第53回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「私の心はダイヤモンド」

著者 : 中村 エミ子 (なかむら えみこ)  広島県

私は山々に囲まれた田舎にて生を受けました。母は三人目の私を身籠(みごも)り、普通にお産の日を迎えたのです。私を取り上げた産婆さんは、何も言わずに生まれたばかりの赤ん坊を母に抱かせたのです。母は私の姿を見て深い悲しみに陥りました。それは体中に黒い痣(あざ)ができており、大切な顔にも黒い痣が斑点となってできていたのです。その時家族は、祖父、祖母、伯母、両親、兄二人と、合わせて八人いました。家族の皆も驚きました。私の名前は父が笑う子になるようにと願いを込めてつけてくれました。祖母は母のことをいつも敵とみて扱っていたようです。そんな日々に母も疲れていました。生まれて間がない私を寝かせ休んでいる部屋に祖母が入って来て母に向けて<> 「こんな子供がおったら困る、早いこと死なせるがいい」
と冷たく言ったのです。母は
「どうすればいいのですか」
と聞き返しました。すると祖母は
「お乳をあげなければいい」
と言葉を残して部屋を出て行ったのです。女の子だし将来苦労することはわかっているので母も迷ったようですが、火がつくように泣く私を見ると最後の決断はできなかったようです。父は
「何があっても育てよう」
と言い、それから両親の闘いは始まりました。
近所の人が来ると特に母は私を隠すようにしておりました。私が物心つくまでに治してやろうと、広島の大きい病院を歩き回りました。治療法はドライアイスで皮膚を焼くのです。思うように治らなければ県外までも行き、両親は医師に向けて「治してください」と叫んで頼むのでした。どうしてできたのか原因もはっきりわかりません。小学校へ上がるまでの私は自分の体が普通でない事に気づかなかったせいか、人懐こかったようです。小学校に入ってからは、友人からは「黒んぼ」とあだ名を付けられたり仲間はずれにもよくされました。学校で女の子はスカートをはきますが、私は肌を隠すために長袖と長ズボンでした。プールの時間はひとりで見学です。また学校の帰り道で数人の生徒に囲まれ、裸になるように言われ、見られたこともあります。私はひとりになっている時が多く、友だちが何人かで話をしていると私の悪口を言っていると疑ってしまい、よく喧嘩(けんか)もしました。両親は兄や妹ばかりを親戚や行事などに連れて行き、私はいつも家の中にいるように言われてきました。また家にお客さんが来ると母は「部屋から出て来ないように」と言い、そのたびに押し入れに隠れておりました。
中学生になると自分の顔を大変に気にするようになり、私は誰からも嫌われていると思い込んでしまい、心は閉じていきました。周りばかり気にして勉強も思うようにできませんでした。ひとつ楽しみがありました。それは音楽です。ラジオから流れる昭和の歌謡曲を聞くことです。辛(つら)い事、嫌な事を忘れている時間でした。覚えた歌を学校の行き帰り山道を歩きながら歌ったものです。父は歌が好きそうな私のために卓上ピアノを買ってくれました。覚えた歌を父の前で弾いて聞かせると喜んでおりました。私も中学三年生の終わりになり、進路を決める時期となりました。今後どうしたら良いのか担任の先生と相談しながら、これまで両親にどこにも連れて行ってもらった事がなかった私は、軽い気持ちで都会へのあこがれもあって大阪の縫製工場で紳士服を縫う仕事に就きました。
その会社には寮があるのでそこに住みました。女子寮には三十人近くいました。私の部屋は先輩と二人でしたので、痣に気づかれないようにどうやって隠そうかと首にはマフラーを巻いたり、慣れない化粧を厚く塗ったりと工夫しました。いちばん大変だった事は、お風呂に入ることです。三人ずつ入る決まりでしたので私は最後を待って入るのです。数か月が経過したある日、私はいつものように最後だと思って入浴中に先輩二人が入って来られたのです。私は慌てて風呂の蓋で体を隠しました。先輩には
「そんな事すると、お風呂場が狭くなるでしょ」
