第54回NHK障害福祉賞 最優秀作品
〜第1部門より〜
「目指せ、だるま!〜私の躁鬱ひきこもり体験記〜」

著者 : 赤岩 真詠 (あかいわ まなえ)  東京都

「今まで頑張ってきたことはわかりますが、今のあなたは病気です。無理せず休んでください」
そう医者に双極性障害T型だと診断されたのは、高校を卒業した年の六月のことだった。受験に失敗し予備校に通っていた私の異常に気が付いた母が、近所の心療内科に私を連れていき下された診断だった。
双極性障害とは、鬱(うつ)状態と躁(そう)状態を繰り返す病気だ。躁状態では異常に気分が高揚し自信過剰・高圧的になり、睡眠時間は減少するのに過活動になる。まるで自分がこの世界の神様になり、なんでもできるような妄執(もうしゅう)に取りつかれるのだ。
母に心療内科に連れていかれた時の私は、連日二時間しか睡眠を取らず、相手がだれであろうとも突飛な妄想話(私は真実だと信じこんでいたのだが)を一方的にまくしたて、八時間一人カラオケで熱唱したり、突然ルワンダに行くと宣言したり、卒業してから一度も会ったことのない小学校の同級生全員と担任に長文の手紙を送りつけるというさまざまな奇行をしたあとだった。血が逆流するような興奮感や、いつもの数倍の速さで脳が動く感覚を覚えて、次から次へとアイディアが浮かんできた。明らかに「異常」。躁の特徴として、患者当人の病識がない場合が多いのだが、実際私はなぜ心療内科に連れていかれたのか分からず、それどころかこの「楽しい」時間を理解してくれない家族は愚か者だとさえ思っていた。
薬を処方された私は、受験勉強をやめ自宅療養することになった。でも無理しないってどういうことだろう。頑張るなってどういうことだろうとすぐに壁にぶつかった。それまでの高校時代の私を一言で例えるなら「猪突(ちょとつ)猛進」。女子サッカー部に所属する一方で、外部の講演会を聞きにいったり、高校生外交官として三週間のアメリカ留学プログラムに参加し、東日本大震災の被災地ボランティアとして現地に赴いたり、高校生新聞の記者として活動したり、国際交流団体の活動に参加したりした。高校三年生の文化祭ではオリジナル台本を書き、主演を務めた。丁寧さや慎重さには欠けるものの、フットワークが軽く何にでも挑戦していく自分をイケてると思っていたし、友達からは「なんにでも一生懸命に挑戦していく真詠をすごいと思うよ」と褒められたこともあった。頑張ることは良いことで、多少の無理もそのためには仕方ないことで、高校時代はナチュラルハイのように、毎日が楽しくて仕方がなかった。
そんな私が双極性障害を発病し、先生や家族から「無理をするな」「ほどほどに」「頑張りすぎるな」という言葉をかけられるようになった。常に動いていないと気が済まず、現状維持が一番苦手で、まさに0か100の両極端の考え方だった当時の私にとって、「無理をするな」「ほどほどに」という私を思ってのアドバイスは、まるで自分のポテンシャルをなめられているかのように聞こえ、屈辱すら覚えた。「私もっとできるのに」「私もっと無理したい」という気持ちが常にあった。「家族や医者は私のポテンシャルを理解できていない」と、躁状態で傲慢だった私は考えたのだった。病気と向き合うことからは程遠く、むしろ病気を受け入れることを拒否していた。
薬が効き、躁状態が落ち着くと、代わりに鬱がやってきた。まずベッドから出てこられない。一日中ベッドにこもり、考えることと言えば、躁状態でやらかしてしまった様々な失敗ばかりである。「あんなことなぜしてしまったんだろう」「なんてことをやらかして、周りに迷惑をかけてしまったんだろう」。躁の自分と鬱の自分はまるで別人なのにしっかりと記憶が残っているから、忘れることすらできずにいた。楽しく大学生活を送る友人たちと自分を比較しては落ち込み、次第にSNSで連絡を取るのをやめてしまった。かつては一緒に楽しんでいた友人たちがキラキラとした生活を送るのを見ると、友人たちは何の不安も抱えず人生を楽しんでいるように映ったし、それを妬ましく思ってしまう自分自身がどんどん嫌いになっていったのだ。その代わりのぞくようになったのが、ネットの掲示板である。ネットでは双極性障害に悩んでいる人をたくさん見つけることができた。書き込みこそしなかったものの、自分と同じような体験談を見て「この人よりはましだ」と心を落ち着かせ、逆に完全に「ひきこもり」となってしまった自分の将来像を長年ひきこもっている人と重ねて落ち込んだりしていた。現実での友人たちとの付き合いが減るのと反比例して、ネットを見る時間は日に日に多くなっていた。今思えば依存していたし、逆に言えばそこしか心のよりどころがなかった。薬の副作用と運動を全くしない生活のせいで体重は二十キロも増え、さらに自信を失った。「自分の人生完璧終わった」、それが素直な感想であった。死にたいという積極的な行動を起こす気力がわかず、死にたいというよりはその場から消えてなくなりたかった。ただご飯を食べひきこもって寝る。高校時代のアクティブな私の姿からは真逆な生活が半年ほど続いた。
