第53回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「めぐりあわせ 〜化学物質過敏症からみえてくる世界〜」

著者 : 高岡 直生 (たかおか なおえ)  埼玉県

私が生まれた一九七〇年代は、大気汚染、合成洗剤による河川の汚染、ファストフードやファミリーレストランの登場等、ライフスタイルが急激に変化した時代でした。幼い頃から原因不明の体調不良、ぜんそく、アトピー性皮膚炎、腹痛、下痢等に悩まされていました。
テーブルの下で腹痛に耐えながら「このままじゃ大人になれないよ」と子供ながらに泣いていたことを覚えています。アトピーが原因でかなりきつい「いじめ」にもあい、耐え忍ぶ日が何年となく続きました。高校では、かゆみ止めの薬の副作用で授業中も家でもいつでも寝てしまい、その後悔で涙することがよくありました。ただ、そこには「いじめ」はなく、伝統的に校風が良く、ユーモアあふれる同級生達と笑いながら過ごした思い出もたくさんあります。
二十歳で就職した職場は、たばこの煙が充満したフロアで、アトピーが一気に悪化しました。そのうち記憶障害が起きるようになり、指示された内容をその場で忘れてしまう程ひどいものでした。丁度(ちょうど)、自宅での三度目のシロアリ駆除散布をした頃です。それでも仕事(後々驚くのですが、私は農業団体の肥料農薬部にもいました)を必死に頑張っていましたが、埼玉から東京への往復四時間の通勤や残業等のストレスでアトピーがますます重症化していき、両親に包帯を巻いてもらうこともありました。やっと探しあてた京都のアトピー専門の病院へ入院し、退院後は仕事を終えた後、高速バスに乗って東京から京都まで通院した時期もあります。
私がここまで頑張れていたのには、ある原点があるからです。それは小学四年生の夏休みに家族と行った自然豊かな尾瀬での思い出です。木道をトントン音を立てながら軽快に歩き、山を眺めたり小さくて可愛(かわ)いらしい高山植物や澄んだ池を妹と一緒にのぞいてみたり、大小の岩の間をせっせと歩き続け、突然、大爆音のダイナミックな大滝が現れたり。夜は満点の星々、寝袋に入って家族と一緒に寝たテント。そこで感じたすべての体験が私の人生に大きく影響しました。ですので、休日となると大自然が感じられるオーストラリアやスイスへ友人を連れ出し、感動を共有したり、同僚たちと尾瀬や屋久島、九州、北海道と日本中、あちこち旅をして周り、どんなに辛(つら)いことがあっても耐えてこられたのだと思います。
ところが、突然、腎炎を発症し治療のため二年間も休職することになりました。目の前が真っ暗になったことをよく覚えています。そしてその治療で私の人生が大きく負の方向へとつき進み始めました。ステロイド薬が体に合わず、全身の痛み、頭痛、吐き気、記憶障害、言葉が認識できなくなる、うつと耐え難い症状が次々と襲ってきて、初めて死ぬことを考えました。
ですが、何とか回復方法を考え、やっとの思いで復職したものの、無理がたたり二年で体が起き上がれなくなりました。
そんな時、私に大きな転機がやってきました。二十九歳の時です。退職を決断した頃、たまたま知り合った知人からある本を渡されました。それは『化学物質過敏症』という題でした。
身のまわりの化学物質(殺虫剤や除草剤等の様々(さまざま)な農薬、医薬品、食品添加物、たばこの煙、芳香・消臭剤、抗菌剤、畳の防虫シート、合成洗剤、衣類の防虫剤、排気ガス、シロアリ駆除剤、新築・リフォームに使う薬剤等々あらゆるもの)に大量に曝露(ばくろ:吸ったり食べたりすること)されたり、ごく微量だが繰り返し曝露された後に発症すると書かれていました。症状は様々で、私が幼い頃から訴え続けていた症状と全く同じでした。「これだ!」と直感し、すぐさま北里研究所病院へ問い合わせました。すると、何枚にもわたる問診票が送られてきました。内容は、幼少期からの住環境や症状を詳細に書くものでした。私は今までの苦しみを思いのまま書くことが出来、手ごたえを感じましたし、何かここで救われるような期待感もありました。
検査の結果、二〇〇三年七月、とうとう診断名がつきました。「化学物質過敏状態に基づく中枢神経、自律神経機能障害。化学物質過敏症」と。
やっとこれで良くなると思ったのも束(つか)の間、この障害は薬による治療法はなく、ただひたすら自分が反応する化学物質を探し出し除くことしかありませんでした。そんな時、この障害に対して知識がなかった両親が、新しい畳を入れてしまったのです。私はその畳の防虫剤に強烈に反応してしまい、後戻りできない程の最悪な状態に落ちていきました。同時に電磁波にも反応し始めました。パソコン、エアコン、電子レンジ、冷蔵庫、テレビ、携帯電話、あらゆる電気製品と電波でも具合が悪くなるのです。化学物質過敏症の患者の八割が併発すると言われています。
自宅に身を置くことができず、知人宅に避難し、その後、この患者を支援してくれているNPO法人の紹介で、北海道・旭川一時転地住宅で療養することにしました。車、電車、飛行機に乗り続けられるかどうかがたまらなく不安でしたが、家に入れない! と決死の覚悟で旭川へ飛びました。
