第54回NHK障害福祉賞 佳作
〜第2部門〜
「「うるさい」と言った日」

著者 : 寺澤 綾菜 (てらさわ あやな)  岩手県

私の弟は自閉スペクトラム症だ。成長とともに行動は落ち着いたものの、今でもこだわりがある。毎朝、テレビ番組の占いを家族分全て読み上げるのがこだわりの一つである。しかし、私はこのこだわりが嫌だった。うるさいし、何言っているか分からないぐらい早口で話す。もはや「やっつけ仕事」状態。順番が近ければ省略しているし、読み切れないこともしばしば。もはや続ける意味が理解できなかった。弟の言動は、この他にもいろいろ思うところがある。やめられるならやめてほしいこだわりもある。
弟は機械が大好きで、機能は全て使いこなしたいタイプである。地上デジタル放送のデータ放送やスマートフォン、ゲームの普及が、弟のこだわりに拍車をかけ、自分で自分の首を絞めているような状態に陥ったこともあった。今でもこだわりに縛られてイライラしていることがある。興味本位で始めたものが、「やらなければいけない」になってしまい、やりたくもないのにイライラしながらも続けてしまうのだ。
テレビの占いを読み上げるのもこだわりの一つだと思う。イライラはしていないが、続けている理由がよく分からないこだわりである。朝の身支度の合間に、決まったタイミングでチャンネルを変えて、読み上げている。トイレに行きたくても我慢して乗り切ったこともある。日課をこなす根性は目を見張るものがある。
そんな弟の特性を「不思議だな」と思いつつ、「イライラするぐらいなら、やめればいいのに」と思うこともある。しかし、やめられないのだ。そこが弟の生きづらさなのだろう。私は弟のこだわりを一つでも多く解消し、生きづらさから解放させたいと思っている。
「こだわりに縛られている」という考え方や、障がい特性に文句を言うのはご法度だと思う人が多いと思う。私だって分かってはいるのだが、いつものように占いをペラペラと読み上げた弟に、私はとうとう言ってしまった。
「うるさいよ。なんでいちいち読み上げるの?三十歳になっても四十歳になっても言うつもり?それはおかしいと思うよ」
弟の返事はたった一言。
「分かった」
次の日から占いを読み上げることはなくなった。私は「やめて」とは一言も言っていないが、弟はきれいにやめた。占いの時間になると、今まで通り、占いをやっているテレビ番組にチャンネルを変えるが、読み上げない。髭(ひげ)を剃(そ)ったり、着替えをしたり、自分の身支度の時間に充てている。テレビのあるリビングにいるものの、テレビの画面を観(み)ないことも多い。
私はこだわりが一つ減ったと内心喜んでいた。「こだわりから一つ解放させてあげた」と厚かましくも、自分の成果をちょっと誇らしく思っていた。
しかし、それは勘違いだった。これには後日談がある。私の仕事のシフトは早番や遅番など、出勤時間が何パターンかある。早番の日は、占いが始まる前に出発している。母によると、私が早番の日は、弟は占いを読み上げるのだと言う。母は弟に占いを読み上げた理由を聞いた。弟は
「お姉ちゃんから苦情が出たので、お姉ちゃんがいる時に読むのはやめました」
と答えたそうだ。
私は笑ってしまった。自分の力に酔いしれている場合でも、私の意図を理解してくれたことを感心している場合でもなかった。弟なりに気を遣っていたようだ。完全にやめてくれたら、私の心はもう少し晴れ晴れとしていたのだが、「私がいる時限定」となると話は違う。やっぱり読み上げたいのか。言い過ぎたかなとちょっと反省。しかし、そんなに無理して我慢している感じでもなさそうなので、占いを読むのは今まで通り「姉がいない時のお楽しみ」ということにしている。障がい者に気を遣わせるアラサー女。意地悪な姉である。
弟のことで何か思うことがあっても、我慢するものだと思っていた。小学生ぐらいの時は、「特性を認める・共生する=健常者が我慢をする」という解釈だった。高校生ぐらいになると、「障がい者の権利が守られるなら、家族の権利はどうでもいいということなのか」と思っていた。「家族だから我慢する(受け入れる)のは当然」という正論は私にとって、受け入れがたいものだった。「私だって人間なのですが…」と思っていた。昔からひねくれた性格だった。
私は弟のことを大事に思い、仲良くしていたつもりである。関係性は良いほうだと思う。しかし、優しい気持ちを持てる時と、納得できない時があった。正反対の二つの気持ちで揺れていた。
