第53回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第1部門〜
「今の私のままで」

著者 : 竹口 和香 (たけぐち わか)  東京都

はじめに

摂食障害とは、食行動に何らかの異常が見られる精神疾患である。本稿では、五年間に及ぶ私自身の摂食障害の体験、そして今の心情について記述する。

可愛(かわい)くなりたい女子高生

きっかけは、当時通っていた高校での「ダイエットブーム」。私もそのブームに乗った年頃の女子高生のうちの一人である。もともと学校でも目立つタイプで他学年や他校にも顔が知れており、手前味噌(みそ)だが同性に憧れられる事も少なくはなかった。自分にも自信があり、ただその一方で「私は完璧な自分でいなきゃいけない」という意識は人一倍強かったのかもしれない。お弁当を少し減らしたり、お菓子を我慢してみたり、そんな身近な方法から私のダイエットは始まった。二週間もすると、太ももの間の隙間が少し広くなって、顔がしゅっとして目が大きくなった気がした。学校へ行くと
「あれ、痩せた? 羨ましい!」
と何人もの子に声をかけられた。昨日の自分よりも可愛くなれる簡単な方法、それが、私がダイエットに抱いた印象だ。学校でのダイエットブームはというと、一か月もすればブームはとうに過ぎていた。それは「私だけが可愛くなれる絶好の機会」だった。制服のスカートのウエストが少しゆるくなって、二回折りしていたスカートもいつしか三回折りになっていた。

加速する自己コントロール

次第に私は自分の中でダイエットルールを作るようになる。毎日携帯のメモ帳にその日の摂取カロリーと運動量を記載し、一日の摂取カロリーは一〇〇〇キロカロリー以内、寝る前の筋トレ、毎日三〇〇キロカロリー以上の有酸素運動、半身浴と、私の生活はダイエットに支配された。家族で食べる夜ご飯も、自分のご飯は一〇〇グラムを量って盛るようになり、おかずもメインはほとんど口にしなかった。当時、休日にアルバイトをしていた私は、朝ごはんは手のひらに乗るような小さなパンとカロリーカットの豆乳を食べアルバイトに行き、昼休憩で一〇〇キロカロリーのゼリーを飲み、夜は食べずに家に帰る生活をしていた。母には、「ご飯は食べてきた」と嘘(うそ)をつくようになった。平日も、「友人とご飯を食べてくる」と帰宅を遅らせて夜ご飯を抜くこともあった。家に帰るまでは当てもなくウォーキングをしていた。一日の摂取カロリーが一〇〇〇キロカロリーを超えると明日起きて体重が増えているのが死ぬほど恐ろしくて、口に入れて飲み込まずにシンクに吐き出した。この頃自分が異常だとは少しも思っていなかった。私にとっては、ただ細く可愛くなるための手段だったのだ。そんな生活を続けて、私は半年で八キログラム、一年弱で十三キログラム体重が落ちた。暇さえあれば食べ物のカロリー表を眺めているせいで、いつしか目の前の食べ物が何キロカロリーあるか、見るだけで頭に浮かぶようになった。高校二年が終わる頃には、体脂肪率十三パーセント、低血圧、無月経、慢性胃炎、便秘になり、体にわかりやすく異変が起きていた。毎日胃薬を二種類飲んで、下剤は一度に十錠近く飲んでいた。学校の木の椅子がお尻の骨に当たって痛む。昼寝をしないと一日体力が持たなくなった。でも、これくらいがか弱くていい。か弱いくらいが可愛い。「みんなが細くてかわいい私に注目してくれている」、その感覚が気持ち良くてたまらなかった。