と大きな声で怒られました。間もなく寮全体に私の体の様子は広がりました。それからは仕事中も冷たい視線や言葉が私に向けられるようになったのです。時には私の部屋に「あなたがお風呂に入るとお湯が汚れる」など嫌がらせを書いたメモを投げて行く人もいました。私は広島の母へ辛い事など書いて手紙を送りました。後日母から小包が届きました。中を見ると、負けずに頑張るようにと書いた手紙と食品など、そして首の痣が隠せるようにハイネックになった服を知り合いに頼んで縫ってもらったのを添えてありました。会社でも私に優しくしてくれる人は僅かで、ほとんどの人に無視され差別の目で見られました。私はもう人間恐怖症の状態でした。寮に入って一年が過ぎたころ、私は精神的にも疲れ仕事を辞めたいと思い社長に気持ちを言いました。すると隣にいた奥様が
「どこへ行っても一緒よ、長袖の仕事着を縫ってあげるから辛抱しなさい」
と諭してくださったのですが、私は間もなく寮を出て行きました。
他に働ける所はないかと、大阪の街を歩き仕事を探しましたが、何件か断られ、やっと来ても良いという会社を見つけました。そこでも寮に入りました。部屋には三人ずつ住む決まりで、前の会社と同じく気を遣い、厚化粧したり服装で工夫しました。お風呂に入る時は、人数が多いため前より大変でした。最後を待って入ったつもりでも、まだ入ってくる方がいて寮に広がり伝わったようです。社員食堂へ行っても皆さんは、私を避けて座られるのです。入社して約半年が過ぎ食事を済ませ部屋に戻ると、そこで寮長が私を待っており、いきなり
「皆の代表で言うけど、あんたと暮らしたくないと言ってるのですぐ出て行ってください」
と言われました。部屋に戻った私は寮長の言葉に悲しくてどうしていいかわからず、ただ泣き崩れるだけでした。もう私の行く所はないと思い、誰にも私の気持ちと辛さをわかってもらえない、もう死ぬしかないと頭の中でどうやって死のうかと考えました。
そして行動に移しました。海で泳いだ事のない私は水着姿になって泳いでみたかったのです。働いていた時の貯金が少しありましたので、それを使い海外旅行にハワイを選んだのです。それは外人だと私の姿を見て悪口を言っても、言葉はわからないので良いだろうと考えたのです。旅行センターに申し込みに行き、すぐ行けると思いましたが、一か月近く手つづきなどあるので待つように言われました。
寮を出た私は行くあてもなく町をさ迷いました。死ぬ前に母の声が聞きたくなりましたが、実家にはまだ有線しかなく電話がついてなかったのです。どうやって連絡を取ろうかと考え、名前を覚えていた田舎にあった食品店の電話番号を調べるため偶然通りがかった食堂へ入り、
「電話を貸してください」
と頼みますと、快く
「使ってください」
と返事をいただきました。私は電話番号を調べすぐに田舎の食品店の方に事情を説明しまして、その後は涙声で
「私はもう疲れました。死にたいです……」
あとはもう興奮して何を話したかよく覚えておりません。受話器を置き店を出ようとする私を、お店の奥さんが呼び止めて椅子に座らせ
「死んだらだめですよ、広島からお母さんが迎えに来られるまで家におりなさい」
と言ってくださり、温かい情けを受けることができました。母が迎えに来るまで私を泊めてくださいました。一週間後、食品店の方から事情を聞いた母は大阪にいる私の住所を捜して迎えに来てくれました。一週間も泊めていただいたので食事代をと思い、お金を渡しましたが「いらないよ」と言い受け取られません。それでは申し訳ないので洗たく物が畳んで置いてある部屋に、そっとお礼の気持ちを置きました。別れの日、母と私は深々と頭を下げお礼を言いました。食堂の御夫婦に出会ったことで私の命は救われました。私にとって命の恩人です。
そして広島へと戻ったのです。人間不信になっていた私は、もう実家にいるつもりでしたが、家族は思ったほど迎えてくれる様子はありません。特に母は厳しく、出て働くように言います。もう誰もわかってくれないと思い、深夜に家を飛び出し今度は祖父の家へ話を聞いてもらおうと山道を下って行き、ドアを叩(たた)きました。祖父は起きて来て玄関を開けてくれました。私は泣きながら辛い事情を話しました。それを聞いた祖父は
「お母さんもあんたのためを思って言ったんだよ。僻(ひが)んで取ったらだめだ」
