第52回NHK障害福祉賞 最優秀作品
〜第1部門より〜
「ことばを取り戻す」

著者 : 横井 秀明 (よこい ひであき)  愛知県

吃音(きつおん)さえなければ

僕には、物心ついた頃から吃音(きつおん)があります。吃音とは、昔は「どもり」と呼ばれていた、スムーズに話せない障害で、「たたたまご」のように言葉が連続して出てしまったり、「たーまご」と伸びてしまったり、「……たまご」と、そもそも声が出て来ない症状(ブロック)が代表的です。これは、わざとやっているわけではありませんし、緊張や早口とも直接は関係がありません。こういうふうに説明しないと分かってもらえませんし、説明しても、「落ち着いて」、「ゆっくり話して」と言われることが少なくありません。そういう問題じゃありません。落ち着いていても、ゆっくり話しても、吃(ども)る時は吃るんです。吃音はあまり知られていないことから、ずっと誤解され続けてきました。
幼稚園の頃は、よく喋(しゃべ)っていたそうです。「ぼぼぼぼーくね、ああああーのさあ」と、吃りながらもたくさんの友達と毎日遊んでいました。お遊戯会でも盛大に吃りながらセリフを言っている様子がホームビデオに今も残っています。
その状況が大きく変わったのは、小学校に入ってから。
「お前、なんでそんな話し方なんだよ」
と言われ、自分でもよく分からないものですから、
「うるせーなあ」
とぶっきらぼうに返していた覚えがあります。そのせいか、その後はだんだんとからかわれるようになり、次第に「吃音は悪いものだ」、「吃っているのは恥ずかしい」という感覚が生まれてきたように思います。特に高学年に上がると、からかいも陰湿に。「日本語しゃべれ」、「頭おかしいのか」と言われ続け、いわゆる「いじめ」と呼ばれるような状態になりかけたので、当時から一七〇センチ近くあった体格をいかして、何か言われればすぐに拳で応じるようになりました。その甲斐(かい)あってか、いじめを受けるようなことはありませんでしたが、友達はほとんどいなくなりました。話せばからかわれる、馬鹿にされる。もう話したくないと思うようになりました。学芸会では、セリフのない役を希望するようになっていました。
中学や高校では、ますます孤立するようになりました。しかも、身長が一七五センチくらいで止まってしまったので、体格の良さでは大して自尊心を保つことができなくなり、「自分はダメなやつだ」と思い始め、吃音で悩むあまり、自分自身に対して否定的な価値観を持つようになっていきました。「吃音さえなければ」と、毎日思っていました。でも、吃音はなくなりませんでした。毎日、「もう話したくない」と思い続け、いつしか僕は自分の「ことば」を失っていったように思います。

突きつけられた「現実」

幸運だったのは、そんな僕のことを両親が常に気にかけてくれたことです。今でも、両親には本当に感謝しています。特に、父親は中学校の教員をしていたので、僕が学校でどれだけ苦しい思いをしているかを理解してくれていました。当時はインターネットもまだまだ黎明(れいめい)期で、情報を集めるのが本当に難しい時代だったはずですが、新聞で吃音のある人のセルフヘルプグループの記事を見つけ、僕に参加してみることを勧めてくれました。当時、中学校二年生の反抗期真っ盛りでしたが、僕は意外と素直に応じ、車で一時間くらいかかる会場に父と一緒に行きました。参加者は、ほとんどが中高年の方ばかりでした。そこでは、いろいろとアドバイスをもらいました。吃音があっても仕事はできるよとか、中高校生の頃が一番つらかったとか。僕を勇気づけようとしてくれる人ばかりでした。しかし、僕は全然違うことを考えていました。

