第52回NHK障害福祉賞 矢野賞
〜第1部門〜
「補装具といつまでも」

著者 : 奥津 博士 (おくつ ひろし)  北海道

二歳の時に北海道全域を襲ったポリオの大流行により私は発病した。ポリオとわかった時の病状は全身麻痺(まひ)、医師は「長くて五年、運よく命が助かったとしても全身麻痺の後遺症は一生残るでしょう」と診断したことを母から聞いた。
私が小児マヒと診断された時の母は二十六歳、私の回復だけを願って毎日片道六キロ程先にある旭川日赤病院へ通い続けていた。当時の小児マヒ治療はルンバールという薬液を脊髄に注射する方法がとられていたが、その激しさに母子とも疲れ、家に帰る途中の橋の上から何度身を投げようと思ったかと言う。こんな潰されそうな精神状況の母を救ったのは、ねんねこに包まれて母の背中で眠っていた私が目を覚まして言った「お母さんおなかがすいたよ」だったという。「お前が悪いわけじゃない、父さんや母さんに責任があったわけでもない。小児マヒにかかったたくさんの子供達が亡くなっているのにお前は頑張っている。『身体が動くようになるのなら僕、注射を我慢するから』と病院を嫌がらず、泣きわめき、うんち、おしっこを垂れ流して頑張っているお前の命を私の手で奪うことなんかできない。母さんが絶対にお前を治して見せるから」と約束したことを母は話をしてくれた。障害を持った子供を育てる大変さなどおくびにも見せなかった母が何故(なぜ)わざわざこの話をしたのか忘れてしまったが、たぶん話のきっかけは私が障害のことで母を責めたことではないかと思っている。しかし鬼籍に入った母に、話の始まりが何であったか聞くことはもう出来なくなってしまった。

私と補装具

膝に力が入らないという障害を残す私の右膝下肢補装具は、歩く時には膝部分についている留め金具を使って真っ直(す)ぐにし、自転車に乗る時や椅子に座るときなど膝を曲げる時は留め金具を外して使う。真っ直ぐ伸ばして使うか、ぶらぶら曲げて使うかだけの、いたって簡単な機能になっている。足自体は、自分の足から型とりして作った半身型の補装具に足を納めて、ベルトで足と補装具が外れないように装着する、言うならば前開きのブーツに足を入れてブーツの前を編み上げる構造に似ている。
この補装具の機能が完成されたもので改良する余地がないのかどうかわからないが、私の覚えている限り、六、七歳の頃から現在に至るまで機能上の改良は殆(ほとんど)どされていない。改良されたと言えば、支柱などの部材が鉄製からアルミ軽合金に変わり軽量化が図られたくらいだろうか。ただ何十年も使っていると三キロの補装具が二・五キロに変わったとしてもさほど気にならないし、逆に補装具が壊れるのを防ぐために少々重たい部材を使って重くなった所で気にならないのが私の実感だ。
私達(たち)の使っている補装具を自治体の補助で作るためには、三年に一度、現在使っているものと同じ物を申請することで作ることが出来る。三年ごとの作り直しは、足の変形や各部材の劣化などを考慮してのことだろうが、堅い補装具の中の足はいつまでも成長が妨げられたままなので、カニが脱皮して大きくなるようなことはなく、私の足は今でも細いままだ。
実際に補装具を使ってみて、「ここの部分をこうしたい」「このパーツは取ってしまいたい」「こうした方が便利なのではないか」などと構造上の変化を希望する時は、医師の診断書が必要になる。実際に三年が経って自分の意見を入れた診断書を提出して新しい構造の補装具が出来たとして、実際に使ってみたものの不具合を生じ「以前の補装具に戻したい」と言っても、また三年間待たなくてはならない。こうしたことから、いつまでも現状のままの補装具を使い続けている障害者が多いように思われる。
先日のリオパラリンピツクを観戦しているとき、義足のアスリート達が使う装具に目を見張った。アスリート達の希望と研究者の知恵と装具士の技術、三者が協力し合って走るための補装具が進化して世界的な記録が作られていくのだと思う。私のように特にアスリートでない障害者が、何かの趣味や一部の生活にのみ必要な補装具を申請して作ってもらうことが出来たなら、障害者の日々の生活がもっと楽しくなるのではないかと思っている。

