第52回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第1部門〜
「雲外蒼天」

著者 : 姫野 一陽 (ひめの いちよう)  広島県

僕は先天性の顔面裂(がんめんれつ)という外見の病気です。この病気の発症率は十万人に一人と非常に稀(まれ)なので、病名を聞いたことがない方も非常に多いのではないだろうかと思います。僕自身も生まれてからこの十九年間で、自分と同じ病気の方を目にしたことや耳にしたことは一度もありません。また、僕はこの顔面裂という病気以外にも、口唇口蓋裂や水頭症、頭皮欠損、白内障といった病気も併発しています。そのため、正しく発音することが難しい言葉があって自分の言いたいことが相手に伝わりにくい場合もよくあり、頭頂部には髪の毛が生えておらず、右目の黒目部分は白濁していて失明しています。
僕は、生後四か月と生まれて間もない頃からこれまでの十九年間で、通算して二十回以上にもわたる形成手術を受けてきました。治療のおかげで、顔も小さい頃から比べると、現在ではかなり綺麗(きれい)になったと僕も家族も感じています。しかし、小さい頃から変わらず、現在でも外出先では子ども大人に関わらず、すれ違う人達(たち)からは覗(のぞ)き込まれるようにして顔をジロジロと見られたり、指をさされて嘲笑されたり、心ない言葉を言われたりするといったことが日常茶飯事です。それだけではなく、なかにはまるで見世物(みせもの)であるかのように、僕の顔を面白がって写真に撮る人までいます。
このように書くと、そんなテレビドラマで描かれているようなことが本当に現実で起こっているのだろうかと、目を疑われる方もいるかもしれません。しかし、これは偽りのない、紛れもなく現実に今僕たちが住んでいるこの日本で起こっている出来事です。
小学生の頃くらいまでは、このような場面に直面すると、
『一人一人顔が違って当たり前なのに、なんでみんな僕の顔をそんな目で見るのだろう』
『僕だって病気になりたくてなったわけじゃないのに、なんでそんなことを言うのだろう』
そんな思いが幼い僕の頭の中を駆け巡って、いつも泣いてばかりでした。それでも、今こうしてこれまでの自分の歩みを振り返ってみると、これまでの人生で一番病気を気にすることなく過ごせていたのは小学生の時期までだったように感じます。
なぜならば、外出先では病気のことを言われて辛(つら)い思いをすることがあっても、学校は、病気なんか気にしないで分け隔てなく僕を一人の友達として接してくれる人達ばかりだったからです。だから学校では、病気のことを気にすることなんて少しもありませんでした。もちろん初対面の時は病気のことが気になって、いろいろと聞いてくることはありました。しかし、それは外見の病気であれば仕方ありません。だから僕も聞かれたら、きちんと質問に答えます。友達は僕から話を聞くとしっかりと理解してくれたので、喧嘩(けんか)などをして口論になった時でも、僕に病気のことを言うなんてことは絶対にありませんでした。それだけではなく、僕を周囲からの誹謗(ひぼう)中傷から守ってくれたこともあります。
これは小学校中学年の頃に、四、五人ほどの友達と一緒に地元のお祭りへ行った際の出来事です。そのお祭りにはたくさんの人が来ていて、僕達と同じように他校の小学生や中学生も大勢来ていました。みんなで会場を散策していると、僕らよりも少し年上で、小学校高学年もしくは中学生くらいの男の子達の集団が僕の存在に気がつきました。案の定、いつものように僕の顔を指さして笑いながら、野次(やじ)るように僕について何かを言って盛り上がっていました。僕にとってはこのようなことはよくあることであったし、友達と一緒に行動していたということもあって、僕は見て見ぬフリをして、その男の子達の集団に対して何も反応しませんでした。しかし一緒にいた友達の一人が、その男の子達の集団が僕に対して何か悪口を言っているということに気がつきました。すると、周りにいた他の友達も、悪口に気付いたその友達と一緒になってすぐにその男の子達の集団のところまでササっと駆け寄っていって、僕の代わりにその男の子達の集団に対して言い返してくれたのです。友達の威勢にびっくりしたのか、その男の子達の集団は捨て台詞(ぜりふ)を吐きながら逃げるようにしてそそくさと僕達の前から去って行きました。友達は病気をからかわれた僕以上に怒っていて、その集団が去っていった後もしばらく怒りが収まらない様子でした。
このように家族以外の人から守ってもらうことなんて初めてのことだったので、この時の出来事は今でも鮮明に覚えています。自分自身が何か言われたというわけでもないのに、友達だからという理由で言い返すというのは、大変勇気が必要な行動だと思います。その相手が、自分よりも明らかに年上の人や強そうな人ならばなおさらです。この友達の勇気ある行動に僕は非常に驚きましたが、それと同時に、こんなにも僕のことを考えてくれているなんて嬉(うれ)しいという気持ちと感謝の気持ちで、僕の心はいっぱいになりました。
