第55回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「ハロー、アスペルガー〜ケバール星人は地球で暮らす〜」

著者 : 水城 文恵 (みずき ふみえ)  東京都

「地球に来たばかりの宇宙人みたいね」
中二のときに担任に言われた言葉だ。ミズキフミエ。三十四歳。アスペルガー症候群という発達障害だと、今年の五月に診断されたばかりである。
発達障害とは、生まれつきの脳の機能のかたよりのため、社会の中で生きづらさや日常生活での問題を抱えている状態をさす。アスペルガー症候群の特徴として、主にコミュニケーションや対人関係でのつまずき、こだわりの強さなどがあげられる。自閉症の一種とも分類されるが、アスペルガーに言葉や知的な遅れはない。どのような特性がどのぐらい強く現れるかは、千人いれば千通りある、ともいわれているらしい。
これは、アスペルガー症候群だと気づかずに三十四年間過ごしてきた私のこれまでと、夫との出会いや診断に至るまでの記録である。

学生時代のことを一言でいうと「学校、しんどかったな……」に尽きる。もともとアトピーがあり、小学校低学年のころは、「湿疹がうつる」と避けられたり、掃除の時間に私の机だけが運ばれなかったり、見た目で嫌な思いもした。あのころの写真は悲しくて、ほとんど捨ててしまった。
中学に入ると、女子トークに全然ついていけなくなった。おしゃれや恋バナで盛り上がる女子の会話は、豪速球がびゅんびゅん飛び交っているようで、入っていくのが難しかった。どうにかうまく参加しようとしても、「思ったことをそのまま言ってしまう」というアスペルガーの特性ゆえにかえって失言をし、相手を傷つけたりして、気がつくと反感を買っていた。中二のときに一部の女子からいじめにあい、教室に行けなくなり、三学期は別室登校になった。高校生になっても、たまに、私のことがすごく嫌いな人がいて、全く接点のない人から、無視をされたり陰口を言われたりしていた。
教室のざわめきは、じくじくと頭の中を浸食するようで、ときどき、わあっと耳をふさいで逃げだしたくなった。日差しの強い日の体育はまぶしくて、視界はまっしろになった。雨の日の湿った机のにおいや、細かい木くずの舞う技術室の空気は、今でも思いだせるほど嫌な感じがした。当時は、それが発達障害から来る感覚過敏だとはわからなかったし、他人と自分との感じ方が違うなんて思ってもいなかった。見えすぎる・聞こえすぎる・鼻が利きすぎる、といった感覚過敏は今も特性として強く出ている。
他にも、熱がでるわけでもない、大病をするわけでもない、なのにどうしても動けないという謎の体調不良にもずっと悩まされていた。今なら、自律神経の乱れやすさや、天気や気圧の変化への弱さなど、いくつか理由も思いつくが、当時は何もわからず、「学校行きなさい!」と怒る母と、「嫌だ、行かない!」という私のバトルが頻繁に起こっていた。
こんな調子だったが、学校のペーパーテストの出来は決して悪くなかった。が、これも脳のかたよりゆえなのだが、得意不得意の差が激しく、好きだった国語は学年一番だったこともある一方、授業の内容がさっぱりわからない数学は十二点をとったりしていた。試験前は「過集中」という状態になり、一気に勉強し、試験が終わるとばったり倒れる、ということを繰り返していた(数学は初めから諦めていたが)。そのころの私は「ただでさえ遅刻や欠席の多い私は、成績を落としたら学校から切り捨てられるんじゃないか」という強迫観念にとらわれていた。自分ルールが余計に自分を追いつめ、高三の秋には受験ノイローゼのようになり、一か月間、不登校になった。十七年後、発達障害のクリニックで「そういう考え方が非常にアスペルガーっぽいんです」と指摘されることになる。