外は雪が降っていて、澄んだ空気に心からほっとしたことを覚えています。
旭川転地住宅は、私にとって安らぎの居場所でした。わずかな化学物質も付着していないか、厳しい荷物チェックをしたものだけを建物に入れるようになっていて、無農薬の安全な食材だけで食事をし、オーガニックの布団で寝て、高性能の浄水器の水を飲用したりお風呂の水に使ったり、この患者にとって何が危険で何が安全か、毎日教えてくれました。
一番驚いたのは、三十年近く悩まされ続けたアトピーがどんどん消えていき、すべすべの肌になっていった事です。これはもう家族には大変な朗報で、電話の向こうで喜んでいるのが分かります。家じゅうの薬品を処分してもらうことになりました。防虫剤が付着した衣類全て、布団、シャンプー、リンス、洗剤、漂白剤、芳香剤、殺虫スプレー缶等々。畳は無農薬のものを取り寄せ、高性能の空気清浄機や家の水すべてを浄化する高価な浄水器、オーガニックの布団類や衣類、抗菌加工ではない掃除機等を新たに購入しました。
旭川では、様々な症状がなくなり、雪道の散歩も楽しめるようになりました。「こんな晴れ晴れとした気持ちは今まで感じたことあるかな? これが普通なの? いつもこうならいろんなことができるんじゃない?」と普通が羨ましく思えていました。雪が降る日は幻想的な墨絵の世界が広がり、晴天の日は小鳥たちが気持ちよくチィチィ鳴いて、遠くからはキツツキが木をつつくトトトトトッ! と響いてくる音。真っ白い雪の丘にテンテンテンと続く可愛らしい足跡。そして患者さんとの楽しい会話。毎日笑いながら過ごしていた二か月は大切な思い出となりました。
埼玉の自宅へ戻り、安心して寝た翌日には、もう目の周りが赤くなりアトピーがでてきてがっかりしました。問題は室内の空気環境でした。そこで母が防虫剤があった私の寝室を入念に掃除してくれたのですが、母が突然具合を悪くし、表情がまるっきり変わってしまったのです。まるで精神に大きなダメージを受けてしまったかのように。その後、母も同じく化学物質過敏症と診断されました。防虫剤の怖さは計り知れません。
周辺の田畑の農薬散布が始まるとどんどん苦しい症状が出始め、私は特にごく微量の農薬にも反応することが分かりました。「もうここには住めない!」と、自宅以外の建物に入ることができないため寝袋と数日分の食料を車に積み込み、安全な土地を探し回りました。埼玉県内をはじめ、群馬、栃木、茨城、千葉、福島、長野、寒くて震えながら車の中で過ごす夜や、農薬が車の中に入ってしまいもがき苦しむこともありました。あらゆる可能性を考え、あらゆるつてを辿(たど)って探し回りましたが、どこも農薬が漂い、空き家は防虫剤のにおいがし、ガッカリして無言で帰ることが一年近く続きました。もう体が限界で、何もできません。「死んじゃうのかな」と思うだけでどんどん駄目になっていきました。ただ唯一、可愛いがっている私の小鳥たちが心の救いでした。
そんなある日、たまたま訪ねた先の知人が「伊豆の山奥に自然農法の広い農場がある。あそこなら農薬はこないだろうな」と何気なしに言うのです。私は聞き逃しません。「そこだぁーっ!」と私は直感。伊豆には患者用住宅が新しく建てられたばかり。あそこで体力を回復させて、その農場で仕事を探そう! 早速農場をよく知っている知人の農家さんに、自分の思いのすべてを手紙に書き託しました。熱意?は届き、伊豆の大仁(おおひと)農場内にある自然農法大学校に入学するよう連絡が来ました。患者用住宅と農場は本当に近くにあり、「偶然とは思えない。何かの導き?」と思うこともありました。
やっとの思いで入居して、やはり数週間でアトピーは消え他の症状もなくなりました。気がつけば元気な姿で山道を散策し、伊豆の自然を楽しむ私がいました。
そして喜ばしいことに、大仁農場の職員の皆さんが化学物質過敏症にこれまでにもないほど理解を深めてくださり、私も嬉(うれ)しくなりました。人の優しさに触れ、徐々に癒されていく心の傷。自然と笑みがこぼれ、元気に挨拶している自分に自信さえ持てるようになりました。そこでの学びは、農薬や化学肥料に頼らず、自然の力だけで野菜や果物を栽培する、自然界のサイクルや仕組みに触れる奥の深いものでした。太陽、雨、風、大地、花、鳥、虫たち、自然界すべてに宿る命を感じました。そして人も自然の中に一員なのだと教えてくれました。
私は十代の頃、化学薬品の恐ろしさと自然破壊に最初に警告を発したレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(一九六二年発表)を読み、その内容に共感していました。「地球は人間だけのものではなく、人は自然の中の生き物であることを認識し、一人一人の力で環境を守っていくべきだ」という考えを改めて思い出し、再びその本を読み直すと、すでに当時、化学物質過敏症のことを取り上げていた章を見つけました。『犠牲者は何らかの殺虫剤に身をさらしたことがあり、患者を殺虫剤と名のつくものがいっさいない環境において治療すれば、病気は消え、また化学薬品にふれると、たちまち逆もどりしてしまう』『前には何でもなかった人が突然過敏症になることが多い』『中枢神経系統にいつまでも大きな影響をあたえる』『身体障害、精神障害をも引き起こす神経系統をじかに侵す化学薬品をやめないかぎり、犠牲はたえてなくならないだろう』と書かれていました。驚きと自分の運命を感じずにはいられませんでした。また、レイチェルは亡くなる前に『センス・オブ・ワンダー』という本を書き残しています。『地球の美しさと神秘を感じとれる人は、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう』という言葉が好きです。
