第51回NHK障害福祉賞 矢野賞作品
〜第2部門より〜
「ともに生きていく」

著者 : 渡辺 和子 (わたなべ かずこ)  大阪府

四歳の孫が
「おばあちゃん、由紀子さんは子供なの? 大人なの?」
と聞いてきた。
由紀子さんとは、今年三十八歳になった私の長女だ。娘には、知的障害と双極性障害がある。次女の子供である孫の目から見て、由紀子さんは風貌は大人だが、自分一人ではできないことがあるので、子供なのか大人なのかと素直に疑問に思ったのだろう。
私は
「由紀子さんは私から生まれたので私の子供。そして三十八歳なので大人だよ」
と答えた。すると孫が
「ママは?」
と聞いた。
「同じだよ。ママも私が生んだので私の子供で、由紀子さんの妹。そしてかのちゃんのママだから大人だね」
と言った。孫は「ふーん」と答えながらも、何か言いたそうだった。
「どうしたの?」
と聞くと
「ママは私ができないことを手伝ってくれるけれど、由紀子さんは、おばあちゃんにいろいろ手伝ってもらってるから、大人なのかなあと思って」
と答えた。
「そうだね、大人でも子供でも、人はいろいろ、それぞれ違うんだよ。ひいおばあちゃんは、この頃耳が少し遠いの。だけど自転車に乗れるの。由紀子さんも自転車に乗れるけれど、最近は歩くときにふらつくから危ないので乗らないの。おばあちゃんは、自転車には乗れないの。でも車の運転ができるから、みんなを乗せてお出かけするでしょう? ママは自転車と車の両方に乗れるの。みんな、できることやできないことが違ってるものなんだよ。どんなことでも、出来る人が出来ないことがある人を助けて、仲良く暮らすと幸せだと思うわ」
と私は話した。

娘の由紀子は、出産時に臍帯を首に巻いて出生した。初めてのお産で何もわからなかった私だが、産声をなかなかあげないことが気になって、医師に
「元気な子ですか?」
と聞いた。すると医師は
「見たところはね」
と答えた。どういう意味だろうと思ったが、私はその言葉の意味をよく理解できなかったし、質問する知恵もなかった。

娘は生後二か月の時に診断された先天性股関節脱臼に始まり、一か月間の原因不明の発熱、頑固な便秘、嚥下困難、コミュニケーションの取りにくさなど一歳の誕生日を迎えるまでに、いろいろな困難があった。ひとつ困難を乗り越えると、また次の困難が湧き出してきた。私は
「娘はね、一歳までに病院で歯科以外は、みんなかかったことがあるわ。経験豊富な母娘でしょ?」
と周りに自慢した。それからも言葉の遅れ、身体が傾くことや歩行の不安定さ、一人だけで遊ぶことなどいろいろあった。

娘が三歳を過ぎ、幼稚園への入園時期を迎えた。自分一人ではまだ何もできないと思いながら、近所の幼稚園に願書を出した。私は、娘に幼稚園に入園したときに役立つだろう折り紙やはさみの使い方、トイレでの下着の上げ下げなどを教え込もうとした。どれもこれもさせようとすると、急に手の力を抜いてしまい、させることができなくて、私は何も教えられなかった。幼稚園入園はどんなに努力をしても、今年は無理だろうと私自身が自覚し、入園を断りに行った。すると
「ご縁があって入園手続きをされたのです。ぜひ、いらっしゃい。待ってますよ」
と娘にも微笑みながら、園長のイタリア人神父さんが、言ってくださった。その言葉は、私に幼稚園生活への不安よりも、幼稚園の力を借りて諦めないでやってみようと思わせてくれた。
幼稚園での集団生活は、担任の先生の補助なしでは成り立たないものだった。
「由紀子ちゃんがいてくれるから、クラスの核がはっきりして、みんなが優しい気持ちになれ、まとまったいいクラスになっています」
と言ってくださる先生の言葉を頼りにして、私は毎日幼稚園に娘を送り出した。娘は友達に手をつないでもらい、話しかけられ、手伝ってもらいながら、丸を描くようになり、いろいろな歌を覚え、お弁当を食べたりしながら、少しずつできることを増やしていった。

そのころには、出産のときの医師の「見たところはね」という言葉は、授かった娘には障害があるという意味だったと理解できた。
テレビで、偶然、言葉の遅れがある子供の番組を見て、娘とそっくりだと驚いた私は、NHKに娘の育て方についての相談の手紙を出した。知識不足の私に温かな返事が届き、教えていただいた大学で、親子ともに指導を受けることができた。親が先に発語をするのではなく、子供の言葉を真似たり、子供の気持ちを大切にして、子供の発語に対して親が答えると、言葉が出てくると教えてもらった。言葉の遅れを気にする私に
「『マンマ、マンマ』とテープレコーダーに録音して、エンドレステープにして一日中流したら、しゃべるんじゃない?」
と提案するような父親だった夫が、常時リビングにビデオカメラを設置して、撮影し、娘との会話を分析し、遊び方や言葉のかけ方を考えるようになった。偶然につけたテレビの番組に、娘を育てる道しるべがあった。

