第51回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「そばにいるね」

著者 : 植田 悠郁 (うえた はるか) 鳥取県

大切な時間

「ただいま!」
私はやさしく、弟・りゅうに声をかける。
「うん」
とりゅうから返事が返ってきた。母が、
「昨日は、はるか! はるか! って、あんたの名前呼んでたよ」
と教えてくれた。
私は毎週末、職場のある鳥取市から実家のある倉吉市に帰省する。週末は私たち家族にとって大切なかけがえのない時間だ。
普段は寂しそうにしているというりゅう。
でも私が帰るとテンションが高い。
「りゅうくんな、なんだぁ、ははは、壊れたぁ」
などとよくしゃべる。何を言っているのかはりゅうにしかわからないけれど、機嫌がいいのは周りから見ていてわかる。

私とりゅうには障がいがある

私は一九九〇年、超低出生体重児として生まれた。すぐに入れられた保育器の中の酸素濃度が高すぎたため、網膜が剥離を起こし、視覚に障がいを負った。いまも左目は見えないし、右目の視力もかなり低い。
目の見えにくい私を助けるため、両親は二人目の子どもを作ることを決意した。
そして、私が生まれた二年後、龍大りゅうが生まれた。
しかしりゅうは生まれたときから体が弱かった。高熱を出したり、肺炎を起こしたりした。免疫力が低かったのだ。
母は高熱を出してふるえるりゅうを毛布にくるみ、病院まで走ったこともあった。
とうとうりゅうは髄膜炎を起こした。一命は取り留めたものの、脳に障がいが残ってしまい、重度の知的障がいと診断された。
りゅうはいまでも生活に多くの介護が必要だ。歩く、立つ、座ることはできる。しかし言葉の発達は極めて遅く、字の読み書きは全くできないし、トイレ、食事、着替え、入浴、服薬、洗面さえも一人ではできない。常に信頼できる誰かがそばにいなければ不安がる。小さいころ、痛い思いをたくさんしたからだろうか。不安や警戒心が強い。作業をすること、集中するのは苦手。初めてすることにも強い不安を覚えるようだ。

地域の小学校で過ごした三年間

りゅうは三年生まで、私は六年間、地域の小学校に通った。地域の子どもたちと関わる貴重な時間を作ってやりたいという両親の思いからだった。
私たちは特別支援学級で障がいにあわせた学習を行う一方、他の子どもたちとも一緒に授業を受けた。りゅうは同じ学年の女子から人気だった。りゅうが登校すると、クラスの女の子たちがいっせいに、
「りゅうくんだ! りゅうくーん! おはよう!」
と言っていたのを何度か聞いたことがある。私はちょっぴりうらやましかった。
りゅうは、水遊びをしたり、いろいろなものを投げて遊ぶことも多く、教室の窓から
「ぽーい、ぽーい」
と言いながら積み木を投げていて、それを見つけた私が、慌てて拾いに行ったこともあった。
家族や先生の目が届かないときにトイレや洗面所、台所で水遊びをして、誰かがみつけたときにはそこら中びしょびしょになっていることもしばしばだった。
りゅうは天真爛漫だ。いたずらをしても憎めない。誰もかまってくれないときは、「僕のことを忘れないでよ!」と言わんばかりにいたずらする。言葉で伝えられないから行動で示す。それがりゅうなりの気持ちの伝え方。きっともどかしさもあるだろう。大好きなコーヒー牛乳が飲みたいときも、「コーヒー牛乳が飲みたい」と言えなくて、冷蔵庫から飲みたいコーヒー牛乳を出して、私のそばに立ち、私が気づくのを待っていることが何回もある。
私たちは何度も家族で旅行に出かけた。両親は私たちの障がいを隠そうとは考えず、たくさん外に連れていってくれた。りゅうも外出や旅行は大好きで、車に乗ると、
「りゅうくん、なぁ、おーい、ぱーん、ぱーん」
とよくしゃべって、うきうきしている。
ある日、旅館で団欒していたとき、りゅうが、父が飲んでいたビールジョッキをわざとひっくり返した。りゅうは怒られる前に父におつまみのチーズ鱈を渡した。母が、
「りゅう、お母さんにもちょうだい!」
と言うと、りゅうは母ではなく、父におつまみを渡す。それを見てみんな声をあげて笑った。空気を読む力は私よりすごい。