仲は良くても、何でも言い合える関係ではなく、弟に対して、「やめてほしい」「うるさい」などはなかなか言えなかった。もちろん、言ったことはある。しかし、弟に対する否定的な感情を表すと、母親は悲しんだ。「お姉ちゃんだから我慢して」と言われたこともあったが、多かったのは「やめてよ」「かわいそうだよ」「そんなこと言わないであげて」だった。
弟が嫌がれば、もちろん私が譲らざるを得ない。私は他人に不快な思いをさせないように言動に気を付けなければいけないのに、私が不快な思いをするのはないがしろにされていると感じていた。
弟の存在を否定しているつもりはなかったが、母親ら周囲の反応から、否定的な感情を言ってはダメだということを学習した。「人としての我慢」「姉としての我慢」とはまた別の「何かの我慢」が求められていると感じ取っていた。──それが「障がい者のきょうだいとしての我慢」だったのではないかと気づいたのは大人になってからである。
弟の特性上、どうしようもない要求を伝えても状況は変わらないうえに、母親まで悲しませてしまう。「障がい者に冷たい」というレッテルを貼られ、自分の価値を下げてしまうと思い込んでいた。「気持ちを伝えること」に、メリットを感じられなかった。
今思えば、幼少期から自分の抱えている気持ちを知ったり、受け止めてもらう機会が少なかったように思う。イライラ・モヤモヤした気持ちを上手(うま)く発散することができなかった。
ネガティブな気持ちの持って行きどころがなくなり、自分でできる解決策は、そのような気持ちを持たないようにするしかなかった。前向きに捉えようと、無理に気持ちを奮い立たせ、弟のことであれこれ考えるのはやめた。ちょうど、そう思ったのが中学生ぐらいだったと思う。勉強や部活にのめりこみ、自分のことで精一杯(せいいっぱい)だった。考えないようにするのは苦ではなかった。
しかし、心の闇はいつまでたっても手をつけられずにいた。自然には消えなかった。「こんなことを話したら、自分を否定されるのではないか」とか、「危険な人だと思われるのではないか」と思い、結局誰にも打ち明けることなく、隠していた。
小学生のころから、自分を認めてもらおうと、目立ちたがり屋になったり、勉強に打ち込んだり、存在意義を見出そうと必死だった。「障がいのある人は生きているだけで存在意義がある。でも私は生きているだけでは誰も認めてくれない」と思っていた。承認欲求が強かった。他人に認められる技術や能力が欲しかった。とにかく、「すごい」と言われたかった。褒められたかった。しかし、現実は甘くなかった。私は不器用の塊で、努力型の人間だ。努力はするけれど、そう簡単に褒められたり、認められることはなかった。他人が褒められるところを見るだけだった。他人が褒められたり、少しつまずいただけで「自分はダメだ」と落ち込んでいた。頑張る原動力になるものもなく、心が折れやすかった。
いつしか「羨ましさ」が「嫉妬」になっていた。できないことばかりを気にしてしまい、他人と比較して、比較されて、他人の評価を相対的に上げている気がしてならなかった。何をしても「自分はいてもいい存在だ」と思えず、自己肯定感は低かった。
一方、弟は人に恵まれていた。私にとっては「こだわり」と思うようなことも特性として前向きに捉えられ、抱く気持ちも温かく丁寧に受け止めてもらえていた。様々(さまざま)な経験を積んで、いろんなことができるようになった。他人への信頼感も育ち、弟の自己肯定感は非常に高い。良き支援者や仲間に囲まれ充実した生活を送っている姿を見て、正直、羨ましかった。
弟が「嫌だ」と言えば受け入れてくれる。周囲が対応を変えたり、環境を設定したり、弟が過ごしやすいように、落ち着いた生活ができるよう配慮されている。しかし、私が「嫌だ」と言っても、そう簡単には受け入れてもらえない。「わがままだ」と捉えられ、「そんなこと言わないで」と蓋をされる。世間的には、障がい者のことを「嫌だ」とか特性を認めない発言をすれば、虐待とか、権利侵害とか、差別と言われる。
勇気を出して、悩みを打ち明けても、「家族だから我慢して」「そういう状況も楽しまないと!」と言われた。誰に言っても結果は同じ。変わらなければいけないのは私のほうだった。
割り切ったつもりでいても、弟の特性には、外出先でハラハラドキドキしたり、「困ったな」「恥ずかしい」と思うことがある。同時にそう思ってしまうことに罪悪感もあった。「私ってなんて性格が悪いんだろう」と思ったことは数えきれないほどある。「変わらないといけないのはいつも私ばかり…」と不満に思うこともあった。
