第55回NHK障害福祉賞 最優秀作品
〜第2部門より〜
「有難う」

著者 : 小林 順子 (こばやし じゅんこ)  神奈川県

「今年も第一位はやっぱり同じだったな」
毎年元旦に自分の夢を十個書き出し、ランキングを付けるようになってから三十年になる。
これまで色々(いろいろ)な夢が第一位になってきたが、この十八年間は第一位を譲らない私の夢がある。
それは……、
「息子より一分でもいい、いや一秒でもいいから長生きしたい」
そんな無謀な夢を持つようになったのは、息子が先天性の最重度知的障害の自閉症と診断がくだったあの日から。

【第一の告知】

二〇〇〇年丁度(ちょうど)、ミレニアムな年明けに生まれた我が子。二歳まではまずまずフツウの成長をとげていた。しかし、二歳過ぎたあたりで息子の奇行が目立つように。
それは、《何もない壁に向かって手拍子をしながら飛び跳ねる》というもので、その奇行は放っておくとずっとやっている。三十分はたっていることもザラだ。
「何かおかしい。そういえばカタコトだが少し話していたのに、全然話さなくなってる……」

当時スマホはまだ世に誕生しておらず、携帯電話の普及率もまだまだで、私は持っていなかった。家にパソコンもなかったので、ササっとネットで調べることができず、図書館や本屋で調べたりしていた。

わかったことは、《どうやら児童精神科に行かねばならないらしい》ということ。
数少ない児童精神科の門を数か所叩(たた)く。診てもらえるのは半年以上先、というところばかりで「一日でも早く診てほしいのに」と焦る私。
それらの病院で言われたことは、「まだ二歳だからはっきり判定できない」「発達に遅れがあるかもしれないが……」「まだ二歳なので様子をみましょう」ということだけで、ただただ不安が増すばかり。
心に黒い雲が、日を追うごとにたちこめてゆく。

そして、三歳になってやっとそれらの病院から診断がくだった。
診断名は《最重度知的障害の自閉症》。
詳細を求めると、その答えはだいたいにおいて同じだった。
色々説明を受け、その言葉ごとに黒い雲が心を覆いつくしてゆく。
「障害は病気ではないので治らない」
「先天性なもので原因も不明」
「一生しゃべれない、一生オムツ」
「知的に最重度なため、絶えず誰か介助者がそばにいなければならない」
息子が二歳になって、おかしいと思い病院通いをしてからの一年間、診断が下らず、ただただ暗闇を歩いていた期間があったため、ある程度の覚悟はできていた。
が、やはりそれらの言葉は胸に突き刺さった。

でも、泣いてばかりはいられない、何とかしなくては!
と立ち上がると同時に、私は「小林順子」でなくなった。そして、「小林将(じょう)の母一〇〇%」になった。

【とにかく療育】

当時の障害児療育の本を読むと必ず出てきたトップワードは《早期療育》。
息子の成長のためにと様々(さまざま)な療育を試した。岡山県に十日間親子で滞在し、感覚統合療法を学び体験したり、ABA(応用行動分析学)のセラピストの先生を毎週自宅によんで学び体験したり、その他TEACCHプログラム、PECS、マカトンサイン、食事療法、薬物療法、音楽療法、イルカセラピー、などなど……。今でも取り入れているものもあれば、消去したものもある。
これらの結果、我が子の場合《これが凄くハマッて良かった》というものは、残念ながらない。

そして、療育とともに力を入れたのがトイレトレーニング。息子の場合、一生オムツと言われたが、頑張ってみることにした。
が、やはりうまくいかない。失敗が絶えず、大や小で悪臭がとれない家の中や車の中。三歳からスタートし、何度も「もうやめよう。オムツでもいいじゃないか」、そう思った。でも、そのたびに、「今日一日だけ頑張ろう」、そう思いながら息子は十歳になっていた。
トレーニングをはじめてから七年が過ぎようとしていた小学四年生のある日、私はほとほと疲れてしまい、当時の学校の担任の先生をとても信頼していたこともあり、先生に告げた。
「トイレトレーニング、七年以上やってきましたけどお漏らしが多いので、もうやめて完全オムツにしようと思うのですが……」
それを聞いて先生はこうおっしゃった。
「お母さんよく頑張ってきましたからそれでいいと思います。ただ、学校では続けてもいいですか。将くんの可能性を信じたいんです。私が担任でいる間は続けることを許していただけますか」
はじめてだった。
息子の成長を願い、息子のことを信じてくれている人が、私以外にここにいた。
先生の手を握りながら私は答えた。
「先生有難(ありがと)う、有難うございます。お願いします。そして私も続けます、続けたい気持ちをもらいました」
と。

