第54回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「ヴィジュアル系研究者でいこう!─視覚障害者だけど、顕微鏡マスターになりたい─」

著者 : 島袋 勝弥 (しまぶくろ かつや)  山口県

─私、目が悪い。でもヴィジュアル系だから─

私は重度視覚障害者だ。国指定の難病、網膜色素変性症(RP)のために目が悪くなり続けている。このままいけば、そう遠くない将来、私は何も見えなくなる。もうすでに右目の視力を失い、左目は眼鏡をかけて0.7といったところだ。視力0.7なら、結構見えているのではと思うかもしれないが、私の場合は見える範囲(視野)がとても狭い。ふつうなら上下に130度、左右は150度ほど視野があるところ、私は2度しかなく、数字にすると視野欠損率は99%以上になる。これは、針穴程度の小さな隙間から外界を見ているようなものだ。たとえば、人と向き合って話をするとき、私には相手の左目しか見えていない。これでは、相手の表情の変化を読み取ることは無理だ。この狭い視野のため、私には白杖が欠かせない。足元に障害物がないか、白杖でコツコツと地面を探りながら、一歩一歩慎重に足を前に出している。
そんな私は、高等教育機関の教員である。教育色の強いところなので、講義やクラス担任といった業務が中心だが、私は研究者でもある。生命科学が専門で、生物の中で起こる様々(さまざま)な出来事について研究している。細胞がどうやって動くのか、そのときの細胞の形はどうなのかなどをテーマにしている。しかも、私の研究の相棒はよりによって顕微鏡なのだ。視覚障害者なのに顕微鏡使い? どう考えてもおかしいと思われるはずだ。おかしいけれども、これは事実だ。目が悪くても、工夫すれば顕微鏡が使えるし、そこで捉えた画像や動画を武器に、研究を展開できる。白杖を片手にした私が、学会の場で次々と顕微鏡画像のスライドを繰り出す姿は奇妙に見えるかもしれない。視覚障害者が視覚的に訴える結果を見せてくる、実に不思議な空間だ。そう、私は「見せる」ことで戦う、自称「ヴィジュアル系研究者」なのだ(ちなみに、見た目にも多少、自信がある)。では、なぜあえて顕微鏡なのか、そして、どうして可能なのか、その疑問に答えていきたい。まずは、私がRPと診断された学生時代から話を始めたい。

気づいてしまった

私がRPと診断されたのは22歳のときだった。正確には診断ではなく、「確認」と言った方が正しい。というのも、私は自分がRPであることに自分自身で気づいた。当時、大学院生だった私は、目について書かれた本を読んでいた。目に入った光がどのようにして脳に伝わり、映像となるのか、その仕組みを分かりやすく解説した新書だった。目は「脳みそが外に出た部分」と言われるだけに、複雑で美しい。
本を読み進める私の手が、ふと、あるページで止まった。そこには目の網膜に異常が起こる難病、RPについて簡単な記述があった。私は思わず、二度、三度とその部分を読み返した。そして、「あっ! これは自分のことだ」とすぐに確信した。

私は高校三年生の頃から、自分の目に違和感を感じていた。まず、夜になるとよくモノが見えなかった。薄暗い映画館ではすぐに迷子になるし、大学生のときに、しし座流星群を見に行っても、流れ星が一つも見えなかった。星は見えているにもかかわらず。当時は、ビタミンA不足かなと片付けていたが、どうも腑(ふ)に落ちなかった。RPの説明文を何度も読み返した私は、すぐに左目を閉じて、右目の前で立てた指をゆっくりと左右、上下に動かしてみた。左目でもやってみた。間違いなく、ドーナッツ状に見えない部分があった。これはRP特有の視野の欠け方であった。
私は「確認」のために、専門の病院で診察を受けることにした。視力、視野、眼底写真など一とおりの検査が終わり、眼科医との診察で正式にRPだと告げられた。そのとき、私はそれほどショックを受けることはなかった。どちらかというと、原因がわかり、安心したという方が正直なところだった。幸い生命科学を専攻していたため、私は自分の目で起こっていることがよく理解できた。治療法がなく、手のつけようがないことも、すんなりと受け入れられた。ただ、困ったことになったと思った。というのも、当時、私は研究者になる夢を叶(かな)えるために故郷の沖縄を離れ、遠く東京の大学に進学していた。診断されたのは、まさにその研究者への道を歩み始めた頃だったのだ。このまま博士課程に進んでよいものか迷いが生じたが、結局いけるところまではいくと開き直り、進学することにした。ただ、当時の指導教官だけには、自分の状況を正直に伝えた。「博士課程には進む、でも、目の状態が急激に悪くなるようなら、途中で進路変更するかもしれない」、その意識だけは共有してもらった。

