第54回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第1部門〜
「幻聴ですよ、中村さん」

著者 : 中村 満 (なかむら みつる)  大阪府

「それではいつものお薬、四週間出しておきますね。お大事に」
先生とはここ半年こんな話ばかり。だからと言って特に話す事も無い。症状も良くなってきている。処方せんに三十分、薬局で一時間待って薬をもらって帰る。午前四時に起床して正午に帰宅。実に八時間。なんとももったいない時間の使い方だ。以前の私の生活なら、とんでもない事だ。つくづく自分はうんこ製造機になったものだと半ばあきらめている。とぼとぼと歩く。大量の処方薬を一日三回、朝昼晩と袋に仕分ける。この作業が私の今の日課だ。
まったく統合失調症という病気は訳が分からないものです。七年前、私は気を失って、気が付けば病院のベッドの上だった。何がなんだかわからないので起きあがろうとしたができない。腰のあたりをベルトで留められている。普通の人(この時点でもはや普通ではない)でも理解できないだろう。なんなんだこれは、いったいどこかと喚(わめ)いているとかわいいナースさんが、
「ここは病院ですよ。中村さんは入院されたんですよ。これから精神科の先生の診察を受けて頂きます」
「そんな、僕は病気じゃないです」
自分の状態を知るのにしばらく時間がかかった。私はなんとかして記憶をたどった。最後は仕事を終えていつもの居酒屋で一杯飲もうと思った時までは覚えていた。ここから先は先生から聞いた話では、駅のホームで奇声を発しながら服をやおら脱ぎはじめ、畳みだしたそうだ。脱ぎ捨てるのではなく、キチンと整理をするというのが私らしくていじらしい。帰り道を急ぐ人々にとって異常であったと想像するのは簡単だ。後でカウンセラーの人に当時の事を聞かれても、全くどうして自覚が無い。今にして思っても狂気の沙汰であったに違いない。この話を先生との会話で知った後も、自分は病気ではないと思ったのです。
なんだこのまずい夕食は、と思いつつ、かと言って自由の身でもないので仕方無く食べるのだが、思わず隣のおじさんにこぼした。
「酷(ひど)い食事ですね」
「なに、しばらく居たら慣れるよ」
会話一つない食堂で、食事が始まる。カレーライスがおいしいそうだ。私は美味しい料理に目がないので、良い店があると聞けばどこへでも行くし、自分でも料理した。こんな得体(えたい)の知れない白身魚なんて、とても食べられた物ではない。ゴムのような食感で、口の中で生臭さが広がった。精神病院においては食事はおざなりになっていると思います。
気分を落ち着かせるという薬を飲んでぼんやりホールで過ごしていると、上司の怒声と職場の人たちのおしゃべりが聞こえてくる。きっと会社では私の話題でもちきりだろう。皆うわさが大好きなので、狂った私の事で飲み会は盛り上がり、私を快く思っていない人にとってはお酒の最高のツマミになったであろう事は良くわかると同時に気が重くなった。ホールの端から聞こえてくる声が、本当の声か幻聴なのか区別がつきません。声が聞こえる所へ行っても誰も居ない。そうした事が日に五度、六度と有ると私もうんざりしてしまい、ベッドに逃げるのでした。
措置入院とのお知らせが届いたが、その時はもう何もかも終わりになったと絶望し、開く事ができない窓から梅雨空を眺めていたら、一人の女の子が話しかけてきた。喫煙ルームに居たらしく、タバコの香りがした。週二回しかない入浴も入らない人が多いために、ホールは体臭とタバコの香り、とりとめの無いおしゃべりで満たされていて、最初は嫌だったこの空気にもすっかり慣れてしまい、日がな一日をホールで過ごすのだった。サキちゃんという女の子は私について色々(いろいろ)と聞いてきた。仕事に美味しい食べ物、恋の事、好きな趣味の話。会話が絶える事は無かった。
「私、リストカットが止められへんから、入院させられてん。拒食症もあるし」
サキちゃんは美人ではないけれど、素直で良い女の子だった。任意入院だが、両親の許可が出ないので退院できないと言う。酷い話だ。