私が引きこもっている間、家族は温かく見守ってくれた。昼夜逆転気味であった私の生活リズムを整えるために、朝部屋の電気をつけるといいという医者のアドバイスを受けて、父は毎朝電気だけそっとつけに来てくれた。母は母で、ことあるごとに「今の経験は絶対に無駄にならないから」と励まし続けてくれた。姉や弟もひたすらごろごろする私を邪けんにせず、普段と変わらない会話を続けてくれた。
薬を飲みひたすら休養を取ることで、鬱状態が少しずつ良くなっていった。ずっと「同級生たちから遅れをとってしまった」という気持ちでいっぱいだった私は四月になると、それを取り返すために、アルバイトを始めるのと並行して、予備校に通い始め受験勉強を再開させた。この決断も周りからは心配された。受験勉強をするだけでもなく、アルバイトと両立するのは普通の人にとっても大変なことだ。ましてや無理が禁物な私の病気ではなおさらのことである。しかし私は聞く耳を持たなかった。活動的であった高校時代から「転んでもただじゃ起きない」という言葉が好きだった私は、双極性障害を克服し、むしろプラスの経験だったと自分を信じ込ませることに必死だった。同級生から二年遅れてしまったのだから、それを取り戻すために、受験勉強だけでなくアルバイトもすることで、自分が頑張っているんだという実感が欲しかったのだ。ここまで読んできてお気づきの方もいると思うが、私はプライドが高い。それは人生が順調だった高校生までは自分でも知らなかったが、受験に失敗し病気を発症し、人から「遅れる」ことで初めて気が付いたことだった。自分の傷だらけになったプライドと自尊心を取り戻すために必死だった私は、周囲が止めるのも聞かず、週二回のアルバイトと週五日通う予備校生活を開始させた。
しかしそんな生活はもちろんすぐに破綻した。一年近く引きこもっていた私がチェーン店の接客業をするのは負担が大きく、そもそも無理な話だったのだ。それにつられて予備校もだんだん通うことができなくなっていった。親からは「予備校は週五日全て通う必要はない。受けたい科目だけ選択的に受ければいい」と助言されたが、ここでも例の「週五日全て通わなかったら意味がない」「私ならそれくらいできる」という完璧主義のプライドが出てきてしまった。しかしそんなプライドとは裏腹に六月にはアルバイトをやめ、予備校も完全に通うことができなくなり、退学することになった。
予備校をやめ、私はまた自分の部屋の自分のベッドにこもってしまった。今回は躁状態はなかったものの、自分でやると決めた受験勉強とアルバイトがどちらも二か月で失敗してしまったことに、とてつもなく大きな挫折感を覚えた。二十歳の当時の私にとって二年の遅れは致命的なものだった。全てを取り戻しやり直すはずだったのに、またこのベッドに戻ってきてしまった。でもここ以外もう自分の居場所はない。そう感じ、またネットの掲示板に閉じこもった。私の当時の生活はひどいものだった。朝遅く起きて、父や母が作ってくれた朝ごはん兼昼ごはんを食べ、またベッドに戻り、スマートフォンをいじってネットサーフィンし、家族が帰ってきたら夜ごはんを食べ、そしてベッドに戻り明け方までまたネットサーフィン。その繰り返し。お風呂は三日に一度しか入らず、家の外に出るのも、月に一回の心療内科とたまにアリバイ作りに図書館に行くくらい。体はぶくぶくと太り、外出しても誰かが自分のことを笑っているような気がして動悸(どうき)が止まらない。こんな体たらくの自分を知人に見られたくなくて、地元駅に行くのにも冷や汗をかいていた。そんな生活を半年ほど続けた。
二度目のひきこもりの間も、家族と主治医は「焦るな」「無理をするな」と声をかけ続けてくれた。毎日ごろごろしているだけの、息をする粗大ごみみたいな私(当時の感覚だが)に腹を立てることもせず、どっしりと受け止めてくれていた。大学で講師をしている父は、予備校を退学したからといって受験勉強を諦める必要はない、例えば一日十分でも椅子に座り本を読んだりすることから始めてみてはどうかとアドバイスをくれ、母は「今年は合格じゃなくて受験会場に行くことを目標にしよう」と声をかけてくれた。「十分?私もっとできるし」という例のたちの悪いプライドがまた出てきそうになったが、ただ寝るだけの生活と迫ってくる成人式に焦っていた私は、父のアドバイスに従ってみることにした。初日にしてみたのは机の上の整理である。一年ほどただの物置となっていた勉強机の上を片付け、雑巾で拭くだけでも、ネットサーフィンをするだけの毎日から、少し抜け出せた気がした。そして次の日からは、机の上でパソコンを使ってタイピングゲームを始めた。父の言うように、たかが椅子に座ってパソコンを開くだけでも、寝るだけの生活では使わないような体力を使い、それだけで少し自分を肯定的に捉えられる気がした。それからは図書館で昔好きだった本を借りてみたり、少し調子にのって洋書を読んでみたりした。
