第54回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「お付き合いのカタチ〜いっこと発達障害〜」

著者 : 馬場 郁子 (ばんば いくこ)  滋賀県

目に見えない生きづらさ

私が身近な人に発達障害であることを告げると、大抵の場合こう返ってきます。
「うそ。そんな風に見えない!」
目の前にいる私、いっこはよく笑い、言葉も流暢(りゅうちょう)で、成人になってからは勉強面、コミュニケーション面共(とも)に目立った失敗は見られません。一般的な特定のイメージと印象がかけ離れていました。私の診断名は不注意優勢型のADHD(注意欠如・多動症)です。
発達障害は目に見えにくい障害です。困りごとといっても、朝起きられない、気が散る、忘れ物が多い、気分の切り替えが難しいなど、誰もが一度は経験したような問題が多く、大変なのは皆同じだ、特別扱いするべき?などの思いを抱く人も少なくありません。そのため学校や職場で躓(つまず)きが生じたとき、まずは個性と受け止められ、周りからはイタイ人(変な人…。引くわぁ。)、怠けている、本人の頑張りが足りないといったイメージで終始し、障害の理解やサポートまでつながらないことが多いのではないでしょうか。私も三十歳になるまで発達障害の支援につながることはありませんでした。
障害というと、できるか、できないかでその人の障害の程度を判断する傾向があると思いますが、発達障害は「できて見える部分」がとても多いです。できているけど、工夫が必要。できているけど、かなり疲れる。できているけど、遅い、不器用。そんな部分が多く、見えないところでとってもパワーを要しています。その上、症状や程度はかなりの個人差がみられ、本人に直接聞かないと分からない困りごとがたくさんあります。二次障害として心の病にかかる場合も少なくなく、それが障害をより見えにくくするかもしれません。

ちょっと変わった女の子

いっこちゃんは天真爛漫(らんまん)という言葉がよく似合う子どもでした。おっとりしていて、ぼーっとしていて、お喋(しゃべ)りが大好き。でも、話し方や動作がとてもゆっくりでした。
「いくちゃん…っな、い、く、ちゃん、な、えっと…、な、うんとー、な、うーん…。…忘れた(笑顔)」
と言う始末。何を考えているかよく分からないけれど、なんだか楽しそうな女の子でした。
幼稚園の頃から、先生の号令に従えたことはほぼありません。たくさんのお友達の声や扇風機の音、外から聞こえる飛行機の音、そして隣のお友達の靴下の柄や画用紙の色とりどりのイラスト、床の木目や木とニスのにおいなど。私の場合、それらが同量のエネルギーをもって脳内に入力されました。常に何かの感覚に陶酔していて、先生の号令だけを特別に注目し、スピーディーに対応することはとっても難しいことでした。何かに一度夢中になったら周りが見えなくなり、気づけば教室で一人になっていた…ということはしょっちゅうでした。きっと先生も集団行動に入れることを諦めていたのでしょう。ぽつんと取り残された教室で、たまに来る用務員のおばちゃんとお喋りを楽しんでいたのをよく覚えています。
一人で積み木や工作をすることが大好きでした。ごっこ遊びは速い言葉のラリーについていけませんでした。お友達の後をついて回ることに必死で、役はいつも無言で成り立つ赤ちゃん役か猫役がいいと、自ら名乗り出ました。
スキップやかけっこ、なわとび、鉄棒などの運動遊びは大の苦手。私なりに頑張るのですが、できたとしても、なんだかぎこちない…。運動会などの行進では、足の動きに合わせて腕を振ることができず、足とは関係ないリズムで、両腕を同じタイミングで前後に振っていました。父はその姿を見る度に可愛(かわい)い!と褒めてくれていたので、当時はむしろ嬉(うれ)しく、堂々と歩いていたのを覚えています。走ると、手や膝は不自然に四方八方へ向き、かかととつま先が同時に地面に着くので、ドスドスと音が立ちました。まさに怪獣のよう。お友達からは、
「かいじゅうばしりぃ〜!」
とからかわれていました。
今も、自分の手足の位置がよく分からないまま突発的に動いてしまうので、身体のどこかにはいつも青いあざができています。
幼稚園卒業を間近に控えた時期に、母親は担任の先生から、
「この子は小学校に行っても、社会に出てもやっていけません」
と言われたそうです。この先生は私の問題点を具体的に言うこともなく、解決策もないまま「やっていけない」の一言を言い放ちました。母親はただただ傷ついて、具体的な理解や工夫につなげることはできませんでした。当時の教育現場での発達障害の認知はまだまだ低く、担任の先生もそう表現するしかなかったのでしょう。この先生の意図や真意は今となっては分かりません。しかし大人になった今、この言葉はあながち間違っていなかったと思っています。

