第54回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第2部門〜
「妻、そしてママを支えて〜夫婦足して100〜」

著者 : 小松崎 潤 (こまつざき じゅん) 埼玉県

僕の妻はちょっと気難しい。そんな妻に妊娠がわかったのはちょうど二年前。二度の流産を経て、やっとお腹に子どもが宿った。僕はうれしくて心拍が確認できる前から身内に言いふらした。いま思えばすごくデリカシーがなかった。その時は妻からはこっぴどく叱られた。「まだ産まれてくるかもわからないのに」って。だけど今回は順調に四か月を迎えた。日に日に大きくなる妻のお腹がいとおしく、すぐにでも生まれて欲しかった。だけど喜んではいられない事態が起きた。
それは検診で妻が体重の増えすぎを注意されたのがきっかけだった。体重の管理は妊婦にとって重要で、あまりにも増えすぎると妊娠高血圧症候群になることもある。難産に加え、低出生体重児、常位胎盤早期剥離などのリスクが高まるとも言われている。つまり母体にも胎児にも悪影響を及ぼすというわけだ。妻はとにかく体重を減らすことに必死だった。だけどその方法が間違っていた。最初は運動をしたり、食事を野菜中心にバランスよく食べた。だけど体重が一向に減らなかった。雑誌やインターネットを調べては、あらゆる減量方法を試した。それでも体重は減るどころか、増えていった。
「仕方ないよ。だって赤ちゃんは大きくなってるんだから」
僕は当たり前のことを言った。だけど妻はそこから極端に食事を減らしたり、抜くようになった。残したご飯を僕の弁当に詰めたり、口に入れたものを吐き出すようになった。さらに下剤を使って食べたものを全部出そうとした。もちろん下剤を使えばものすごくお腹は痛くなる。一日に何度もトイレに行き、そのたび苦しそうな顔をしていた。だけどそんなことを続けるうちに妻はみるみる体重が減っていった。それは僕の目にも明らかだった。頬はこけて、痩せるというよりやつれていった。
「もうよせよ」
そんなことを言っても妻は何かに取りつかれたように食べることを否定した。気づけば体重が増えることを恐れて水まで飲めなくなっていた。体重という数値に取りつかれて一日に何度も体重計に乗った。用を足せば量り、うがいをしたって量った。その異常さは検診時の体重測定のときにも表れた。婦人科のカーテン越しに妻を見るとそこには目を疑いたくなるような光景が広がった。妻は服を全部脱いでいたのだ。つまり全裸ということ。それは一グラムも増やしたくないという心の表れだった。
「おい、何やってんだよ!こんなところでみっともないだろ」
僕は声を荒げた。だけど医師はそんな妻の異常さを見落とさなかった。診察室に入ると極度に体重が落ちていることから、急きょ血液検査をすることになった。その結果が最悪だった。
「これ、ちょっとまずいんで入院してください」
下された診断は摂食障害。いわゆる拒食症だった。それから妻の闘病生活が始まった。妻は産科ではなく精神科での入院になった。胎児の発育に問題はなく、むしろ母体の危険性が上回るためだ。大学病院の中で唯一鉄格子の病棟。それはどこかものものしさを感じさせた。ここでの治療はただひとつ。とにかく動かずに食べること。だけど食べることが死ぬほどつらい妻には地獄のような日々だった。朝から出されたのは食パンなら三枚、白米なら丼に一杯だった。さすがに男の僕でもこれは食べられないと思った。妻は泣き出した。食べなきゃいけないのはわかっている。だけど食べられない。こうして口の中でさんざん転がしてしまいにはゴミ箱に吐き出すことを繰り返した。だけどそんなことをすれば医師から高カロリーの点滴を打たれ、痛い思いをするだけだった。妻はそのカロリーさえ気にして注射を抜こうとした。押さえつけられる妻の姿を見て僕はもう言葉がなかった。もっと早く何かできたんじゃないかって悔やんだ。こうして一日中ベッドから動けない生活はストレスを極めた。食事時に行けば毎回泣きながら食べていた。「あなたはいいわね」と言ってみそ汁をぶっかけられたときもあった。その熱さなんかより、妻の視線が痛いくらいに冷たかった。だけど僕にも入院させてしまった負い目がある。それ以前に僕は夫だ。何とかしたい一心で毎日病院に通った。この入院中に僕は妻と交換日記をした。精神科ではLINE(ライン)もメールもできない。だからこのノートでたくさん会話をした。子どもの名前も考えた。子どもが生まれたら行きたい場所も決めた。子どもが結婚したらなんて先の話までした。そんなささいなことが幸せだった。そのノートが三冊目を迎えた頃、医師から退院の許可がおりた。