少しずつ勉強を再開した私にとって、二十歳の十二月、大事件が起きる。それは祖母の死だった。大好きだった祖母は私が小学校六年生の時に脳梗塞で倒れ、そこから右半身麻痺(まひ)の障害を持ちながら、介護施設で暮らしていた。中学生、高校生の頃は介護施設に頻繁にお見舞いに足を運んだが、双極性障害を発症してからというもの、優秀な親戚に合わせる顔がなくなんとなく気後れして、足が遠のいていた。たくさんの人が参列した祖母の葬式で、祖母に会いにいかなかったことを猛烈に後悔していた。障害のせいにして、プライドが高いせいで、大好きな祖母を大切にできなかったことが今更ながら悔やまれた。「私変わらなきゃ」「ベッドから抜け出さなきゃ」、そう強く思った。センター試験までは一か月半を切っていた。
受験結果から言うと、ほとんど全勝であった。勉強時間から考えると奇跡であった。第一志望の合格通知書をもらい、やっと人生が再開できるような気がした。こんなにうれしいのは本当に久しぶりだった。そうやって始まった大学生活は、本当に楽しいものだった。新しい環境、新しい友人、新しい学び。私の専門はドイツ語なのだが、引きこもっていたあの部屋から出られた喜びで、勉強でさえとても楽しいものだった。サークルはダンスサークルに入り、文化祭で出店する料理店の学科の代表になり、日々を忙しく過ごしていた。「充実」、その言葉がぴったり来た。
しかしそんな楽しい時間を過ごすうちに、私は双極性障害者に必要な「慎重さ」を忘れていった。特に躁状態にならないために、無理しすぎないように、頑張りすぎないように常に注意しなければならない。あんなに躁で失敗し周りに迷惑をかけたのに、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ですっかりその恐ろしさを忘れていたのだ。八月くらいになると躁状態の睡眠時間の減少や多弁といった症状が少しずつ現れはじめたのだ。まだ軽躁状態で、本人としては「最近調子いいかも」くらいにしか思っていなかった。しかしそのような状態が続くにつれ、家族が心配し、また医者に連れていかれた。躁は易怒性(いどせい)が増す。怒りっぽくなった私とそれを心配する家族の間にけんかが多くなっていった。
そして忘れもしない二十一歳の九月一日。家族と口論になった私は、夜中にもかかわらずスーツケースを携え、家を飛び出し、そのまま無理やり一人暮らしを始めてしまったのだ。一人暮らしを続け一か月が経過した十月、家族というストッパーがなくなった私は、激躁を発症する。今まで連絡をとったことのない同級生に連絡し誇大妄想をしゃべりまわり、貯金全てを使い切り、「大学辞めて歌手になる」と宣言し、夜中に神社で棒を振り回しながら大声で歌を歌いあげた。上半身下着姿になり、公園の花を抜きそれを投げて遊んでいるところを、警察に通報され、そのまま精神科に強制的に医療措置入院することになったのだ。
急きょ運びこまれた入院先で、私は拘束された。それは拘束しないと何をするか分からないほどの病状だったからである。当初は興奮状態で自分は双極性障害ではなく、私の才能を理解しない周りが愚か者だという例の妄想を抱いていた。拘束が解けても、部屋から出ることは許されず、本や雑誌などの刺激物を読むことは許可されず、ひたすら歌を大声で歌っていた。薬によって興奮状態が解けていくと、拘束室から普通の部屋に移動になり、時間制限はあるものの、部屋から出ることが許されていった。母と面会で会うことができたのは、入院して一か月たってからであった。病室のドアが開くと母が飛び込んできて、私をしっかりと抱擁してくれた。その涙を見てどれほど心配をかけてしまったかが分かった。味気のない病院食が一か月続いていたので、その時母が差し入れてくれたチョコレートの甘さに感動したのを覚えている。
私の精神科病棟での入院は三か月に及んだ。「もう退院してもいいんじゃないかな」と自分が思ってから二か月も入院は続き、改めてこの病気が必要とする慎重さが理解できた。入院生活は飽き飽きするほど長く、そしてその長い時間をずっと「なんてことをやらかしてしまったんだ」「もう二度と躁を発病させたくない」と考えていた。入院したときは秋で、季節の変わったことに気が付かないまま一月に退院した。
