第53回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第2部門〜
「過去の出来事から得たもの」

著者 : 高橋 和明 (たかはし かずあき)   岩手県

「ピンポーン。だ〜あ」
平成六年。私が通っていた小学校で流行(はや)った、お笑い芸人の一発ギャグのような流行語。
流行のきっかけは、何気ない日常だった。
〈友人達が家に遊びに来た。玄関チャイムが鳴った。すると、兄が「だー」と母を呼んだ。我が家にとっては日常。
一方、友人達(たち)からすると
和明の家に遊びに行った。玄関チャイムを鳴らした。すると、家の中から、和明の兄貴が「だ〜あ」と変な声で叫んでいるのが聞こえた。友人である僕達にとっては非日常。〉
全校児童二〇〇人程度の田舎の小学校。その小さく閉ざされた社会の中で、学級や学年を越えて流行が広がるスピードは恐ろしいものがあった。
当時、六年生の私は、勉強もスポーツも優秀なガキ大将だった。
しかし、お笑い芸人の一発ギャグとは明らかに性質が異なる流行には、どう立ち向かえばいいか分からなかった。
母に一言、「いじめられている」と話したことがある。しかし、なぜか私達親子は、それ以上話を掘り下げなかった。そもそも、いじめられてはいなかった。障害者の兄をバカにするモノマネが学校で流行っているというだけだった。それが障害者のモノマネだとは知らず流行にのっていた人もいた。はっきりと分かっていて、私から顔を背ける人もいた。ただ、自分がもし違う立場だったら、流行にのっていたと思う。
結局、私はもう誰にも何も言わなかった。先生や友人に話せば、状況は変わっていたかもしれない。でも、状況が変わっても根本的な解決にはならないと思っていた。兄が障害者であることに変わりはない。誰にも何も話さないかわりに、優秀な成績もガキ大将の地位も守り続けた。

一歳違いの兄は、脳性まひにより、身体、知的ともに障害がある。トイレと入浴は全介助で、食事も一部介助が必要だ。母を「だー」、父を「パパ」、私を「あー」、妹を「みー」と呼ぶ。他に、「まんま」、「ねんね」、「でー(トイレ)」、「あっち」等、わずかな言葉を駆使して意思疎通は可能だ。そして、よく笑う。
母は、今も昔もパワフルで目立つ存在だ。口数が多くない父、障害者の長男、次男の私、私と四歳違いで控えめな性格の妹。五人家族の中心は兄と母だと幼い頃から感じていた。母は、兄を堂々と連れて歩いた。また、自分の感情に正直な人でもあった。

平成六年夏。公民館に子ども達とその親が集まる行事があった。兄も参加していた。すると、数人の男子が兄をバカにし始めた。ひどい言葉で罵ってもいたと思う。客観的にみれば、差別と偏見に満ちた空間。そこに母の叫ぶ声が響いた。
「この子だって生きているんだよ!!」
突然の出来事に呆気(あっけ)にとられる周囲の人達。その後の記憶は曖昧だが、母は兄を連れて家に帰ったように思う。
(この子の存在を認めてよ!)(この子にも居場所を与えてあげて!!)
親として、当然の願い。今、私自身親でもある。もし、我が子があの時の兄と同じように扱われたらと想像すると……。この気持ちを表現する言葉は見つからない。
ただ、私は兄の親ではなかった。
家に帰ると、母は私に言った。
「お兄ちゃんなんだよ……。たった一人のお兄ちゃんがあんなにバカにされて、悔しくないの?」
母は声を荒げずに言った。私はただ泣いた。下を向いて泣いた。母も泣いていたが、気持ちが通じ合っていたわけではない。当時も今も、母を責める気持ちは全くない。ただ、あんなに悲しい説教は、あの日が最初で最後だ。
私は、友人達の気持ちも分からなくはなかった。というか、分かろうとした。
私にとって、家族も大切だが友達だって大切なのだ。
自分の知らない世界は誰だって怖い。頭では良くないと分かっていても、自分の日常や常識からはみ出た存在に嫌悪感を抱いてしまうことがある。結果として、差別と偏見に満ちた空間を作ってしまった友達は、正直過ぎて、度が過ぎて、知らな過ぎたのだ。子どもにはありがちなことだ。周りにいた大人は、「やめなさい!」と一言言う勇気が足りなかっただけだ。