だけど本当の闘いはここからだった。だって食べなくなったらすぐ病院に引き戻されてしまうから。僕は身の引き締まる思いだった。今度こそちゃんと食べてもらおうと思って必死だった。だけど妻に作らせたらきっとカロリーを気にするだろうし、負担にもなる。お腹はもう八か月を迎えようとしていた。だからカロリーコントロールのしてある宅配食を頼んだ。最初は妻もよく食べていた。毎日おかずが変わっておいしいとか、デザートがついて嬉しいって言っていた。だけどそんなのもつかの間、次第にまたおかずを残し始めた。妊娠八か月のお腹はスイカほどに大きく、「食べると苦しい」と言うのだ。それならばと処方された高カロリーのジュースを出せば飲みたくないと言い張った。
言い出したら絶対に口を開かない。それはまるで鍵のかかった金庫みたいだった。ある日、僕は朝の牛乳にジュースを混ぜた。すると妻は感づいて怒り出した。
「わたしを太らせようとしてるでしょ」
そしてジュースだけでなく、パンやサラダまで捨てた。
「おい、やめろよ」
「はなして」
「やめろって」
僕は妻をたたいた。
「お前をまた入院させたくないからだろ!子どももお前も死ぬぞ」
妻は驚きと戸惑いを隠せないような表情をしていた。それから、ツーッと涙が頬を伝った。僕も我にかえって、すぐさまごめんごめんと頭を下げた。だけど何度頭を下げても、妻は泣き止まなかった。僕は後悔しかなかった。叩いたって何の解決にもならないのに。それはどなるのと同じだった。きょうだいで唯一男として生まれ、「絶対、女に手をあげたらダメだ」と厳しく言われてきたのに。やっぱりそうか。事あるごとに頭を叩いた父の姿が目に浮かんだ。だけど己の愚行さえ遺伝のせいにする僕は最低の夫だった。その日、僕だけリビングで寝た。もう合わせる顔がなかった。寝室から妻のすすり泣く声がして、眠れなかった。時計の針は進んでも、気持ちだけは叩いた時のショックで前に進めずにいた。
だけど次の日から妻はまた食べ始めた。僕はホッとしたのと、申し訳ないのとで複雑だった。僕らは会話もしなかった。だからと言ってテレビもつけることもなかった。静かなリビングに秒針の音だけが響いた。そんなギクシャクした仲を修復してくれたのは、お腹の子どもだった。僕らが難しい顔をしていると、これ見よがしにお腹を蹴った。妻はそれがくすぐったかったらしいが、しばらく我慢した。だけど鼻の穴をふくらまして必死にこらえ、とうとうこらえきれずに吹き出した。その表情がおかしくて僕も思わず笑ってしまった。
こうして予定日より二週間早く、息子は誕生した。だけど喜んだのも束の間、待っていたのは想像を絶するような寝不足の生活だった。
息子はとにかくよくぐずり、眠ったとしてもすぐに起きる子だった。息子が生まれてから一時間以上まとまって眠った記憶がない。当然、そんな生活は心身ともに不調をきたした。いつだって身体がだるく、頭がボーッとすることが増えた。それは妻も同じだった。僕は何度も帰りの電車で寝過ごした。それこそ終点まで行ってタクシーで引き返すこともあった。僕の場合はそうやって睡眠をとっていたからよかった。だけど四六時中、子どもといる妻にはそんなことはできない。それどころか家にいれば育児だけでなく、家事までやらなければならない。「産後は寝てろ」と言うがそんなことができないのが妻の性分でもあった。妻はいつだってお勝手に立っていた。
それは息子が三か月を過ぎた頃だった。玄関まで来ると息子の泣き声がして、急いで中に入った。すると台所には青ざめた妻がいた。そしてベビーベッドで泣きわめく息子。さらに食べっぱなしの昼の食器に、干しっぱなしの洗濯物。風呂場に行けば水は出しっぱなしで浴槽からあふれていた。

