第52回NHK障害福祉賞 佳作
〜第2部門〜
「本当のあなた」

著者 : 田島 尚 (たじま しょう)  京都府

平然を装っていたものの、溢(あふ)れ出してくる妻の過去に押しつぶされようとしていた。何か一つでも順序がくるえば、間違いなく僕たちは崩壊していた。毎日毎日、家に帰るのが苦しく、生傷と痣(あざ)の絶えない日々だった。それは、最早(もはや)夫婦とは呼べない状態の生活であった。それでも、必死で何とかしたいと願い続けた。「妻の背負っている過去に負けたくない、障がいという見えない壁を乗り越えたい」――僕たちのこと聞いてください。

一.妻との出会い

二〇一〇年十月、僕は初めて妻と会った。二人とも同じ俳優さんのファンで、ネット文通のようなことをしていた。ある日、彼女が僕の住んでいる京都へ来たいと言ってきた。さしずめ「ドラマのロケ地巡りでもしたいのかな」とぐらいしか思わなかった。
当日、顔を見て大変驚いた。ひどく痩せていて、正直、十八歳(会うまで知らなかった)と言われても若々しさが感じられなかった。口数は少なく、青ざめた表情とぎごちない仕草に何とも言えない違和感を覚えた。その時、隣県で介護の仕事をしていて、弟と母親が障がいをもっていると知った。その日から、自然に距離も縮まり、真面目で一途な彼女に惹(ひ)かれていった。遠距離交際は続き、ずっと内緒で会っていたので、そろそろご両親に挨拶しなあかんね……ということになった。
父親は厳しい人だと聞いていたので斜に構えていたが、ふにゃふにゃとした笑顔で僕を迎え入れてくれた。弟は、聞いていたようにコミュニケーションが難しい様子がよく分かった。時折、父親に合いの手を入れる顔を痣で腫らした母親は、服薬のためかロレツが回っていなかった。
「はっきりと分からないけれど、彼女を助けたい。この家から出してやりたい」これが正直な気持ちだった。自分なりに、この雰囲気と彼女をつなぐ異様なものに、尋常ではない思いが揺れ動いた。
「差別するつもりはないけど、絶対にあんたが大変になるわ」
「よう考えや、同情だけで生活はできひんで」
助けたい、可哀想(かわいそう)でお前は結婚しようとしているのか?事あるごとに親や友人は僕を強く諭した。僕は意固地(いこじ)になって全面否定したが、実際に自分自身の気持ちが複雑に絡みすぎて、心配してくれる人たちを安心させられる言葉が見付からなかった。ただ、躍起になってその場しのぎな返事をするだけだった。
「彼女の親や弟が大変なのは重々承知している。けど結婚は二人の問題やし。しかも彼女は、まだ未成年やのに遊びをしないで働きながら家計を支えてる。そんな彼女とならきっとうまくやっていける」
両親も長男の僕が結婚するということで、最後には喜んでくれた。僕も妻も式に向けて何度も話し合い、夢を語った。障がいのことも勉強して、自分があたかも救世主であるかのように妻の両親や弟と友好的に接した。自分は障がいなんて気にしてませんよ、そう自分で錯覚させ暗示にかけていたと思う。そうでもしないと、胸の奥深くに燻(くすぶ)っている不安が押し寄せてきそうだった。妻との幸せのため、無我夢中で無事挙式を挙げることができた。――これで安心やな。そう思った時はすごく心地よかった。

二.氷が溶けてきた日

希望と幸せに顔のほころぶ生活が始まったと思えたが、それはすぐに終駕(しゅうえん)を告げた。妻の身に徐々に異変が起こり始めた。朝なかなか起きられない、家事が全くできない、片づけができない、そしてすぐに泣き出すことが多くなった。最初は、若いから(僕が十歳年上なのです)だとか、少しズボラなのかな?程度だった。それがいよいよ顕著に目立つようになってきたので胸騒ぎがしてきた。
妻の様子がおかしい―。半年程経った末に僕は確信が固まり、医療機関に相談するようになった。そしてその矢先、妻が突然嘔吐(おうと)して入院した。神経性嘔吐症とだけ言われた。
職場の信頼している上司から、発達障害かもしれないから、一度専門病院で診てもらったほうが良いとアドバイスを受け、退院を待って妻を大きな病院へ連れて行った。発達検査と心理検査を受け、広汎性発達障害だと診断結果が出た。妻は泣いていたが喜んで呟いた。
「ほっとした。ずっと賢く繕っていたけどホンマは苦手なことばっか。障がいがあるんやって小さいときから思ってたんさ」
診断が下されたことを知った後、妻の両親は目に見えてよそよそしくなった。そしてそれを知った妻の容体も見る見る悪化していった。夜中に奇声を上げることが多くなり、急に性格が変わった。実家の話になると顔が強張(こわば)り、人形のように動かなくなる。幼児口調で甘える。何の前触れもなく、口調が荒くなり、普段(ふだん)の物静かな妻からは想像がつかないほどの変わりようだった。
「てめえ、触るな」
と僕に対して声を上げた。全く訳の分からない第二の地獄の日々が始まった。