「地域の子供は地域の学校で、共に学ぶことを目指していますので、校区の学校に来てくださいね」
と校区の先生方に、娘は温かく迎え入れていただき、小学校も中学校も、地域の学校に通った。
小学校に入学したときは、ランドセルを一人で背負うことができなかったし、ひらがなの読み書きも、数の意味も分からなかった。先生方の娘をありのまま受け入れようとしてくださる気持ちは、クラスの友達にも伝わった。下校時は、近くの友達がともに下校してくれ、帰宅後は遊びに来てくれた。友達が遊びに来てくれても、一緒に遊ぶことができず、一人で後ろを向いて、ぬいぐるみを一列に並べてばかりいた。友達が一緒にぬいぐるみを並べて遊んでくれるうちに、一緒に遊ぼうとするようになった。友達がぬいぐるみを積み上げるのを見て、同じようにしたり、交代で積み上げる楽しさも知った。娘が一つのことを体得するには、友達の何十倍も練習しなければできなかったが、繰り返しすると、少しずつできるようになった。すると、できたことがうれしくて、自分でもやってみようと思うようになった。担任の先生は、娘のために忙しい時間を割いて、授業の様子や、娘の行動について毎日連絡帳で教えてくださったので、私は学校の様子を知ることができた。私は家庭での娘の様子を連絡帳に書いて、娘のことを知っていただき、学校生活に参加しやすいようにと願った。
小学校から中学校への引き継ぎも、双方の先生方がきめ細かく娘のために配慮し、考えてくださった。娘が「テニスクラブに入りたい」と希望していると中学校へあらかじめ伝えてくださった。すると中学校では、少しでもなじめるようにと、担任の先生をテニスクラブ顧問にもしますと小学校に連絡があった。私は、先生方の熱意に感謝し、そこまでしてくださるのだと驚いた。学習面でも学習した内容を家でもわかるように、教科ごとの先生が、毎時間ごとに連絡帳で知らせてくださった。その上、先生方が娘の学力に合わせたテスト問題を別に作ってくださったので、中学を卒業した時には、簡単な漢字の読み書きや計算だけでなく、英語の単語も簡単なものは読み書きできるようになっていた。家でテレビのニュースを聞くと「これは社会で習ったよ」と言って、得意そうにしていたし、興味が広がっていった。修学旅行では、決められた小遣いで、家族のほか、いつも優しくしてもらう近所のお姉さんにも、それぞれの好みを考えて、土産を自分で選ぶこともできるようになっていた。娘にかかわってくださる多くの先生や、友達、地域の人々の力で、親だけではできない経験を重ねることができ、娘は地域社会に参加し、知的にも成長した。共に学ぶ意味を実感する教育を受けることができた。