私が崩壊した瞬間

そんな私の生活が崩壊したのはダイエットを始めて一年が経とうとする高校二年生の三月のことだ。その日は、当時働いていたアルバイトの送別会だった。近所にある和洋食のビュッフェに行くことになり、久しぶりに夜に外食をすることになった。もちろんこれはルール違反で、夜の十九時半にビュッフェだなんて論外中の論外だ。みんながワイワイと唐揚げや肉料理をお皿に盛る中、私はカロリーの低いサラダや煮物ばかりを皿に盛る。目の前に何千キロカロリーの食べ物がずらりと並んでいる。こんな光景、いつぶりだろう……。私は、何を思ったのかふと目に入った焼きそばを皿に盛ってみた。同期と他愛(たあい)もない話をしながら、私は焼きそばを口に入れた。夜十九時に食べる炭水化物。その瞬間、私の中で何かのスイッチが爆発するように切り替わった感覚に陥った。唐揚げもスイーツも果糖ジュースも、今まで食べたいとも思わなかった物が、食べたくて食べたくて仕方なくなった。私は、好きなものを好きなだけ皿に盛り、次々口へと運んだ。
体と心の乖離(かいり) それからというもの、私の生活は別人のもののように一変してしまった。あろうことか、自分の食欲を抑えることが出来なくなったのだ。お腹が空いていないのに、「食べたい」という強い衝動が私のルールを破壊した。私は自分で自分の身に何が起こっているのかわからなくなり、自分の事が心底怖くなった。しかし、そんな「よく食べるようになった私」を母や友人は喜んだ。今までろくにものを食べなかった私が食べるようになった、そりゃ安堵(あんど)するのも無理は無かった。
私は、次第にふたりの自分を持つようになる。一人は以前の自分ルールを守る私、もう一人は崩壊した私だ。人前では前者を保つ事が出来るのだが、一人になった瞬間、後者の崩壊した私が私を襲うようになった。家に誰もいない事を確認した瞬間、もう一人の私の時間が始まる。家族に食べていることがばれないように、冷蔵庫の奥のものを取り出しては食べた。冷凍食品を温めずにそのまま口に入れた。辛(つら)いのに、苦しいのに、太ることが何よりも怖いのに、泣きながらカロリーを体に入れた。私は食べていない。何か魔のようなものを体に取り込んでいる。自分の頭で自分の手を止めることができなかった。意味がわからなかった。自分で自分が理解できない。でも止まらない。気づけば三か月ほどで四キログラムも体重が増えていた。その時には、過食は家だけに留まらず、スーパーで買った安い菓子パンを詰め込む事もあった。高校三年生の夏前、私は吐くことを覚える。吐くことで、「食べてしまったダメな私」をなかったことに出来た気がした。自分が許される気がして、喉に指を突っ込んで、自分の罪を吐き出してトイレに流した。

受験という好転機

大学受験が本格的に始まった高校三年生の夏、好転機が訪れた。夏前に入校した塾講生は、四キログラムも太った私と出会っても私を受け入れてくれた。むしろ、高校で飛び交う「可愛い」「細い」という賞賛ではなく、同じ大学入試という目標に向かって励ましあう言葉がかけがえのない支えになった。私は、勉強をして成績を上げることで自分を認めてあげることができた。家族や塾の仲間に支えられ、結局高校三年から大学入試まで一、二回の過食嘔吐(おうと)で済み、体重は増えたものの以前ほどカロリーに縛られる生活はなくなった。頭のどこかに不安はありながらも、私はこの病魔の完治を信じた。

本当の地獄の始まり

無事、大学受験に成功した私は関西の親元を離れ、東京六大学に入学した。東京でキラキラした世界と、キラキラした自分が待っている、そう信じていた。しかし、慣れない標準語、慣れない電車、今までに見た事もない人の数……その環境は、いとも簡単に私の中の崩壊した私を蘇(よみがえ)らせた。誰も知らない大学で「関西弁の明るい女の子」を演じ、明るいグループで群れていることに安心と同時に生きづらさを感じる。次第に、学校帰りのコンビニやスーパーで、食品を大量買いするようになった。家の最寄り駅から、やっと自分の時間が始まる。私はまた自分の弱さを食にぶつける事で埋めようとしていたのだ。また、その行動で私は私自身を苦しめる事になる。