結局は顕微鏡ですか…

研究室に入ったものの、研究という意味では、私は絶賛迷走中≠セった。いくつか、実験を試すもうまくいかず、そのうちに海外で似たようなことがすでに論文になっていることもわかった。私の研究テーマは宙ぶらりんの状態だった。
そんなとき、共同研究先の新しい顕微鏡を誰かが導入するという話が持ち上がった。同期は皆、自分の研究で忙しかったので、私に白羽の矢が立った。好奇心もあり、新しい顕微鏡をぜひ見てみたいと思っていたので引き受けることにした。そのときは、まだRPに気づいていなかった。
いざ、共同研究先で目にした顕微鏡に、私は面食らった。専門が生物の私は、てっきり何かでき上がったものを想像していた。だが、目の前には、特注の台の上にレンズや見たこともない部品が並んでいた。「これ、顕微鏡?」という私の戸惑いをよそに、相手方は「顕微鏡」の説明を始めた。
物理は嫌いではないが、そう詳しくもない。不安もあったが、とにかく「顕微鏡」の立ち上げに取り掛(か)かった。必要なものを買い揃(そろ)え、あとは見よう見まねで組み立てていった。今振り返れば、大したことのないものだったが、私の研究室には顕微鏡の専門家がおらず、相手側の助言だけが頼りだった。程なくして、「顕微鏡」は無事できあがった。これが、私と顕微鏡との今でも続く長い付き合いの始まりだった。
当然の流れで、その「顕微鏡」を使って研究することになったが、RPが発覚したのは、その数か月後のことだった。顕微鏡に疎い研究室で、さらにRP持ちの私が顕微鏡を使う。この研究をやり遂げられる自信はなかった。できるのなら、顕微鏡を使わない実験をやりたかったが、時代の潮流は強烈だった。
当時、生命科学の世界では「一分子観察」というのが勃興した時期だった。これは、生物を作り上げている無数の分子の中から、たった一つだけを見ることができる革新的な技術で、日本が世界を牽引(けんいん)していた。皆が一分子観察に熱狂しており、私の研究もその一分子観察だった。よい成果を出すには、この流れに乗るしかなかった。まあ、学生時代はしょうがない、目も何とかなるだろうと気持ちを抑え、私は顕微鏡実験を続けることにした。
しかし、顕微鏡使いとしてのハンディは予想以上に大きかった。RPと診断されたときに、私はすでに重度視覚障害者になっており、視野欠損率も95%を超えていた。視野が極端に狭いので、日常生活ですらモノ探しに苦労していた。顕微鏡をのぞいても、目的のものを見つけるのに時間がかかるのも当然だった。さらに、こんながっかりエピソードもある。ある日、(残念な)先輩が私の実験をのぞきにきた。私は顕微鏡の映像をモニターに映し出し、目的のものを探していた。先輩は部屋に入るなり、「これじゃない?」と瞬時にものを見つけ、画面を指さしていた。心底がっかりした瞬間だった。正常な目と私の目では、ここまで差があるのかと鬱々(うつうつ)たる気分になった。「このまま続けてマジで大丈夫?」と自問自答したが、もう後戻りはできなかった。
この時期の私を知る人は、私が顕微鏡室にこもって熱心に実験していたと思っていたかもしれない。残念ながら、そうではない。観察に時間がかかっていただけなのだ。
余談になるが、視覚障害は研究だけではなく、人付き合いにも影響を与えた。元々(もともと)、私は単独行動が好きで、人に合わせるよりも、自分の気が向くままに動くのが楽だった。ただ、RPを自覚してからは、視覚障害を周りに悟られないようにと、一人でいることがより増えた。夜盲があったため、夜は誰ともつるまずに帰るようになり、飲み会を断ることも多くなった。さらに視野が狭いため、動体視力がほとんどなく、球技などのレクリエーションも参加しなくなった。そうやって、一匹狼(おおかみ)の自分を演じ続けていた。