僕は、そんな優しくて頼もしい友達に囲まれながら、病気のことなんて気にすることなく楽しい小学校六年間を過ごしました。
そして僕は小学校を卒業して中学校へ入学しました。僕の進学先の中学校には、他校の小学校からも生徒が多く入学してきました。同じ小学校の友達も多く入学するとはいえ、新しい環境へ入ることに不安が全くなかったと言うとそれは嘘(うそ)になります。しかし、小学校で素晴らしい友達に出会って楽しい思い出を作ることができたように、中学校でもまた新しい友達に出会うことができるという思いや、まさか中学生にもなって病気のことを言う人なんていないだろうという思いから、不安よりも期待の方が大きかったです。しかし、そんな僕の気持ちは裏切られることになりました。
入学当初は緊張していたということや、様子を見ていたということもあったのか、他校から入学してきた同級生も向こうから僕に話しかけてきてくれたりして、気軽に接してくれました。入学前は不安だったけれど、話せる人もすぐにできて、僕も家族もホッと胸をなでおろしていたことをよく覚えています。しかし、時間が経つにつれてだんだんと新しい環境にも慣れてくると、一部の人から頭皮欠損部分のことをイジられるようになりました。始まりは、部活の練習中に、つむじがハゲていると同じサッカー部の部員に言われて笑いの的にされたことです。そして一人が言い出すと、面白がって周りの人達も言い始めて、部活内、クラス、やがては学年へとどんどん広まっていきました。イジりの内容も次第にエスカレートしていって、頭頂部が円形に髪の毛が生えていないことを揶揄(やゆ)されて、ポテトチップスを頭に乗せていると言われるようになりました。廊下で僕とすれ違うたびに
「カルビーのポテトチップス」
とコマーシャルのフレーズをリズムに乗せて歌われました。同級生から病気をイジられるということは、非常に辛かったし悔しくもありました。
小学生の頃は学校で病気のことを言われることがなかったということもあり、頭皮欠損部分のことをあまり気にすることはなかったので隠すこともしていませんでした。ヘアスタイルにもワックスなどの整髪料にも、全く興味はなかったです。しかし、同級生からイジられることが嫌で嫌で仕方なかった僕は、当時から人気のあったEXILE(エグザイル)さんのメンバーの方々がされているような、一方のサイドを刈り上げてアシンメトリーにした髪型に変えて頭皮欠損部分を隠し、整髪料で髪をガチガチに固めて学校へ登校するようになりました。もちろん中学校では、このような過激な髪型にすること自体も、整髪料を使用することも校則違反です。そのため、先生から呼び出されて怒られることがよくありました。
時には授業中に
「水道で頭を洗って整髪料を落としてきなさい」
と怒鳴(どな)られたこともありました。でも頭を洗って整髪料を落としてしまったら、同級生からイジられます。だから僕は先生の指示に従わず、頭を洗うことを拒否したこともありました。でも先生は、僕が頭を洗って整髪料を落としてくるまでは絶対に許してくれませんでした。先生から怒られるたびに僕は
『先生は、なぜ僕が突然こんな過激な髪型をするようになったのかということには目を向けないのだろうか』
と、先生達が僕の本心に気付いてくれないことに対して、僕は腹を立ててばかりでした。
しかし、僕は先生から何度怒鳴られようとも、髪型を変えることも整髪料の使用をやめることもしませんでした。
なぜなら、先生から怒鳴られることよりも、同級生からイジられて笑いの的にされることの方が、僕の中ではよっぽど嫌なことだったからです。学校に事情を説明して対処をしてもらえばよかったのではないかという意見もあるかもしれません。しかし先生に事情を説明して、輪の中心となって僕をイジってくる生徒を注意してもらったところで、今度は先生に告げ口をしたと言われて、イジりがますますエスカレートするというのは目に見えています。髪型を変えることや整髪料を使うことで、今より少しでもイジられることがなくなるのならば、先生に相談するよりも自分で対処することの方がベストな選択だと僕は思いました。
学校の先生は気づいてくれなかったけれど、家族は僕が言わなくてもすぐに僕の本心に気付いてくれました。日頃は厳しい両親も僕の気持ちを理解してくれて、僕がどんな髪型にしてもどれだけ整髪料をつけて学校に登校しても、それについて何か僕に言うことはありませんでした。
高校時代は今までの人生で一番辛い時期でもあり、精神的にも強くなることができた時期です。