もうここから抜け出せない

大学二年の夏には学校に行けなくなった。日に日に過食嘔吐の回数は増え、多い日には三回の衝動に苦しめられた。吐いた時の胃酸で胃や食道は常に荒れ、喉が爛(ただ)れて声が出なくなった。毎日の過食嘔吐で体力は奪われ、一日の体力がもたなくなった。過食嘔吐の患者によく見られる顔のむくみや吐きダコを見て、「私って本当に摂食障害なんだ」とひどく落胆した。そんな地獄から抜け出したくて何度も普通の食生活を試みたのだが、もう“普通”も分からなくなった私はすぐにまた崩壊し、そんなことを繰り返すうちに更に自分が嫌いになった。一人で食事をすると過食嘔吐の衝動にかられやすい事から、家での食事が怖くなった。冷蔵庫に食べ物を入れておくのが怖くて、常に冷蔵庫は空っぽだった。それでも、ふいに襲ってくる衝動に私の体は従うしかなく、だるい体を引きずって吐くための“魔物”を買いにいく。スーパーの割引シールの貼られたお惣菜やコンビニの出来合いの商品を体に詰め込んで一気に吐き出す、一度に四〇〇〇キロカロリー以上の食べ物が私の身体の中に詰め込まれていった。菓子パン五つとおにぎり三つとファミリーパックのお菓子……次々に空袋が部屋中に散らばっていった。過食嘔吐用の食事は吐くことがゴールだ。喉に指を突っ込んで必死に吐く“摂食障害の私”が「今日も負けたんだね。お前は一生そうなんだ、諦めろ」と言っている。吐いた時にあがった胃酸や指を突っ込んだせいで胃や胸が痛い、口から血が出てくる、声が出ない。それでも私は過食嘔吐を自分自身でやめられなかった。自分の心と身体が繋(つな)がらない。こんなダメな自分のせいで誰かに甘えたくない。「かつての完璧な自分」という自分像を壊せない私は、身内や友人に甘える事も出来ないまま、もう、自分でない自分に疲れ果て、心も体も限界だった。

それでも助けを呼べない「強い」自分

大学の授業にはほとんど行けなかったが、大学の中にあるカウンセリング室にはよく足を運んでいた。ここなら、親にも友人にも迷惑をかけることもなく、悩みを吐き出せるからだ。話す内容は、その日あったことや今辛いことで、時には一時間泣き続ける日もあった。ある日、担当カウンセラーにとある心療内科を勧められた。久しぶりの都内、いまだ慣れない人混みの中、いつもより顔を伏せて新宿にある心療内科へ向かった。「もしかしたらこの気持ち、病気をわかってくれる人がいるかもしれない。そしたら少し前向きになれるかもしれない」、そんな期待もきっとあっただろう。しかし、そこで医者に言われた言葉は
「何で泣いてるんですか?」「精神安定剤と睡眠薬出しとくから」
と驚くほどあっさりとしたものだった。診察時間は十分もなかっただろう。今となれば、医者に同情やカウンセリングを求めた私と、正しい診察と処方をする医者のギャップだったと思うが、当時の私はこの一件ですっかりふさぎ込んでしまったのだ。「この病気を分かってくれる人はいない、いっそガンや白血病みたいに、“自分のせいじゃない”難病だったら誰か私のことを少しは心配してくれたんだろう」、そんなどうしようもない事を考えながら、満員電車に揺られていつもの地獄の日々へ帰っていった。