兄のモノマネの流行や公民館での出来事が、ただの『過去の出来事』になれば良かったのだが、十二歳の少年が経験するには、様相が少し複雑過ぎた。

それからというもの、私は、これまで以上に、自分で全てを解決しようとして生きてきた。
兄を理解してくれない社会も、兄を受けいれきれない私自身も、私を理解してくれない周囲も、全部一人でどうにかしようとしていた。ある意味、その凄(すさ)まじいエネルギーが、私を勉強やスポーツに向かわせてくれた側面もある。本気で打ち込んだ経験が私にとって大きな財産となったのも間違いない。
しかし、常に心のどこかに兄が居た。
控えめだけど容赦なく冷たい、そんな世間の目からほんの少しでも逃れたかった。
でも、『兄が居なければ』とは考えなかった。
兄を疎ましく思う一方で、兄と過ごす叶(かな)わない時間を夢見ていた。
仲よく遊ぶ、よその兄弟が羨ましかった。
おもいっきり喧嘩(けんか)する、よその兄弟が羨ましかった。
そんな私にも居心地の良い場所があった。
似たような境遇の家族との交流である。似たような仲間がいる場所は居心地が良かった。本当に楽だった。そこにいる時間は、兄を責めなくて済んだ。兄を責める自分を責めなくて済んだ。そこでは、兄の車いすを押すことも兄のよだれを拭くこともなんでもなかった。我が家の当たり前がそこでは通用した。それに、沢山(たくさん)笑う兄の周りが一番輝いて見えた。本当は兄が好きだった。沢山笑う兄が好きだった。

ほかに、私を満たしてくれる時間もあった。父と二人だけの時間だ。
忙しい仕事の合間を縫って、父はよく私と遊んでくれた。自転車で近くの空港まで出かけたり、アイスを買いに行ったり、ちょっとした外出も父と二人だけの時間は本当に幸せだった。
逆上がりが出来なくて悔しがっている私を見て、父は庭に水道管と廃木で見事な鉄棒を作ってくれた。
「逆上がりが出来たらグローブを買ってやる」
父に励まされ、私は一生懸命練習した。そして、カッコいいグローブを手に入れた。そのグローブで、父とキャッチボールをした。私がバスケットボールを始めると、庭にバスケットゴールを作ってくれた。バックボードの板が腐って剥がれ落ちるまでシュートした。
父は、私の一番の味方であり、理解者であり、ヒーローだった。

平成七年五月の連休明け。夜中に突然、父が心停止の発作を起こした。
私は自室で寝ていたが、妹にたたき起こされ、他のみんなが寝ている部屋に行った。すると、父は意識を失っていた。そして、そのまま救急搬送された。後から私が病院に着くと、父の首に管が繋(つな)がれていて、呼びかけにも反応しない。この時点で「数時間の命」と宣告された。しかし、父はそれから五年以上も生きた。ただ、意識が戻ることは無(な)かった。
父が倒れ、私達家族は途方にくれた。しかし、誰も絶望を口にはしなかった。私達家族が、この状況と共に生きていくためには、家族が一つになる必要があった。しかし、私達家族は一つにはなりきれなかった。その原因は私にあった。私は、兄の存在も、意識が戻らない父の状況も受けいれることが出来(でき)なかった。
母と兄との関係が絶対的なものだとすると、父と私との関係もそれに近いものがあった。しかし、妹含めて他の関係においては、互いが互いに『腫れ物に触るような感じ』が徐々に増えていった気がする。