私は大仁農場でどんどん元気になっていき、四季折々に花々が咲く、この安全で広大な農地に同じ障害で苦しんでいる患者さん達を呼んで元気になってほしいと思うようになりました。その強い思いが通じ、私のことを親身になって協力してくださる職員さんと出会いました。私の思い描く企画をどんどん進めてくださり、「おしゃべり会」や「ミニコンサート」が開けるまでになりました。涙を流して喜ぶ方もいました。自然と気の合う仲間が集まり、農場内の春と秋の大きなお祭りには「自然農法を応援する化学物質過敏症の会」を立ち上げ、普及活動を楽しくやっていました。そして、「今までの体験を講演会で話してよ」と声をかけてくださる方が現れ、今まで起きてきたことに深い意味を感じて引き受けることになりました。やがてNHKや民放の番組、雑誌の取材を受けたり、鳥取や岩手、日比谷公会堂へとお話しできる場が増えていきました。ここにいると本当に私は生き生きできるのだと実感した日々でした。協力してくださったたくさんの方々に心から感謝しています。
伊豆に来て三年半がたち、埼玉の自宅に戻る日が来ました。障害年金の受給を考え始めたところ、良い縁があり、なかなか理解してもらえないこの障害を、優しい笑顔で話をきいてくださる社会保険労務士さんが支援して下さることになりました。
「前例がないので、大変難しいのですが、やってみましょう」
と言ってくださり、私はたくさんの資料を作成していきました。審査が通るのを祈るばかりで、時間がかかったのですが、国内で初めて厚生障害年金が認められました。
そして、埼玉の自宅の横に借りている畑で、二年間自然農法大学校で学んできたことを思い出しながらトマト、ピーマン、ジャガイモ、ニンジン、カボチャ、スイカ、メロン……たくさんの季節の野菜や果物を愛情込めて育て、草取りに奮闘して、食べ頃を収穫し、安全な水と調味料で食事を作り、食卓で頂くことに喜びを感じています。父が以前から無農薬で作っていた畑はどんどん良い土になっていくのですが、もう半分の畑は前に借りていた方が農薬を使っていたため、土を耕す度に顔と首がただれて、良質な土に戻るのに何年もかかりました。ミミズやクモ等の虫たちがたくさん戻ってきてくれて、小鳥たちがやってくると心から嬉しいものです。
ですが、三月から十月の間は殺虫剤や除草剤が確実に漂ってくるため、本当は外に出るのが怖いです。特に七月から九月は農薬散布のピーク期で、体は悲鳴を上げ、生きようとする精神力も奪われていきます。毎年、その繰り返しです。
「起き上がらないと……」
そう思うのは、二十五年可愛いがっている私の小鳥の存在です。私の胸に飛び込んできて「早くなでて!」と頭を下げて待つのです。気持ち良くなでてあげると、うっとりとした表情になり満足そうにしています。この子には私に何が起きているか分からない。それでもいとおしい存在です。
それから、生まれてからずっと成長を見続けている甥(おい)っ子と共に楽しむのも私の喜びです。一緒にケーキやパンを手作りしたり、驚かせたくて手品を覚えてみたり、SLに乗りに行ったり、高原へ出掛けたり、手紙もよく送りました。今度は何をして過ごそうかと想像する度にワクワクします。
いつでも喜びや楽しみを見つけて、私らしく生きていければと思います。
最後に、この題となっています『めぐりあわせ』は、巡りめぐって出会った人に私の生い立ちを話した時に「めぐりあわせだね」と言われたところからつけました。それから不思議なタイミングで今回の応募をすすめられたこともあって、これも何かの縁と思い書くことにしました。ただ、本格的な農薬散布が始まる時でした。弱ってきた体で「どうかこれを書き終えるまで、私に意識をください……」そう願いながら今、書いています。
現在、急激に抗菌剤や消臭剤、香りつき洗剤や柔軟剤がよく売られるようになりました。「香害」の時代とも言われ始めています。殺虫剤や防虫剤も手軽に手に入り、増えていく電磁波。ほんとうにそんなに必要ですか? それらが、人間の脳や体にどのように影響するか知らず……。主治医は言います。「その影響はその人の弱い部分に現れるから、症状は様々なんですよ」と。私のように原因不明の体調不良や慢性疾患で健全な日々を送れない人たちが数多くいます。
私の願いは、この「目に見えないシステム」があることに皆が気づいてほしいことです。そして、病気で失ってしまった日々は、「環境が良ければ」生き生きと生きることができたかもしれない、そうした人たちがたくさんいることを伝えたいです。

