドクターが「きっと話せるようになるよ。お母さんが彼に常に話しかけ笑顔で接すればきっと大丈夫だよ」といつも励まして下さったのは。きっと医学的な根拠などはなかったのだろうが、療育センターに行く度、「先生、もし私が突然死をしたらこの子は誰にも助けを求めることが出来ないと思うので、つかまり立ちが出来る鏡台の上に毎日パン二個と小さなコップをいっぱい並べてそこにお茶と水を入れているんですけど、何日もつでしょうか」などととんでもないことを真顔で聞く私には、なによりも「希望」が必要だと思われたのだろう。
養護学校に行くようになっても、当時は通学の巡回バスなどはなかったので毎日送り迎えをしていた。学校の玄関先で母親同士が家庭の愚痴や子供の将来への不安を話し合う機会が増え、学校を卒業後、行く場所のない子供達の為に作業所を作ろうということになった。
決まってからは、学校の空きプレハブを借り、子供を送って行ってそのまま車の部品の組み立ての仕事を、子供が帰る時間までやった。その中でお互いの環境や生活も少しずつ分かってきて、持ち寄った材料で昼食を作り、楽しい時間でもあったと思う。一年後、毎月平均三万の作業料で学校外に店舗を借りることが出来た。PTAの役員だった方が交渉して下さり、この三万で借りられるところということで、レコード店だった跡の小さな小さな私達のお店「草の根作業所わぁくふれんず」の誕生だ。無認可の、通ってくる子は一人もいない、七人の母親仲間の学校に行っている子供達が集まる居場所。
それでも親達は皆、明るく元気だった。重度の子供をもつ親達が多かったので日々大騒動だったが、それも今となっては、自分の子供以外の障害のある方々を身近に感じ接することが出来た、机上の理論のみではなく現実に即した貴重な勉強の場だったと思える。
それから一年後、飛び込みで一人の女性がこの作業所に通いたいと訪ねてきてくれた。瞳が大きく、脚が少し歩きにくそうではあったけれど、ハキハキとした十九歳。養護学校卒業後、他県で表装の勉強をしたけれど難しくて出来なかった。帰ってきた時には同級生は皆、就労作業所に通っており、行き場を自分で探していたという。
勿論(もちろん)私達は大歓迎。めでたく通所第一号となり、成人式も作業所で行い、現在も一番の古株として働いてくれている。その後、県の方から商店街に「福祉の店」第一号店を作るのでやってくれないかとのお話があり、通ってくる障害のある人への良い意味での関心を、地域の方に持っていただけるのではとお引き受けすることになった。
その当時はまだまだ障害のある人に対する理解は薄く、通い出した女性が雨の日にバス停を降り、両手に荷物を持ちながら歩いていると、若い男性達にジロジロと見られたという。けれど痛快だったのは、彼女は臆することなくその男性達に向かって「何か御用でしょうか、私が歩いているのがそんなにおかしいですか」と大声で言ったようだ。そうするとその男性達は何も言わずにコソコソと立ち去ったらしい。まだまだ障害者が一人で歩いていることさえ珍しく、変な目で見られることが多かったので、それに負けまいと必死で生きている姿が頼もしく見えたものだ。
その後小規模作業所は最低定員二十名いないといけないということになり、NPO法人「おおぞら」と名称を変え、小規模作業所開設から二十四年、法人として十一年、息子はもう三十三歳。会議も仕事も一人では留守番が出来ないので否応(いやおう)なくついてきているが、そのせいなのか二時間程度の会議なら黙って座っていることも出来るようになった。おまけにこの頃は自分なりの感想まで言い出した。「つまんない会議?」とか「楽しかった?」とか、結構的確な感想を言うようになったのには思わず笑ってしまう。退屈だろうに一人で留守番が出来ないから仕方がないかと思っていたのだが、たとえ三、四歳の知能指数と言われていても、療育センター時代のドクターの「お母さん、知能指数は変わらなくても子供に対する接し方次第で生活指数はいくらでも伸びるよ」という言葉通り、息子は「仕方がない環境の中」で日常会話や挨拶の仕方をしっかり学び、とても元気でいつも「楽しかった、幸せだった」という人間になった。作業的なことは出来なくても、周りの方々が「居てくれるとこっちまで幸せな気分になる」と言って下さる。