有難う。有難うの反対語は当たり前。有るが難(かた)しの先生に、私は今でも感謝している。

その後もトイレトレーニングは続き、なかなかできるようにはならなかった。諦めようかと思うたび、あのときの先生が蘇り、私を奮い立たせてくれた。
結果、できるようになったのは、あの言葉から五年たった十五歳の秋だった。トイレトレーニングをスタートしてから、十二年間かかってできるようになったトイレでの用足し。

あの十歳のときの先生の言葉がなかったら、今の将はいない。

【自己肯定感】

《原因不明の先天性障害》、そうドクターから言われても、「原因は私なのでは」という気持ちを払拭できずにいた。妊娠中のアレが良くなかったのでは、出産時のアレが原因なのでは、〇歳児のアノコトが引き金ではないのか、そう原因を探しては私のせいと責める。
様々な療育を試しても、心血注いでサポートしているつもりでも、目に見える成長を遂げない息子に、「私が母親でなければ、息子は成長できるのではないだろうか」と私のせいと責める。
自己肯定感の低さは、障害児の母あるある≠ネのかもしれない。

息子の学校での毎日は、笑ったり穏やかでいる時間より、泣いたり落ち着かない時間の方が多かった。「こんなに重い障害があって、毎日泣いてばかりで、息子は生きていても辛(つら)いことばかりで楽しくないのではないか、息子は幸せなのだろうか……」、そう幾度も思った。
そして私は、ただ療育をするだけでなく、息子にとっての幸せとは何だろうと考えるようになった。
そんなとき、障害者雇用を多くされている日本理化学工業の大山会長の講演での言葉に、その答えのヒントを見つける。
大山会長は、
「禅寺のお坊さんから、人間の究極の幸せは、ひとつは愛されること、ふたつめはほめられること、みっつめは人の役に立つこと、よっつめは人に必要とされること、と聞きました。福祉施設で大事に面倒をみてもらうことが幸せではなく、働いて役に立つ会社こそが人間を幸せにするのです」
と話された。
なるほど! では私は、「将くん有難う、おかげで助かったよ!」そう思わず言ってしまいたくなる状況をあえて作ったらどうだろう。そして息子自身が「オレってナイス」と感じられることをたくさん作ったらどうだろう! 自分に自信を持ち、自尊心を持ち自分を愛せたら、それはきっと幸せだ。

【転機】

中学二年。息子に転機が訪れる。
毎年年度初めに担当の先生と個別療育計画をたてる。これまで様々な先生がそれぞれのアプローチで療育をしてきてくださった。私から書く希望はだいたい毎年変わっていなかった。学校でやっていただきたい、たくさんの項目の中のひとつに「自転車に乗れるようになる」があった。
中学二年時の担任の先生はこの項目に注目し、「今の将くんには、粗大運動と協調運動が大事」と考え、毎日大人用の三輪自転車を運転できるようになる練習をしてくださった。でも、息子は何かに跨(またが)るのは嫌いだし、ペダルのように安定してないモノに足を乗せておくことは嫌がるし、絶えず何かを手に持っていることで心の安定を保っているから、両手でハンドルを握れないと思うので、三輪自転車とはいえ一人で乗れるようになるのは難しいかな。でも自転車に乗れるようになったら風が好きな息子はきっと嬉(うれ)しいはず、そう思っていた。