ゆっくり成長していった

小学四年生から高校生までりゅうは養護学校に通った。中学生になるころには体も丈夫になり、やっと元気になったと家族・先生みんなが喜んだ。りゅうは日々、生活の中でゆっくりと成長していった。周りの状況を自分なりに理解して、できることも増えた。トイレも保育園まではおまるを使っていたのが、小学校では普通のトイレでできるようになり、学校では一人で用を足せるようになった。好き嫌いが多かったけれど、徐々に食べられるものや言える言葉も増えた。何かをしてもらったとき、
「ありがとうは?」
と促すと、
「あっとう」
と言うようになった。
「何見る?」
と見たいDVDを尋ねると、
「しんちゃん(クレヨンしんちゃんのこと)」
と見たいDVDの名前を答える。飴を食べたいときは自分から「あめちゃん」と言う。「おっこ」とおしっこに行きたいことも伝えられるようになった。外出して帰ると「ねんね」と言って一目散に大好きな布団に向かう。年を重ねるにつれて、ものを投げたりや水遊びをする回数も減った。小さなころから音楽やDVDを見たり、聴いたり、本をピラピラめくることが好きだったが、音楽やDVDも、幼児的なものから大人が見ても楽しめるものへと変化していった。私たち家族の会話も聞いているようで、私と母が電話で話していると、横から大きな声で笑ったり、「りゅーうくん」などとひとりでしゃべっている。きっとうれしいのだろう。
困ったこともある。高校生になると、小さいころは目立たなかった自閉傾向による「こだわり」の症状が出てきた。りゅうの場合は、着るもの・服へのこだわり。気に入ったものしか着ようとしない。違うものを着せようとするとぐずったり、怒ったりする。何週間か時間が経てばあきらめるのだけど、そうなるのを待つしかない。

りゅうに対する私の気持ちの変化

小さなころ私は、りゅうの世話をするのが好きだった。トイレや風呂、食事の介助もしたし、一緒に遊んだ。二人で意味もなく大笑いしたり、自宅の仏間を走り回ったりもした。私が、
「ドン!(ヨーイドン! のドン!)」
と言うと、二人が走り出す。りゅうが前で私が後ろ。何周か走ったら、今度はスキップ。私が体でトンネルを作って、りゅうが中を通ったり、ハイハイしたりして楽しんだ。私は目が見えにくいからりゅうを連れて遠くまで遊びに行くことは難しい。だから自然と仏間を走り回るようになった。安全な家の中でできる遊びだった。天気のいい日には庭で走ったり、りゅうが乗っている三輪車を押して遊んだこともあった。
でも、私もずっとりゅうに対していい感情を持てたわけではなかった。小学校高学年になると、りゅうの世話が嫌いになっていった。特にトイレの介助が一番いやだった。下の世話をしなければならないことももちろんだが、それ以上に自分のしていることを中断して、りゅうの介助をしなければならないのがいやだった。好きな絵を描くことに夢中になっていたかった。「なんで私がせないけんの? いまが一番楽しいのに。私だって自由に自分の時間を使いたいのに」そんな気持ちだった。いやでいやでトイレの戸をどんどんたたいていたこともあった。
もうひとついやだったことがある。
それは小学五年生のときの授業参観で、自分の親から一言メッセージをもらう授業があった。そのとき、私の母は、
「はるちゃん、いつもりゅうくんの面倒をみてくれてありがとう」
と言った。私はこの言葉を聞いてショックを受けた。他の友達は、「○○ちゃんいつもお手伝いありがとう」とか、「宿題をがんばっていてすごいね」という言葉をもらっていた。なのに、私は……。「りゅうの世話をするために私は生まれてきたのか! 私はそれだけの存在なのか!」宿題やクラスでの発表を頑張っていることも認めてほしかった。でもそれを母に言えなかった。家に帰ればいつもの日常が待っていた。どうすることもできない。「この気持ちは心の奥にしまっておこう」と決めた。いまではこのときの母の気持ちがわかる。りゅうの世話をするのは楽ではないし、母は家事もしなければならないから、少しでも面倒を見てもらえると助かるのだ。
そんな私に気持ちの変化が起きたのは高校一年生のときだ。私は思春期でずいぶん悩んで苦しんだ。人と関わることが怖くなり、周りの評価ばかり気にしていた。そのころは「私は誰からも必要とされていない。死んでしまいたい」とつらかった。思いつめた顔をしている私を見て、りゅうはいつも笑ってくれた。落ち込んでいても、ずっと寄り添ってくれた。まるで「はるか、大丈夫だよ。僕がついているぞ」と言ってくれているようで心強かった。人を勇気づけるのに言葉はいらない。りゅうといるだけで私は少し心が楽になった。そんなりゅうを見ているうち、私は気づいた。りゅうが私を支えてくれている。それはりゅうが私を必要としているからじゃないか? 誰からも必要とされていないと思っていたけれど、もしりゅうが私を必要としてくれているなら、がんばらなくてもいいから、りゅうと生きようと思った。誰かに必要とされるって、こんなに生きる力をくれるんだね。りゅうや周りの方々の優しさに助けられ、私は少しずつ元気になっていった。
いつのころからか、りゅうは独り言で、私のことを「はるか」と呼ぶようになった。呼ばれるたびに感動する。人から名前を呼ばれるのにこんなに感動するなんて!
中学生から私は盲学校に通い、平日は寄宿舎で生活した。週末や長期休業は自宅で過ごす。私が自宅に帰るとりゅうは喜んだ。高校二年生の夏休みが終わり、私はりゅうが学童に行っている間に寄宿舎に戻った。家に帰ったりゅうが、「はるかがいない!」と私を探し、一時間以上泣いた。結局母が、私が使う駅まで連れて行きやっと納得して落ち着いた。このことは母から電話で聞かされた。私は母の苦労をねぎらいながらもおかしくて、でもすごくうれしくて笑ってしまった。
このような経験を積み重ねていき、私もりゅうが本当に私のことを大切に思ってくれていると実感した。りゅうのことが大好きになり、だんだんりゅうの成長を自分のことのように喜べるようになった。りゅうの世話をいやだと感じることも減っていった。正直、いまでもいやだと思うとき、自分の時間を優先したいときもある。でも、りゅうに必要とされていると気づけた私は、りゅうへの接し方も、気持ちも変わっていった。大切にすれば大切にされる、心を持って接すればそれは必ず伝わり、自分の気持ちに応えてくれることを学んだ。りゅうの気持ちや、どうしたらりゅうが安心して暮らせるかを一番に考えるようになった。