大学は夜間学部に進学した。朝に起きて登校しなくていい、誰が何をしていても自由、というバンカラな校風は私には合っていたと思う。とはいえ所属していたサークルでは、だんだんコミュニケーションがうまくいかなくなって辞め、演劇団体を作るも脚本をめぐって揉(も)め、メンバーの前で「もう正義ごっこはうんざりなんだよ!」と叫び、頬を平手打ちされ大泣きし、「そんなんで将来どうするの?」と言われご破算になったりした。
大学卒業後は、フルタイムで働ける体力がなく、民間委託の図書館にアルバイトで入った。職場では、小さなことによく気がつく、と言われることもあれば、木を見て森を見ず、と言われることもあった。貸出の機械が突然壊れたときなどは動揺し、「Aみたいなことが起こったらどうすればいいですか?」「Bの場合は?」と上司を質問責めにして、「それは起こってから考えればいい」と釘をさされたりした。これもアスペルガーの特性の一つで、予想外のことに対する極度の不安から来ていた。そして学生時代と同様、謎の体調不良を起こすことが何度もあった。もしかしたら周囲には、わざとサボっているように見えたかもしれない。そのわりに、特集を担当したときなどは過集中ぶりを発揮し、絵本を二百冊近く読み、リーフレットの文言を練り、凝った装飾を作ったりしていた。「宇宙人みたい」と中二以来、上司に言われたのもこの時期だ。
二十四歳のとき、契約社員に昇進した。最初の一か月は、まったく疲れず、自分はなんでもできるような万能感に満ちていた。しかしだんだん、あの自分ルールのようなこだわりや、融通の利かない特性が強く出るようになった。「私、本は読まないんで」と公言する上司に「司書としてありえない」と怒りを覚えたし、タイムテーブル通りに動かない人にイライラして「あの人の働き方はよくない」と上司に訴えたりした。サービス出勤で、朝、少し早めに来るように指示されたときも「それは契約時間外ですよね? そういうことは本社に言ってください」とその場で反論していた。選書担当の人に「そんな本を買うんですか?」と言ってしまったこともある。他人が何を言ったら怒るか、たとえ間違っていなくても言わないほうがいいことや、伝え方を工夫しなきゃいけないことがあると全く理解していなかった。子ども時代からそうだったのだが、他人の感情が、表情が、私には全く読めないのだった。だんだん周囲との溝は深くなっていった。図書館を良くしたいと思っているのに、私が周囲を困らせる存在になっている。上司たちがひそひそと私について相談しているのが聞こえ、あるとき私は仕事中にメルトダウンした。感情がパンクし、泣きながら本社の人に車で自宅まで送られた。そして心療内科を受診し、双極性障害二型と診断された。躁鬱(そううつ)病である。結果的にはこれは、発達障害ゆえのコミュニケーション不和からくる二次障害だったのだが、そのときはまだわからなかった。抗うつ薬の影響で寝てばかりいるようになり、半年ほど自宅で何もせずぼーっと過ごした。

少しずつ調子も良くなってきたころ、別の図書館にアルバイトで復帰した。そして翌年、週に一回、脚本の学校にも通ってみることにした。
二十八歳のとき、ゼミのあとの飲み会ではじめて出会ったのが、今の夫だった。お酒や刺激物に弱い私は、基本的に飲み会も苦手なのだが、脚本学校の集まりは行きやすく、ときどき参加していた。同じくお酒の飲めないらしい夫は、隣でだったんそば茶を注文していた。そして初対面の私に、当時ヒットしていたハリウッド版ゴジラを、いかに自分は肯定することができないかを延々と語り続けた。あとから知るのだが、夫は、ウルトラマンやゴジラや仮面ライダーといった特撮を愛し、DVDや関連書籍を多数所有し、バルタン星人などの怪獣フィギュアを数百体も集めてしまう、特撮オタクだった。
