第52回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第2部門〜
「『おぼろの月』〜ゆうさんと一緒に歌を作る」

著者 : 高木 久美子 (たかぎ くみこ)  愛知県

はじめに

私は子どもの頃から、人に思いを伝える「言葉・言語」にとても興味がありました。通訳・翻訳等、主に外国語に関する仕事やボランティア活動で言葉に関わってきましたが、いつの頃からか、障害があって発話や身体を使った意思表出に困難を持つ方々の思いを伝えるお手伝いができたらと思うようになりました。
偶然、「AJU(えいじぇいゆー)自立の家」という「どんなに重い障害があっても地域社会の中で自立して、地域の人々と豊かに暮らす」という理念の下に作られた施設が市内にあり、全国から見学や体験者も多く受け入れていると知り、ボランティアとして利用者さんと一緒に過ごす中でいろいろ勉強させていただけたらと思いつき、門を叩(たた)きました。
「特に決まった仕事はないのです。あなたが利用者さんのために良いと思うことをやってください」
施設で最初に言われたことはそれだけだったので、車イスを押して散歩に行ったり、身体や言語に障害のある方の買い物に同行して何度も聞きながら品物を選ぶのを手伝ったりから始めました。施設のロビーに置いてあったピアノで季節にちなんだ曲をBGMで弾いていたのがきっかけで、利用者さんと一緒に連弾を楽しむ機会を得られたりもしました。さっそく実践で多くのことを学ぶことができたことは、本当に貴重な経験でした。

ゆうさんとの出会い

施設に通い始めて半年ほど経った頃、スタッフの方から
「今度、自立生活をめざす人のための生活体験室を利用されるALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが来るのですが、介助ボランティアをやってみませんか」
と声をかけられました。四十代の女性で、病気が進行して発話が難しくなっているが、小さな文字盤を指さして意思表示はできるので、頼まれたことをやってくれればよいとのことでした。二〇一四年四月のことです。
願ってもないチャンスだと思い、「ぜひ」とお返事したものの、少しは事前に勉強もしておかなければとALSのことを調べてみると、どこを見ても、「全身の筋肉がやがて動かなくなって寝たきりになり、最後は呼吸筋麻痺(まひ)で死亡」「感覚神経は障害されない」「原因はまだはっきりわからず、治す方法も見つかっていない」という容赦のない説明ばかり。私が会うその人は、どんな思いで毎日を過ごしているのだろう。どう接すればよいのだろう。気楽に引き受けてしまったものの、正直なところだんだん気持ちは重くなってくる。でも、新しい出会いは楽しみ。心が小さく揺れながら、担当する日を迎えました。
指示された個室を訪ねると、車イスに座っていたその女性は、私が自己紹介をすると静かに微笑(ほほえ)んで頷(うなず)いてくれました。聞いていた年齢よりもずっと若く見え、きれいな人。何とお呼びしたらよいかと尋ねると、A五判サイズの手製の五十音表を左手の中指の第二関節で指し、
「名前で呼んで。『ゆう』でいい」
と。了解。ゆうさん。
「では、私も名前の久美子で」
運命的な出会いでした。
何から話し始めたのか今はもう思い出せないほど最初から意気投合し、ゆうさんは文字盤で、私は声で話したのですが、二人で機関銃のごとくおしゃべりをし続けました。ゆうさんがジョークを連発するので私は笑いっぱなし。私も普段(ふだん)の失敗談などいろいろ披露すると、今度はゆうさんが上半身を動かして、ほとんど出ないと言われていた声を出して笑います。私はうれしくなりました。
ふと、そうだ、私は今日は介助ボランティアなのだから何か用事をやらなくてはと、買い物か掃除か、お手伝いすることはありませんかと聞いてみました。ゆうさんが文字盤を指して言いました。真顔でした。
「このまま、おしゃべりしたい。すごく楽しい。こんなふうにおしゃべりに没頭して笑ったのは久しぶり。何年ぶりかな」
おしゃべりするのが何年かぶり……。衝撃でした。私が普段当たり前のように友人としているおしゃべりが、ゆうさんには今は特別なことだなんて。
それから少しずつゆうさんが話してくれました。最初に身体に起こった違和感、ALSと診断され、この後自分の身に起こるであろうことを知った時のこと、進行する症状、面倒を見てくれる家族のこと、友人がだんだん去って行ったこと。
気がつけばなんと午後九時。午後三時の担当開始から、どこにも出かけず、ただ部屋で二人でひたすら話し続けた、あっと言う間の六時間でした。

