第52回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「知るということは強みになる」

著者 : 矢野 三代子 (やの みよこ)  愛媛県

思い返せば、症状は高校生の時から出ていた。私が通っていた高校は、教訓が「鍛える」というだけあって、体育は特に厳しかった。記憶にあるのが、千メートル走という、クラスみんなで走ったタイムの平均値が四分三十秒を切るまで終わらないという授業だ。最初は普通に皆についていけるのに、途中からついていけなくなる。自分の意志とは関係なく、足が遅れてついてくるような感覚だった。初めから先頭の方を走っていても、後半になると後ろの方を走っている。そのせいで、周りには怠けているように見えていたようだ。先生に
「お前みたいなやつがいるから、周りが迷惑する」
と竹刀で叩(たた)かれた。当時の体育の授業では、出来ない生徒を竹刀で叩くというのが普通だった。悔しくて、私は学校が終わると一人走る練習をしていた。みんなに迷惑かけたくない、教師に怒られたくないという一心で、ただただ走った。何でだろう?とは思ってはいたが、大変な病気を抱えているとは全く頭になく、ただ、自分が運動音痴だからいけないんだと思っていた。体育教師には、次第に目をつけられるようになっていた。私が転倒すると竹刀で叩き、わざわざ大声でみんなに聞こえるように罵倒した。
「いいか?俺は、お前みたいな走れるのに走ろうとしない奴(やつ)が嫌いだ!だから、俺がお前の根性を鍛えてやる」
足が思うようについてこないんです。と、どんなに説明しても、甘えだ!と一喝された。恐怖でしかなかった。体育のある日は、吐き気と頭痛が酷(ひど)かった。体調が悪く、休みたいと申し出ても、嘘(うそ)をつくな!と頭ごなしに叱られた。お尻には再再アザが出来るようになっていた。今でいう、体罰だと思うが、当時はそれが普通だった。そんな高校生活を送り卒業。私はタオル会社に就職した。
勤めだした頃は、特に何事も無く仕事もしていたのだが、勤めて三年ほど経った頃、違和感を覚えるようになった。重たいものを運ぼうとすると、手の力が急に抜けて落とす。歩くと、何も無いところでつまずくようになったり、何かしたわけでもないのに、筋肉痛が頻繁におこるようになっていた。明らかに変だ、と思うようになり、親にも相談したが、深くは考えてくれず受け流された。親もまさか、私が大変な病気を抱えているとは思わなかったのだろう。そんな違和感を持ちながら、仕事を続けていた時に、仲が良かった職場の人が
「一度、病院で診てもらったら?」
と言ってきた。確かに、このままではいけないなと、病院で診てもらうことにした。だが、どこの病院も首をかしげるだけで、様子を見ましょうとしか言われなかった。原因が分からないまま、一年がすぎた。その頃から、職場では年上の同僚の人たちに絡まれるようになった。高校の時同様、怠けていると思われたようだ。ゴミ箱のゴミをぶつけてきたり、トイレに行くと囲まれてネチネチと言われた。雑巾を絞った水をかけられたこともあった。次第に、仲が良かった人たちも離れていった。母に辞めたいと漏らしたが、人間関係はどこでもあるから頑張りなさい、と言われた。味方がいないと感じ、辛(つら)かった。そんな時、当時付き合っていた彼にプロポーズされ、私は逃げるように寿退職した。結婚して半年経った頃、私の事を診てくれる病院が見つかり、母と一緒に広島の病院へ向かった。詳しく調べるため、そのまま検査入院をする事になった。検査を終えた夜、主治医に呼ばれた。忘れもしない、二〇〇二年六月。その日、私は私でなくなった。
「貴女(あなた)の病名は遠位型ミオパチーというもので、この病気は進行性の筋肉が溶ける難病です。今現在の医学では治療法がなく、やがて寝たきりになります」
淡々と病名を話す主治医の言葉が、まるで何かの暗号のように聞こえ、右の耳から左の耳へと流れていった。多少なりとも覚悟は決めてはいた。だが、自分が思っているよりも現実は残酷で、一瞬で私の小さな覚悟を壊した。その後、主治医が何を話していたのか記憶にない。目は開いてはいるが、耳は閉ざしていた。ジメジメする小さな部屋で、主治医の話を母と兄が黙って聞いていた。その夜、消灯時間が過ぎた部屋で、私は一人声を殺して泣いた。
次の日の朝、県外から来ていた母は家に帰り、代わりに兄が杖をつきながらお見舞いに来てくれた。小さな覚悟だったけど、少しでも落ち着いて最初に聞けたのは、兄がそばにいてくれたからだ。兄もまた、私と同じ病気に数年前から侵されていた。同じ病気の兄と話すことで、少しずつ気持ちが落ち着いていった。帰り際、
「これを読んで元気を出せ」
と、兄が一冊の本を渡してきた。中を開けると、幽霊の女性が出てくるようなホラー系だった。
「余計に落ち込むわ!」