尊敬するSさんからの動揺するひとこと

私の研究室にはSさんという方が出入りしていた。Sさんは有名な顕微鏡会社を退職された方で、顕微鏡の生き字引そのものだった。Sさんと話せば話すほど、顕微鏡についての疑問がときほぐれ、その時代時代の様子が目に浮かんできた。顕微鏡の歴史が必然でつながっていることを教えてくれたのもSさんだった。Sさんから顕微鏡のイロハを習った。レンズのクリーニング法から新しい顕微鏡の開発まで、そばにいると勉強することは尽きなかった。もちろん、顕微鏡についての講義もやってもらった。研究室の有志が集まり、Sさんの話に聞き入っていた。私はSさんの講義担当ということで、毎回の講義の手伝いをしていた。
Sさんは家庭の事情で、いつも15時過ぎには帰宅していたが、ある時、講義の手伝いのお礼で食事でもと誘われた。私は、たまたまSさん担当になっただけで、そこまで気を遣って頂かなくてもいいですとやんわり辞退したが、Sさんがどうしてもと言って引いてくれない。それなら、タダ飯にタダ酒、ラッキーと思い一緒に食事をすることになった。
案内されたのはおしゃれなフレンチレストランだった。カップルや女子に囲まれ、うちら完全に場違いじゃない?と感じながらも、その時間を楽しんだ。Sさんの思い出話をたっぷり聞くことができ、本当に贅沢(ぜいたく)なひとときだと夢見心地だった。そのとき、ふとSさんが一言、口にした。
「島袋さんは、これから顕微鏡でどんな世界を見ていくんでしょうね」
顔には出さなかったが、私はかなり動揺した。RPと診断され数年経っていたこの頃、私はどうやって顕微鏡から離れ、研究を続けるかを思案していた。そんなときに、ふいに飛んできた一言だった。向かいに座るSさんはニコニコしている。顕微鏡をやめるなんて、口が裂けても言えない。
「そうですね。何か新しいことできたらいいですけどね」
ぼんやりとした返答で何も答えてないに等しいが、これが私の精一杯(せいいっぱい)だった。話題はまた、他愛(たあい)のないことに戻った。
食事からの帰り道、私は心の中で「Sさん、私のこと買いかぶりすぎです。私にはそんな才能あるどころか、視覚障害のハンディがありますから」とつぶやいていた。でも思えば、Sさんは予言者だったのかもしれない。私、その時よりも、確かに今の方が顕微鏡にのめり込んでいる。