そんな中学二年も、あと二か月で終わろうとしていたある日、担任の先生からこう言われた。
「お父さん、お母さん、明日面談の前に校庭に少し寄ってください。将さんと私がいるので」
そう言われ、主人と校庭に行った。
息子は私や主人を学校で見つけると、当時は崩れてしまうことが多かったので、校舎に隠れながらそっと息子を探す。
いた。
なんと、息子が三輪自転車に一人で乗っているではないか!
一人でペダルをこぎ、一人でハンドル操作をしている。
その息子の表情は晴れやかで嬉しそうで、何とも得意げな顔をしていた。

隠れてそっと見ているのも忘れ、主人がたまらず叫ぶ。
「おい! 将がひとりで自転車に乗ってるぞ!」
私も声にならない声で叫ぶ。
「将、凄(すご)い凄い!」

でも、一番凄いのは先生だ。その先生は自転車に乗っている息子の横で歩きながら見守っている。
先生の顔を見ながら、私はこの十か月を思った。
サドルに跨れるようになるまで何十日かかったのだろう、ペダルに足をつけたままでいられるようになるまで何十日かかっただろう、手でハンドルを握れるようになるまで何十日かかっただろう、ハンドルは動かした方に進むということがわかるまで何十日かかっただろう。そして、なかなか進まぬ毎日のなか、どれだけの根気と忍耐が必要だったことだろう。雨の日も風の日も雪の日も、少しでも時間ができると、わずかな時間も惜しまずに練習してくださっていた、と他の先生から後で聞いた。

三輪自転車に乗れたということは、あらゆる苦手を克服できた喜びを知ったということ。また自転車を操作するという、自分以外の他を制圧できた経験をはじめてしたということ。
その達成感と自分への自信は、私がずっと求めていた、まさに「オレってナイス!」だった。

恩師に出会え、転機が訪れた中学二年。
自転車で風をきる息子の顔と、それを見守る先生の顔を、私は一生忘れない。

【第二の告知】

自転車に乗れ、自分に自信を持ったことをきっかけに、他のことでも小さい頃からの療育の成果が見えはじめた高校一年。
家で三歳から練習していたマッチングと、写真カードを使ったコミュニケーションを、高一の担任の先生が取り入れてくださり、息子が大好きなキャラクターを使ったり、息子が興味をひく方法をアレコレ駆使して、机上の課題を色々試してくださった。春にスタートし、秋に少しずつ成果が出だし、ほんの一筋の光が差し込んできた十一月、衝撃的な第二の告知をうけた。

それは、私の乳がん。
ドクターから「侵襲度が高く進行性の癌(がん)。リンパ節にも転移あり。まずは抗がん剤治療をし手術を」

差し込みはじめた光は一瞬に消え、再び心が真っ黒な雲に覆われてゆく。
乳がんの告知を受け、真っ先に思ったことは息子のこと。
《私が死んだら、息子はどうなってしまうのだろう》
私の一番の夢、不動のナンバーワンの夢、それは息子より一秒でもいいから長生きすること。そんな無謀な夢はやはり叶わない、もうすぐ一番恐れていることが起きてしまうのかと、息子を残して死んでしまうのではないか、という恐怖で何も耳に入らなくなった。

しかし、そんなことはお構いなく、治療はどんどん進んでゆく。
まずは半年間の抗がん剤がスタート。
抗がん剤の副作用は人によってそれぞれ。私の場合は強く出てしまい、嘔吐(おうと)、発熱、味覚障害、血管痛、倦怠(けんたい)感、下痢、脱毛、皮膚障害、などなどあったが、なかでも辛かったのは足全体の強烈な痛みとだるさ。階段があがれなくなり、歩くのでさえままならなくなってしまった。

そんなある日、息子が散歩に出たがり、その日は私の調子も良かったので二人で外に出た。
でも、五分もたたないうちに、私は一歩も足を動かせなくなり、座りこんでしまった。
《どうしよう誰もいない。あぁ、息子はどんどん行ってしまう》
信号もわからず、道の端をひとりでは歩けない息子。行き交う車、車、車。
戻ってきてほしくて、渾身(こんしん)の思いをこめて叫ぶ。
「将くん!」
振り返る息子。
いつもなら我関せず歩いていってしまうが戻ってきてくれた。良かった!
そして次の瞬間、驚くことが。
息子は私の腕をぐっとつかむと、自分の腕につかまらせた。そして私を引っ張り、立たせたのだ。
更に、私の手を自分の脇にグッと挟んで、腕をつかんだまま歩きだした。