展望台の誓い

何泊かの体験プログラムを終え、ゆうさんが帰途につく際、私が名古屋駅まで送ることになり、電車の時間には余裕があるとのことだったので、思いついて駅前の超高層ビルの展望台に二人で上ってみました。
眼下に広がる街や遠くの山なみを見ながら、ゆうさんが話してくれました。介護してくれているご両親が高齢になり体力も衰えてきて、介護でお互いケガをする危険性が出てきたこと、精神的にも家族に負っているという部分で自分を責めてしまうこと。そんなことから、公的な支援や専門家の助言を受けながら自立生活に挑戦してみたいと生活体験プログラムを受けたこと。
「すごく仲良しの家族なの。でも私がこんな病気になっちゃって、迷惑かけてる」
私は何も言えず、しばらく二人で黙って目の前の風景を見つめ続けました。ゆうさんがまた文字盤を指しました。
「でもね、久美子さん。私は生きるよ。絶対生き続けてみせる。負けないから」
ゆうさんは強い意志を顔に浮かべて、凛(りん)と、しっかりとしていました。私の方が泣きそうになりながら、答えました。
「そうだね。そうだよ。生きて。応援する!」

揺れる思い

ゆうさんはその後、シェアハウスでの自立生活を始めました。連絡先を交換した私達(たち)はメールのやりとりを始め、私の活動の仲間であるICTボランティアのチームをゆうさんに紹介したり、友人達にもゆうさんに会ってもらったりしました。
「いろいろ刺激が増えて、障害のことも相談できるし、すごくうれしい。みんなとても良い人達だね」
でも、病気は残酷にも確実に進行していきます。
一度尋ねてみたことがあります。
「ごめんね、変な聞き方だけど、やっぱり、一日一日で病状の変化とか、何か違うなと感じる?」
「うん。私のは進行が遅いタイプのALSなんだそうだけど、毎日数ミリとかその何分の一とかその位(くらい)だけど確実に動かない範囲が広がっている。今日できたことが明日できなくなるという不安に押しつぶされそうになるよ」
ゆうさんはそう答えました。
徐々に身体の機能が失われていく中で、自立生活ゆえ何もかも自分で判断し、ヘルパーさんにも的確に指示を出していかないといけない。生活環境や手続き上の折衝など、諸々(もろもろ)が重くのしかかる。何よりも、思いを言葉にできないもどかしさ。それ故(ゆえ)に、時に自分の気持ちを確認されないまま物事が進んでしまい、自分のことなのに自分が置き去りのような感覚の苦しさ。
前向きに病気に負けずがんばっていこうと決意する一方で、止められない病気の進行、死への恐怖、孤独感、絶望感に苛(さいな)まれる。
知り合って一年ぐらい経ったある日、ゆうさんが言いました。
「いろいろな重圧に押しつぶされそうになってね。頑張ろうと思っていてもどうにもならなくて、わーっとなっちゃう時があって、昨日は久しぶりに大泣きしちゃった。でも、もう涙も自分で拭けない」
何と言ってよいかわからない私は、陳腐な質問しか思いつかない。
「夜とかも眠れない?」
「眠れない。ちょっと眠っても、目が覚めるといろいろ思って眠れなくなる。外の薄明かりがカーテン越しに入ってきて、そんなのをじっと見ながら過ごすんだよね」
「揺れるね」
「揺れる。本当に心が揺れる。それでもまた次の日はいつものようにヘルパーさんが来て、介助してくれてバタバタと一日が終わる。合間にけっこう世間話をしてくれるヘルパーさんもいてね。聞くとみんないろいろたいへんだよね。揺れるよね」
「揺れるね。人間だからね」
「みんな揺れてるんだよね。でもやっぱり、どうして自分だけこんな病気になっちゃったんだろうって思うんだよね」
「うん」
「思ってもどうにもならないんだけどね」
「うん」
「うん」しか言えない自分。情けない。