ゴジラについて話し続ける夫に、「わあ、博識だなあ」と私は変な感動をしていた。それ以上に、すごく話しやすいという感覚があった。初対面の人と意気投合したことが殆(ほとん)どなく、話しかけられてもその場にそぐわない返事をして変な空気にしがちな私にとって、希有(けう)な体験だった。宇宙人が、地球で、はじめてコンタクトのとれる存在と出会えたような気持ちだった。この人には私の言葉が届いている。もっと話がしたい。一緒にいたい。つまりは、強烈に恋をしていた。
共通の知人からメルアドを入手し、毎日メールを送り、夫の好きそうな脚本家の講演会に誘った。このときばかりは、戦略など練ることのできない、嘘(うそ)のつけないアスペルガーの行動は結果として良かったと思う。私たちは付き合いはじめ、紆余曲折(うよきょくせつ)あるも一年半ほど経って結婚した。色(いろ)んな考え方があると思うが、私の場合は、名字が変わることが嬉(うれ)しかった。これまでの自分や嫌な過去を捨てて、新しく生まれ変われるような気がしていた。

しかし、新しい生活は、変化の苦手なアスペルガーには高度すぎた。パートも家事もしっかりできる妻でいたい、家計もちゃんと管理したい、ご飯も一汁三菜をめざそう、と理想ばかりが高くなって、余裕をなくしていった。夫の帰宅と同時に夕飯が出来あがるという状態にこだわり、十五分ほど遅れて帰ってきた夫に「遅いよ!」と怒ってしまった。洗濯物を干すのを夫が手伝ってくれたときも、自分のやり方と違うと「そうじゃない!」とイライラした。生活習慣が違う他人と暮らすという、予定外だらけの事態に、全く対応できていなかった。それでも六歳年上で温厚な夫は、なんとか私に合わせようとしてくれていた。とはいえ、結婚当初は喧嘩(けんか)も多く、「君といると気が休まらない!」「じゃあもう帰ってくんな!」という口論の末に夫が二日間家出したこともあるし、夜中に激昂(げきこう)した私が床に鍋を叩(たた)きつけたときは、夫も「もう無理かも……」と思ったらしいが……。生命保険の契約や結婚式の準備でいっぱいいっぱいになってメルトダウンしたり、給湯器が壊れたときは微量の異臭を感じとって「どうしてこの匂いがわからないんですか?」と業者さんにくってかかったりもした。アルバイト先の図書館で、余裕のない上司が理不尽にスタッフを叱責したときも、「そういう八つ当たりみたいなのやめてくださいよ」と言い返して泥仕合になった。ほうぼうでやらかして落ち込んだときに、そばにいてくれたのはやっぱり夫だった。私たちはよく色んな話をした。お互いの好きな映画や小説や、日々のニュースについて。自分たちにしかわからないコントのようなやりとり。「ケバール星人」という概念も夫との会話から生まれた。「毛羽立(けばだ)つ」から来た架空の宇宙人で、危険を感じるとざわざわと毛が逆立って、周りを攻撃してしまう。そんな宇宙人に自分を例えた。
「文恵さん、今、ケバってる?」「うん、ケバってる」
「私、ケバール星人だからなあ。宇宙の迷子なんだよ。地球に馴染(なじ)めないんだよ。でも、夫さんがいればいいかな」
ゆらぐ船に乗っているような毎日の中で、心を許して話ができる人がそばにいるのは大きな支えだった。