水泳用の補装具

娘が小学三年生の時に
「お父さんはトンカチ足だから水泳は出来ないって本当?」
と聞かれたことがあった。
「トンカチなんて言葉、よく知っているねぇ」
と答えにならない返事をすると
「お友達がね、妙(たえ)ちゃんのお父さんは足が鉄で出来ているから、トンカチみたいにボコボコって沈むって言うの。お父さん、本当に沈んじゃう?」
と真剣だ。
夏になると私は短パンで過ごすことが多い。それを遠目に見た子供が娘に言ったことだろうと思った。なぜなら我が家に遊びに来る子供達の多くが最初、私の足を見て「おじさん触っても良い?」「本物の足が入っているの?」「痛くないの?」などと質問して納得しているからだ。勿論(もちろん)、私の子供達(たち)は幼いころから見慣れた父の短パン姿に「足を隠す長ズボンを履いてよ」とか「その格好で外に出ないで」と言ったことはない。
何故、私が短パンを履いているかと言うと、「『あいつ、足ないんだぞ』そんなでたらめ言われるの嫌でしょう。ちゃんと足は有るよって、膝に力がないから補装具をつけて歩いているだけって見せてやりなさい。足を隠したからって障害者じゃなくなるわけではないでしょう」、大らかだが芯の強い母親の子育て方針で、市井の人が暑い夏には半袖、短パンで過ごすように、私も半袖、短パンスタイルが当たり前になっていた。
「そうだね、ねえちゃんの学校にあるプールなら四往復は泳げるかな」
「えっほんと。じゃ今度泳いでみせて」
と目を輝かせた。
私は小学校を卒業する頃まで自己流ながら平泳ぎで四、五十メートル程は泳ぐことができた。ただ泳げるのは平泳ぎだけで何としてもクロールの息継ぎは今でも出来ない。
昭和三十年代の北海道のプールと言えば、夏場の僅かな期間だけ使用する、屋根も塀もついていない屋外に開設されていて、目や鼻が痛くなるほどの消毒液を注ぎ込んだ水にチョウチョやトンボなどの溺れた虫達と一緒に芋の子を洗うように遊んでいた。
昭和三十年代後半になるとプールの衛生管理が強化され、入口には「泳ぐ前には必ずシャワーを浴び、頭から足先まできちっと身体を洗うこと」「消毒液にしっかり浸(つ)かってからプールに入ること」などの注意書きが貼りだされ、補装具の一部に革を使っていた私はシャワーを浴びることも消毒液の中を歩くことも出来なくなり水泳からは遠のいた。
「よし、今度一緒に行こう」
と言ったものの、娘の話では、シャワーを浴び、消毒液に足を浸けるルールは変わっていないようだ。私は一計を案じて古い補装具の革部分をすべて取り除き、鉄の支柱だけの補装具を作ってみた。装着は皮のベルトではなく強力で幅の広い面ファスナーを使って、大腿部、足首そして膝を固定した。足全体を包むしっかりとした安心感はないが、ある程度の距離ならば十分歩くことが出来そうなので、面ファスナーが水の中で外れないか自宅の風呂で試してみることにした。
今までは補装具を外し衣服を脱いで膝を押さえながら洗い場に入るか、浴室入口から這(は)って洗い場に入っていたが、小さな風呂場とはいえ段差のある浴室で前を隠して立っている自分が随分と嬉(うれ)しかったのを覚えている。勿論、面ファスナーに石鹸が付いても弾けることはなく立つことが出来た。
私は初めて保護者としてプールデビューを果たすことができた。更衣室でプール用の補装具に履き替え「いざ出発」。子供達にいろいろと教えられながらシャワーを浴びて、消毒液に足をつけてプールサイドへ。準備運動をして子供達に続いてプールに入ろうとした時、女性の監視員が小さくホイッスルを数回鳴らして近づいてきた。
「プールに入る時、それをつけたままですか」
と補装具を指差した。
「はい、これは補装具と言って歩くために必要なものです」
「プール内に水泳用具以外の物を入れることはできないのですが」
「これがないと水の中で立つことも歩くことも出来なくなりますので」
「今までもその足をつけてプール内に入っていましたか」
「はい、ここのプールは初めてですが、以前住んでいたプールではいつも使っていました」
「少しお待ちください」
監視員は少し急ぎ足で監視員室へ入って行った。
「お父さんどうしたの」
子供達が不安そうにプールの中から聞いた。
「なんでもないよ、ちょっと遊んでいて。直ぐ終わるから」
子供達は私をうかがいながらも二人で遊び始めると、兄に水をかけられて逃げ回る妹の声がプール内に響いた。
監視員室の大きな窓から数人の視線を感じながら私は監視員が戻ってくるのを待った。
「状況が分かりましたのでそのままプールに入ってください。ただ、泳いでいる人の皮膚はとても柔らかくなっていますので、くれぐれも他のお客さんと接触などしないように注意してください」
と許可がおりた。
確かにそうだ。何時間も水につかった肌はふやけているに違いないし、子供のやわ肌だ、私は周りで泳ぐ子供達と一番近いわが子に注意を払って一緒に水遊びをすることができた。ただ、何十年ぶりの水泳は思った以上に泳ぐことができず、力泳二十五メートルには程遠く、十メートルほど泳いだところでギブアップ。本当はまだまだ泳げるぞという態度でプールに立って
「どうだい、ちゃんと泳げるだろう」
と娘を安心させたものだった。