障がい者のきょうだいは支援者の仲間だと思われていて、子どものきょうだいも、障がい者に対し、大人と同じ対応を求められているように感じていた。今思えば、それが私にとってプレッシャーだった。大人の考えを時間をかけて消化していった。
「特性だから仕方ない。私が我慢したり、考え方を変えるしかないのだ」と思うしかなかった。いつしか、考えること自体が無駄だと思うようになった。弟の特性に合わせた生活には、私の意思や気持ちがなくても困ることはなかった。自分の気持ちを考える必要性を感じなかった。そしたら、自分の気持ちが分からなくなった。
家族に対し遠慮がちであったが、弟の成長を機に私の気持ちは変化した。
弟が社会人になったのと同時に、私は一人暮らしを始めた。私が実家へ帰省しても、弟は私とあまり話さなくなった。私が違う場所に住んだことで、「姉は家族ではない」と割り切っていたかもしれない。話す時はあまり深い話をすることもなかった。私も思うことがあっても、本音は言わなかった。「別に一緒に住んでいるわけじゃないし」と他人事のように思っていた。何か聞かれても「いいんじゃない」など、当たり障りのない返答をしていた。
物理的に距離を置くようになってから、私も弟もどこか他人行儀な部分があり、お互い変に気を遣っていた時期が五年ほど続いた。弟の口数が減ったとは思ったが、大人になって落ち着いたのかなぐらいにしか思わなかった。
現在、私は実家で暮らしている。私が実家へ戻ってからは、弟の私に対する、よそよそしさはなくなった。五年ぶりの実家暮らしは、弟の成長を感じることが多い。弟は家事を積極的に担うようになった。手伝うきっかけが「両親が忘れっぽくなり、頼りないから」と言っていた。「親が忘れるとイライラするから、できる日は自分がやったほうが確実だ」と考えたようだ。確かに弟の日課にすれば忘れることはない。弟の特性を最大限生かした効率の良い方法だと感心した。先日、私が夕食づくりに手間取っていると、「暇だから」と言って手伝ってくれた。日課にないこともやるようになった。家族が頼りないおかげで、自分で考える力がついた。
中でも一番成長したと感じるのは、「自分が好きなことは必ずしも他人が好きとは限らない」ということが分かってきたことだ。「世の中、皆、自分と考えが同じ」と思っているようで、考えが違う人がいると、イライラしていた。「どうして、○○さんはこれが嫌なんだ!」と怒りを爆発させたこともあった。
今でも、自分で気づくのは難しいようだが、人間関係でつまずいて、イライラしている時や、友人と遊んだ際にハプニングが起きた時など、失敗談として事の経緯を私に話すようになった。私は素直に「自分の好きなことでも、他の人は嫌いなことがある」と伝えるようにしている。以前は「そうは言っても…」と文句を言っていたが、最近は、「あ、そうか」と受け止めるようになった。
また、自分が良かれと思っていることについて、他人から「嫌だ」と言われることに慣れつつある。多様性というと大げさかもしれないが、自分と異なる価値観を受け入れることができるようになってきた。
私にいろいろ話すようになったのはいいのだが、あまりに気を許しすぎて、「映画館のような迫力を求めて、家でテレビの音量を四十五にして映画を観ました」というような暴露話までするようになってしまったのは困りものである。私に怒られたのは言うまでもない。ちなみに、我が家の普段(ふだん)のテレビの音量は十五ぐらいである。
その話を聞いた時、私の中に「要因を考える」とか、「特性を認める」という福祉的な考えはどこかへ行っていた。「近所迷惑でしょ!」「映画館とは構造が違うの!」と自慢げに言ってきた弟に私は容赦なく言い放った。
私は、弟の成長を感じてから、「気持ちを表現しても大丈夫かもしれない」と思うようになった。家で少しずつ「嫌だ」とか、「それは変だよ」とか言うようになった。以前は敏感に反応していた母親も、鈍感になったのか、あきれているのか、私の発言を否定したり、干渉することはなくなった。私も調子に乗ってきて、最近は、「○○したい」とか「○○食べたい」とか、要求も言えるようになってきた。
弟の特性で、テレビのデータ放送のゲームをやりたいがために、観たくもないテレビを観てイライラしながらデータ放送と格闘していたことがあった。それを見かねた私が「イライラするならやめれば?」と言ったら、「そうか」と言って、あっさりやめた。スマートフォンは、ゲームやアプリなど、やりたいことが多すぎて、暇さえあればスマートフォンを持ち、一日中テレビかスマートフォンを見ている状態だったが、私が塗り絵を勧めたら塗り絵を購入し、テレビを観ない時間は塗り絵をするようになった。一ページ塗るのに一週間とか二週間ほどかけている。スマートフォンの使用時間は大幅に減った。