一つでも多くのことが出来ることも勿論大切なのだろうが、自分が困った時・出来ない時、「お願いします」「ありがとう」が言えること、これも生きてゆく時必要なことではないだろうか。息子を見ていると、自然に身についた生命力を感じる。
三、四歳の知能指数と言われた時は、親としてとてもショックだったが、この頃の息子を見ていると、三、四歳の知能でも記号としてかもしれないが、しっかり新聞も必要な所は選んで読んでいるし、天気予報も教えてくれる。携帯番号に至っては、私よりも遥(はる)かに記憶力が良く、歌うように番号を言っている。へこんでいるのは私だけで息子は逞(たくま)しくゆっくりとマイペースで成長している。
私も息子のお陰でなんとか薬を飲みつつだが、二十四年間七十歳になる今も働いている。
開所当時の七人の仲間達は、それぞれの事情で居なくなり最後まで残った私が続けているが、無我夢中でやってきたこの年月は、息子にとっても私にとっても素晴らしい時間であり、良き仲間に出会えた時期でもあった。
トライアスロン大会発祥の地でもあるこの地に、何故(なぜ)障害のある人達の大会はないの? 綺麗(きれい)な海や山が近くにあるのに、行ったことのない障害のある人がいるのは何故? 泳いでみたい・走ってみたい人が誰でも参加できる大会がやりたい? そんな思いを理解し、全面的に協力し、資金面・運営面すべてにおいてサポートしてくれた仲間達。小さい大会だけれど、どんなに重い障害があっても、本人の泳ぎたい・走りたい思いを全力で支え、共に走り泳いでくれる仲間達。十四年続けている「全日本Challengedアクアスロン皆生(かいけ)大会」は私の宝物であり、ゼロからでも信頼できる仲間達がいてくれればやれるという大きな自信にもなった。自分の息子の為ばかりでなく、日頃やりたいと思っていても出来ないことを、少しでも多くの人々とやりたい。障害当事者が意見発表できる「本音を語る会」、素敵な衣装を身に纏(まと)い、パートナーになって下さる人とスポットライトを浴びる「ファッションショー」、そして企業就労だろうが作業所に通っていようが、県内どこに住んでいても音楽好き・歌好きであれば参加できる「りっぷる音楽団」の設立、皆十年近く続いている。たとえ障害があろうと、ただただ仕事をし、工賃をもらい、作業所や仕事場と家を往復し、友達もいない人生はつまらないでしょ?
「本音を語る会」はなにもとうとうと話せる人ばかりが出演するものではない。たった一言「私は一人で旅行がしたい」という人もOK。ファッションショーは女性達の独壇場だが、出演者が多くて困るほど。パートナーもお父さんだったりサービス事業所の方だったり、ほとんどが自分で探し自分で頼んでくる。企業さんの協力で、ウェディングドレスを選んで着られる昨年は、本人達もだが親御さん達が大感激だった。
息子はこんな母をどのように見てくれているのかは分からない。常に忙しく常に走り回っている母に〈もっと僕の方を見てよ〉と思っているのかもしれない。けれど二人で家に帰りついた時、
「今日は頑張りましたねぇ、お疲れだったねぇ」
と言ってくれる。そしてその言葉は私が、息子が幼かったころ新しいことが出来た時言っていた言葉と全く同じだと気が付いた。何も机の前での学習だけが学習ではないんだなぁと息子の言葉の広がりを見ていると「学習」の意味を考えさせられる。
この息子がいるから、そして「おおぞら」の作業所に通ってきてくれる通所者の方がいるから、「思い」だけで突っ走る私を支えてくれる仲間がいるから、二十四年間振り返る暇もなく続けてくることが出来ているのだろう。
あっという間に今年で私は古稀(こき)らしい。私の逝った後の息子のことを考えると何とも言えない気持ちになる時がある。グループホームは無理かも……でも私と一緒に暮らしている期間が長くなればなるほど、入所施設に適応は難しいだろうし、私以外身寄りのない息子の後見人も考えないといけない。後見制度も障害当事者の意見をしっかり汲(く)み取る制度にはなっていないと思うので、なんとか私が元気で居るうちに、どんな微力であっても声をあげ、国にも検討してもらいたいと思っている。
他の方々から見たらおかしいかもしれないが、精一杯(せいいっぱい)育ててきた息子が親亡き後生きてゆく未来が暗く悲しいものであっては困ります。障害児・者に対する偏見や差別発言等、報道には載らないような事柄は未だ絶えることがありません。「共生社会」が叫ばれて久しいですが、現実はそんなに簡単なものではなく、種々な面でまだまだ障害児・者が生き易いとはいいがたい世の中です。