もう少し同年代の友達と一緒に学び、得意なことを見つけ、自立できるよう育ってほしいと思った。娘は中学校卒業後、支援学校ではなく、家政系の専修学校に入学することにした。
自分一人で通学できると娘は言って、電車通学をした。一緒にお弁当を食べたり、同じ電車で帰ってきたりする友達もでき、縫い物も少しずつ縫えるようになって学校生活が軌道に乗ったかと思った秋に、いじめが発生した。娘の制服のポケットから「死ね」と書かれたメモを見つけた私は、メモの理由を聞いた。
「これは冗談だよ」
と娘は笑ったが、大切な持ち物がなくなったり、ノートをはさみで切られたり、頬にあざを作って帰宅したりするようになった。娘は心のバランスを崩し、手のひらにひどく汗をかいたり、ぶつぶつと小さな声で独り言を言って、部屋の隅にうずくまった。日常生活でも、風呂に服を着たまま入ってしまい、濡れた服からしずくを垂らしながら洗面所に呆然と立っていたり、パジャマのまま学校のかばんを持って登校しようとしたりして、自分を失っていった。
「死ね」と書かれたメモを持って、学校に夫と相談に行った。娘の成長を願い入学した学校だったが
「義務教育ではないので、自己解決してほしい」と言われ、相手の連絡先を教えられた。いじめる相手のお母さんと話をすると、その子もいじめを受けていて、つらい思いをしているとわかった。つらさや弱さを持つ生徒が、より弱い生徒をいじめる構図があり、学校にその原因を伝え、娘のことをもっと理解してもらうように努力をしたが、根本解決は難しかった。娘の能力や興味にあわせて教育を受けることは、ここでは望めないと思った。
「まだ頑張れる、学校へ行きたい」
と娘は言ったが、心の傷が深くならないうちに止めた方がいいと、大学の先生にも助言してもらい、学校を中退した。
これでいじめから抜け出したと思ったが、心の傷は簡単に取り除くことができなかった。
眠らぬ夜が幾日も続き、大声でしゃべったり、怖い人が追いかけてくると言って、家の中を走り回った。躁状態になり精神科に入院した。鬱になって、一人ではなにもできず、言葉を忘れてしまったかのように無言で過ごした日々もあった。
いじめは、仲良しの友人たちから受けたものだったので、信頼している人につらい思いをさせられることが、知的理解度が低い娘には真に理解できなかった。そのため友達が恋しくて
「友達が遊びに来るかもしれないから、迎えに行く」
と言って出かけようとした。それを止めようとする私を振り切ろうとして、私の手に噛みついた。突然走り出した娘を追いかけ、見も知らぬ方に捕まえてもらったこともあった。眠れぬ夜に
「チャイムが鳴っている、友達が来てくれた」
と布団から飛び起きて大騒ぎもした。やっと寝かせた時、窓から見える月は、毎日規則正しく満ち欠けしているのに、娘はなぜ、日常をいつも同じように送れないのだろうか、と思った。けれど弱音もはかず、泣きもせず、懸命に毎日を過ごす娘の眠る顔を見て、この娘が泣かないのだから、私は泣いてはいけないし、泣かないと思った。
何とか娘を元のように戻したいともがく私に、精神科の医師が
「今よりも、もっと悪くなってもいいと思いましょう」
と言った。私にとって思いがけない言葉だった。娘は、昼夜逆転、自己制御不能など起こし、日常生活を送るだけでも大変なのに、今よりもっと悪くなるなど考えられないと思った。
医師はさらに
「障害のある子供の母子分離はとても難しく、親はいつまでも子供を子供だと思っています。今の状態が、反抗期だと思いましょう。家で、由紀子さんとお母さんは二人でそろって同じことをせず、それぞれが自分のしたいことを別々にしてください。それが母子分離です」
と言った。
私は娘の成長に遅れがあるとわかりながら、普通にみんなは……ということにとらわれ、今日よりも明日、明日よりも明後日、少しでもよりよくと思い育てた。けれど、それは一方から見ると、ありのままの娘を認めないことにつながると、その言葉から知った。
娘がみんなと同じ学校に行きたいと言うからと入学させた専修学校も、お稽古ごとの陶芸や油絵、習字に機織りもみな、私が選んだ選択肢の中から娘が選ぶよう促されたのではないかと、医師に指摘された。当たっていると思った。私の望むかたちの娘にすることではなく、娘が望むことは何かと考えることが、娘の自立だと思い、娘の心を優先させて、生活しようと思った。
狭い家の中で、二人で別々のことをするのは、慣れないことで難しかった。それまでは、洗濯物を干すのも、食器を片付けるのも、掃除をするのも、いつも二人でしていたが、娘に「手伝って」と誘わないことにした。娘は機織りをしたり、ジグソーパズルをいくつも作って、廊下に並べ、眺め、満足そうな顔をして、私に見に来るように呼びに来た。娘はしたいことを自分で決めるようになり、それをしているときは集中していたので、私は家事をしたり、庭仕事をしたり、趣味の陶芸をしたりしながら、時々娘を目の端に入れるだけにして、過ごした。私にも、私だけの時間が生まれた。娘を授かって障害をもつ子供の母だと自覚した時から、心の底に持っていた、娘をなんとか自立できるようにしなくてはならないという気持ちが薄れていき、「今よりも、悪くなってもいい。娘が穏やかに暮らせるなら、その日一日を大切にして、暮らすことができればいい」と考えられるようになった。私の気持ちは楽になり、心は少し自由になった。

あれから私は、娘の意思をできるだけ大切にしようと思い、娘がしたいことは何か、してほしいことは何かと聞きながら、考えながら暮らしてきた。
今も、娘は季節による日照時間の変化や、生理周期によって気分に変動がある。テレビドラマや外的刺激でも、気分が不安定になるため、病院の通院と投薬が欠かせない。日常生活での身辺自立の程度や、知的理解度も、日によってばらつきがある。昨日脱げたパジャマの脱ぎ方が分からなくなったり、シャツの前後を間違えたりする。Tシャツを着る時に、頭を出す場所が分からなくて、袖の中に頭を突っ込もうとしてもがいたりもする。かと思うと、だれの手助けもなく、パジャマを脱ぎ、シャツを着てスカートをはき、タイツがはける日もある。私は娘のその日の状態を観察し、必要ならば手伝ったり、見守ったり、励ましたりして過ごしている。