と言うのです。それから私は前向きに考えました。母は協力してくれ二人で職業安定所に行きました。仕事の内容や条件に限りがありましたが、母は安定所の職員の方に向けて
「娘の事を優しく理解していただける会社を紹介して下さい」
と心配のあまりそう言っていました。そしてある小さな印刷会社を紹介していただきました。その会社には体の不自由な方が数人働いておられ、私が行っても理解してもらえるのではと考えてくださったようです。
こうして昭和四十六年の春に仕事が決まりました。住まいは印刷会社の近くにアパートを探しましたが、風呂付きは家賃が高く実家も援助できないというので六畳一間の小さなアパートを借りました。お風呂をどうしようかと考えていると、母が大きな盥(たらい)を買って来て、これに鍋で湯を沸かして温度調節して使うように言うのです。狭い台所に青いビニールシートを敷き盥へ湯を溜め体を沈めるのですが、狭くて思うようにいきません。頭は台所の流しで洗いました。そんな不自由な生活が二か月つづき、思いっきり湯船に浸かりたいと思い勇気を出して銭湯へ行きました。そこで番台の方に私は腕の服を捲(まく)り上げて見せ
「こんなのができていますが入っていいですか」
と聞きました。すると
「他のお客さんに迷惑です。すぐ帰ってください」
と冷たく断られました。仕事場では、内気で人と話がほとんどできなく相手の人と目を合わせる事もできませんでした。仕事は教えてもらいながら何とかできました。たまに実家に帰ると母は
「風呂に入ってないんだろ」
と言ってすぐに五右衛門風呂を沸かしてくれました。アパートで風呂に入れない辛さを話すと、親戚へお風呂に入れてくれるように頼んでいました。伯母さんは受け入れてくれ、それからは親戚の家まで少し遠いので週に一回程度通いました。そんな生活が半年つづき、孤独でなんとなく生きている感じでした。両親は私の将来を大変に心配していたようです。
そんなある日母が来まして
「結婚相談所へ行ってみよう」
と言うのです。結婚なんて考えてもいませんでした。それはこの世に、こんな体の私を認めてくれる人はいないと思ったからです。戸惑っている私を相談所へ連れて行き、何も言えない私に代わって母は体の様子を話していました。数か月後会社に電話があり、紹介いただき、お付き合いを数回しましたが、相手の方が顔の痣を見て断ってきました。数か月後また会社に「紹介したい方がいます」と電話がありました。そんなに結婚願望はなかったのですが、軽い気持ちでお見合いの席に行きました。そこで主人と出会ったのです。これは後から聞いたのですが、主人は背丈が少し低いことをコンプレックスに感じており、これまで恋愛もうまくできなかったので相談所に申し込んだようです。彼は私から見れば体も立派だし断られると思い自信がありませんでした。彼は私が住んでいる近くのスーパーに勤めており寮に入っていました。初対面の時彼が私を見つめ、顔の斑点に気づかれたようで
「そんなの気にしていないので付き合ってみましょう」
と言ってきました。顔に自信がないので、目をそらさないとうまく話ができないのです。そんな私の気持ちを知ってくれ、少しでも気分が楽になるようにと色々(いろいろ)と気を使ってくれました。二人が出会って二か月が過ぎ私のアパートにも来るようになり、部屋に置いてある盥を見て首をかしげ
「何に使っているの?」
と聞いてくるのです。体の事をすぐ話そうと思いましたが、怖くて言えませんでした。断られるのを覚悟で私は服を脱いで体を見せたのです。彼はビックリした様子で、言葉をなくして、黙ったまま帰って行きました。
数か月たっても来ないので諦めていたその時、彼がアパートへ来て
「子供に痣が遺伝しないか、病院へ検査に行ってほしい」
と言うのです。私は大学病院へ検査入院しました。結果を聞く日は二人で行きました。医師から「たぶん大丈夫でしょう」と言われ全く安心できる返事ではありませんでした。彼は結婚を大変に迷い悩んだようです。数日が過ぎたある日、私を近くの喫茶店へ連れて行き、大事な話があるというのです。そこで彼は
「初めてアパートへ行った時、風呂にも入ってない生活と体を見て驚いた。検査の結果も僕は大丈夫と信じる。早く風呂付きの家を借りるから結婚しよう」