受け身で待っていても、何も変わらないのですからせめて親として声をあげ、障害児・者イコール何も出来ない存在なのではなく「この子らを世の光に」の糸賀一雄氏の言葉に象徴されるように、社会の人々がいつも施しをし助けなければいけない存在ではなく、一人の人間として己の生き方を考える時、この障害のある人々の生き方を模範とする気持ちを持って接してもらえる様、力を尽くしたいと思っています。
人は生まれてくる家を選べないし育ててくれる人も選べない。
誰もハンディキャップを背負って生まれたいと思う人はいないはずです。どんなに努力しても自分の力ではどうにもならない部分を責めるのは最も卑怯(ひきょう)です。
障害のある子を持つ親の多くは何かがあると、「こんな大変な子を見てもらっているんだから……(少々のことで文句は言えない)」、高齢の父・母を施設に入れている友も、「施設で見てもらえなかったら働きに出ることも出来ないのだから、それだけでもありがたい」という言い方をし、問題をしっかり議論しようとしません。
でもこの考え方って誰の目線に立っているのでしょうか。勿論種々のサービスのお陰で働けているのですし、一日中家族で見ることが出来ない場合は施設や支援の恩恵を受けています。けれどそれは預ける側の言い分で、預けられる当事者の言い分は何も取り上げられていません。差別的な言葉を浴びせられても被害を訴えることが出来ない人々は、性被害を受けていても、ベッドの上に放り投げられていても我慢を強いられているのです。その哀しみや苦しみは親でも家族でもなく、当事者にしか分かりません。自分が逆の立場だったらどうだろう。ほんの少しでもそんな風に考える時間があってもいいのではありませんか?
私は自分でも超過保護な親だと自認しています。障害がある子だから少々何をされても我慢するのですか? とんでもない? そんな事柄が少しでも起こらないように、そして我が子の性格や成育歴を必死に訴え、息子やその仲間が心地よくなるべくそれぞれの能力に合わせた支援をして貰(もら)えるよう発信し続けます。あきらめたりは出来ませんし、するつもりもありません。自分の心の内(うち)や思いを言えない・言いにくい障害だからこそ、その理解を誰かが訴えなければならないのなら、生んで育ててきた親として全身全霊を尽くして言い続けます。地方のたった一人の親が発言したとしても何もなりはしないかもしれませんが、「自分のやれることをやれるだけはやる」、それが私が息子にしてあげられる唯一の事なのですから。気力だけではやっていけないと思うこともありますが、この仕事を辞めたいと思ったことはありません。先輩のお母さんに言われた「忙しい忙しいと言っている内が花だよ。私なんか一日中なにもせんと家にいても誰も手伝ってとも言わんよ」という言葉。そうだ、働ける内は働こう。誰かの為ではなく自分が納得ゆく人生を送り続けるために。そして息子だけではなく、私が関わっている多くの障害のある人々の笑顔の為に。
何もない所から皆に助けられて歩んできた二十四年間はあっという間だった。きっとこれからもあっという間に過ぎるだろう。
いつも息子は私の生活の一部であり、否応なく私の仕事について来ました。この子がいなければもっと自由に仕事が出来たかもしれない、この子が居なければもっと何処(どこ)でも自由に行けただろう、そんなことを思ったこともありました。けれど三十三年付き合う中で息子は常に私の「先生」でした。誤魔化(ごまか)しや心のこもらない言葉や態度はすぐ見抜かれました。追求するのではなくじっと眼を覗(のぞ)き込み、無言で〈そんな言い方おかしくない? 本当にそれでいいの?〉と圧力をかけてきます。息子はきっと〈圧力〉だなんて思っていないのでしょうが、やましい心があると、それはそれは大変な緊張感を感じるものです。
残りの人生をこの息子の親として恥ずかしくないように生きてゆきたい。小さいけれど皆が集える明るく楽しい作業所を力の限り守り続けてゆきたい。息子に残すものは何もないけれど、「母さんはあなたと一緒に暮らせて本当に幸せだった」と伝えておきたい、そんな気持ちでこれを綴(つづ)りました。
「この子らを世の光に」という先人の言の葉胸に今日も歩みぬ

以上