一緒に歌を作ろう

いつも気丈に明るくふるまっているゆうさん。辛(つら)いだろうなとわかっているつもりでしたが、あらためて気持ちを吐露され、本当に胸に迫りました。と同時に、ゆうさんのために何かできないだろうかという思いが私の中に起こりました。話を聞いてくれるだけで気持ちが収まると言ってくれるけど、ゆうさんの励みになること、明日が楽しみになるようなこと、何か私にできることがあるんじゃないか。何か。
そして、歌を一緒に作ろうと思ったのです。
きっかけはありました。
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県名取市にある特別支援学校の生徒さん達に、アメリカの支援者が贈ってくれた手編みの帽子を届ける活動を二〇一二年に友人と行った私は、その機会に被災地を応援し交流する小さな団体を設立し、二〇一四年にアメリカの支援者が手編み帽子を持って来日した際、同市への訪問に同行しました。
その時、被災地の方が、大切な友人が津波の被害に遭い亡くなってしまい、自分は生き残ってしまったと悔いていること、取り戻せない時間を思いながら、でも、生きていかないといけないし踏ん張っているお話をしてくれました。その時はただ聴くことしかできませんでしたが、悲しみと困難の中にあっても明るく前向きに生きる方々に会って、震災で町は壊されてしまったけれどここで人々が生きた証しはずっと残るし、これからも途切れることなくずっとずっと続いていく。亡くなった大切な人の心もずっと近くにあって見守ってくれている。それを何かの形で伝えたいと思いました。
そして、ふと歌にしてみようと思いついたのです。歌詞は、被災地の人が語ってくれた言葉、アメリカの支援者の人が贈ってくれたメッセージ、活動を通して仲間や私が感じたことをそのまま活(い)かしました。作曲は、少しピアノをかじった程度の音楽の知識でしたから本当に簡単なメロディーですが、なぜか自然に浮かんできました。
そして、偶然知己を得た有坂(ありさか)ちあきさんというシンガーソングライターの女性が、自身も阪神・淡路大震災を経験し、東日本大震災の発生後からずっと支援活動を続けておられるというご縁で、ライブでその歌『あなたを想(おも)えば』を歌ってくれたのです。
歌を共有することで、なかなか会えない被災地の仲間と名古屋の私達とがつながることができ、大切な人を想う気持ちに普遍的なメッセージを見出してくれた多くの人が、自分でも歌いたいと言ってくれたりしました。歌詞を英語、中国語、韓国語、ベトナム語など各国語に翻訳してくれる人も現れました。歌を通して新たな出会いが生まれ、つながりが深まる喜びを得られることを体感したので、ゆうさんともぜひこの喜びを分かち合いたいと思いました。
ただ、日頃ゆうさんが「気持ちをわかってほしい。病気のことを知ってほしい」と言っていても、それを歌にして公開することは自分をさらけ出すことでもあります。果たして一緒に歌を作ることに賛成してくれるだろうか。迷いもありましたが思い切って話してみました。

一番

私の心配は杞憂(きゆう)でした。ゆうさんはとても喜んで、
「本当にうれしい。何もできないまま死を待つのは絶対いやだと思ってた。『あなたを想えば』気に入っているの。私も伝えたいこと、言いたいことがいっぱいある。歌を通してALSを知らない人にもメッセージが届いたらこんなうれしいことはない。本当にありがとう。頑張るよ」
と言ってくれたのです。
さあ、そうなれば話は早いです。早速曲作り開始。何しろ常日頃ゆうさんの語る言葉は一つひとつが心に沁(し)みる。何気なく放つ言葉に私はいつもはっとさせられていましたから、あとはそれらの言葉が生きるようにメロディーを考えるだけ。ALSという言葉や病気を想起させる具体的な言葉は敢(あ)えて使いません。
曲は、彼女が歌詞用に書き出した言葉の数々を眺めていたら、自然とメロディーが浮かんできました。またまた単調な旋律だけれど、ゆうさんはきれいな曲だと言ってくれました。二人で何度か語彙を変えたり順番を入れ替えたりしながら、歌詞の一番とメロディーがほぼ同時にできあがりました。