三.もう一つの診断結果

「結婚してから娘がおかしくなった、京都のせいや。俺らは何も知らん、関わらんといてくれ」
僕が妻の異変に、妻の両親へ助けを求めた返答だった。再び嘔吐して入院した娘を訪ねることは以後なかった。妻は食事もとれなくなり、土色の精気の果てた顔つきをしていた。毎日仕事の合間に様子を見に行ったが、日に日にやつれていく姿は胸が締め付けられた。「一体何が妻の身体に起こっているのだろうか、どうして自分がこんな目にあうのか」気持ちが瞬間瞬間交互に襲ってきて苦しかった。
思えばドクターから成育歴を尋ねられ、全く幼い頃の記憶がなかった妻。その日から益々(ますます)豹変(ひょうへん)して僕に暴言を吐いたり、暴力をふるった。実家にいた時の自分が思い出せないなんて、こんなことって実際あるのか。信じられなかった。もう何がなんだか分からなかった。追い詰められた生活は、いつしか僕の夢や未来をも奪った。眠れない夜、妻への対応、過酷な勤務に休まらずボロボロになった。
「離婚したらええよ。あんたのそんなしんどそうな顔を見てられんわ」
何度も父母から言われた。「もう死んでしまいたい」と思うくらい精神が困窮していた。でも、絶対につぶれたくなかった。僕は筋金入りのへそ曲がりで頑固者だったのだ。傷付いても、とにかく妻が言いたいことを聞いてやろうと決心した。このまま離婚することは容易(たやす)い。でもどうしても妻を実家に戻すことは危険すぎる。遠のく理性と意識を必死で呼び戻し、頭を働かせた。
健忘(記憶が抜ける)、失声(声が出ない)、失歩(動けない)、人格交代……これらは心的外傷により心身のバランスが崩れ、記憶や体験がバラバラになる解離性同一性障害という二次障害だと分かった。さらに詳しく診察してもらって、父親から虐待を受けていたことも判明した。その他に断片的ではあるものの、母が自分に包丁を突きつけて暴れるのをびくびくしながら見て過ごしたようだ。学校では友人もなくいじめられ、常に孤独で自分を押し殺して生きてきたと話してくれた。そして、妻は障がい者として認定され障害年金の申請をした。投薬治療と福祉施設で支援を受けることになった。自動車の免許も返却することになった。結婚から三年にしてようやく本当のスタートラインに立てた気がした。