「こんなに元気なのに」
「私に家に居てほしくないみたい」
退院したら寿司をおごるよ、と言うとすごく喜んでくれた。サキちゃんとの会話に何度助けられただろうか。私の恋人は私が精神病院に入院した事を聞いた後、一度もお見舞いに来た事は無かった。私はそれを責めた事は無かった。精神病院には、家族に、そして恋人に見捨てられた人は多い。往々にして入院した人は冷淡に扱われる人達が多いです。
いつ終わるか先の見えない入院生活、色々な思案が頭をよぎります。仕事、食事、お金の事。とりとめの無い問題と、薬の作用でぼんやりする事が多くなった。しかしいくら考えたとしてもどうにもしようが無かった。私の担当の先生と薬の話をするようになった。先生とカウンセラーの人とのやりとりの他に、自分に出来る事はないかと考えた。私の性格が大きく統合失調症に(今の今まで病名をしらされなかった!)関係しているに違いない。私は出来うる限り過去を思い出してはノートに書き出し、原因になりうる事はないかと調べ出した。幼少の頃から発症に至るまでできるだけ細かく書き出し、先生とカウンセラーにメモを書いて渡した。これが思うより楽しく、母親から聞き出した事を照らし出すとある一つの事柄にぶち当たった。それは、
「異常なまでに身だしなみにこだわる」
これが原因の一つに有るのではないかと考えた。母親に聞いた昔話によると、四才の頃から幼稚園の制服をきちんと整え、シャツはしっかりズボンに入れ、靴下がずり落ちれば上げて、靴は毎週持ち帰っては自分で洗い、遊んで乱れた弟の服装を整えていた。このこだわりは多くのエピソードが有るのだが割愛する。身だしなみが遠因になったのだろう。
「幻聴ですよ、中村さん」
先生にそう言われて我に戻った。退院二週間前に言われたのだが、ピンとこない。未だに何者かに操られている、そういった考えが間違いだと気付いたのは、入院して二か月くらいしてからだった。認知のゆがみを少しずつ治して修正できた。向精神薬が私に向いていたのか、退院できる頃には症状が落ちついてきた。幻聴と妄想は変わらずあるが、日常生活には支障が無いと先生が判断したのだ。統合失調症には完治という事は無い。薬は生涯飲み続けなければならない。
私の主訴は幻聴と妄想です。閉鎖病棟で、
「中村さーん」
と誰かが私を呼んでいる声がした所へ行っても、誰も居ない。ナースルームでも誰も呼んでいないと言う。もちろん、幻聴である。
「すみません、本当に呼びました?」
「呼びました。採血ですよ」
とこんな風になる。結果落ち着かなくなって、フロアをウロウロするようになったのだ。他の人達はお喋りやカラオケ、タバコなどで時間を潰している。夏の日差しは強いがエアコンが効いているので不快ではない。誰かと会話している時は、不思議と幻聴であろう声は聞こえない。私はあるアイディアを思いつき、ナースルームへ行った。そこで私は提案した。ナースさんが私を呼ぶ際は、必ず最後にナースさんに自分の名前を言ってもらうのだ。そうすると私の幻聴はナースさんと違う事を発見した。幻聴は名前を名乗らない。
「中村さーん」
と呼ぶがそれ以上の事は言わない。早く気が付けば良かった。私は病と向き合う事ができた。大きな一歩だった。それが退院の判断になったと先生から聞いた。
退院が二週間後に決まった時、私はある決断をしなければならなかった。それは発病する前のごく普通のサラリーマンであった自分と別れを告げなければならなかった。私にはこれが一番、こたえた。車に乗って得意先を回ったり、酒を飲んだり美味しい食べ物を食べたり。これらの事は経済的なものもあって、断念しなければならない。面会に来る母親に少しずつ荷物をもって帰ってもらいながら、退職届の文言を考えた。文面はどうしたら良いのか、手書きが良いのか、それとももう必要無いのか、思い悩んだ。社会人としてケジメをつけないといけない。入院生活は快適であったし、不味い食事にもなんとか慣れた。三か月の入院で十分に静養できたと思う。しかしそれなりに充実していた生活も失ってしまった。楽しみにしていた月に一度の寿司も食べに行けないだろう。