ゆく道 決めた はずなのに
覚悟が できた はずなのに
この世は あまりに せつなくて
立ち尽くす 交差点

試練(こころみ)が あまりに 多過ぎて
なぜ 私だけ ふとよぎる
比べても 仕方ないけど
つい 意味 追いかける

揺れる 揺れる 私の心
水面(みなも)の 月も 揺れる
泣いて 泣いて 泣き疲れたら
銀の 光に 眠る

ゆうさんの前で口ずさんでみると、
「良いね。すごく良い。まさに私の気持ちそのもの。泣けてくる」
と言ってくれました。私もうれしい。
私達は二人でもうすっかり音楽家気分になり有頂天です。
ところが、ゆうさんの曲の完成を楽しみにして、歌詞を多言語に翻訳する準備も同時に進めてくれていた被災地支援のグループの仲間達に早速一番を披露してみると、
「ごめん、辛すぎる」
と一言。
「え?」
「聞いていて心が重くなってきた」
と別の友人。
「だって、ゆうさんの気持ちを凝縮して歌詞という形で表現したのよ。現実はこの何百倍も苛酷なんだから」
「わかるけど……。でも」
「でも何?」
「何か救いがほしいんだよね、歌だから。苦しさは伝わってくるけど、でもそこで止めないでほしい。嘘(うそ)でもいいから救いを入れて」
「嘘でもいいからって……。そんな」

すっかり意気消沈してしまった私ですが、話を聞いたゆうさんは淡々としていました。
「わかるよ。本当に壮絶な苦しさだもん。話を聞いてくれる人は時々現れるけど、聞いているのも辛くなるんじゃない?結局だんだん遠ざかっていっちゃう。だから私も、最近人にあんまり言わないの。そんな苦し過ぎること聞かせるのもかわいそうだし、結局一〇〇パーセント理解してはもらえないからね」
一番辛いのはゆうさんなのに、私は気の利いた言葉の一つも言えません。ゆうさんが続けました。
「はっきり言ってもらってかえってよかったよ。歌という一つの作品だからね、ただ辛い、悲しいだけじゃなくて、やっぱりそこから何か前に向かうものが要るんだと思う。心は揺れるし辛くてたまらないけど、私自身、ひょっとしたら明日治る薬ができるかもという望みを捨てていない。望みが尽きたとしても、私はもう自分で自分の体をどうすることもできないけど、でもそれであきらめるわけじゃない。私は生きるよ。生き続けてみせる」
「うん。わかってる」
まったくどちらが励まされているのだか。
「でもね」
ゆうさんが続けました。
「暗いと言われてもこの歌詞は変えない。私のそのままの心の叫びなの」
「うん。誰が何と言っても一番はこのままにしよう。二番頑張ろう!」

同じ方向を見つめて

続く歌詞は、ゆうさんの心情の吐露からまた始めましたが、苦しく、時に孤独を感じる中で、ヘルパーさんのさりげない親切や見ず知らずの人の温かい気持ちに触れた時に一瞬でも感じるうれしさを言葉にしてみたという歌詞が、私はとても気に入りました。
実際に言葉を交わさなくても、ほんの少し心を添わせるだけでも、人はまた前に向かって進んでゆける。良いフレーズだと思いました。私はふと尋ねてみました。
「ゆうさんの言葉って一つひとつが心に響くよね。詩とか書いてたの?」
「趣味というほどでもないけど、子どもの頃から詩みたいなものを書くのは好きだった」
「そうなんだ。じゃあ、この作詞という作業はなんとなく思いついて提案したけど、ゆうさんにぴったりだったね」
「あのね、久美子さん。私すごく感謝してる。自分の中で充満してしまって整理できなくなったいろいろな感情を、歌詞にすることですごく客観的に見つめられた気がする。絶望して本当にもうどうにもならないって追い詰められていたから」
私も言いました。
「私も一緒にやれて本当によかったと思ってる。最初はとにかくゆうさんの気持ちを思いきり吐き出してもらう機会になればいいと、それだけ思ったの。ゆうさんと向き合ってゆうさんの気持ちを受けとめられたらって」
でも、いつの頃からか私の中に気持ちの変化がありました。ゆうさんの言葉は、時に私が抱えている悩みを代弁したようなものであったり、そしてそれは私だけではなくて、人が生きるということの中でみんなが大なり小なり抱えていることなのではないかと思ったりしたのです。ゆうさんのためにと思って始めた歌作りは、ゆうさんの気持ちを私が聴くという一方向から、知らぬ間に、向き合ってお互いのために言葉を紡ぐ双方向の作業となり、そしてやがて、同じように苦しい中で歯を食いしばって頑張っている誰かに向けて、ゆうさんと私二人で並んで座って同じ方向に向かって放つメッセージとなっていました。最後に二人でその事に気づいた時、一緒に歌作りをやってよかったと心から思ったのでした。