と突っ込む私を見て、兄はニヤリと笑った。兄なりの励ましだったのだろう。私二十三歳、兄三十歳の夏。私達は兄妹(きょうだい)という絆の他に、共に病気と闘う友となった。
一か月後、私は退院し、地元愛媛に帰った。仕事が忙しくて見舞いに来られなかった主人に、病気のことを詳しく話した。私は、一緒に頑張ろうと言ってくれるとてっきり思っていた。だが、現実はそんなに甘くはなく、病気を知ってからの主人とは、すれ違うことが多くなっていった。夫婦の歯車が噛(か)み合わなくなり音を立てて崩れていく。喧嘩(けんか)が多くなり、私は精神的に追いつめられていき狂いだしていた。リストカットに、睡眠薬、精神安定剤の大量服用。自殺未遂で救急車で運ばれたこともあった。
「もう、俺たち終わりにしよう」
一年間の夫婦生活。終わりはあっけなかった。
家を出て実家には戻らず、必死で仕事を探し、何とか職につくことは出来たが、暮らしは厳しかった。離婚して二か月すぎた頃、どこで聞いたのか知らないが、私の家を知人の男が訪ねてきた。最初は、少し話をしたら帰る、の繰り返しだった。気がつけば、家に居座る時間が増えていき、男の荷物が一つ、一つと増えていった。男の父親と、私の母親がいとこで前から知っていたし、気が合う仲でもあった。男は幼少期から複雑な家庭環境で育っていたので、どうやら逃げる場所求めて私の家に避難してきたようだ。後の主人である。こうして、離婚した女と、逃げてきた男の奇妙な同居生活が始まった。
働き出して何か月か過ぎた頃、頻繁に転倒するようになった。最初は職場の人も笑っていたが、さすがに一日に何度も転倒していたからおかしいと思ったようだ。仕事終わりに上司に呼び出され、何か隠してないか?と尋ねられた。ああ、もう隠しきれないなと思った私は、病気のことを全て話した。隠していたことを詫(わ)びたうえで、もう少し働かせてほしいと願い出たが、あっさり拒否された。私は辞めるしかなくなった。
無職になった私は、次の日から杖をつきながら新しい職場を探した。何回も何回も面接をしたが、杖をついている私を見るなり
「悪いけど健康な人じゃないとね」
「病気を治すのが先じゃないの?」
と。面接もせずに見た目だけで、お帰りくださいと門前払いもされたりした。分かってはいた。分かってはいたが、悔しかった。悔しくて、悔しくて、人の目を気にせず涙を流した。健常者から障害者になって、初めて障害を抱えると、こんなにも生きづらいのかと思い知らされた。当時、住み着いてきた頃の男は私が支えていたが、次第に経済面でも精神面でも私を支えてくれるようになっていた。
面接を何十回とした頃に、母が見つけてきたフェリー乗り場の窓口の面接をすることになった。どうせまた、同じ扱いされるんだろうなと思っていたのだが、社長の息子さんも足に障害があり、私の気持ちを理解してくれた。私は、再び働くことが出来るようになった。
働き出して二年が過ぎた頃、恐れていた事がおこるようになっていた。いくら社長が許しても、職場の人や客は、私が障害者だろうと知ったことではないのだ。どんなに早く出社しても、普通の人と同じ動きが出来ない。痺(しび)れを切らせた客が私に怒鳴(どな)る。
「ああ!もう!障害者は障害者らしく家で寝てろよ!迷惑なんだよ!」
「すみません。すみません」
急ごうと思っても、体が動かない。職場の人は何も言わないが、突き刺さる視線が何を言いたいのか想像出来た。限界だった。その一か月後、私は辞めることを選んだ。
働くことが出来なくなった私は、実家に帰ろうと決意し、彼に別れを告げることにした。
しかし、彼はあっけらかんとしていた。
「じゃあ、結婚したらええやん?」
と。
「いや、意味がわからん?付き合うのはええとして、私、進行性の難病持ってるんだけど?」
「だから?」
「将来寝たきりになるんだよ?治療法もないし」
「だから?それが何の関係がある?」
何も考えてなくての発言なのか、将来を見据えての発言なのか。あまりにも驚いて分からなかったけど、私は彼の提案を受け入れ甘えることにした。同棲(どうせい)して三年。私は二十七歳、彼は二十二歳だった。
再婚したからといって、生活は出来ても、心が安定したわけではなかった。日に日に出来なくなることが増えていき、それと同時に私の心も不安定になっていった。杖をついて歩けていたのに、杖をついてバランスをとることすら難しい。一歩足を出そうにも、怖くて足がすくむ。まるで高い平均台に乗って歩いているような感じだ。集中が途切れると歩けなくなる。家の中で何度も転倒し、その度に身体の傷が増えていった。
その頃の私は、身体の限界がとっくに来ていて、危ないから歩くのをやめなさいと主治医から怒られていた。それでも歩くのをやめなかったのは、動けなくなる自分が怖かったからだ。しかし、そんなことを言っていられない決断の日は来た。