母親に会社から連絡があった。自己都合という退職である。少しだが退職金も出るとの事だった。会社に手続きしてもらえた事はありがたかった。ホールでサキちゃんと話をした時、
「お金出るだけましだよ。私なんて一方的にクビだったし」
「もう社会に戻れる気がしないよ」
サキちゃんとももうすぐお別れだ。思えばあっという間であったと思う。仕事に追われる事ももう無い。ノルマともおさらばだ。なんだかやるせなくなってベッドの上でぼんやり天井を見つめて思った。不安が潮のように満ちて来ます。
あっと言う間に退院前日となった。仲良くしてくれた人たちの有志のお別れパーティーだ。サキちゃんも居る。お菓子だけのささやかなものだったが、私にとってはうれしかった。うわべだけの飲み会よりずっと良い。私より長い入院生活を送る人には辛く感じるかもしれないと私は思った。
「皆さん、私のためにお別れパーティーをしてくれてありがとうございました」
「ええんやで。頑張ってな」
ナースさんの合図でおしまいになった。私はサキちゃんにメールアドレスと電話番号を書いたメモをそっと渡した。
フロアのみんなに見送られて病院を出た。夏の終わりで日差しは強いが秋の空気があった。一つの季節をこんな入院で過ごしたのは初めてだ。そう考えると感慨深かった。色々な苦悩を持つ人々と出会い、話をした。家庭がメチャクチャになった人、退院しても帰る場所が無いので問題行動をして再度入院する人、本当にさまざまだった。私自身にも色々な気づきがあった。皆さんありがとうございます。
家に帰宅した私はある準備をした。会社に行く事にしたのだ。スーツにブラシをかけ、シューケースからお気に入りの靴を取り出し、ピカピカに磨いた。退職届はデイケアのパソコンで書いた。後は菓子折を持って行くだけだ。それだけの事をしないと長年お世話になった事に対しての責任だ。
翌日ゆっくりと起床し、朝食を済ませた。美味しいのだが不味いはずの入院食が懐かしく感じた。紺色のネクタイをしめ、スーツを着た。三か月前と変わらない格好だ。ラッシュを避けてゆっくりと電車に乗ってのんびりと会社に向かった。ただ事実を全て上司に伝えて退職届を出すだけだ。毎日してきた事が少し変わっただけだ。そう心の中で言い続けて会社の前まで来た。社用車が無いのを見ると、社員はだいたい出払った様子だ。居るのは女子社員と上司だけだろう。私は部署のドアまで来た。おはようございますと言いながら入った。
「おう、中村じゃないか」
上司は言った。
「ご迷惑をおかけしました」
机の私物を回収して離職票を受け取り、会社を出た。さあこれからどうしよう。
サキちゃんが自死したと聞いたのは十月の終わりだった。電車に飛び込んだという。お母さんから電話があったのは、彼女の死後十日経ってからだった。サキちゃんは私との会話がとても楽しかったとお母さんに話をしていたという。私は涙すらせず、とにかく線香をあげたいとお母さんに伝え、サキちゃん宅を訪問する事にした。
サキちゃんは病院からそう遠くない所に住んでいた。穏やかなサキちゃんの写真はお供え物で囲まれていた。線香をあげるとお母さんが私に見せたい物が有ると奥に消えた。お母さんが私に見せたのは、リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒(ます)釣り』だった。
「中村さんのお話で、娘が本屋に探しに行ったんですよ。娘があなたの話をするととても楽しそうにするんです」
サキちゃんと私のとりとめのない会話が実は彼女を支えていたのかもしれない。サキちゃんはブローティガンの話をしっかりと覚えていたのだ。退院後もメールのやり取りはしていたが、自死をほのめかす事は一度も無かった。私はここで初めて自分を責めた。もっと彼女の話を聞いていてあげたら変わっていたかもしれない。病棟のホールで交わした会話に意味を持たせれば良かったのか。
「彼女との会話の中で勇気づけられた事は数えきれません」