「ねえ、泣いてるじゃん」
「…………」
「聞いてる?」 「だからやってるじゃん!」
その瞬間、妻は包丁を床に投げた。刃先が当たって足の甲から血がにじみ出た。同時に妻はその場に身を投げて泣きじゃくった。その泣き方からどこか精神的に参っているのがわかった。妻は疲れていた。いきなり放り出された育児の世界に右も左もわからず、さまよっていた。だけど必死だった。僕は知っていた。人付き合いが苦手なのに、人の多い公園を散歩しに行っていること。おしゃべりじゃないのに、友達を作ろうと話しかけていること。だけど心はいつも孤独だった。
しかし日に日に妻の様子はおかしくなっていく。息子には玄関まで聞こえるほどの怒鳴り声を浴びせた。近所の人も不審に思ってのぞきに来るほどだった。「虐待だ」と通報されたこともあった。さらに夜になると「全然泣き止まない」「生まなきゃよかった」「死にたい」と言い出し、気づけば最後まで泣いていたのは妻の方だった。これはまずい。早めに預けるなり策をとらないと。しかし、妻を休ませるので精一杯で二人で話す時間もなかった。
そんなとき職場の上司に相談した。今から育休を取得することはできないか、と。しかし返事は「前例がないからわからない」だった。つまり、途中から育休を取得するどころか、男性職員の育休自体、うちの会社では前例がなかったのだ。
そこで僕は育休の制度が載っている厚生労働省のホームぺージや会社の育休ガイドラインを読みあさった。すると育休が育児・介護休業法という法律で定められ、会社に規定がなくてもとれることや、育休は子供が産まれた直後だけではなく、途中からでも取得できることがわかった。これで少しでも妻を楽にできないか。そんなことを考えた矢先の事だった。
仕事中、職場に警察から電話がきた。聞けば妻から「死ぬ」と連絡があったらしい。僕はすぐさま上司に相談した。しかし現場は欠勤者が二名もいて、僕が欠けたら仕事がまわらないのは明らかだった。しかし上司は言った。 「いいから行って。こっちはどうにかするから」
こうして家に帰ると布団をかぶって小さくなった妻と、その背中をさする婦人警官の姿があった。もう一人の警官が息子を抱きながらあやしていた。僕はホッとして肩から崩れ落ちそうになった。
こうはしてられないとすぐに精神科を受診した。下った診断は産後うつ。入院も勧められたが、妻は拒否した。だけどその代わり医師は妻に約束をさせた。
「薬をきちんと飲んでください」
「はい」
「それと、死なないで下さい」
「…………」
「産後うつは治ります」
「…………」
「必ず治ります」
「はい」
その微妙な間に妻の不安と決意を感じた。だけど最後、医師の目をしっかりと見つめた妻は落ち着いていた。その日は帰ると薬の作用なのか妻はぐっすり眠った。幸い、その横で息子も平和そうな顔をして眠っていた。寝顔がかわいいのは子どもだけじゃなかった。そんな時、パソコンがつけっぱなしになっているのに気がついた。見れば育児サイトだった。妻が見ていたのだろう。さらに検索履歴には「ミルク吐く」「夜泣き」「離乳食」「弁当のおかず」の文字。ああ、困っていたんだなあ。人知れず妻は悩んでいたとわかった。このとき改めて思った。妻は本当に不器用なんだと。周りに助けてほしいって言えないし、こんな時はどうしてますかって聞けない。だけどこんなに必死で、子どもにも僕にも尽くしてくれる妻を僕はものすごくいとおしく思った。それから自問した。僕にできることは何だろう。仕事を辞めるか、仕事を変えるか。保育園に預けて共働きをするか。だけどどれも現実的でなかった。やはり育休を取って少しでも妻を助けたい。僕は意を決して妻に言い出した。だけど妻は喜ぶどころか、必死に断る理由を探していた。給料が減るだとか、僕の昇進に関わるだとか。そんなものはどうでもよかった。だけど押し通すこともできなかった。