「僕は、大人になっても吃音のままなのか」

現実を受け入れられませんでした。心のどこかで、「いつか吃音がなくなるんじゃないか」という希望を持っていたからです。しかし、その希望は見事に打ち砕かれました。大勢の「吃る大人」を前にして、僕は「お前は一生吃り続けるんだ」と言われたように感じました。
しかし、僕はセルフヘルプグループに通い続けました。中学生のうちは父が毎回ついて来てくれましたが、高校生からは一人で。何か「答え」を見つけたいと思っていたからかもしれません。他の会員の皆さんも、自分の息子や、もしかすると孫くらいの年齢の僕に、たくさんのメッセージを送ってくれました。そのおかげで、いつか吃音がなくなるんじゃないかという叶(かな)わぬ願いは徐々に薄れ、真剣に、現実的に「これからどうするか」を考えるようになっていったように思います。

K君が教えてくれたこと

その後、僕は大学進学のために故郷の名古屋を離れ、関西に移り住みました。初めて親元を離れた生活で、不安だらけ。引っ越してすぐ、大学の履修やアパート関係の手続きなどで、窓口や電話で話し続ける日々が到来しました。もう両親を頼ることは出来ません。大学の事務室の前で覚悟が決まるまでウロウロしたり、携帯電話を握りしめながら脂汗を浮かべたりする毎日でした。時々くじけそうになりましたが、それでも「やるしかない」と心に決め、恥ずかしい思いも沢山しましたが、なんとかやっていきました。
人間関係も全くゼロからのスタートでした。その頃に出会ったのが同じサークルのK君です。彼には重度の弱視があり、人や物をハッキリと認識するためには顔面スレスレまで目を近づける必要があります。それだけでなく、手指や腕の障害もありました。親指と人差し指がくっついて、それと手首がほとんど曲がりません。
K君は、僕と同じように大学の近くで下宿をしていました。しかし、その事実を聞いた時には、率直に言って「本当に一人で暮らせているのか?」と疑問に感じました。既に述べた通り、彼は重度の弱視で数十センチでも離れたら視界は曖昧になるし、手指や腕も動作がかなり制限されています。しかし、僕は彼とのつきあいの中で、特別に配慮した覚えがありません。仲間同士の飲み会でも、普通に「何時にどこそこに集合」なんて言って、ほったらかし。送迎なんてした覚えは一度もありません。彼は、例えば遠くのものを見ないといけない時はデジカメで撮って拡大して確認したり、食事の時はバネ付き箸を使ったりしていました。四年生になれば就職活動も普通にやっていて、ネクタイは結べないので、結び目をボタンでとめられる代用品を使っていました。
彼から学んだことは、「障害があっても、きちんと手を打てば致命的には困らない」ということでした。もちろん、ふだんの生活からさまざまな不便があったとは思います。しかし、彼は事前に「傾向と対策」をしっかりと考えていました。彼にとって、弱視や身体の障害は「課題」であり、ただおびえるだけの「恐怖や不安」の対象ではありませんでした。だからこそ、デジカメやバネ付き箸、ボタン式のネクタイだけではなく、白杖や単眼鏡、遮光眼鏡などを駆使することで、ほとんど普通に生活できていたのではないかと思います。
それに対して、僕はとにかく吃音に怯えるだけで、これと言った対策を取ってきたことはありませんでした。せいぜい、「エイヤ」で無謀に突っ込んで行くだけです。何をやっても無駄(どうせ吃る)という気持ちもありました。しかし、実際にやったこともないのに、そんなふうに思い込んでいたのです。
彼とは毎日のようにお互いの下宿を訪ねて朝まで飲み明かし、色々なことを語り合いました。主な話題は「僕たちはこれからどうやって食っていくか」。これは、僕自身がずっと考え、悩んできたテーマです。特に大学に入った時には「これから四年以内に答えを出さなくては」という強烈なプレッシャーを感じていたことを覚えています。でも、度胸がなくてアルバイトもろくにできませんでした。だから、毎日とても辛(つら)かった。でも、K君との語り合いの中で、徐々に自分の中に変化が起きていることを感じていました。

「吃音って辛いよなあ。俺は話すことには全然不自由がないから、横井の辛さが分からんくて、ほんま申し訳ないわ」

K君は、弱視と手指・腕の障害で身体障害者一級の手帳を取得しています。客観的に見れば明らかに自分の方が障害は重いのに、そのことを全く意に介していませんでした。全く対等に接してくれていたのです。彼との語り合いの中で、具体的な解決策が生まれたわけではありません。しかし、「どうやって食っていくか」の主語が「僕は」から「僕たちは」に変わっただけで、随分と気持ちが楽になりました。結局、二人とも同級生からは二〜三年も遅れましたが、K君はシステム開発会社に、僕は政府系の金融機関に就職することができました。