その日は、真夏日だった。いつものように、時間をかけてトイレに行っていた時に、バランスを崩し大きく転倒してしまった。その時に運悪く、扉と壁の間に頭を挟んでしまい、身動きがとれなくなってしまった。なんとか座ろうと試みたけど、どんどん頭が沈み首が曲がっていく。何かあった時に助けが呼べるように首にぶら下げていた携帯も、転んだ拍子にどこかに飛んでいった。絶体絶命。恥ずかしかったけど、私は大声で助けを呼んだ。
「すみません。誰か?誰かいませんか?」
叫び続けること一時間。隣の人が異変に気づき、家に来て私を見つけてくれた。おかげで救急車を呼んでいただき助かることが出来た。そのことがあってから、私の我が儘(まま)で周りに迷惑をかけてはダメだと思い、私は歩く危険より歩かない安全を選んだ。
車椅子生活になって外出していると、杖をついていた頃よりさらに突き刺さる好奇の目が痛かった。指をさす者、振り返る者、笑う者。まだ、見てるだけの人はよかった。一番嫌だったのは聞こえるような陰口。
「障害者、きもい」
「税金泥棒」
「障害者って働かなくても国が食べさせてくれるんやろ?ずるいよねー」
何でそんなに言われるのか、悲しくて悔しかった。悪口を言われるのが嫌で、外出する回数が減っていった。どこにいても
「お前なんか死んでしまえ」
と言われているように思えた。病んでいった。それからは死にたいと思うことが増えていった。何にも出来ない身体で生きて周りに迷惑をかけて、家族に負担かけて、私は何がしたいんだ?と。
「なんで?なんで?なんで?」
毎日どんなに問いかけても、神様は答えてくれなかった。動かなくなる身体にイラつく私は、次第に主人にあたるようになった。主人も、仕事と両立の介護疲れでイライラするようになり、私達は喧嘩が多くなっていった。ますます生きている意味が分からなくなり、苦しくてもがいていた。
「どうせ私は生きていても仕方がない。死んだ方がマシだ」
毎日そんなことを考えていた時に、問う側から問われる側になる出来事がおこる。
朝方、下腹部の激痛で目が覚めた。下腹部だけではなく、頭痛や吐き気もあり、昼まで耐えていたが我慢出来ずに救急車を呼んだ。小さな病院では対処出来ず、大きな病院で診てもらうことになった。
「急いで。緊急手術の準備して」
看護師や医師がせわしなく走り回っている。どうやら、卵巣が茎捻転(けいねんてん)をおこして壊死しかけているようだ。手術する前に医師から一言。
「この病気の患者さんの手術をしたことが愛媛ではありません。手術中に何がおこるか、こちらも分からないため、覚悟はしてください」
その言葉に、あれほど死にたい、いつ死んでもいいと思っていたのに、いざ、死ぬかもしれないと分かると、生きたいという気持ちが強くなり、怖い、死にたくないと思ってしまった。矛盾しているが、それが私の本音だった。無事に手術は終わったが、以前よりも身体は動かなくなっていた。でも、生きてまたみんなに会えたことが嬉(うれ)しかった。
それからの私は少しではあるが、前向きに物事を捉えられるようになっていた。病気になって、ずっと自分が問う側だと思っていたけど、実は問われる側だった。今でも時々悩むし、沢山(たくさん)泣くけど、そのぶん負けないくらい沢山笑うようにしている。
人はいつか必ず死が来る。それは誰にでも平等におこること。だったら、死ぬ時に私は笑って死にたい。病気になって失ったものは沢山あるけど、病気にならないと気づけなかった事も沢山ある。それは、今あるのが当たり前じゃないということ。私はおかげさまで周りに生かされている。とくに主人に。病気の私と一緒に、昔と変わらず今もいてくれるのだから。主人とは今でも時々喧嘩をするけど、以前のような暗い空気にはならなくなった。きっと私が死にたいと思わなくなったからだろう。それに、私が笑うと主人も嬉しそうだ。だから私は、支えてくれる親、兄弟、親戚、友達、そして私の一番そばで笑ってくれる主人のためにも、明日を生きることを諦めない。やっと見つけた自分の生き方。私は今日から目を見開き、自分に自問自答しながら眼張って今を生きる。

矢野 三代子プロフィール

一九七八年生まれ 無職 愛媛県在住

受賞のことば

この度は数ある作品の中から、私の拙い作品を選んで頂きありがとうございました。
発症してからこれまで、辛い事、悲しい事、沢山経験しました。ですが、経験しなければ今回の作品を書くことも、選ばれることもなかったと思います。辛かった経験は、今の私を沢山成長させてくれました。今後も頂いた賞を励みに、チャレンジ精神と、周りへの感謝の気持ちを忘れず頑張りたいと思います。

選評

次から次へと降りかかる試練としか言いようのない現実。難病という自身の心身の状況を周囲から理解されない状況が続く中で、生きることを止めてしまいたいと思う日々の暮らし。その中でも、ささやかな居場所や理解者を逃すことなく巡っていくうちに、自分らしい生き方を見つけていく姿は、言葉だけの美談に留まらずそのリアリティーに圧倒される。どのような状況でも人は希望を持つことができるということを示してくれる。(北岡 賢剛)

以上