高校に入学する際も、中学校に入学する時と同様に、不安と期待が入り混じっていました。いや、中学校に入学した時とは違って不安の方が大きかったかもしれません。中学校に入学する時は中学生にもなって病気のことを言う人はいないだろうという思いがあったけれど、実際には病気のことをからかわれることが多かったからです。それでも僕の進学先の高校は県内でも実績のある進学校で、それなりの常識を持っている人達が入学してくるから大丈夫だと自分に言い聞かせながら、不安な気持ちを落ち着かせて入学しました。
しかし僕の不安は的中してしまいました。高校に入学してからも、やはり病気のことを言われることがなくなることはなかったのです。それどころか、中学校の時よりも陰湿なことをされるようになりました。口唇口蓋裂のために発音が悪いことをからかうように、僕の喋(しゃべ)り方の真似(まね)をされて笑いの的にされたり、「ベトナム戦争の生き残り」とまで言われたこともありました。
しかし高校二年生になると、今まで経験したことがないくらい辛い体験を僕は経験することになります。ある日突然見知らぬフリーアドレスから、僕の病気を誹謗中傷するメールが届くようになったのです。文面には、口にすることもためらってしまうような、見るに堪えない酷(ひど)い言葉がたくさん並べられていました。誰から送られてきているかもわからないうえに、文章もかなり威圧的で脅迫めいており、奇怪なものだったので僕は非常に怖かったです。僕が受信拒否にしても、数日後にはまた新たなフリーアドレスを使ってメールが送られてきました。しばらくするとメールだけではなく僕のラインアカウントにも、病気のことを誹謗中傷するメッセージが届くようになりました。内容も日に日にエスカレートしていき、「醜い」「死ね」といった言葉は当たり前のことのように書かれるようになりました。これが約三か月間もの長い期間にわたってほぼ毎日続いたのです。
この時に僕を苦しめたのは、毎日のように届く中傷メールだけではありませんでした。学校の先生方の行動にも僕は非常に苦しめられました。先生方の中には、僕のことではなく自分の保身を第一に考えているような言動をされる先生、自分の教育論や思いばかりを僕に押し付けてくる先生が多くいました。被害を受けて苦しんでいる当事者の僕の気持ちを、なんで先生達は聞いてくれようとしないのだろうという思いから、次第に僕の心の中で先生方に対して不信感が芽生えました。また、先生方それぞれの意見の方向性がバラバラで僕が板挟みの状態になっていたことも、大きなストレスになりました。
やがて不安定な精神状態が身体にも異常をきたして、僕はストレスによる「起立性調節障害」という自律神経の病気を発症しました。高校一年生の頃には五十キロあった体重が、気がつくと三十キロ台まで二十キロも落ちてしまっていました。また時には授業中に倒れてしまうこともありました。そうしてだんだんと僕は授業にも出席することができなくなり、学校に登校しても保健室にいる時間の方が多くなっていったのです。
学校を辞めたい。そのようなことを考えてしまったこともあります。でも僕は絶対に逃げませんでした。不登校になったり学校を辞めて、辛い状況から逃げ出すことは簡単です。でもそうすれば、僕に中傷メールを送ってきている人の思うツボだと僕は思いました。だから僕はこんな仕打ちなんかに負けず、学校に行き続けることで、僕に中傷メールを送ってきている人を見返してやろうと心に強く誓いました。その見返し精神こそが、僕が辛い状況を乗り越えることができた原動力であり、僕の心を強くしてくれました。
そんな絶望のどん底にあった僕をずっと支えてくれた存在がいたことも、非常に心強かったです。その存在とは、かけがえのない一人の友人、保健室の先生、そして家族の存在です。
その友人は、僕と同じサッカー部で非常に仲が良く、親友とも呼べる存在です。その友人は非常におとなしい子ですが、しんの強さを持っている子です。
僕がその友人に悩みを相談した時は、僕の気がすむまでとことん話を聞いてくれました。僕が中傷メールのことを相談した時も、僕の味方をしてくれました。しかし、しばらくすると僕と仲良くしていたために、その友人にも中傷メールが届くようになりました。もし僕がその友人の立場だったら、怖くなって僕とは少し距離を置いていると思います。でもその友人は、僕から離れようとすることはありませんでした。この友人の存在は、僕に力を与えてくれました。
また、保健室の先生も、この友人と同じように僕の話を聞いてくれ、僕がどうしたら良いか悩んでいる時には一緒になって考えてくれました。僕はこの時期、それぞれの先生の意見の方向性の違いから板挟みになっていたこと、一部の先生に不信感を持っていたこともあり、非常に助かりました。