温泉と補装具

支柱だけの補装具が水に強いと分かってからは、今まで会社の旅行などで入ることのなかった温泉大浴場に行くことが出来るようになり、仲間たちと裸のつき合いを楽しむことが出来るようになった。温泉でのつき合いがこんなに楽しいものなら、学生時代にこの支柱だけの補装具があればどんなにか大学生活をエンジョイすることが出来ただろうか思うと非常に残念でならない。
ある年の観楓会(かんぷうかい)(紅葉狩り)、露天風呂で「温泉に入れるのも、この水泳用補装具のおかげですよ」などとのんびり話をしていると「宴会の準備が整いましたので、至急大広間にお集まりください」と館内放送が流れ、慌てて風呂から上がり、部屋に置いてあった通常の補装具に取り換えることなく水泳用補装具の水をさっと拭いただけで浴衣を羽織って宴会に参加した。
楽しい宴会が続く中で後輩の一人が
「奥津さん、ケツから血でてないですか」
と耳元で囁(ささや)いた。見ると浴衣の右半分が赤黒く、まるで血が滴ったかのように見える。驚いて浴衣の中をのぞくと、鉄製の支柱が赤黒く変色してさびが浴衣に染み出していた。原因は、強烈な温泉成分が補装具の支柱を錆びさせたものと思われた。
浴衣と座布団を汚したことをカウンターで説明すると支配人が
「うちの温泉は酸性度が強いので、指輪やネックレス、イヤリング等の変色を注意する看板は出ているのですが……補装具等は書いてなくご迷惑をかけました。補装具の弁償は如何(いか)ほどお支払いすれば」
と言われ、自分が犯したミスなので、こちらこそ浴衣と座布団の弁償させてくださいと謝った。
先日、家族でこの温泉に行った時、風呂の注意書きに「補装具などの金属も変化することがあります」と書かれた看板が、ネックレス、指輪の注意書きと肩を並べて出されていた。