入院している頃に大学は休学になったので、次年度の四月から復学することとなった。しかし、躁状態で大学の友人たちに迷惑をかけ、当時やらかしたことがフラッシュバックすることが多く、またしても人から笑われている気がして動悸が止まらず、五月には学校に行くことができなくなってしまった。再び休学。これで同級生からは四年遅れることとなってしまった。休学中に再び私はひきこもりになり、またネットの掲示板に戻ってしまった。楽しそうな友人から連絡が来ることを恐れ、LINE(ライン)は半年も覗くことすらできなかった。「大学に入って人生やり直せると思ったのに、またこのひきこもりに戻ってしまった、自分の人生は今度こそ終わった」、そう毎日考えていた。
LINEを再び開いたのは、姉を通じて友人から連絡があったからだ。半年ぶりにLINEを開くと、多くの友人たちからの心配のメッセージが届いていた。「連絡遅れてごめん。ずっとひきこもっていた」と返信すると、中学時代の親友は「謝るなって。待っていたよ」と言葉をかけてくれた。その言葉を見て風呂場で声を上げて泣いた。自分が知らず知らずのうちにどんなに寂しかったのか、久しぶりの涙に気付かされた。家族や医者や友人、支えてくれる人が周りにたくさんいるのに、ネットの掲示板ばかりに閉じこもり、それがどんなにありがたいことなのか分かっていなかった。自分のためにも、そしてそんな支えてくれる人たちのためにも「二度と躁状態になって迷惑をかけたくない」「余計なプライドを捨てて今度こそこの病気をコントロールしたい」とこれまでになく強く思った。
現在私は復学し、順調に三年生に進級することができた。就活を控える身であり、将来のことを考える時間が増えた。薬を毎日飲み、不安定な時は頓服を飲みながら、病気をコントロールしている。一度予防的に一か月間入院したことを除いては、強い鬱も強い躁も病状としては現れていない。それは何度も躁やひきこもりで失敗を繰り返す中で、以前抱いていた「自分は〇〇でなきゃ」「同級生から遅れている分を取り戻さなきゃ」「自分はすごい存在でなければ」といったプライドを少し捨てられたことが大きい。「転んでもただで起きない」ことが良いことだと高校生のころは思っていたが、「転んで起き上がるだけでも、大したものだ」と思うようになったのだ。高すぎるプライドを持っていた私にとって、この六年間は「恐ろしく苦いが私には必要な薬」だった。そしてたくさん転んだことで、受け身がうまくなり、その度に立ち上がり方も学んだ。双極性障害は完治せず、「寛解」を目指す病気である。病気との付き合い方が、そのまま生き方につながってくる。あれほど嫌だった「無理しないで」「頑張りすぎないで」のアドバイスを、今では素直に聞くことができるようになった。高校生のときのような無理はせず、大切なのは0か100かの極論ではなく、少しずつコツコツと日常を自分のペースで積み上げていくことなのだ。
私の躁状態は明らかに異常で、躁状態を周囲の人に教えてもらうために、障害をオープンにしている。その意外な副産物として、最近友人たちや知人が精神的に厳しいときに相談を受けることがある。それははたから見て厳しそうだなあという人のときもあれば、華やかで楽しそうな生活を送っているように見える人のときもある。人の苦悩は外からは分からないものだ。精神疾患に関してはまだまだ偏見が残るためオープンにしにくい風潮がある。そんな中でも私ができる範囲なら力になりたいと思い、相談に乗っている。最近世間を騒がせているひきこもりに関する事件も、私にとっては対岸の火事ではない。挫折から立ち直るためには、時間とお金と理解が必要だと私は考える。私は時間もお金も、そして一番大切な周囲の理解も得て、失敗を繰り返しながらもなんとか立ち直ることができた。ニュースになっているひきこもりの人の心境が痛いほど理解できる私が、微力ながらでも何かできることはないかと思い、就職先も失敗した人の再チャレンジを応援できるような仕事につきたいと考えている。
最後に。私はそこまで人ができていないので、「ひきこもりになって良かった!」「双極性障害になって良かった!」とまでは言えない。あの猪突猛進な私のままひきこもらなければ、きっと今とは違う景色が見えたと思う。しかし、この六年間の経験がすべて無駄だったとは思っていない。以前の私は全ての時間は生産的で有用でないといけないと考えていた。しかし今は長い人生だから無駄な時間は無駄でよいと思っている。無駄は無駄で良いと気付けたこと、それが一番無駄ではなかった気がする。この先双極性障害が再び悪化する可能性ももちろんある。しかしそんなときこそ自分が送ってきたこの六年間を通じ、人は立ち直ることができるということを思い出したい。NANAという有名な漫画のセリフに「人生は七転び八起き。立ち上がり続けたら勝ちなんだよ!」というのがある。そう、だるまのように、何度転んでも、ただでもいいから、何度でも起き上がれる人になりたい、今ではそう思っている。