と言ってくれ、プロポーズを受けたのです。私が十九歳の時でした。両親へ知らせると大変に喜びました。彼の両親には反対されるのはわかっていたので、痣のことは隠しておりました。
こうして昭和四十七年三月に結婚式を挙げることができたのです。田舎の人や友人は「信じられない」と声を揃(そろ)えて言い、中には確かめに来る人もいました。新婚旅行の時、大阪で助けていただいた食堂の御夫婦に結婚した報告に行くと大変に喜んでくださいました。
主人は優しくて私を包んでくれます。子供ができるまで私はパートに出て働きましたが、やはり化粧しても痣がわかるため、いじめにあったり人間関係などに悩みました。どこへ仕事を変えても同じことでした。また近所の人に挨拶をしても、ほとんどの人が私を無視するのです。そのころの私は顔の表情が暗かったのでそれも原因だと思います。スーパーやデパートなど行っても顔を見られているようで落ち着かなく、楽しむ余裕などありませんでした。
結婚して一年が過ぎ体の変化に病院へ行くと妊娠していることを告げられました。お腹が大きくなるにつれて不安はありましたが、主人と必ず綺麗(きれい)で元気な子供をと待ちました。そして昭和四十九年三月に綺麗で元気な男の子が生まれました。両親は喜び、特に母は赤ちゃんの服を脱がせて異常ない事を確かめて安心しておりました。義母も病院へ来てくれ、その夜は家へ泊られました。そして主人に向けて
「嫁さんの体何かおかしい」
と聞いてきたのです。主人は初めて話しました。すると義母は
「なぜあんな人と結婚したの。綺麗な嫁さんが欲しかったのに……」
と言ったのです。その話を後から聞いた私は義母に対して異常に遠慮するようになりました。でも年数が経つにつれてわかってくれ、お互いに思いやりが持てるようになって最後は仲よくいきました。子供も二人目ができ、願いどおりに綺麗で元気な男の子でした。六年が過ぎたころまた妊娠がわかりましたが、身内は用心のため産むことを反対します。私は女の子が欲しいので強気で産む決心をしました。そして願いどおり、綺麗で元気な女の子でした。
生きていくうえで色々な人と関わらなくてはなりません。まだ人と上手に付き合えなくて悩んでいる私の心の病を何でも相談できる方に聞いてもらいました。すると
「何でも物事を良い方へ考えること、あなたの考え方感じ方ひとつで人生は決まります。何か言われた時、相手を恨むから苦しいのです。悩みの原因を人のせいにしないことです」
など大切な心構えを教えていただきました。確かに外へ出ると構えてしまい、僻んで取ってしまうのです。今までの生命の癖はそう簡単には取り除かれず、理屈はわかっていても、うまくコントロールできない自分でした。
子供が小学校の高学年になったころに長男から
「お母さんと一緒に歩きたくない」
と言われた時は悲しくなりました。また次男は学校から参観日のプリントをもらっても、私に見せずに捨てていました。訳を聞くと
「友達からお母さんの顔おかしいよ、とよく聞かれるので参観日には来ないでほしい」
と言うのです。それからは私の葛藤が始まり、明るくなろう、気にしない自分になろうと努力しました。私は小さい子供が好きで得意の折り紙で花や動物など作ってあげようとすると、私の顔を見るなり怖がって泣く子供がいたりします。なかには
「顔どうしたの」
と聞いてくる子供もいます。その時返事に困ります。その子供さんは優しい心があるから聞いてくるのだと思います。私は
「心配してくれてありがとう」
と言って頭を撫(な)でてあげます。
小さい時から歌が好きだった私はNHKのど自慢に数回挑戦しましたが、本番には選ばれませんでした。でもあきらめずに色々な歌番組に挑戦して、四十三歳の時に素人のど自慢に出演することができました。これが自信につながり少しずつですが、心が開いていくのがわかりました。平成十四年からは、八人でグループを作り私もその一員としてボランティアで老人施設を中心に慰問し、歌謡曲から踊りなど披露し利用者さんに大変喜んでいただいております。