りゅうに与えられた試練

高校二年生になったりゅうはストレスから不安定になってしまった。夜は寝ないし、ときに突然怒り出して、二時間くらい暴れて、家の外に走ってでていってしまったこともあった。母も手がつけられなくて、本当にあのときは苦しかった。気持ちが安定するまで一年くらいかかった。
いま、りゅうは新たな試練と向き合っている。それは小さいころ、免疫が低かったために受けていた注射の後遺症と思われる症状だ。全身に膿の入った袋ができ、ぱんぱんになっている。その影響で高熱に苦しみ、通っている福祉事業所にもなかなかいけない。普通なら膿を出す処置をすればすぐ治るのだが、りゅうはその処置ができない。針で膿を出す治療は、りゅうにとっては恐怖以外の何でもない。暴れては危険だと医師も判断し、服薬の治療が始まった。りゅうは苦い薬を頑張って飲んでくれる。そのたびに私と母は、
「りゅうくん、すごいね。こんな苦いの飲むんだもんね」
とほめる。苦しさと闘い、がんばるりゅうの気持ちに寄り添いたい。りゅうは膿瘍のうように伴うとてもつもないかゆみと闘っている。かいてはいけないことがわからないから、かきむしる手が止まらない。両親も私も、
「りゅう、かかれんよ」
と言うのだけど、それでも止まらない。夜も眠れない。私もりゅうよりずっと小さなおできが背中にできていてかゆくてたまらない。でも「私と比べられないくらいりゅうはかゆいんだろうな」と思ったらどんなかゆみでもつらさでも耐えることができるような気がする。

りゅうのありのままを伝えたい

ある日、テレビで「障がい者・児の兄弟たち」についての番組を見た。そこに映っていたのは、障がいのある兄弟のことを周りに知られたくない、両親が障がいのある子ばかりに目をむけ、自分に関心をむけてくれないという兄弟たちの苦悩の声だった。それを見て、共感と悲しみを覚えた。自分の存在を認めてほしい、障がいのある兄弟の存在を社会に受け入れてほしい。それができないから苦しい。授業参観での母の言葉、自分のことをもっと認めてほしかったあのときの気持ち。りゅうの世話をするのがいやで仕方なかった、かつての自分を思い出す。つらかったけれど、いま思えば、私は両親から愛されていないわけではなかった。しかし兄弟たちはそれを感じることができず、深刻な生きづらさを抱えている。また隠されることを余議なくされて、堂々と生きられない人たちがいる。そんな人たちがいることがとても悲しい。私だったら障がいを隠されるのはきっと耐えられないだろう。障がい者も障がい者である前に一人の人間だ。障がいは恥ずかしいことでもなく、隠されるべきものでもない。障がいはその人自身だ。私はこの社会に生きる全ての人が、障がいの有無に関係なく自由に生きて、活躍できるようになることを願っている。
また、知的障がい者の福祉施設で起きた虐待のニュースを見るたび、私は強い恐怖を感じる。りゅうもそんな目にあうかもしれないと思うと、ひとごととは思えない。りゅうのような重度の知的障がい者に口で言っても伝わらないし、自分から虐待を受けていることも他人に伝えられないから何をしてもいいのか! りゅうたちだってうまく言葉にできないけれど、意志がある、感情がある。自分のしたいことを決定する自由と責任がある。りゅうにはつらい思いをさせたくない。両親や私がいなくなってもりゅうたちが安心して暮らせる社会を作りたい。そのために私は、りゅうのありのままの姿を伝えていきたい。りゅうのことを知ってもらうことで、周囲とりゅうたちにつながりができれば、私が望む社会への第一歩になるのではないかと思う。