やはり顕微鏡なんですね─アメリカでの誤算─

大学院の最終学年を迎える頃には、研究にもメドが立ち、次のことを考えていた。就職だ。私はかねてから海外で研究をすると周りに公言していた。しかし同時に、障害者枠での就職もありだと考えていた。社員の多い企業は障害者を一定数雇う義務がある。どこの企業も働ける障害者を求めており、そのための人材紹介会社もあった。長い人生を考えると、視覚障害者の私が海外に行くのは無謀ともいえる。まだ、ある程度見えている今のうちに安定した企業や公的機関に就職すべきではとも考え、想(おも)いは揺れていた。
残念なことに、私は戦略的に生きることが上手(うま)くない。長年、思い描いていた目標だし、それにたった一度きりの人生で後悔したくない、それだけの理由で、私はアメリカで契約付き研究員になることを決めた。よりによって、視覚障害者が車社会のアメリカに飛び込むという無茶(むちゃ)な選択をしてしまったわけだ。
渡米を機に、私は専門を変えた。分野は同じ生命科学だが、より気楽に顕微鏡を使う分野に移った。学生時代にいた分野は、それこそ新しい顕微鏡を開発してなんぼみたいな雰囲気だったので、とてもじゃないが、目の悪い私は生き残れないと判断した。
実際、当初アメリカでの研究は、顕微鏡は使うものの単純なものだったので、それほど苦労はなかった。だが、事態は急変した。ミーティングで実験結果について議論しているとき、ふとボスが、「電子顕微鏡でも確認するか」と口にした。私は、「マジで?」と心の中で連呼していた。というのも、電子顕微鏡は真っ暗な部屋の中で、極端に暗いサンプルを見る実験だったので、到底、私にはできそうもない。しかし、ボスの命令に無理だとも言えない。途方にくれた私は、夜空を眺めてため息をついていた。暗闇の中には月だけが見えた。私の目では、もう星を捉えることはできなくなっていた。
いざ、電子顕微鏡の実験が始まったが、実験を進めるうちにこれはいけるかもと感じ始めた。というのも、電子顕微鏡でサンプルを明るく見るには、電子線を強くするしかない。しかし、これだと普通、サンプルがぶっ壊れるので観察にならない。運のいいことに、私のサンプルは特殊な方法で作っていたので、電子線を強くし、明るく観察することができた。これなら私の目でもいけるとわかり、とても安心した。さらに心強いことに、電子顕微鏡にはCCDカメラが取り付けられていた。これならその場で撮影画像のピント、倍率が適切か自分で判断できた。一昔前なら、銀塩フィルムで撮影し、現像まで数日待たなければ結果がわからなかったので、私では実験にならなかっただろうと思う。私はテクノロジーの進化のおかげで、首の皮一枚つながった状態で、電子顕微鏡の実験を乗り越えた。が、試練はまだ続いた。
そのうちボスから、「蛍光顕微鏡をやるか」と新しい提案があった。これも夜空の中で、超暗い六等星を見るような実験だったので、一等星のシリウスも見えない私には不可能だと思われた。しかし、今回も顕微鏡に高感度のCCDカメラが付いていた。自分の目で直に見る必要はない、カメラが見てくれる。だからきっと大丈夫、電子顕微鏡のときもそうだったと自分を納得させ、蛍光顕微鏡と向き合った。願いは通じ、真っ暗闇の中で、弱い光の斑点が動く様子を捉えることができた。結局、この斑点の動きが私の論文の主張を裏付ける確かな証拠となった。
顕微鏡から離れたいと願い、専門まで変えて臨んだアメリカでの研究生活だったが、五年近くの歳月を費やしてできあがった論文は、あらゆる顕微鏡映像の盛り合わせになっていた。周りからは、「よく一人でこんなにいろいろな顕微鏡を使いこなせるね」と声をかけられたが、もちろん、周りは私の目のことは知らなかった。この頃、私はここまで顕微鏡を使いこなせるなら、むしろ「ヴィジュアル系」と言い張ってもいいのではと感じ始めていた。

「私、ヴィジュアル系」で開き直る

六年近くのアメリカ生活に区切りを付け、私は日本の小さな高等教育機関に職を得ることができた。しかも、アメリカ時代の研究が評価され、学会で若手賞まで頂いた。この頃の私は勢いがあり、大きな研究費を獲得し、一気に研究室の体制を整えた。研究室に来る学生も軒並み優秀だった。ただ、研究の戦略という意味では迷いがあった。ここで、思い切って新しい顕微鏡法の開発を一つの柱にすることにした。前述したように、私は物理屋ではないので、新しい理論に基づく斬新な顕微鏡は創れない。でも、生来の器用さがあるので、あらゆる顕微鏡を使いこなすことができる。そのため、これまでの顕微鏡法にひと工夫を加え、ちょっと「おしゃれな」画像を撮る研究を開始した。
数々の幸運もあり、目のハンディも最小限に抑えることができたのも大きい。まず、視覚障害といっても、私は視野障害が主で中心部が残っていた。つまり、見える範囲は極端に狭いが、目の中心で捉えたものは、それなりにきれいに見ることができた。そのため、時間はかかるが、視点を画像に落とし、むらなく見渡すことで画像が理解できる。さらに、テクノロジーの進化が私を救った。CCDカメラの性能が上がり、自分の目でサンプルを見る必要がなくなったのだ。同時にパソコンも高速化し、CCDカメラで捉えた映像をモニターに表示でき、コントラストや色調の調整により、私の目でも画像が格段に見えやすくなった。そしてなんと言っても最大の味方は、学生だった。彼らが私の「目」となり、様々な画像を撮ってくれる。私がすべきことは、顕微鏡の原理を学生に徹底的に教えること、そして、得られた画像を評価することだけになった。ある意味、私は目に障害があったため、すぐに自分で実験することを諦めることができた。結果的に、これは研究室を運営する者としてよかったのだと思う。学生の方が、私よりもはるかに実験が上手だ、だから彼らに任せられる。

もうヴィジュアル系は無理じゃない?