父が倒れてからも母は、往復一時間半かかる養護学校の送り迎えも兄の面倒も家事もそれまでと変わらずにこなした。加えて、毎日欠かさず父の見舞いに行っていた。私はこれ以上母に負荷をかけられないと本能的に判断していた。
しかし、今思うと、私の心はいつも揺れていた。友達との楽しい時間が、気を紛らわせてくれたが、危うさがあったのは間違いない。
手の甲にカッターで『死』という文字を掘ったことがある。いかにも重大事のように先生から心配された。私は、先生に言われて初めて、(そうだよな。こりゃ、心配するよな……)と認識した。決して、何かに思い詰めての行動では無かった。
同級生の友達は、当時の私のことを、「お前は、常に何かにイライラしていたよ」と笑って話す。思春期特有の苛立(いらだ)ち以外の何かを感じてくれていたのかもしれない。この友達は今でも私を助けてくれる。

平成十年四月。私は、バスケットボールの強豪高校に入学した。ここから三年間、私の気持ちは内側に向かっていった。高校では、中学の同級生は一人も居なかった。それに、推薦で入学した私にとって、バスケットボールで良い成績を収めることが高校生活の全てであり、自分をさらけ出し、心の底から分かり合うことは、二の次だった。
この頃、嫌だったのが、「きょうだいは?」という、十代の若者が仲良くなるきっかけとしてはよくある質問だ。
正直に兄の事を話すかどうか。一瞬で相手を見極めて判断して、答えなければならなかった。そんな必要は全く無いのに、相手に要らぬ気を遣わせぬよう、自分が傷つかぬよう、そうしていた。バスケ部の仲間は知っていたが、積極的に話す程でもなかった。

平成十二年九月。父が亡くなった。その二週間後に、大事な試合があった。
高校最後の県大会の決勝戦。
体育館にいる誰もが注目する決勝戦のコート。
負ければ本当に最後という試合のコートサイドには、兄と母の姿があった。
(せめてもう少し端っこでみてくれよ……)と、一番大事な試合の前にも関わらず、そんなことを考えていた。
それでも、試合が始まれば必死に戦った。ただ、必死にプレーしながらも兄の声は聞こえていた。敵のプレーも味方のプレーも関係なく歓声を上げていたが、「あー!」と私の名前を呼んでいたのも聞こえていた。父も兄も私に力をくれたのは間違いない。
私達は、このチームになってから一度も勝てなかった相手に初めて勝った。
試合後、私はチームメートに胴上げされた。しかし、私はこの試合を最後に引退し、全国大会のコートには立たなかった。結局、私は最後まで心を開かなかった。バスケ部のみんなには、今でも本当に申し訳ないと思っている。
バスケ部を引退してから、私は本格的に受験勉強を始めた。小学校教師になるのがこの頃の目標だった。バスケ部に対する負い目もしこりも残っていたものの、勉強に関しては、自分でも驚く程穏やかな気持ちで集中することが出来ていた。
第一志望は、教育学部の小学校教育コースだったが、センター試験で失敗した。二次試験に向けて担任と作戦会議をし、「偏差値は同じぐらいだが志望人数が少ないと思われる障害児教育コースを受けよう」というのが最終的に選択した道だった。このコースでも小学校の教員免許取得が可能だった。
平成十三年春。私は合格した。土壇場の受験コース変更は大正解だった。
大学に入学してからは初対面の連続、自己紹介の連続だった。障害児教育コースということもあり、堂々と兄の事が言えた。
私は発達障害児と関わるサークルに入った。ここでは、個人ワークや集団ワークを通じて発達障害児に必要な支援を行っていた。また、発達障害児のきょうだいも一緒に通っていた。親御さんとの交流や意見交換も活発だった。このサークルを通じて私は、支援するだけではなく、無意識のうちに過去の自分を救おうとしていたのかもしれない。
大学では、小学校と養護学校の教育実習を経験したが、答えは明らかだった。