補装具壊れる

補装具の左右の支柱を後ろ側でつないでいる半月板(はんげつばん)と呼ばれる薄い鉄の部材が折れることがある。歩くたびに前に出ようとする膝小僧が補装具の前側にある膝あてベルトで押さえつけられているため、歩くたびに膝にかかる体重と同じ力が反対方向の半月板にかかって折れてしまうので仕方がない。歩いているときに、なんとも表現ができない「グニュ」といった感じで膝が抜けた時が、半月板が折れた時だ。やられたことはないが、子供のころに立っている友達の後ろから近づいて膝を裏からポンと前へ押し出す遊び「ひざかっくん」をされた時のようなものかもしれない。
半月板が折れるのは突然ではなく、半月板の何処(どこ)かに僅かなひびが入り始めると、歩いているときに違和感を感じる。それは左右の足に違った靴下を履いて歩いているようなもので、「あれ、何かいつもと違うぞ」といった感じに似ている。
歩いているときに半月板が折れたからといって、決して人が骨折した時のように激痛が走るわけではなく、ただ折れた時から歩けなくなってしまうだけだ。無理をして膝を押さえると少しは移動が可能なのだが、無理をすると関節部分にゆがみを生じて修理が不可能になってしまう。
こんな大変な経験を何度も繰り返していながら、予備の補装具は準備していなかった。予備の補装具は自治体の補助対象ではないので、自費で補装具を作ることになるとその金額はかなり高かった。
古い補装具を予備として使えば良いのだが、三年間も使った補装具はボロボロ、ガタガタで予備として使える代物ではない。
破損した箇所は溶接するか補強板をあてるなどして修理をするが、溶接の場合は溶接した箇所の近くから、補強板をあてたものは補強板を取りつけたビス穴から、再び亀裂が入りまた折れてしまう。
「君は本当に元気だねえ。一週間に二度も修理にもってきた子は君だけだ」
と補装具屋さんに笑われたものだった。
補装具の突然の破損で本当に困ったのは就職してからだった。職場内で折れるのはまだ良いのだが、仕事先などで折れると身動きが取れなくなる。
「補装具が折れて歩けなくなりました」
と説明すると一様に皆さん心配して
「では本日の打ち合わせは後日にしましょう。今度は折れないように直してください」
等と言ってくれるが、貴重な時間を調整している相手方の内心は言葉と裏腹に甘いものではなく、打合せが中止になったと職場に電話すると担当者を代えて対応していると言われたこともあった。どんなに注意はしていても、突然襲ってくる補装具の折れに対するストレスはとても大きかった。

補装具と地肌の戦い

私の場合、補装具は地肌に直接装着することはなく薄い肌着を履いているが、汗ばむ季節になると補装具と地肌がすれて傷になる。家や会社内で痛みを感じると直ぐに絆創膏(ばんそうこう)やハンカチで養生をするのだが、外を歩いているときなどは座ってズボンを下げることのできる場所を探さなくてはならない。今はコンビニやデパートに洋式トイレが普及したので便座の蓋に座って処置が簡単にできるようになった。まして車椅子が使える多目的トイレの普及はつくづくありがたい時代になったものだと思っている。
傷は小さな水ぶくれが更に擦れて大きな水ぶくれになり、水ぶくれが破れて血が滲(にじ)むようになると、ハンカチ一枚では擦れた傷口の痛みに効果はない。処置としては少し荒っぽいのだが、傷に直接バンテージテープを貼り付ける、傷を覆うのではなく、傷の上に一枚人工の皮膚ができた状態にするのが一番良いと長年の経験で知っている。ただし、私のように傷に強い体質でないとできない方法で、傷に強い化膿知らずの身体をくれた母親に感謝している。
こうして私を支えている補装具と素肌との激しい戦いは日々繰り返され、補装具、義手、義足などが素肌と直援接触する者の共通の苦しみであり、それぞれの状態に合わせて上手に処置している。

補装具は二十四時間装着

私の歩行をサポートしている補装具は、昼間ばかりではなく夜間も深夜トイレに起きた時にも行動をサポートしてくれる。しかし夜になり夕食が終わると、煩わしく窮屈な補装具は直ぐに外すのが常だった。小学生のころの私は補装具を外すと我が家の我がまま王子に大変身。「それ取って」「あれ持ってきて」「お水ちょうだい」と親や兄に頼めばすべてのことがいながらにして解決していた。
私が二十四時間補装具をつけて寝るようになったのは、結婚して長男が生まれ長女が生まれて間もない時に起きた水害事故からだ。その夜、大雨によって天井裏に雨水が少しずつ溜(た)まり、私達が寝ている部屋の天井が水の重さで突然壊れ、滝のように流れて私達を襲ってきた。泣き叫ぶ長男とぐっすり寝ている娘を連れ出すにも私は補装具をつけていない、妻が長男を背負い娘を脇に抱えて安全な場所に運びだした後で私を迎えに来たときは、まだ暗い部屋の中で補装具を探している有様(ありさま)だった。
補装具を外して寝ていては、何かあっても妻や家族は勿論、自分の身も守ることも出来ないと深く反省し、補装具をつけて寝るようになった。