普段(ふだん)何事もなく生活していれば保健室に行くこともあまりなく、「保健室の先生」という存在の大切さに気づくことはないと思います。しかしこの時不安や恐怖でいっぱいだった僕にとって、保健室は唯一の気持ちのよりどころでした。僕のように学校生活でトラブルを抱えて心にキズを負ってしまった生徒にとって、「保健室」というのは大きな役割を果たしているのです。
最後に、家族は本当に頼りになる存在です。どんなことがあっても僕を守ってくれます。僕が悩んでいたり落ち込んでいたりすると、時には叱り、またある時には励まし、といったように、叱咤(しった)激励で僕をあるべき方向へと導いてくれます。学校側がしっかりとした対応をしてくれない時は、何度も学校へ行って少しでも僕の希望が受け入れてもらえるように先生方に掛け合ってくれました。そのおかげで物事がスムーズに運んだこともありました。
このような存在が身近にあったからこそ、僕は辛い局面でも自分を見失わず乗り越えることができたと思っています。そして僕は無事に高校を卒業して広島大学に入学することができました。
これまで書いたように、僕は小さい頃から辛いことをたくさん経験してきました。大学に入学した今でも辛いことや嫌なことはいくつもあります。そんな数々の苦難を乗り越えてきた僕だからこそできることがあると僕は考えています。
それは健常者と障がいや病気を持っている人の「懸け橋」になることです。「懸け橋」と一言で言っても方法は色々あるでしょう。その数ある方法の中でも、僕は今回この文章を書いているように、自分の言葉や文章で自分の経験や思いを皆さんに伝えていくことで「懸け橋」になりたいと思っています。
これまで外見の病気ゆえに外出先で好奇の目で見られたり、学校でイジられることがあったのは、実際には病気についてあまり理解が進んでいないからだと僕は考えています。相手が僕の気持ちをわかった気になり、これくらいのことなら言っても大丈夫だろうと思ってイジったことでも、僕にしてみれば絶対に言われたくなかったことでひどく傷ついてしまうこともあります。このようなそれぞれの「ものさし」の違いを解消して、皆が同じ「ものさし」を共有するには、周りに自分の経験や思いを伝えることで共有していくことが非常に大事であると僕は考えます。
最後に、人生が楽しいものになるのか哀(かな)しいものになるのか、それは自分次第です。病気のあるなしで決まるものではありません。確かに僕は外見の病気なので、これまで書いてきたような辛いことを、これからも人一倍経験することになるでしょう。しかし病気を持っていても常に前を向いて生きていれば、辛いこと以上に楽しいことも見つけることができると僕は確信しています。そう僕が確信することができるのは、僕自身が今、楽しさに満ち溢(あふ)れた充実した毎日を送ることができているからです。
僕の大好きな欅坂46(けやきざかふぉーてぃしっくす)さんの「サイレントマジョリティー」という曲のサビに
「君は君らしく生きていく自由があるんだ」
という歌詞があります。この歌詞のように、僕はこれからも病気に支配されず、僕は僕らしく前向きに楽しく笑顔いっぱいに生きていきます。また僕と同じように病気を持っている方も、それぞれ病気で辛いことがあると思います。しかし病気だからといって塞ぎ込んでしまったり、後ろ向きな考え方をしてしまうのではなく、日々の生活の中で小さなことでも何か一つ楽しいことや熱中できることを見つけて、前向きに充実した人生を送っていただきたいと思います。

姫野 一陽プロフィール

一九九八年生まれ 大学生 広島県在住

受賞のことば

今回このような名誉ある賞を頂き大変光栄に思います。今は一人一人の個性を認める時代になり差別や偏見も少なくなったと言われます。しかし僕が高校時代に中傷メールの被害を受けたように、ネットの発達で事態は以前より深刻になったと感じます。この状況を変えるには今回のようにメディアを通じて自分の言葉で体験や思いを伝えていくことが大切です。そうすることでまた辛い思いをすることもあるでしょう。しかし行動しなければ何も変わりません。僕が人前に出て行動することで、この先僕のように病気のために辛い思いをする人がいなくなることを願っています。

選評

幸せとは何か、人生の喜びとは何か、を若くして獲得されたのではないかと思います。それは辛い経験を経て深く思慮されたからであり、障害があったからこそ見つけられたものです。いじめで「不安や恐怖がいっぱい」の中、自律神経の異常や極端な体重減少に苛まれながらも「見返し精神で頑張る」。この“せめぎ合い”に読む者は圧倒されます。親友、保健室の先生、ご家族の思いに支えられながら飛躍していく姫野さんの今後の活躍に期待しています。(鈴木 ひとみ)

以上