平成十七年四月。私は東京の養護学校に教諭として就職した。私は希望に満ちていたし、何故(なぜ)かそれなりに自信もあった。
しかし、現実は厳しかった。自分で思うよりもはるかに仕事が出来なかった。根拠の無い自信はすぐに打ち砕かれた。それでもまだ、「まともに出来ている仕事はトイレ掃除ぐらいっす」と冗談で吹き飛ばす余裕はあるつもりだった。徐々に周りから「痩せたね」と言われ始めた。はじめは自分でも(夏バテかな)程度の感覚だったが、七月あたりから明らかに自分が壊れていった。周囲に勧められるまま心療内科を受診、鬱(うつ)病と診断された。
平成十七年八月。養護学校を退職した。
理想と現実のギャップだとか、慣れない環境だとか、多忙な毎日だとか、当てはまりそうなものはいくらでもあったが、何よりも私は、自分のことを全く分かっていなかった。
障害者の兄がいる者として強くたくましく在り続け、兄がバカにされても耐えて、バカにした友達も守ろうとした。私の全てを受けとめてくれた父が倒れてからも逆境に強い自分で在り続けようとした。その時その時で、何かに打ち込み、それなりに結果を出し続けた。加えて、可哀想(かわいそう)だと思われないよう、同情もされないよう、大人に刃向かったり、悪態をついたりもした。
社会も大人も怖くないと思っていたつもりだけど、許されそうな範囲を探っていた。刃向かう相手も選んでいた。許してくれそうな、受けとめてくれそうな、大人を選んでいた。
決して『つよがり』ではなく、強くたくましいと本気で心の底から思っていたが、私が本当にやりたかったことは、
逃げること。
休むこと。
立ち止まること。
甘えること。
弱音を吐きまくること。
だった。

平成十七年九月。私は実家に戻った。
信頼出来る友達に、鬱病になったことを打ち明けまくった。
「がんばれ」と励ます人もいたし、「優しすぎるし、ストイック過ぎる!」と怒る人もいた。「俺どうして良いかわかんねー」とはっきり言う人もいた。
でも、正直に話して正直な答えが返ってきた時に、居場所を感じられたのだと思う。
しかし、病気の波は自分でコントロールできない時もあり、大量服薬や身体を傷つけたりもした。本気で死のうとした時もある。リュックにダンベルを詰めて背負った。さらに、紐(ひも)で縛って外れないようにした。そして、橋から川に飛び込んだ。沈んで溺れて死ぬつもりだった。
リュックは外れた。結局、生きて家に帰った。
(すっげー寒いけど、助かった……)
汚い水でびしょ濡れになりながらそんな滑稽な事を思ったのを今でもはっきりと覚えている。
酒と煙草(たばこ)の量が増えたり減ったりしながら、とりあえず毎日生きていた。とりあえず仕事もしていた。少しずつだが、時間が解決してくれた面もある。周囲にたくさん迷惑もかけた。

平成二十一年九月。後に、妻になる人と出会った。
『難しく考えなくて良い』ということを教えてくれる人だった。
『正解か間違いか、白か黒か』決めたがる私に、『どっちでもいい』、『どっちでも許してあげる』ということを教えてくれた。
平成二十二年五月。交際が始まった。
それからしばらくして、私は心療内科の通院を止(や)めた。
服薬もせず八年近く経つが、絶望感に支配される感覚は一度も味わっていない。自分の存在価値を否定し『消えたい』と思う事も一度も無い。
鬱病になるまでが、『一人で強く在ることの限界を知る時間』だったとすれば、鬱病になってからは、『人前で弱くなれるための練習時間』だったのかもしれない。

平成二十三年三月十一日。東日本大震災の日。雪が舞う暗い中、私は職場から真っ直(す)ぐ兄がいる施設に向かった。兄の顔を見て、職員さんの顔を見て、とりあえず安心した。それから母に、兄と施設の無事を知らせた。

平成二十四年三月。私達は結婚した。私の実家で同居生活が始まった。
披露宴の準備にあたり、昔の写真を見返した。父の写真を見ると、父に対する強い想(おも)いが蘇(よみがえ)ってきた。写真嫌いな父の視線はほとんどこちらを向いていなかったが、私の心は、『お父さん大好きな十二歳の少年』に戻っていた。
写真の中の父は、兄の車いすも押していた。兄のことも妹のことも抱っこしていた。
父は、三人の父親だった。
平成二十七年一月。私達に長男が誕生した。
平成二十八年十二月。次男が誕生した。
平成二十九年三月。私達は新居に引っ越した。私は妻と二人の息子と、母は一人で暮らし始めた。