補装具空を飛ぶ

補装具をつけていると、飛行機に乗るときの保安検査で金属探知機がいつも「ピー」と警告音をたてる。事前に小銭や時計等の金属類は身体から外していて探知機が反応するのは補装具だけなので、検査機の前で
「私は補装具をつけていますので必ず反応しますから」
と自己申告していても
「ゆっくりでよいですからお通りください」
と言うばかり。ピー音を聞きながら検査官の前へ進んで携帯用の金属探知機で全身の検査が終わると、次はボディタッチ検査。
「足を触っていいですか」
と言われるが断る理由などない。
結果は勿論OKなのだがなんとも後味が悪い。
飛行機の安全上仕方がないとしても、最初から金属製の補装具をつけていることを申告しているのだから、無理に固定式金属探知機を通させて「ピー、このお客さん何か危険なものを持っているかもしれませんよ」と検査場関係者に教えなくてもよいのではないだろうか。持ち込んではいけない物を身につけて搭乗するのだから特別の検査を受けなくてはならないことを十分理解しているが、楽しい旅行の始まりをもう少しスムーズで快適に保安検査を通過する良い検査方法はないのだろうか。
外国の空港に有る探知機自体が回転する保安検査では、一度も警告音が鳴ったことはない。人を丸見えにするとプライパシーが問題にされているが、私としては早めの導入を希望している。

補装具との別れ

知り合いの葬儀に参列して帰ってくると
「貴方(あなた)が亡くなった時、柩(ひつぎ)に何を入れて欲しい?」
と妻が唐突に聞いた。母の納棺のとき、愛用の品を慌てて準備したことを思い出したのだと言う。
「そうだなあ、時間がありそうな世界だから、高校生の時から何度も挑戦して何度も中途で終わっている『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』を入れてもらうかな。今度こそ読み終えるから。本は二冊とも二階の本箱に有るから」
と笑って答えた。
「足はどうするの。鉄製だから絶対に柩に入れる許可でないよ。お母さんの時も眼鏡はダメですって言われて、孫達が眼鏡の絵を書いて入れたでしょう」
「随分とシビアな話だね」
「そう言えば、ネットで納棺用の木製補装具や杖が売っていたわよ」
「おいおい、俺って死んでからも障害者のままなのかい」
「……」
珍しく妻は無言だった。
「そう言えば、この前読んだ長田弘(おさだ ひろし)さんの詩に『病に苦しんでなくなった母は死んで、また元気になった』という一節があったけど、俺もこの詩に同感だ。きっと小児マヒにかかる前の身体に戻れると思う。そう考えたほうが精神的には気が楽だ。身体障害者手帳を柩に入れられるなんてまっぴらだよ」
「それは助かるわ。後からゆっくり行く私を元気に迎えに来てもらわないといけないから」
「うーん。やはり俺が先か」
「当たりまえ、私は貴方より三つも若いのよ」
私は間もなく古希を迎える。これからの五年、十年で、コンピューターの発展がどのような補装具を開発してくれるか本当に楽しみだ。五年の命を守ってくれた両親と家族、今の私を支えてくれる妻と右膝用下肢補装具に感謝して、私はまだまだ歩き続けていく。

出典:長田弘『花をもって、会いにゆく』

奥津 博士プロフィール

一九四九年生まれ 無職 北海道在住

受賞のことば

補装具を着けて歩き始めた家の周りは団塊の世代と呼ばれる腕白坊主が溢れ、かくれんぼ、缶蹴り、雪合戦にソリ遊びと多少参加制限は有ったのだろうが良く遊んでくれた。したがって補装具なしに外に行けない私と補装具のつき合いは長く既に半世紀を大きく超えてしまった。今の生活は「少し甘え過ぎかな」と反省しながらも妻に頼り切りで歩いている。今回このような賞を頂き私達の二人三脚に励みが付きました。ありがとうございます。

選評

右膝下肢補装具。この見なれない聞きなれない装具と小児マヒの奥津さんは七十年近くつきあってきた。作品では、数々のエピソードが淡々と書かれている。しかし、時にユーモラスに描かれるエピソードの一つ一つには、決して受け流すことができない深いメッセージが込められている。「突然襲ってくる補装具の折れに対するストレス」や「補装具と素肌との激しい戦い」などの言葉からは、作者が同じ装具を使う障害者の代表として補装具の改良を強く望む気持ちが伝わってくる。それと同時に、古希を迎える奥津さんが将来、自分の柩に補装具を入れることを拒み、「小児マヒに掛かる前の身体に戻れると思う。そう考えたほうが、精神的には気が楽だ」と語るエピソードが心に響いた。(鈴木 賢一・すずき けんいち)

以上