そこでしばらく様子をみることにした。もちろん、会社にも妻の容態については話をしておいた。産後うつで治療中であること。日によっては起きられないことがあること。場合によっては僕が欠勤や早退をせざるを得ないこと。全部話した。話した上で仕事はこれまで通り続けさせてもらえることになった。
次の日から家事は僕がやることにした。洗濯や掃除は後回しにしても食事だけはおろそかにできない。僕は帰宅後、なんとか一品だけ作った。会社に持っていく弁当は、晩飯の残り物か、ふりかけで済ませた。妻は「ごめん」と済まなさそうに言った。だけど家事の呪縛から放たれた妻は笑うようになった。一品しかないおかずだけど美味しそうに食べてくれた。
僕はそれまで、僕が働いて、妻が家事をするという五分五分の関係こそ夫婦だと思っていた。だけどあるテレビで「夫婦は足して100」という言葉を耳にして考え方が変わった。必ずしもワークバランスが平等である必要はない。足して100ならいいんだ。うちは僕が家事もやって、妻が笑っていれば100なんじゃないか。そんな気がしてきた。一日のゴールは仕事と家事を終えることではなく、その先にある笑顔じゃないかと思う。
あれから息子も二歳を迎えた。相変わらず妻はぐったり疲れていて僕が帰るとバトンタッチだ。僕もレパートリーが増えるどころか、相変わらずおかずは一品。ぜいたくと言えば、給料日にコンビニで小さいデザートを買って帰るくらいだ。確かに「おかえり」と聞こえてくる隣の家が羨ましい。上司の愛妻弁当だって、おかずが毎日違ってすごく美味しそう。だけど僕はそんなものはなくても平気だ。隣に負けないくらいの声で「ただいま」って言うし、一品しかないおかずだって三人で食べればミシュランに載る店くらいの味がすると思ってる。妻が「美味しい」と言ってくれると一日の疲れが吹き飛ぶ。そして「早く帰れよ」と言ってくれる上司のおかげで家族との時間を作れている。
妻を支えているつもりが、実は自分も周りにそして妻に支えられていると気づいた。夫婦は足して100。いま、心の幸せ貯金はどんどん貯まっている。

小松崎 潤プロフィール

一九八四年生まれ 会社員 埼玉県在住

受賞のことば

この度は大変素晴らしい賞をいただき誠にありがとうございます。摂食障害に産後うつ。女性に多い病とされますが、それを乗り越えるにはやはり周囲の支えが必要不可欠でした。今もそれは変わりません。人生山あり、谷あり、谷底ありですが「何とかなるさ」の気持ちが今では僕のエネルギー源になっています。夫婦足して100。必ずしも平等じゃなくていい。すべてそこから始まるし、僕はそこからしか始まらないと思っています。これを機にまた頑張っていきたいです。

選評

人生は思い通りにはならない──そんな言葉が浮かぶ作品です。念願の子宝に喜ぶ夫を待っていた日々。それでも、そこにはその生活を守ろうとする小松崎さんの強い意志と、それに呼応してくれた職場や専門家がいました。五分五分ではない、足して100。それでいいという境地に至る爽やかさに触れていただきたい作品です。(玉井邦夫)

以上