レイチェル・カーソン著『沈黙の春』『センス・オブ・ワンダー』より文中引用

※これを執筆中に可愛がっていた私の小鳥が、見守るなか天国へと旅立っていきました。二十五年間ありがとうの気持ちを込めて……。オカメインコ・よさく。

高岡 直生プロフィール

一九七四年生まれ 埼玉県在住

受賞のことば

本格的な農薬散布の前に急いで原稿を書き上げ、今こうして生きて賞を頂けたことを大変嬉しく思います。増えていく化学物質、電磁波、それにエコキュート(電気給湯器)の低周波等が様々な慢性疾患やアレルギー、難病、精神疾患、発達障害と複雑に関わり合っていることに「早く気づいて!」とこの障害名にたどり着けた患者全員が心から願っています。多くの方々にこの作品を読んで頂き、気づき難い医療関係者に深い理解を求めていってほしいです。

選評

 極めて現代的なテーマを含んだ作品でした。幼い頃からのアトピーや体調不良の原因が化学物質ではないかとされたのが二十九歳。そこから始まった「見えない敵」を探し出し、取り除く努力の連続。長く辛い闘いだったと思いますが、希望を捨てない意思の強さに心打たれました。今、私達の暮らしに溢れる化学物質が健康に与える影響については、まだわからないことが多いそうですが、その一端を知ることができる貴重な体験記だと思います。(佐藤 高彰)

以上