結婚から三年目、三十二歳の冬だった。もともと私は冬に体調を崩しやすくなるのだが、その年の秋頃から、感情が不安定になると過呼吸を起こすことがたびたびあった。その三年ほど前、応募したラジオドラマの脚本がたまたま賞に引っ掛かり、オンエアに向けてテレビ局で打ち合わせをしなければいけなくなった。人混みの街、初めて会う人とのコミュニケーション。自分の空想を文章で書いていたときと違い、他者に自分の意見を話し言葉で伝えるのは全く別のスキルを要求されているようで、ものすごく大変だった。結局受賞作は評判もよくなく、その後もう一本、短編をやることになったのだが、ここでもやはり例のこだわりが出た。演出がイメージと違うという思いが強くなり、収録中に「そうじゃないんです」とディレクターに主張した。新人ではありえない言動だった。出来あがりにも納得がいかず、気がついたら「私の思惑とは違う」というメールを送っていた。たぶん相手は相当怒ったと思う。私には共同作業はできないんだ、どうせもうオファーも来ないしと、それきり脚本の世界に関わることはなかった。
そのときに名刺交換をした、顔見知り程度のディレクターが、私のことをひどく悪く言っていた、と、その冬、人づてに聞いたのだった。五十歳を過ぎた役職もある男性が、そんな陰湿なことをしていたのか。お腹の辺りが燃えるみたいに熱くなって、その人がヒューマンな作品を作っていることに、「嘘つき……!」と叫びたくなった。
夕方、陽が落ちてくると、そのことが頭から消えなくなり、芋づる式に、小中学校でのいじめの記憶や、過去の嫌なできごとが次々にわき上がってきた。フラッシュバックだった。アスペルガーの人は、過去の経験を強烈に覚えている傾向がある。それが前触れもなく思い出されて、当時の感情も追体験してしまう。苦しい、悲しい、飲み込まれる。この苦しさから逃れられるなら、発作的に死を選んでしまいそうな気がして怖くなった。外出中の夫に「早く帰ってきて」と連絡すると、夫は走って帰ってきた。「文恵さん、大丈夫!?」と部屋に飛び込んできて、過呼吸を起こして泣いている私の背中を撫で続けてくれた。そんなことが続いて、私は再び心療内科を受診したのだった。診断は、パニック障害を含む不安障害だろうということだった。薬を処方され、アルバイトもやめて、家で療養することになった。駅のホームや人混みでは心臓がばくばくする。スーパーで何を買ったらいいのかわからない。レシピが読めない、大匙(さじ)一もはかれない。夫の話す速さに頭がおいつかず、「もっとゆっくり喋って」とお願いした。好きだった映画や小説も、全く内容が理解できなくなった。今までできていたことができなくなって、ふがいなくて情けなかった。それでも夫は、天気のいい日は散歩に連れだしてくれたり、仕事を早く切り上げて帰ってきてくれるようになった。すぐに寝込む私に「早く春になるといいね」と声をかけ続けてくれた。私がはっきりと体調を崩したことで、夫は「妻ファーストになろう」と決心してくれたらしかった。
そうやって約一年が過ぎた。時間が解決することもある。外出はまだ最小限だったものの、体調は少しずつ良くなり、できることも増えていった。そして去年の十月。たまたま見ていたテレビで、発達障害の特集をやっていた。そこには、感覚過敏ゆえにイヤーマフやサングラスをして買い物に行く主婦の人や、自分たちを「火星人」と呼ぶ発達障害の家族が出ていた。なんだか他人の気がしなかった。番組のあと、発達障害についてインターネットで調べるうち、アスペルガー症候群かどうかをはかる簡易チェックのようなものを見つけた。やってみると、基準ラインを大きく超える高得点で、「可能性大」という結果がでた。
私、アスペルガーなのかな……?