動く私の足。
溢(あふ)れる涙。
「ママ、行くよ! ボクが引っ張ってあげるから」そう言っているのを息子の手から、背中から感じた。

私は、心からアノ言葉が出た。
「将くん有難う、おかげで助かったよ」

【フラとの出会い】

息子が最重度知的障害の自閉症と診断されてから、私は息子の母一〇〇%になったと書いた。そう聞くと子どものことに一生懸命で何だか「いいお母さん」のように感じる方もいるかもしれないが、そういうワケではなく、自分のことを顧みる心の余裕がなかっただけのこと。
乳がんになったことで、期せずして息子のことだけではなく、自分のことも考えなければならないようになった。何たる皮肉。

ドクターから運動をすすめられたこともあり、以前から興味のあったフラメンコをやってみようかと検索。だがいつの間にか同じフラ≠ナもフラダンスを検索していた。なぜそうなったのか、その時はわからなかったが、後に《こういうことだったのか》と判明する。
フラに出会い、すぐに夢中になった。最初の頃は一日十時間踊っていたほど。でも元々は、女性らしいモノやコトがキライだった私。乳がんになり、片胸はなくなり髪や睫毛(まつげ)や眉毛も抜け落ち、顔はむくんでしまい、益々(ますます)女子力に自信が持てず、鏡を見ることも避けるようになっていた。
でも、フラを知って百八十度変わっていった。
ハワイアンミュージックの癒される音楽、しなやかで美しいその踊り、キレイな衣装や飾り、華やかなメイク。それら全てで、フラは私に心地良く囁(ささや)く。
「ホラ、女性って素敵でしょ。片胸無くったって関係ないじゃない。ホラ踊って、笑って」と。
乳がんサバイバーとしてこれから生きる自信と、女性としての喜びを教えるために、フラに出会わせてくれたのだと感じた。鏡に向かって練習する私。映るその手は音楽にのってしなやかに動き、映る身体は胸をはって凛と保とうとし、映るその顔は微笑みを浮かべていた。
「あれ? 今の私ってちょっとイイかも。何だか楽しい、何だか幸せ」

そんな私の踊りを、表情を、息子が隣りで見ている。
息子のその顔は、何ともいえない笑顔。
言葉を持たない息子だが、その笑顔は雄弁にこう語っていた。
「ママの幸せはボクの幸せでもあるんだよ」と。
この話をしたとき、ある方にこう言われた。
「息子さんはこれまでママの辛い顔も見てきていると思う。もしかしたら、ママごめんね、ボクのせいで、と思っていたかもしれない。でもママが幸せそうにしている姿を見て、本当に嬉しかったのでは。ママごめんね、という気持ちからはじめて解放されたのかもしれない」

ハッとした。

子育てがうまくゆかず自尊心が持てず、自分を愛せないお母さんだった私。
でも、子どもは「幸せなお母さん」がきっと大好き。

障害のある子もその母も、自尊心を持ち自己肯定感を高め「私ってナイス」と、自分を愛せることが大切で、最も幸せなことなのかもしれない。

【母の日】

息子は今二十歳で、生活介護事業所で社会人として働いている。
忘れられないのは、初めてのお給料日。いただいてきた給料袋の中を見て驚いた。
硬貨だけではなく、夏目漱石さんもいらっしゃったからだ。
今まで息子が関わるコト全てに、こちらがお金を支払い支援してもらうことが当たり前で、それでも障害福祉支援のなりてが少ない中、関わってくださる貴重な方々や施設があることが、本当に有難いと思っている。息子が生きていくうえでは、支払うことが当たり前で、逆に息子がお金をいただく、ということが全く考えになかった。
そんな息子が、働いた対価として給料をいただいてきた。
社会人として認めてもらえた
社会の役に、ほんのほんのちょっぴりかもしれないけど立てている
そう言ってもらえたような気がして私は大興奮し、
「凄いね、凄いね! 将君すごいね」
と息子に何度も何度も言う。