忘れ物と散らかり放題の物たち

小学校に入学すると、毎日忘れ物と宿題の未提出を繰り返し、その度に廊下や教室で立たされました。毎日となると、今日も立ちます!と言わんばかりに堂々と忘れ物の報告をして、更に怒られました。明日の用意をしても、必ず何か一つは抜け落ちました。
引き出しやロッカー、ランドセルの中はグチャグチャ。プリントの山や文房具などは一切合財奥の方に、ギュウギュウに詰め込まれていきました。汚いのは分かっていたのですが、散乱した物を目にすると、その中の一つの物に注意を向けることが難しくなり、片付ける術(すべ)が分かりませんでした。
当時から、自宅では行動や気分の切り替えにかなりの時間を要していました。その日に楽しかったこと、嫌なことがあると尚更(なおさら)でした。脳内は興奮し続け、他のことが考えられなくなりました。また、睡眠は安定せず、日中はひどい眠気に襲われました。学校が終わると、話せないほどクタクタに疲れていて、家に着くなりリビングでバタンキュウ…。このため一般的なルーティン(朝起きて、顔を洗って学校に行き、夜はお風呂に入って、十分な睡眠を取るなど)をこなすことがとても困難でした。毎日髪を洗えていないので、前髪はベタッとおでこや頬に貼りついていました。三日に一度のペースで、母親が無理やりお風呂に連れていき、私の髪を強制的に洗いました。恥ずかしい話ですが、これは中学校に入ってもあったと記憶しています。このような状態で学校の準備を規則正しく行うのはそりゃ難しかったよな、と思います。

黒板写しと書字

勉強は全くできませんでした。できなかった、というよりも、自分に合った勉強の方法が分からないままだった、という表現が適当かもしれません。
私は小学校と中学校の間、まともに黒板が写せませんでした。写すことができても、スピードはクラスメートと比べて十分の一以下。しかも、とても疲れました。
もともと手先が不器用で、文字を書くスピードはかなりゆっくりでした。筆圧は極端に強く、まっすぐ字を書くことも困難でした。書いても字面の細かい間違いにこだわってしまい、何度も何度も同じ字を書き直して、余計に周りと差が開きました。加えて、授業での先生やクラスメートの声は私にとってとても気の散る要素でした。
私が始めの五文字を写せた頃には、クラスメートは全部写し終えており、先生は次々に書いたものを消していきました。授業は黒板と向き合う魔の時間となりました。授業を理解するまでには到底行きつかず、毎時間泣きそうになるのを堪(こら)えていました。ノートはいつも、ほぼ白紙で提出しました。
私にとって黒板を写す作業は、遠いところに書かれたランダムな線を一本一本同じ形に移す作業でした。黒い板に書かれた白い線はまぶしく浮き上がり、一つ一つ独立したように見え、今にもそれらは踊りだすようでした。じっと見るだけでも、目が回るような気分の悪さを覚えました。それらの線を文字に変換して書き写し、そこから文章として理解するには、とても時間がかかりました。
この頃の私に声をかけるとしたら
「黒板なんて写さなくていいよ。その代わり、授業中は先生のお喋りをいっぱい聞いてみて。教科書の好きな絵を探してみて。好きなペンを使って、気付いたことを書いてみよう」
と言うかもしれません。授業中は黒板を写すのが当たり前だと、誰が決めたのでしょうか。手元には教科書というカラフルな絵本が自分のために置かれていたのに。もったいないです。

 