赤岩 真詠プロフィール

一九九四年生まれ 大学生 東京都在住

受賞のことば

素晴しい賞を、本当にありがとうございます。発症してからのこの六年間を振り返ってみると、沢山トラブルを引き起こし、人の信頼を失い関係を壊すこともしてきました。しかし今回の受賞を家族や身内に告げたところ、皆自分のことのように喜んでくれました。そのような関係を築けたこと自体が、今の私の何よりの財産だと感じています。これからも障害という「厄介なペースメーカー」と共に感謝と謙虚さを忘れず生きていきます。

選評

人生は誰しも山あり谷ありの起伏がある。特に双極性障害のある人は、その起伏が激烈ですね。高校、大学の六年間の激烈な試練の日々を、当事者ならではのリアリティに満ちた筆緻で、よくぞ書いてくださった。貴重な記録です。そして、六年間を「恐ろしく苦いが私には必要な薬」と受け止め、「転んで起き上がるだけでも、大したものだ」という自己肯定感を持てるようになったというのですから、赤岩さんの再生力はすごいです。しかも偏見を超えて、自分の障害をオープンにし、精神的に苦しむ友人、知人の相談相手にもなっているという。精神障害者に対する偏見の強い社会にこれから出ていくにあたって、経験を通してつかんだ生き方を忘れないでください。(柳田 邦男)

以上