弟は良くも悪くも、勧められると、すぐに乗り気になる。こだわりを自分で修正するのはなかなか難しい。人に言われて気づくようである。行動の修正は「こうしたほうがいい」など、言いたいことをストレートに伝えると納得できるようになってきている。
以前は弟の機嫌をうかがいながらの生活で、私が弟の特性に合わせていたことが多かった。弟の分刻みの決まりきったスケジュールの合間を縫って私のスケジュールが決まっていた。しかし、ここ最近、弟のスケジュールには余白ができて、自由時間や変更の余地ができた。
私は、いかにも「我慢してます!」みたいな、イライラした我慢ではなくなった。意思を伝えて、ニーズが重なったら、譲り合って、「大人の交渉」ができるようになった。弟も、私や他の家族から意見が出ると、たまに「それはできない」ということもあるが、「分かりました」と言って、予定を変えることもできるようになってきた。テレビを観る時間や、風呂の時間など、(私以外の家族も含めて)お互いの希望をすり合わせて、決めることができるようになった。譲り合って時間を変更するなど、融通が利くようになった。私も弟も大人になった。「要求を通すか折れるか」の関係ではなく、折り合いをつけられるようになった。
これまでは、「変わってくれたらいいのに」と思うことがあっても、私は口に出さず、「特性だから仕方ない」と諦めていた。しかし、弟は私が思っている以上に、言えば分かってくれる人に成長していた。
「弟は言えば分かるようになった」ことが分かったのはいいが、私は言葉で表現するのが苦手だ。弟との生活を通して、察する力はついていると自負しているが、話す力が乏しい。語彙が少ない。言葉がパッと出てこない。今でも「何をしたいのか」、とか、自分の気持ちが分からないことが多い。意見を求められても、賛成・反対程度はできるが、理由とか、それ以上のことをその場で伝えることは難しい。自分の気持ちを感じ取り、言葉で伝えるのが今の私の課題である。
独り言をあえて声に出したり、「楽しかった」とか、「う〜ん…これ、苦手」とか、気持ちを、素直に表現することを心掛けている。「子どもみたいだな」と思うこともあるが、いいのだ。「大人でこんなことする人は少ないかもしれないけど、誰もが通る道。人より遅かっただけだ」と思うようにしている。
素直な意見を言えるようになったことは、私にとって大きな進歩であると感じている。ただ、伝え方が未熟なために、言葉の選び方に雑なところがあるのは事実。適切な表現方法とは言い難い。幸い、弟は私から指摘されたところで、落ち込まない人だ。弟の自己肯定感の高さに助けられている。これも、今まで弟を支えてくださった方々や、現在支援していただいている方々のおかげである。感謝してもしきれない。
幼稚な姉を差し置いて、弟の成長はとどまるところを知らない。両親も弟の障がいを受容し、弟とのコミュニケーションが増えた。私も言葉で話すことが増えてきて、我が家は以前よりも明るくにぎやかだ。私は思ったことを表現することが増えて、以前よりも家で過ごすのが楽だと感じるようになった。ただ、しゃべり過ぎには気を付けなければいけない──今度は弟から「うるさい」と言われる日が来るかもしれない。

寺澤 綾菜プロフィール

一九九一年生まれ 児童指導員 岩手県在住

受賞のことば

この度、賞を頂き、作品集にも掲載させて頂くことになり、思いがけない展開に驚いています。障がい者のきょうだいの前向きな気持ちだけではない、様々な気持ちを知っていただけたら幸いです。
「ありのままの自分を出すと否定される」と思い、自分を出せず、自己肯定感の低い私ですが、今回の受賞を機に、「これで大丈夫」と自分を認めて生きたいと思います。ありがとうございました。

選評

障害児の兄弟が置かれている状況がよく分かる文章です。子供なら誰でもが受ける経験ではなく、障害児の兄弟は大人の対応を迫られ、その後の人格形成に影響しているようです。障害のない兄弟にも光が当たるべきだと痛感しました。幸いにも本人の前向きさで克服できそうです。また親ですら抑えていた障害者への言葉をあなたが発することにより、弟の成長を助け、ご本人の心を解放された。それが家族全体の幸せにも繋がっている。弟同様に自己肯定感の高さがあなたにも得られるように願っています。(鈴木 ひとみ)

以上