僕には力がある

就職先では、毎日一〇〇件以上の電話に出たり、債権回収(要するに借金取り)のようなハードな交渉にも携わったりして、随分と根性が鍛えられました。働いていたのは神戸の事務所だったので、関西弁の怖いおじさんたちと渡り合う毎日です。対するのはオドオドとした若造。吃音が、その印象に拍車をかけます。正直に告白すると、特に新人の頃は会社のトイレで号泣したことも一度ではありません。本当に参ってしまった時は、心療内科にかかって抗不安薬を処方されていました。
転機となったのは、会社が主催するセミナーの講師を務めるよう命令されたことです。正確には、「やってみないか?」という程度の打診でした。僕は「なんで吃音の僕に」と戸惑いましたが、同時に「これが出来たら何か変わるかもしれない」という気持ちにもなりました。会社の先輩に相談してみると、「横ちゃんにはちょっと難しいんちゃうか」と、率直に言ってくれた人もいました。

「とりあえずやってみい。やってみて無理だと思ったらやめたらええやん」

上司からそんなふうに背中を押してもらい、僕はチャレンジしてみることにしました。
それから、僕は毎日朝六時に、守衛さんが通用口を開けるのと同時に事務所に入り、ひたすら通し練習を繰り返しました。この時には、大学時代のK君との交流を通じて、僕にとっての吃音は、明確に「課題」に変わっていました。そのための「対策」です。もう「恐怖や不安」ではありません。何度も練習していると、内容が頭の中に定着し、話すのも滑らかになっていきます。「これはいけるんじゃないか」という予感が徐々に芽生えてきました。しかし、そう簡単にはいきません。吃音には、独り言や、誰も聞いていない状態で話す時には症状があまり出ないという特徴があるのです。実際、同期数名を引っ張ってきて、聞いてもらいながら練習した時は、ボロボロでした。与えられているのは一時間なのに、全ての内容を話すのに一時間半もかかってしまいました。その後は、「もう無理だ。仕事を辞めよう」とまで思い詰めたかと思えば、「このまま辞めるのは無責任だ。(セミナーの講師を)やってから辞めよう」、「いや、講師が出来たら辞めなくてもいいか」など、迷いに迷った末に、とうとう本番に。同期に「僕が怖気(おじけ)づいて帰らないように見張ってて」と真剣な顔で頼んだことを、今でも覚えています。
しかし、本番では自分でもびっくりするくらいスムーズに、しかも時間通りに終えることが出来ました。アンケートでも「分かりやすかった」、「説明がゆっくりで丁寧」と、高評価。上司や先輩からも「よかったよ!」と褒められました。セミナーの講師を務めあげたことで、自分の中にずっと抱えてきた「ことば」に対するコンプレックスがようやく氷解していくように感じました。この時、「僕には力がある」という確信が生まれました。吃音が治ったわけでも、なくなったわけでもありません。しかし、「やればできる」という自信が、確実に芽生えてきたのです。