世の中には色々な障害の方がおられます。その人にしかわからない苦労もあるのです。いつも神経は過敏になっており健常者以上に努力し闘っているのです。その方々を、人はなぜ差別するのでしょうか。自分がそうなりたくないからでしょうか。障害のある人も、ない人も同じ人間です。ですから健常者の皆さんは勇気がいることでしょうが、優しい声の一つでも掛けてもらえるとうれしいのです。息子達は中学生のころから思春期となり私を避け、色々と問題を起こし大変な時期もあって当分の間距離がありましたが、現在息子達も四十代になり家庭を持ち、私の気持ちも理解してくれております。孫も初めは私に対して慣れるまで心を閉ざしておりましたが、今は「みこばあちゃん」と呼んでよく来てくれとても可愛いです。特にお嫁さんが優しくて母の日など行事のたびに服などプレゼントをくれます。このたび次男夫婦が一戸建ての家を買ってくれて住めることになり、とても幸せを感じております。
女性は特に毎日鏡を見ます。時には自分の顔を見るのが嫌になることもあり、顔だけでも痣がなかったらと思いますが、これも私の個性だと思って厚化粧をしますが完全には隠せません。今でも町中へ出ると偏見の目で見て行く人がいます。その中には心配して見ている人もいるでしょう。どう見られているかは、長年の勘でわかります。私は前を向いて少し笑顔もつくり堂々と歩きます。同じ見られるのならオシャレを見てもらおうと、服装にもこだわっています。そのせいもあってか、年齢よりも若く見られることがよくあります。今は冗談のひとつも言えるようになりました。銀行やスーパーなどに行っても相手の方の目を見て受け答えができるようになりました。私の心が開くまでに約五十年かかりました。考え方も前向きになり、悩みの原因を人のせいにしないようにして、自分に勝つよう心掛けております。ここまでになれたのも、私ひとりの力ではできないことです。色々な方の支えがありました。特に主人は優しく思いやりがあり、私にたくさんの幸せを感じさせてくれました。私は人間大好きになり、外に出ると相手の方にその思いが伝わるのでしょうか、向こうから声をかけてもらうことがよくあります。今は心が豊かになった気持ちです。若い時の私は大変に人目を気にして、神経が細かすぎて僻みっぽくて、悩みの原因を人のせいにしておりました。私が思うほど相手の人は見ていないのでしょうが、たとえば人と擦れ違う時相手の方が咳払いをして通って行かれた時、私は咄嗟(とっさ)に「顔がおかしい」と合図されているように受け取ってしまい自信をなくして、それが心に残り自分で自分を苦しめていたように思います。体は変えられなくても心は自由に変えることができるのです。もっと自分に自信と勇気をもって人生進むべきではないでしょうか。
現在は、痣があることを感じなくなり普通に生活できることがうれしいです。両親に言いたいです。
私が誕生した時はどんなにか不運を嘆き悲しい思いをしたことでしょう。私を生かすべきか、死なすべきかと大変に迷ったようですが、生かすことを選んでくれて正解でしたよ。もう笑えるから大丈夫です。昔の嫌なこと、辛さはもうみんな忘れてください。これからも私の人生に幕を降ろすまで、負けないで明るく輝きつづけます。

中村 エミ子プロフィール

一九五二年生まれ 広島県在住

受賞のことば

このたびは名誉ある賞を頂きまして感激しております。応募するにあたって勇気がいりましたが、何かメッセージが届けばとの思いで、苦難との戦い、そしてどう乗り越えたかを綴りました。人を外見だけで判断してはいけないと思います。誰にでも生命の中に、すばらしい宝をもっています。それを引き出せるかどうかは、その人の考え方ひとつで決まると思います。今回の賞を励みに、もっと自分に自信をもって人生を歩んでいきます。本当に有難うございました。

選評

人と見た目が違うというだけで、人生のあらゆるステージで、たくさんの排除や差別を経験してきた筆者。そのエピソードのひとつひとつが、読む人の心にひりひりと重たく沈殿して行く。しかし、六十六年の人生を綴った文章は、淡々とし実に読みやすい。彼女の「心は自由に変えることが出来る」という言葉は、たくさんの差別を受け続けてきた人の力強さと優しさを感じ取ることができる。大変つらかった経験を丸ごと投げだしてくれたことは、これからの社会のあるべき姿を考える種が広く撒かれたといえるだろう。(北岡 賢剛)

以上