  じ〜じとば〜ばに見てほしくて、「ジャ〜ン、将は今日コレをもらってきました」と給料袋を渡す。
「おおお〜」と感嘆しながら、その給料袋をまるで生まれたての赤ちゃんを抱くかのように、両手で優しく丁寧に持つ。そんなじ〜じとば〜ばの顔は初めて見る表情。泣いているような、笑っているような、怒っているようなその顔は《娘が障害児の母になった苦悩》を物語っていた。

  これまでの私の苦悩を一緒に感じてくれていたものね、と私は障害児の母から娘に戻って「有難う」と父と母にそっとつぶやいた。
さて、息子が初めていただいたこのお給料。本当に宝物で、このまま永遠にとっておきたいところだが、社会貢献のためにもせっかくなので使うことに。
息子が自分でほしい物を記念にと思ったが、さしてほしいモノはない様子。ってことは、やっぱりお世話になった方々に何かプレゼントを買おう、となった。ただ、袋の中の夏目漱石さんはたくさんいらっしゃらないので、予算の関係上高価なモノは買えない。
高価なモノではなく、 普段使っていただけそうなモノは何がいいか考えあぐね、靴下に決定。

ショッピングモール内にある靴下専門店へさっそく息子とGO。
たくさんある色とりどりの靴下。光り輝いて見えるのは、なぜだろう。
息子も何だか真剣に選んでるそぶりを見せている。

お店が空いていて他にお客さまがいなく、とても感じのいい店員さんだったため、ここに来た経緯を話した。
息子が最重度知的障害であること、その息子がはじめてお給料をもらってきたこと、そのお給料でこちらの靴下を買ってお世話になっている方々にプレゼントすること、そして息子が買い物の一連の工程を自分ですること、を話した。
話し終わり、店員さんの顔をみて、そしてその言葉に驚く。
店員さんは目を真っ赤しながら、「そんな大切なことに関わらせてくださってありがとうございます。ひとつひとつ大切にラッピングさせていただきます」、そう言ってくださった。

なんて有難いお言葉。世の中捨てたもんじゃない。
鼻の奥がつーんとする。いかんいかん、ガマンです。

「どうぞゆっくり選んでください」、そんな言葉もいただき、息子と選ぶ、はじめてのウキウキショッピング。お給料全額使って購入し、イザお会計を。
給料袋から息子に自分でお金を出してもらい、自分で店員さんに渡す。
店員さんのおかげで、息子はスムーズにスマートに会計作業ができた。

私はこの息子の姿を見て、思わず号泣しそうになるのを必死にこらえる。
ひとつひとつラッピングされた、大きな紙袋に入ったプレゼントたち。
息子からのたくさんの有難うが詰まっている。
この紙袋を、息子は愛おしそうに大事に持つ。
その顔を見ると、得意げな時に出る、鼻の穴が最大に広がった顔。
息子自身も「ボクやった!」と感じているのがヒシヒシと伝わってくる。

息子のこんな姿を見られる日がくるなんて。

ダメだ。号泣してしまう。車までガマンガマン、と足早に駐車場へ。
息子は未だしゃべれない。
信号を理解できず道の端を歩けないので、外に一人で出かけることはできない。
何でも口に入れてしまうので、常に誰か注視し見守っていなければならない。
その他知的に最重度なため、私は永遠の療育・終わらない介助生活を一生しなければならない。

ゆえに、私がそばで介助しているとはいえ、
息子が自分で働いたお金で、プレゼントを買って、お金を払って、その品を自分で持って帰る
こんなことを見られる日がくるなんて、私は思っていなかった。

車内で号泣する私の隣で、息子はニコニコしている。
自分のお金で買った大切な宝が詰まった紙袋を抱えながら。

その笑顔は本当に誇らしげだった。
その日はくしくも母の日。

将くん、あなたのこの姿が、私への最高の母の日のプレゼントだよ。

有難う。

以上