休みがちになった学校

教室はとても情報が多く切迫感のある空間で、逃げ道のない檻(おり)のような場所でした。特に自習時間や休み時間、グループワークの授業など、クラスメートの大勢の声が制限なく一気に発生するような場面がとても苦手で、学校にいると頻繁に胸が苦しくなり、今にも発狂して泣き出しそうな辛(つら)さに襲われました。また、じっと椅子に座り続けていると、足全体、特に膝から下の辺りに無数の虫が蠢(うごめ)いているようなむず痒(かゆ)さを覚え、立たずにはいられませんでした。席に居続けること自体とても辛かったのです。今は感覚過敏や不注意、多動など、様々(さまざま)な症状が影響していた、ということが分かりますが、当時は原因不明の体調不良でした。毎日のように湧き上がる緊張感、不安感に
「なんで私は人よりも体が弱いんやろう」
と思っていました。また周囲の大人からは仮病癖のある子どもだと認識されており、常に冷たい視線を感じていました。
一日二回は保健室に行き、苦手な授業は何度もトイレに逃げ込みました。トイレに行っては、個室の中で目を閉じ、気分が落ち着くまでじっとしていたことがしばしばありました。担任の先生は、
「本当にしんどいの?」
「熱はないでしょ」
「さっきもトイレに行ったじゃない…」
と呆(あき)れ、困った顔で問いましたが、幼かった私は頷(うなず)くことしかできませんでした。実際に「しんどかった」ですし、「トイレに行きたい」ことに間違いはありませんでした。そのうち、私のトイレ発言は尿意でないことがばれてしまい、簡単には行かせてもらえなくなりました。
小学校三年生の時、総合学習という授業がありました。これは、各自で興味のあるテーマを調べ、まとめたものを大きな紙に書くという内容でした。この授業が始まって間もないある日、クラスメートはいつものように一斉に散らばり、楽しそうにお喋りをしながら本を探しました。私は図書室の端で立ちすくみました。そして先生が声をかけるとボロボロと大泣きしてしまったのです。
強制力のある場面、しかも騒がしく気が散る場面で、限られた範囲から興味のあることを適当に見つけ、優先順位を考え、今やるべきことに集中する。この一連の作業はどれも非常に苦手なことばかりでした(今もそうです)。
この出来事は自分と周りとの明らかな能力の差を初めて浮き彫りにしたものとなりました。日頃から張り詰めていた心と体の緊張の糸がプツンと切れ、この日を境に学校に行く日数はより減りました。もともと休みがちではあったのですが、一か月に一度、一週間は休むようになりました。
ある朝、玄関先で、
「学校に行けない。行きたいけれど、行くことを考えるだけで涙が出る」
と泣きながら訴える私に、母は手を握り、
「無理して行かなくていいよ。休みたいときは休もう」
と言ってくれました。この頃の母は、苦しそうな私の姿を見て、娘に何が起きているのか分からず、自分も精神的に追い詰めていたそうです。しかし、この言葉はどれだけ私の心を救ったか、計り知れません。大げさかもしれませんが、「このまま生きていていいよ」と聞こえたのです。

このままやとあかん!

地域で偏差値最下位レベルの高校に進学しました。夜遊びを繰り返し、友達や彼氏の家で過ごすことが多くなりました。そして当時の友達とはよく、
「うちらってほんまバカよなー」
と笑い合っていました。そして日常的に目にするようになったのが、万引きや詐欺などの犯罪行為、望まない性行為や妊娠などでした。
十七歳の私ははたと立ち止まって考えました。目の前の世界に身を投じる。これも人生の選択なんだ。どんな人生を選択するのか、決めるのは自分だということに気づき、自分は人生をどうしていきたいか、必死で考えました。そして、
「本当に私は〈バカ〉なんだろうか。やる前から決めつけていいのだろうか。このままやとあかん。今勉強しないと一生後悔する」
と心から思いました。初めて勉強がしたいと思ったのが高校二年生の二学期頃です。まずは母を自室に呼び、心の変化を打ち明けました。母は全力で応援すると言ってくれました。また人以上に苦労すること、その覚悟はあるのかなど、何時間も話し合いに付き合ってくれました。
そして、読み書きもままならない基礎学力ゼロの時点から、大学に行くことを決意します。そもそも読む、書く、考える、を始めとする勉強の土台作りからできていなかったため、勉強という行為に至るまでのプロセスにかなりの努力を要しました。