そんな中、昨年の秋、次女が東京で第二子を出産することになった。出産前後の次女と孫の生活を手伝うために、私は東京へ行くことにした。娘と夫と二人きりで家で暮らすのは難しいので、娘と夫と私の三人が、出産前後を東京で暮らすことにして、マンションを借りた。そのマンションで孫を含めた生活となり、大きな環境変化に娘がどう反応するか、娘の意思を尊重しながら、次女母子と暮らせるだろうかと不安だった。娘のことを二十年ほど知っている医師は
「家の中では、いつもと同じメンバーの家族なのだから、きっと大丈夫ですよ」
と励ましてくれた。その言葉に力を得て、娘に
「赤ちゃんが生まれるから、しばらくの間、東京へ行って、みんなで暮らせる?」
と聞いた。私がマンションに送る荷物の用意をしたり、電話で話をしているのを聞いていてわかっていたのだろうが
「わかった、行けるよ」
と言ってくれた。
東京へ行くと、次女の夫も一緒に暮らすことになり、狭いマンションで三世代の生活が始まった。次女が出産を終え、退院した初日は慣れないせいか、私が赤ん坊を抱いていると娘が
「その子をどこかに置いてきて」
と言って、私を慌てさせた。受け入れられないだろうかと思ったが、翌日には
「赤ちゃんが泣いてるよ」
と気にして教えてくれるようになり、家族の一人として、気遣いを見せるようになった。
孫も娘に対して、初めのうちは「貸してあげない」など言って、わざと意地悪することがあったが、ともに暮らすうちに、娘のことが分かってきた。そればかりか一緒に字や絵を書いたり、折り紙を二人で分けて一緒に折るようになり、娘と孫の小競り合いはほとんどなくなった。しりとりをしたり、テレビの子供番組を一緒に観たりして、楽しむことができるようにもなった。娘はおやつの時間には、いつも自分で考えた人の誕生日を祝う。
「ハッピバースデー、**ちゃん」
とみんなで歌ってから、おやつを食べるのが娘のきまりだ。孫もおやつを食べる前に
「今日は、私は××ちゃんにする。みんなで一緒に歌おう」
と言うようになり、変わっていった。
娘にとって全てが過ごしやすい環境ではなかったと思うが、大きな気分の変化も見せず、大家族の一人として自覚し、頑張れた。ふらつきながらソファから立ち上がる娘に気付いた孫が
「おばあちゃん、由紀子さんが立とうとして転びそうだよ、早く来て。私じゃ助けてあげられないよ」
と知らせてくれるようにもなった。家族それぞれが、自分と違う人を受け入れ、お互いを思いやりながら生活することができるようになった、三か月間だったと思う。

今も私は、しばしば東京で暮らす次女の家に手伝いに出かける。私が
「東京へ行ってくるから、お父さんと留守番しててね」
と言うと、娘は
「お母さん、明日、帰って来る?」
と聞いてくる。
「もちろん帰って来るよ、待っててね」
と答えながら、そう言って、送り出してくれる娘の心に感謝する。
娘とともに過ごした三十八年間は、娘に対して何かをしてやれたかと思えば、たいしたことはできなかった。娘と共に転んだ日もあったし、けがもさせた。そんな私に娘は根気強さや観察力を与えてくれ、笑いや喜びを運んでくれた。そして誰にでも何事も隠さず、正直に素直に話すことが、娘をわかって、知恵や力を貸してもらうことにつながると学んだ。また、町の中でも温かな眼差しを注いでくださる人々が、思いがけないほどたくさんいてくださることも知った。
それぞれがそれぞれらしく、お互いを尊重し、よく見つめ、工夫して生きると、どんな時でも、その中に幸せを見つけることができる。
娘のありのままの姿を認め、新しい喜びや楽しみを見つけながら、これからも、ともに学び、歩んでいきたい。
家族それぞれがくれた幸せに感謝し、今日も頑張ろう。

渡辺 和子プロフィール

一九五一年生まれ 主婦 大阪府枚方市在住

受賞のことば

知人が全くいない夫の勤務地で娘を授かり、育てる中で、周りの方々の知識や思いやりに支えていただいたからこそ、今があることを、応募作品をつづりながら感じました。何かを成し遂げたわけでもなく、ただ娘が自分らしくいられるようにと願いながら日々を暮らしてきた私が、矢野賞をいただくことになり、光栄に思います。選考委員の先生方や、寄り添ってくださった方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

選評(鈴木 賢一)

障害者をもつ母親が通過しなければならない試練「母子分離」。それを「もっと悪くなってもいい」と覚悟して乗り越える姿が鮮やかに描かれています。周囲のやさしさに喜び、また、無理解に悩みながらも娘さんの障害と向き合い続けた三十八年間の経験。「娘のありのままの姿を認め、お互いを尊重し、よく見つめ、工夫して生きると、その中に幸せを見つけることができる」三十八年間が与えてくれた印象深い真実の言葉です。

以上