以上、ある種の開き直りで、私は今でも顕微鏡を使った研究を続けている。しかし、RPは進行性の病気なので、いずれ私は失明するだろう。「いつまで顕微鏡続けるつもりなの?」と質問されても、「すこしでも見えている限り」としか答えようがない。「見えなくなったらどうするの?」とも聞かれる。「さあ、どうするかな?」とトボけた返事をする私は、将来に対していろいろな意味で視界不良だ。
まあ、とりあえず「見えなくなる」問題は棚上げさせて欲しいと、今は思っている。しかし、私は決して無策ではない。むしろ模索している。地元の視覚障害者団体に入会し、先輩方の生き様を胸に刻んでいる。眼科関係者が中心のロービジョン勉強会にも参加し始め、発言できる当事者として、ロービジョン啓蒙(けいもう)活動やイベントの企画・運営にも携わっている。今年企画したスマートフォン音声操作の体験会は、かなり好評だった。
開業医のもとでアドバイザーにもなる予定だ。今、医療と福祉がうまく噛(か)み合っていない。そこで当事者の私が相談相手となり、障害手帳、就労継続、支援機器の紹介、リハビリの重要性など、当事者が求める情報をその場で提供したい。もちろん、悩める視覚障害者の話に耳を傾けるだけでもいい。当事者の声こそが、当事者によく響くことを知っているだけに、視覚障害者の駆け込み寺が眼科内にある、そんな新しい支援の形を創りたい。
中途視覚障害者の就労支援活動にも力を入れ始めた。顕微鏡と私の妙な絆が、この作文のテーマなので触れていないが、私は急激な視覚の悪化のために、人生の途中で大きく躓(つまず)いた。やむを得ず休職となり、リハビリを経て、どうにか復職した過去がある。この体験について講演し、情報誌にも投稿して世間との共有に努めている。でも、どうせ発信するならより多くの人に伝えたい。そこで、英語クラブに入り、目下、スピーチ力を鍛えている。英語で話すだけなら、今でもできるが、欲を言えば、より伝わる、そして奮(ふる)える語りをしてみたい。発信はただの承認欲求かもしれないけれども、私の体験談を求めている人がいることも確かだ。
さて話を戻して、私はヴィジュアル系をいつかは卒業するのだろうか?うーん、今は本当にわからないので、「まあ、しばらくは続けさせて」と答えたい。
現実、私に残された時間は多くない。でも、誰も目にしたことがない世界を顕微鏡で見たい。その瞬間が来たとき、私はこのセリフを心の中で咆哮(ほうこう)する。

「To do science, you do not need sight, but you do need vision.」(サイエンスをやるのに視覚はいらない。でも、ビジョンは必要だ。)

きっと言ってみせる、そう信じて、今日も顕微鏡と向き合っている。

島袋 勝弥プロフィール

一九七七年生まれ 教員 山口県在住

受賞のことば

入賞に選ばれ、大変喜んでいます。この作文のテーマは、私の顕微鏡への複雑な「片想い」です。科学研究の話が中心ですので、一般の方にはわかりづらい点があるかもしれませんが、ご一読頂ければ幸いです。視覚障害の中には弱視とよばれる、「見えにくい、見えづらい」ハンデを持った人がおり、私もその一人です。支援と工夫があれば、視覚障害者もしっかりと社会参加できるというメッセージも伝われば、何よりだと感じています。

選評

視覚障害者と顕微鏡の組み合わせは意外です。離れようとしても顕微鏡の方から近づいてくる様子が妙で可笑しい。顕微鏡の世界では生き残れないほどの切迫感をもって臨んでいるにも関わらず、「電子顕微鏡でも確認するか」「蛍光顕微鏡をやるか」と新たな顕微鏡が現れる。それら難題を丁寧に乗り越えて、今や若手の第一人者として活躍されている。不得意を得意に変える。また苦労を表現せずユーモアに替えている。進行する障害を「将来に対しては視界不良だ」などと言うブラックな表現も爽やかです。(鈴木ひとみ)

以上