兄は、養護学校を卒業後、施設に入所している。母は、出来る限り面会に行ったり、外泊で家に連れて帰ったりしている。父が残した財産で母が建てた家は、玄関スロープから始まり、段差の無い床に、広い浴室、全てが兄仕様だ。これから少しでも長く、母と兄が一緒に過ごせればと心から願う。
妹は、高校卒業後、看護師を目指して看護学校に入り、寮生活を始めた。看護師となってからも一人暮らしを続けた。
「お父さんが倒れた時、隣で寝ていた自分は何も出来なかった」
と、妹は看護師を目指したきっかけの一つを母に話していたようだ。
私は、何度かの転職を経て、障害者支援施設に勤めて、今年で十二年目だ。

今年の六月。妹が結婚した。相手は病院に勤める精神保健福祉士だった。
結婚式の日、私は緊張していた。兄と会うのは久しぶりだった。母との関係もいまだ『腫れ物に触るような感じ』だ。
母と兄は既に結婚式会場に着いていて、私は恐る恐る親族控え室のドアを開けた。
兄は、私の顔を見た瞬間
「あー!」
と私を呼んで、笑った。
披露宴では、母の友人であり障害者の子を持つ母でもある人が二人招待されていて、同じテーブルだった。その二人は、新婦の母として様々(さまざま)な段取りがある母の代わりに兄の面倒を見ていた。二人の会話がおもしろかった。
「公平(こうへい)君、結婚って分かっているのかな」
「結婚は分からないんじゃない。よく分からないけど、みーが、綺麗(きれい)なお洋服を着ている」
「隣には知らない男の人がいる」
「うん。それぐらいかもね」
実にリアルで自然な会話。
安易に希望的観測を含んだ綺麗事は言わない。
私は、居心地が良かったし、楽だった。

新郎の上司が新郎のことを次のように話していた。
「彼は人として一番大切な、“分け隔てなく”が出来る人です」
兄と母と母の友人二人に囲まれながらこれを聞いた時、兄が分け隔てられることを恐れていながら、一番分け隔てていたのは私だったのかもしれないと気が付いた。
兄は、今日も私を呼んで、笑ってくれた。
兄は、私の存在をいつも認めてくれていたのだ。

最近、息子達はよく喧嘩をする。
やっぱり兄弟喧嘩は羨ましい。
羨ましいけど、スッキリとした気持ちで兄弟喧嘩に立ち会える。
正直こんな日が来るとは思わなかった。
父の居る所に行きたいと思っていた私は今、父よりもいくらでも長生きすることが自分の使命だと思っている。

高橋 和明プロフィール

一九八二年生まれ 障害者支援施設職員 岩手県在住

受賞のことば

この福祉賞の募集要項を見た時、素直に「書きたい」と思いました。私にとって書くこと自体に大きな意味がありましたが、このような素晴らしい賞まで頂き、とても驚いています。自分の過去は不幸だったと決めつけて蓋をしてきましたが、書き進める作業は不思議と爽快感をも伴いました。これからは、兄を想う気持ちも弱い自分も恥ずかしがらず、胸を張って堂々と生きていける清々(すがすが)しい気持ちです。この度は本当にありがとうございました。

選評

親は、障害児との出会いによってそれまでの人生観を揺さぶられ、そこから立ち直っていきます。しかし同胞は、多くが人生の始まりの時点から障害児のいる世界を生きます。それは、選択したのではなく与えられた世界。その中で人は何を考え、どう自分の立ち位置を見定めていくのか。淡々と綴られる高橋さんの文章には圧倒的な迫力があります。高橋さんの思いへの賛否はあるかもしれません。しかし、私は最後の五行にすべてが昇華されてゆくこの作品を強く推しました。(玉井 邦夫)

以上