四.支援の日々

「これから奥さんは、今までの倍かかって自分を取り戻す作業に入ります。旦那さんにとっては辛(つら)いと思います。でも彼女はあなたに出会えたことで、間違いなく幸せに向かっているのよ」
先生の言ったとおり、僕にとって初めて味わう苦しい時間だった。次々と起こる予期せぬ妻の行動。もちろん解離症状も続いたし、発達障害の特性もあらわに姿を現した。仕事に出掛(か)けようとすると、
「もうこんな汚れた体きらいや!」
と窓から飛び降りようとした。仕事が終わっても仮眠もとれず、僕の精神もまた不安定になっていった。寒い雪の降る晩、車の中で寝たことも度々だった。
「お前らが悪いんや。前から助けてくれって頼んでいたのに無視しやがって。産みたくないのに産まれた子やって?ほんなら私はどうして生きていったらいいんさ?」
僕に向かって毎回叫びながら、フライパンで殴ってきた。一人で抱え込むのはもう限界だった。
「ええ加減にしろ。障がいだか病気だか知らんわ!もう面倒見切れん。そんなに生活をめちゃめちゃにしたいなら、実家に帰れ!」
耐えられなくなり言い放ってしまった。それは、本来口に出すべきでない言葉だったから、自分がどれだけギリギリな状態でいるか悟った。
「ショートステイを使って旦那さんも休んでください。支える側が倒れてしまっては、奥さんを守ってあげられませんよ」
通所先の施設長さんが短期入所の利用を薦めてくれた。月に十日間ほど施設に預け、何とか休息をとることができ、最悪の事態は免れた。そして、定期的に面談を受け、支援機関の利用、ドクターとの連携、友人や両親への相談を経て、段々(だんだん)と一人で抱え込まないでおこうと思うことができた。その時分になると、僕の両親は妻の障がいについて勉強してくれて、僕には励ましの言葉をかけ、妻には自分の娘であるかのごとく身の回りの面倒をみてくれた。嫁としては不満だらけなのに、家族として受け入れようとしてくれていることが嬉(うれ)しかった。それは確実に妻にも伝わっていて、父が倒れて入院した時は、体調が悪いのにずっと付き添ってくれた。母にはよく手縫いの小物をわざわざ夜なべしてこしらえ、プレゼントした。

五.本当のあなた

辛い日々は、僕たちを取り巻く人々の支援もあって、徐々に妻の身に良い兆しをもたらした。まず目に見えた変化が、「ふとった」。実家との関係が絶たれて、施設に通い始めた途端に衣服が着られなくなってしまった。「ふとった」と思ったが、調べてみると骨格から成長していたのだ。これにはものすごく驚いた。二十歳を超えてようやく大人服を購入し、表情も幼く無邪気に笑うようになった。施設では友達もできて、毎日寝坊することなく楽しく通っている。フェルトで人形を作ったり、看板のイラストを描いたり、野菜を切ったりしているらしい。後片付けができないので、少し腹も立つが、自宅でも施設で学んだことを生かして野菜を干してみたり、梅酒を漬けたりと披露してくれる。また、小さい時から夢だったプランター栽培(水やりはよく忘れるが)や、私の友人からギターを教わったり、趣味に目覚めている。驚くことに、大好きなバンドのコンサートを聴きに行きたいと、横浜や神戸まで一人で旅行することもあり活発になった。
それでも、突然ふと流れた生ごみの匂いで実家を思い出し、テレビのニュースで地元の事が報道されると取り乱し暴れる。うまく進行しているかの毎日が、突如「過去」によってかき乱され崩壊する。その繰り返しの中、僕たちは生きている。
「私、京都に来て生まれ変わったやろ?」
「ほんまやな、別人やな」
「マアチャン(妻が考えた生まれ変わった後の名前)、今六歳くらいやねん」
「六歳はええねんけど、洗濯と掃除、買い物くらいはしてくださいよ。六歳にやらしたら児童虐待になるか?」
最近は少々どぎつい冗談も言えるようになってきた。日々見えない妻の中にある闇とのせめぎあいの中、着実に前進していると信じている。失われた時間と受けた傷は絶対に完治することはない。そして、その憤る思いを特定の人間にぶつけることで妻が救われるわけではない。僕たちはこれからももがきながら、しっかりと幸せを掴(つか)めるように歩んでいきたい。あきらめかけていた夢に向かって、何度もゆっくり確認しあいながら近づいていく。

田島 尚プロフィール

一九八一年生まれ 介護士 京都府在住

受賞のことば

結婚してから、六年余り……。孤独に妻の過去と障がいに向き合ってきました。信じられない出来事にも乗り越えてこられたのは、福祉機関や友人、家族のおかげです。この賞を機に、二人で手作り雑貨のお店をしようと決めました。まだまだ、妻の心の中にある苦しみと闘わねばいけない日もありますが、この私たちの記録が少しでも多くの方に知って頂き、心を動かすことができれば幸いです。

選評

結婚直後に分かった妻の障害。そして明らかになる、過去の重い体験と向き合った日々。「自分なら何ができる?」自問しながら、一気に読みました。壮絶な記録ですが、根底にあふれる妻への愛情、妻のことを丸ごと理解したいという強い気持ちが胸を打ちます。これまでの人生の倍の時間をかけて、自分を取り戻す……困難な作業ですが、作品の後半に灯った希望の光が、これからも育っていくことを切に願います。(佐藤 高彰)

以上