明日も死なない理由

私は大学生活の半分以上を摂食障害に捧(ささ)げた。高校時代に持っていた自信はこれっぽっちも残っていないが、また痩せる事が出来れば自信が取り戻せると信じていた。そんな自分の外見と他人の評価で構成される私の自信(価値)により、ダイエットと過食嘔吐を行き来する生活は長く続いた。そんな私に生きる希望を与えてくれたのは、母の小さな贈り物だった。どうしても母には、自分が摂食障害である事、出来の悪い娘である事は決して言えなかった。だが、自分の病気の事は打ち明けられないまでも、母は私の異変に気付いてくれていた。私が“何か”に苦しんでいることに気付いてくれた。私は母に
「つらい」
と電話越しにつぶやいた。
「死ぬのもめんどくさい、自分の存在が無かったことになりたい、消えたい」
とひたすら泣いた。数日すると、ハガキと小さいお菓子が毎日届くようになった。動物の写真にポエムが書かれたハガキにお母さんの「無理しないで」「そのままで大丈夫だよ」と書かれたあたたかいプレゼントが毎日届く。私は毎日ポストをのぞくことが一日の楽しみで、それがまた明日も消えない理由になった。私は私自身を一人にしていたことを知った。

意外な転機

ある日のカウンセリングで、生活に自律神経を整える行動を取り入れる勧めを受けた。その具体策の一つがヨガなのだが、どうもヨガの呼吸法には自律神経のバランスを整える効果があるそうだ。六十分というレッスンの時間を自分と向き合うゆったりと流れる時間にする事、そのこと自体も心のケアになると教わった。今まで過食のスイッチが入るまでは何も口にせず、スイッチが入るとそれに従い、過食嘔吐に疲れて倒れこむように寝る、という生活を毎日送っていた。しかし、その日はヨガの体験を終えて久しぶりに体も心もすっきりした感覚で、なぜか私は過食嘔吐することなく一日を終えることができていた。いつぶりに“普通の生活”ができたのだろう、と本当に嬉(うれ)しくて、次の日起きて一人で笑ったのを覚えている。私はその日から、徐々にそんな日を増やすことができていった。あれだけ苦しくて消えたくてたまらない生活から抜け出したきっかけが“ヨガ教室の体験”だなんて自分でも笑えたが、それよりも吐かない日の自分を少し好きになれたことが嬉しかった。
それまで、もう一度痩せる事を目的にしていた生活から、今日より明日が少しでも穏やかで幸せになる事を望むようになった。スイッチが入らないように、家にいる間は友人に電話をつないでもらったり、地元に帰って“何もない時間”を作ってみたり、少しずつ自分自身を大切にする時間を作ったのだ。いつしか「もう治らない、一生このまま(摂食障害の私)で死ぬ」から「今日は摂食障害の私でも明日は普通の私かもしれない」と思える自分がいた。実家に帰ると母が以前より元気そうな私を見て、
「生きててくれてありがとう」
と抱きしめて泣いていた。