勉強をするまでの試行錯誤

私にとって勉強のポイントは可視化でした。見えないものが認識しづらい一方で、見えすぎるのも認識できず、雑然としたものから一つの情報を拾い上げる作業がとても苦手だったからです。まずはファイル整理を徹底し、整理されたものがパッと目に入る仕組みをたくさん作りました。教科書やルーズリーフには項目別にインデックスをつけ、ファイルの表紙にはでかでかと科目名を書きました。また、色にこだわりがあり、頭に入りやすい色とそうでない色があるため、文房具店でお気に入りの付箋やペンを厳選して買いました。色に加え、可愛くてモチベーションの上がるものを選ぶことも忘れませんでした。
ノートは罫(けい)線が細く、間隔の広いものや、方眼タイプのものを好んで使い、あとは硬筆検定を受けるなど、たくさん書く練習をしました。
数えきれない工夫と練習の積み重ねの結果、目標の大学に進学することができました。大学では初めて学ぶ喜びを知ることができました。そして大学卒業後は医療の専門学校に通い、国家資格である作業療法士の免許を取得しました。
勉強をするうえで大切にしたことは、人と比べないことです。どれだけ読むのが遅くても、書くのが遅くても、理解が遅くても気にしませんでした。幼少期から人と比べると何をしても遅いのが当然だったので、人よりも時間をかけることを前提に取り組みました。

特性に合わなかった職場環境

就職した病院は、特に急性期と回復期を扱っており、常に時間を無駄にできないサポートを必要としていました。忙しい状況下では、どれほどファイル整理をしても、メモを人以上に書いても、頭をフル回転させても、私の欠陥部分は露呈しました。聴診器を行く先々の病室に忘れる、重要書類の提出期限を間違える、カルテの細かな点の書き直しが止まらなくなるなど、ミスがしばしば起こりました。ある時は調べものが止まらず残業を繰り返して叱られ、ある時は興味の向かない分野の仕事にどうしても身が入らず、やる気はあるのかと呆れ果てられました。
また、現場では常に医療従事者の緊迫した声や世間話、機械の電子音、キーボードの音、電話の音など、様々な音が飛び交っていました。これらの音は頭の中を余計に混乱させ、何度も思考を停止させました。そしてその都度(つど)、仕事の手が止まりました。
二十五歳の頃の私は、第一印象で他者から好感を持たれることが少なくありませんでした。専門学校を首席で卒業し、コミュニケーション能力においても生意気なくらいによく笑い、弁が立ったからです。それなのに、いざ仕事を始めると初歩的なミスを連発。上司や同僚もこの状況をどう理解し対応したらよいのか、理解に苦しんだと思います。周りからはあからさまに冷たい視線を向けられ、心身ともに追い詰め、何よりも患者さんに対して申し訳がなくなり、一年も経たないうちに退職しました。

ゆがんだ思考と二次障害の発症

この後、短期間に転職を二度します。困りごとは目に見えにくいうえに、私の場合、環境が整うと突然並外れた集中力を発揮するなど優れた部分もありました。このため周りが、
「できているじゃないか」
と、評価するのはある意味当然のことでした。私自身もその評価に応えようと必死でした。できないという言葉を封印し、何事もできる?と言い聞かせて無理に無理を重ねてきました。このため私自身も自分の特性を理解することはもとより、困りごとを周りに説明したり、SOSを出すことは到底できなかったのです。
いつの間にか、
「周りの人や社会が求めることは何か。自分はそれに届いているか」
そればかりを考えるようになり、ちょっとしたミスでも自分の価値を全否定する極端な思考に陥りました。そして毎日のように、
「情けない」
「自分は生きている価値のない人間だ」
「無能だ。死にたい」
と思うようになりました。小さな頃から少しでも自分を褒めてあげたくて、走り続けてきた私の心は、
「もう頑張れないよ」
と叫んでいました。まさに息切れ状態でした。また、家の中でも無理をして笑い続けていたことが、更に自分を苦しめました。
三か所目の仕事を退職した二十六歳の頃、パニック障害とうつ病を発症しました。うつ病は重症化し、一年後には自殺未遂を経験しました。その後、精神科病院での入院を経て、リハビリは五年間続きました。
そして回復に伴い発達障害の検査を受け、診断がおりました。現在は発達障害専門デイケアに通っています。医療スタッフによる温かな支援を受け、今では自分の特性の理解を深めることができ、いつか誰かの力になれたらと、経験を文章に綴(つづ)っています。