誕生『おぼろの月』

そして昨年の七月についに歌が完成しました。

〈二番〉
身に まとう 鎧(よろい)を砕き
人の 波が 行き過ぎる
割れた 仮面を つたう涙は
ただ 流れるままに

拭う すべも わからずに
くちびるを かみしめた
ふと 気づく瞳 私を
静かに 見つめる人

知っているわ 同じ涙を
刹那 心 添わせて
やがて 視線 移して
それぞれの 場所へ行く

巡る 巡る 私の心
惑いの時も 巡る
独りじゃない どこかで
皆 同じ夜空 見てる

〈エンディング〉
満ちる 欠ける また満ちてくる
新しい朝が 来ること
苦しいけれど 信じたい
もう少しだけ がんばれるでしょうか

ららら……

見ていて おぼろの 月明かり
そっと 指で たどる

タイトルは『おぼろの月』としました。ゆうさんが眠れぬ夜じっと見つめた薄明かり、決して煌々(こうこう)と針路を示してはくれないけれど、なんとなく曖昧な中に自分を見ていてくれるような柔らかさ、そんなことをイメージして二人でつけました。
そして一つの試みとして、公開用の音源にボーカロイド(人工歌声ソフト)の音声を使用しました。声をほとんど失ってしまったゆうさんのメッセージを透明に伝えたいという思いから、まずは歌う人の私的な思い入れが一切入らないようにしたかったのです。公開後、賛否両論がありましたが、多くの人がその意図をよくわかってくれました。
完成から二か月後の九月、被災地支援のグループで再び開催したライブで、私達のたっての願いを快く聞いてくださった有坂ちあきさんが『おぼろの月』を歌ってくれました。ゆうさんが大好きな有坂さんの歌声で、ゆうさんの気持ちが満員の聴衆に届きました。
実はゆうさんには、歌の後で皆さんにご挨拶をしてねとお願いしてありました。ゆうさんは、残された声を必死に振り絞って、一言ひとこと噛(か)みしめるように話し、付き添いのヘルパーさんがもう一度それを繰り返してくれました。涙を拭いながら聴いている人もいました。
念入りにメークをしてもらって髪もかわいくまとめていたゆうさんは本当にきれいで、そして堂々としていて、輝いていました。

それから

『おぼろの月』を作ってちょうど一年。歌を聴いてくれた人からは、「胸に迫った」「ALSのことを初めて知った」「たいへんな中でくじけずに頑張っているゆうさんはすごい」等、今もたくさんのメッセージをいただいています。本当にありがとうございます。
ゆうさんは、今日もALSと闘っています。
「久美子さん、『おぼろの月』良いね〜。自分の歌ながら心に沁みてくるよ。歌を作って、患者としてだけじゃなく、また一人の人間として認められた気がする。そして歌を通してつながった人達に心から感謝。ひとりじゃないって、いいね!」

高木 久美子プロフィール

一九五九年生まれ NPO法人理事 愛知県在住

受賞のことば

栄誉ある賞をいただき、ゆうさんと私の歩みの記録を多くの方に読んでいただく機会を得て本当に有り難く存じます。
作文を通してALSという病気に関心を持っていただき、歌『おぼろの月』にゆうさんが込めた思いにお心を寄せていただけたら嬉しいです。
また日頃私達の活動を応援してくださっている皆さんにこの場をお借りして御礼申し上げます。
この度は本当にありがとうございました。ユーチューブは「おぼろの月 ALS」で検索してください。

選評

ドキュメンタリー番組を見るような、きらりと光る作品でした。ひょんなことで始まったALS患者・ゆうさんとの交流。最初の視点がフラットな分、読者も一緒になって、ALSという病気のこと、それに向き合う患者さんのリアルな心の内を、知ってゆくことができます。最初は、ゆうさんを励ますための歌が、やがては、苦しい中でも頑張る人たちへの、普遍的メッセージに昇華していく様子が感動的です。二人で紡いだ言葉が心に沁みました。(佐藤 高彰)

以上