はじめてそんな考えが頭をよぎった。今まで、うつ病や不安障害、月経前症候群、頭痛、心身症など色々な本を読んでみたが、部分部分は当てはまるもののしっくり来ないことが多かった。発達障害だと今まで思いもしなかったのは、知識として漠然とあった、注意欠陥・多動性や学習障害といった特性が、私には見られないからだった。さっそく図書館でアスペルガーの本を借りて読んでみた。「女性のアスペルガー症候群」の特徴が、驚くほど私に当てはまっていた。女性は、男性と比べると適応力が高いこともあるので見過ごされやすい……。幼年期は問題行動もわかりにくく、思春期になってから顕著化しやすい……。ぼんやりした疑念が確信めいたものに変わり、その本の著者だった先生のクリニックに予約をとった。
成育歴や自覚する傾向など十数枚にもなる書類をあらかじめ記入して郵送し、当日は知能検査と問診を受けた。後日、先生から「水城さんは、アスペルガー症候群といっていいと思います」と診断がくだった。
ああ、やっぱり、そうだったんだ……。
「あなたのこれまでは、すべて発達障害で説明がつきます」
と先生は言った。
「あなたは、ここに来る方の中でも困難な思いをしてこられたと思う。なぜなら、小中高大と、ずっと普通の社会でやってきたから。成績を落とさず、大学まで行くのは大変だったでしょう。だからより苦しかったんです。家でも荒れてしまうんです」
そう言われたとき、体からへなへなと力が抜けてゆくような気がした。私、頑張ってたのか……。ずっと、人並みに生きられない自分は頑張りが足りなくて、やりたいことがあっても体と心がままならない、人付き合いも共同作業もできないダメ人間なんだと思っていた。得体の知れない自分に、発達障害という名前がついて、はじめて何かが統合されたような気がした。私に長年とり憑(つ)いていた魔物の正体が、やっとわかった気がした。
結果を伝えると、夫は全然驚かなかった。
「うん、文恵さんには、『なんかある』と思ってたよ」
とさらりと言われた。それが三か月前のことだ。
現在の私は、クリニックに通い、先生からソーシャルスキルについて少しずつ学んでいる。そして、生活上の工夫を、意識的に取り入れるようになった。たとえば、出かけるときはサングラスやイヤーマフを持っていく、満員電車や人混みなど刺激の多い場所は避ける、予定を詰めこみすぎない、テレビ(とくにワイドショーやバラエティ)は情報量やBGMに圧倒されて疲れてしまうので極力観ない。毎日暗い部屋で一人で休む時間を作る、など。
「これは、よく生きるための診断名です」
と先生は言う。自分の得意不得意を自覚して、生きやすくなるための戦略をたてることが大切なのだという。私にとって「居心地がいい」「気持ちがいい」状態を少しずつ増やしてゆくことなのかな、と思っている。
「率直な物言いがアスペルガーの特性だっていうなら、俺は、嘘がつけない文恵さんを好ましいと思ってるよ。平気で嘘をつく人よりずっといいじゃないか。それに、俺は、文恵さんは優しい人だと思ってるよ」
夫は、そんなふうに前向きに肯定してくれる。本当に、この人がいてくれてよかったと思う。障害は周囲の環境によって変化する、と何かの本で読んだ。たとえ特性が強く出ても、理解してくれる人がそばにいれば、スムーズに生活を送ることができるし、逆に、孤独ならば、軽度であっても生きづらさを感じてしまうというものだ。私の場合は本当に運が良くて、夫や家族が近くで支えてくれた。夫に出会うまでは、他人はみんな私を傷つけるものだと思って怖かったし、誰のことも本当には信じていなかった気がする。人が人で救われる物語が好きだ、と夫はよく言う。子どもの頃からウルトラマンなどのヒーローものが好きだったのも、人が助かる瞬間に感動していたからだという。その性善説ぶりに、「人はそんなに優しくないよ。子どもの世界にだって差別はあるんだから」と以前は反論していたが、今は、そんなこともあるかもなあと思う。
「地球に来たばかりの宇宙人みたいね」
と中二のときに担任に言われた。私の扱いにくさをさして言ったのだと思われるが、今、バルタン星人などの怪獣フィギュアを嬉々として並べ、「怪獣っていいよねえ」とにこにこしている夫は、私のような宇宙人にも友好的な地球人だった。
「夫さんの優しさで、私は救われたと思う。変われたと思う。だからたぶん、夫さんは、私にとってのヒーローなんだろうね」
あるとき思いついて言ってみたら、夫は一瞬黙ったあと、
「ああもう俺の人生、なんの文句もないや」
と言った。
もしも宇宙のどこかに私の故郷の星があって、その環境が私にぴったり適合したとしても、私は地球で夫と暮らしたい。地球の「普通」は難しく、わからないことはたくさんある。でも、まだ、生きさせてほしいと思う。「ケバール星人」の地球暮らしは、ここからが本当のスタートなんだと思っている。

以上