お付き合いのカタチ

「結局のところ発達障害って、本当に障害なのでしょうか」
こんな問いを投げかけられることがあります。発達障害は個性なのではないか、と。その度に考えさせられ、未だその答えはわからないままです。
現時点で私一個人の思いを述べると、発達障害は、やはり障害です。時間とともに思いは変わるかもしれませんが、今はどうしてもその思いに至ります。学校に思うように通えなかったこと。いくら努力をしても仕事は長続きしなかったこと。他人の軽蔑した視線を浴び、フラッシュバックが日常的に起こったこと。パニック障害とうつ病になり、そして闘病生活の末に自殺未遂をしたこと…。これらは私が発達障害である故(ゆえ)の出来事だったからです。これは個性。そんな言葉で片付けることはできないと、私の過去が叫ぶのです。
正直なところ、三十二歳になった今も、手が届きそうでどうしても届かなかった普通の生活を諦めることができません。毎日仕事をして、公私ともに充実した生活がしたいと夢を見て止まないのです。きっと、自分の中にある可能性の部分に期待する気持ちが少しでも存在する限り、これからも葛藤は繰り返すのだと思います。
しかし自己理解が進んでいくにつれ、嫌で堪(たま)らなかった私の一部である発達障害がどこかいとおしくなってきました。生きづらさを認めた分だけ、突出した長所や人生を彩り豊かにしてくれた軌跡にも気づくことができたからです。
発達障害との距離の取り方は恋人との関係性に似ているな、と思うことがあります。嫌な所を気にしすぎると喧嘩(けんか)を繰り返し、そっぽを向くと長所にも気付けず、距離は遠ざかるばかりです。私は「できない自分もひっくるめて自分であること」のありのままを認め、自分と自分の人生を愛していこうと思っています。当たり前のことですが、自分の人生は自分のものです。
「できないのなら、自分はどうするか」
新しい工夫との出会いはときめきの連続です。これからも、どのような困りごとに直面しようと、ときめきを忘れず、自分らしく笑顔でいられる道を拓(ひら)いていきたいです。これが今の私(いっこ)と発達障害のお付き合いのカタチです。
これまでを振り返り、発達障害があってよかった、病気になってよかったとは決して思いません。ただ、一途(いちず)に未来を諦めないで、自分を愛せるようになってきたこのプロセスに、胸を張って誇りに思うと言いたいです。これからの未来が楽しみです。

馬場 郁子プロフィール

一九八七年生まれ 主婦 滋賀県在住

受賞のことば

この度は素晴らしい賞をありがとうございます。今まで温かく見守り、支えてくださった方々へ少しばかりの恩返しができたのではないかと、嬉しい気持ちでいっぱいです。
幼い頃からの困りごとは、そのまま現在の困りごとでもあります。またパニック障害とも日々共に暮らしています。しかし自己理解が深まったことで、我ながら、お付き合いの仕方もずいぶんとうまくなってきました。
この作文を読んで「一人じゃない」と感じる方が一人でもおられましたら、こんなにも嬉しいことはありません。本当にありがとうございました。

選評

私達は発達障害のことをどれだけ知っているのでしょうか。例えば、この作品にある「文字は黒板で踊りだすランダムな線」「同量のエネルギーで耳に入る身の回りの音」などの表現。ADHDの人が感じている世界を、その映像が浮かび上がるような筆致で描いていただいたことで、「目に見えない生きづらさ」の一端を知ることができます。これまでの人生を振り返り、その時々の困難をどう乗り越えたのかの丁寧な記録は、同じ障害に悩む人たちの明るい道標になることでしょう。(佐藤 高彰)

以上