精一杯(せいいっぱい)言葉を選んでもこれだけしか言えなかった。自分を深く恥じた。サキちゃんのお母さんは丁寧に接してくれて、私は申し訳ない気持ちで落ち着かなかった。サキちゃんは消灯後の暗いホールで打ち明けた事があったのを思い出した。
「私は死ぬ事がほんま言うと怖くないの。どっちかと言うと早く来てほしい。毎日、同じ事考えてるわ」
「そんな事思ったらあかんよ。生きていたら良い事もあるよ。楽しい事を考えよう」
私は私なりにサキちゃんにアドバイスした。それでもサキちゃんは自死を選んだのだから、私は彼女の選択は間違いではなかったと思う。いや、安らかに死ねたと願うしかない。帰り際、寿司屋に行こうと約束していたのを思い出し、空を見上げた。空は秋の夕暮れで赤く染まっていた。
私はリハビリでデイケアに行ったのだが、すぐに行かなくなってしまった。そこで私は考えた。リハビリを他人任せにするのではなく、自分で計画するのだ。幻聴も相変わらずだが構わない。できるだけ会社員であった頃に近づける事に集中する。スーツを着こなして磨き上げた靴で家を出る。満員電車に乗りこみ、二時間ほどビジネス街や地下鉄を乗り換えて歩き続ける。小まめに休みながら、時にはカフェに入る。書店巡りをして読みたい本を探す。公園を見つけたらそこで昼食。その後小休止を取りながら歩く。夕方五時になったら帰宅。これを月曜日から金曜日まで毎日する。三か月で衰えた足腰を立て直すためにとにかく歩いた。どうしてもスーツを着たくない日は図書館まで片道二時間を歩く。登山用のバックパックに借りた本を詰め込んだら帰り道だ。秋は終わりにさしかかって十一月になる。
「中村さん」
「死んでしまえ」
毎日聞いていると、やがてそれが病気の症状だとしっかり認識できるようになった。自分なりに病気に対して折り合いをつけ、勝ちもしないが、負けもしない。だましだまし、毎日を生き抜く。
ある日、ふと働きたくなった。もう正社員にはなれないんだし、ぼちぼちアルバイトをしようと考えた。一人でできる仕事を探すうちに清掃のアルバイトが目に入った。四時間の駅ビルの清掃だ。時給もまあそんな所だろう。面接を受けた。とんとんと面接は終わって連絡を待つばかりになった。人手不足らしく、すぐに採用された。
私が発病してから一年があっという間に過ぎた。入院生活から現在に至るまで先生をはじめ、様々な人達のお世話になった。一人ではきっと生きていけないだろう。何でも自分一人でやって行けるだろうなんて思い上がりにも程がある。それに水をぶっかけてくれたのは病気になってからだ。統合失調症にはこれからも苦労しなければならないが、感謝もしている。自死を考えた事もなかった訳でもない。しかしそれはサキちゃんを悲しませる事になる。サキちゃんも私の自死を望みはしないだろう。
清掃のアルバイトを始めて半年がたった。職場の人間関係も悪くない。私は仕事に打ち込んだ。やがて仕事を評価され、ホテルへと配置が変わり、給料が上がり、正社員になった。大変忙しい毎日だがやりがいを感じている。もう正社員になる事は無理だろうと思っていたので嬉しかった。相変わらず幻聴は仕事中もやって来た。
「てめえ、ぶっ殺してやる!!」
「中村さーん」
私は一人こう返答するのだ。
「幻聴ですよ、中村さん」

中村 満プロフィール

一九七七年生まれ 無職 大阪府在住

受賞のことば

受賞のお知らせを電話で受けとった時、びっくりしてその日は眠れないほどでした。この文章は私一人で書いたものですが、私の周囲の人々に支えてもらってできたのです。私の母、病院の先生、友人たち、そして選考していただいた方々のおかげです。同じ病気に悩む人々の力になれたらと思います。

選評

リズムの良い文章で、読み手は一気に文章を読み上げられ、読後は爽快感すら覚える。
ここまで自身のことを客観視し、分析し、それを文章にまとめることができる人、そのような機会を持つ人はどれだけいるのだろうと考えさせられた。
 薬の力も借りつつも、独自に病との付き合い方を編み出し、実践していく姿は研究者そのものである。その姿は、同じご苦労を抱える人に対して勇気を与えるに違いない。優しさに溢れた文章である。(北岡 賢剛)

以上