振り返って

摂食障害の症状がなくなってから二年が経とうとしている。今では、あの日々を思い出して涙が溢(あふ)れる事もなくなり、うまく自分の中でバランスを保ちながら生活する事を学んだ。私が、摂食障害を経験して変わった事は大きく三つある(同じ病気でも、皆さんが異なった背景・境遇・症状であるため、あくまで私のケースであるが)。
まず、等身大の自分にイエスと言えるようになった事だ。あの頃の私は、どこか自分は特別な人間で、そのためには何も欠くことを許されないと思っていた。その思考を徐々に変えることで、「完璧じゃない人間らしい人間」になったのかもしれない。完璧主義であることから自己評価が異常に低かった私は、自分の内面・行動を褒める練習から始めた。最初はほんの些細(ささい)なこと、例えば「アラームが鳴った時間にちゃんと起きることができた」「部屋の片付けをしてゴミ捨てをすることができた」等から始め、それをノートに書き留めた。外見以外のことで自分を認めてあげることが初めてで最初は戸惑いもあったが、不思議と自分で自分のことを褒めると心が少し落ち着いた。「今日は吐かなくてすんだ! えらい!」「学校に行ってフルで授業を受けた」、少しレベルがあがっていく。そうして、私は今完璧でない等身大の自分を「ま、いいんじゃない?」なんて思うことができている。
次に、大切な人へ弱さを出せるようになった。これは、家族・友人・恋人に共通して言える事なのだが、以前まで私は相手に対して“与える”事で自身の価値を見出していた。自分の弱さや未熟さは出さずに、相手の負担にならない「良い子」でいる事、また自分を犠牲にしてでも尽くす事が、相手への最大の貢献(というエゴ)であった。これは前述にも付随するのだが、自分が存在するだけだと自分の価値はないと思っていた。この価値観が変わったのは、母や友人が「そのままで大丈夫」とボロボロの私に言ってくれた事、少し元気になった私を見て泣いて喜んでくれた事からだ。それからは、自分が与える事でなく、支え合う事で相手との関係を築く事を意識している。自分の弱さを出す事で、自然と相手の弱さを分けてくれる事が多くなった。そうやってお互いが弱さや思いを持ち合う事を学んだ。
最後に、未来を自分で決めつけないことだ。症状は落ち着いているものの、私が今後また摂食障害になる可能性はゼロではない。むしろ、再発性の高い病と言われており、いつどんなきっかけでまた地獄に突き落とされるかなんてわからない。ただ、そんな未来を想像することをやめた。今日より明日が少し幸せであること、目の前の大切な人を大切だと思うこと、そして今の自分を大切にしてあげることを考える。もしかしたら以前よりは地味なのかもしれないけど、小さな、でも確実な幸せの積み重ね、それが本当の大きな幸せであると気づいた。

今後について

私の夢は、心に傷を負った人が「もう一度生きたい」と思える小さなきっかけ作りをする事だ。今秋から、精神障害者専門のキャリアアドバイザーとして、個人向けの支援を行うことが決まっている。私が支援する事で、その方達(たち)に新たな居場所や、仕事から得る自信を持って欲しい、そんな思いから決意した。摂食障害を含めた精神障害を克服するには、自分で自分を肯定する事と、大切な人から肯定される事が必要不可欠である。どれだけ薬や一般的な治療法を行って症状が緩和しても、長期的回復を見込むには根幹の「私はこのままで生きていていいんだ」という安心がなければ持続する事は出来ない。そのためには個人・環境の双方への働きかけが必要になると考えている。私は個人向けに、キャリアアドバイザーとしての支援・私自身の体験を公表し講演活動をする事、そして環境向けには摂食障害をはじめとした精神疾患の認知活動と、家族・企業へのフォロー支援を行っていきたい。今、この街のどこかで、苦しみながらも生きる事を諦めずに頑張っている方へ、一人でも多く、前を向いて歩くきっかけを与えていきたい。

竹口 和香プロフィール

一九九五年生まれ 会社員 東京都在住

受賞のことば

この度は、このような栄えある賞を頂き誠にありがとうございます。
現在、私は心の病を持つ方の仕事の支援をしながら、ブログで自身の経験や思いを発信しています。(『言葉を吐く。』https://waka0105.hatenablog.com/)
私が“普通の”生活が出来ているのは、多くのものを失った私に「そのままで大丈夫」と声をかけてくれる大切な人、そして私自身がいる為です。
私が発信を続けることが、当事者の方への少しの勇気と、社会への正しい病への理解へ繋がると非常に嬉しいです。

選評

思春期のささやかなダイエット願望が暴走を始め、それが一転、過食と嘔吐にとり憑つかれる……摂食障害の現実と、その時々の心の内が克明に描かれ、圧倒的なリアリティーで伝わってきます。摂食障害の背景には様々な生きづらさがあり、それ故に誰もが陥る可能性がある、など多くのことを教わると同時に、その回復への道のりは、同じ障害に人知れず悩んでいる人達にとって、ひとつの希望となることでしょう。よくぞ書いてくださいました。(佐藤 高彰)

以上