二人だけの姉弟

私たちは二人だけの姉弟だ。でも私たちは周りの方にあたたかく見守られながら生きている。それに感謝し、助けられながらも、これからもお互いを支えあって生きていきたいと思う。二人とも障がいがあるせいで不自由なこともある。私は移動することが一人では難しくて、誰かの手を借りなくてはならないことがある。「見えれば一人でできるのに……」ととてもつらい。りゅうだって、えらい(つらい)とき、熱が出て苦しいときに、「えらい、頭が痛い、おなかが痛い、熱がある」って伝えたいのに、どう伝えればいいのかわからなくてとても苦しいはずだ。
お互いつらいことは他にもたくさんある。でもたくさんの試練を乗り越えてきた二人なら、この先何があってもきっとがんばれる。私はそう思う。
りゅうにはいつも声をかける。帰ってきたら「ただいま」、朝起きたら「おはよう」、入浴後には「お風呂上がったよ」。「りゅうのことを忘れてないよ」という気持ちを込めて笑顔で言う。
私はりゅうの笑顔が、りゅうが「はるか、はるか」と私の名前を呼んでくれている声を聴くのが一番好き。だって、りゅうが私のことを大事に思ってくれているってわかるから。「はるか、大好きだよ」って言ってくれている気がするから。
りゅうはこの先、施設に入所するかもしれない。両親はだんだん年をとってくるし、りゅうはどんどん力が強くなってきている。私は目が見えにくいし、家族で介護をしていくのはおそらく難しくなってくるだろう。
だからこそ、私はいま、りゅうと過ごせる幸せな日々を大切にしたい。いつかりゅうと別れる日がきてしまっても、「もっとこうしてあげればよかった。あんなこともしてあげたかったのに」と後悔したくない。「私は姉としてりゅうにやれることは全部やった」って言えるようにしたい。
りゅうがいてくれて本当によかった。世話をしたくないこともあったけれど、私は小さいころからりゅうがいるのが当たり前だった。りゅうがいない家族なんて考えられない。りゅうが人を思いやる大切さを教えてくれた。
「りゅう、私がつらいとき、そばで笑ってくれてありがとう。りゅうの笑顔にどれだけ救われたかわかりません。りゅうの笑顔のパワーのおかげで私はいまここにいます。りゅうは私にとって最高の弟です。この先たとえはなればなれになったとしても、私はりゅうのことを忘れずに思っているよ。ずっとそばにいるね」
最後に、私はりゅうがこの世を旅立つとき、「お父さんとお母さん、はるかのところに生まれてきて幸せだった」って思ってくれればいいなと思う。りゅうが「僕の人生は最高に幸せだった」と思えるように、私はこれからもりゅうのことを見守って支えていきたい。それが、私がこの世に生まれてきた役割のひとつだと思うから。

植田 悠郁プロフィール

一九九〇年生まれ 鍼灸マッサージ師 鳥取県倉吉市在住

受賞のことば

今回、初めて応募させていただきました。自分が弟とともに歩んできた日々を、多くの皆様に伝えたいという思いで応募しました。その思いがかない、そしてこれからも作品として多くの方に読んでいただけることがとてもうれしいです。今回受賞できたのは弟をはじめ両親や周りの方々のおかげです。心から感謝します。そして私は、これからも弟と支え合い、助け合いながら生きていこうと思います。

選評(若泉 久朗)

「僕のことを忘れないで!」天真爛漫な弟は知的障害があり、支える姉も視覚障害があります。姉は思春期に人と関わる事が怖くなって死にたいと思います。支えてくれたのは笑って寄り添う弟でした。弟に必要とされて生きる力をもらいます。姉は弟の意思と自由を守っていこうと決意します。「人を勇気づけるのに言葉はいらない。ずっとそばにいるね」互いに支えあう姉弟愛は絶対的です。かけがえのない強い絆が愛しく美しく眩しいです。

以上