吃音のある言語聴覚士になる

僕は今、故郷の名古屋で言語聴覚士として働いています。言語聴覚士とは、病気などによって上手に話せなくなったり、生まれつき言語に障害のある子どものためにリハビリを行う国家資格です。勤めていた会社を辞めて、専門学校に入り直した時には既に三十歳近くなっていましたから、結構な度胸が必要でした。一時的にせよ、「食っていく」ための手段を自ら捨てるわけですから、かつての僕ならば絶対にしない選択です。しかし、躊躇(ちゅうちょ)することなく新しい道に進むことにしました。「僕には力がある」という自信があったからです。
以前に勤めていた会社を選んだ理由は、政府系なので「絶対に潰れないから」という消極的なものでした。その業界に興味があったり、やりたい仕事があったからではありません。そして、吃音のせいで仕事が出来なくても、きっとクビにはならないだろうという期待もありました。しかし、セミナーの講師を通じて自信をつけた僕は、リスクを取ってでも「やりたいこと」にチャレンジしたいと思うようになっていました。
「自分のやりたいことは何か?」と考えると、やはり「ことば」に関することが思い浮かびました。言語聴覚士のことは大学卒業後にそのまま言語聴覚士の専門学校に進んだ後輩から聞いていたので、以前から興味がありました。自分自身が吃音という「ことば」のことに悩んできた経験を活かせるのではないか。そんなふうに考えたのです。
もちろん、現実はそんなに簡単ではありません。僕は未だに吃るので、それに対してクレームが出ることが少なくありません。一度だけですが、患者さんから「障害者からリハビリを受けたくない」と面前で言われ、担当を交代させられたこともあります。その時はさすがにショックでしたが、すぐに立ち直りました。「自分には力がある」という確信が、僕を強くしてくれていたのです。

子どもたちに伝えたいこと

先日、中学生時代に出会ったセルフヘルプグループが主催する、吃音のある中高校生を対象としたイベントに参加しました。僕は、そこでメッセージを担当することになりました。子ども達に何を伝えたらよいか。何が伝えられるのか。しばらく悩みましたが、僕自身が経験したこと、考えてきたことをそのまま伝えることにしました。そして、最後をこう締めくくりました。
「みんなは、話したいって思ってるよね。話すって、とても楽しいことなんだ。でも、みんなの中には話している人と話していない人がいます。僕たちは、気持ち次第でつっかえたり、つっかえなかったりするわけじゃありません。でも、“話すか話さないか”は気持ち次第なんだよ。つっかえながらなら、みんなも話せるよね。上手に話せないことを笑ったり、からかったりしてくる人がいるかもしれない。でも、それはみんなが“話すか話さないか”とは、実は直接関係がないんだよ。みんなの話し方を笑ったり、からかったりするのは相手の問題。これはみんなにはどうしようもない。それと同じように、みんなが話すことを、誰も止めることもできないんだ。みんな、自分で話すのをやめてしまってるんだよ。自分で自分を諦めてしまってる。みんなは上手だろうが下手だろうが、話すことができるってことを忘れないでください。みんなは話すことができます。悩みながらでも、話していこうよ。悩むのは真剣な証拠です。みんなには力があります。怖くっても一歩を踏み出して、そのことを実感してください。ぜったいに大丈夫。僕が一番伝えたいのは、そういうことです。今日は、僕の話を聞いてくれてありがとう」

僕は、中高校生時代に、吃音のある自分はどうしようもなくダメな存在だと思い込んでいました。でも、セルフヘルプグループの皆さんやK君との出会い、最初に勤めた会社での経験を通じて、着実に自信を取り戻すことができました。それは、吃音によって自ら否定してしまった自分自身の「ことば」を取り戻していく過程だったと思います。僕は今でも吃ります。でも、「僕には力がある」という確信によって、揺るぎなく前に、前へと進めるようになりました。これからは、吃音で悩む子ども達に、「きみには力がある」と、伝えていきたいと思います。

横井 秀明プロフィール

一九八三年生まれ 言語聴覚士 愛知県在住

受賞のことば

これまでの足跡を振り返ってみると、僕の人生には常に吃音が重くのしかかっていました。しかし、その吃音のおかげで様々な示唆が与えられ、今では吃音と共に歩んでいるような気がします。吃音との日々を綴った作品に最優秀賞をいただけたことで、その思いがより強くなりました。本当にありがとうございました。

選評

セルフヘルプグループへの参加や、身体に障害があるK君との出会いを通じ「吃音」という障害を「どうやって克服するか」から「どうやって付き合っていくか」に考え方を変えた作者。勤務先でのセミナー講師への抜擢など、人生の重要な出会いや転機を通じて、自身に「力がある」ことを自覚し目指すべき姿を捉えなおしている。「自信と確信」に満ちた作者の行動・姿は、多くの方に自分の可能性を諦めさせない「力」をくれる。(北岡 賢剛)

以上