第51回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第1部門〜
「ふつうにふつうの服を着るよろこび」

著者 : 田中 愛美 (たなか まなみ)  京都府

歩いたり走ったりすることは手取り足取り教えてもらうものでもないので、人間あまり意識せずしていることだと思うのだが、私は昔から歩いたり走ったりしているうちに、ふとその「しくみ」が分からなくなることがままあった。
あれっどう歩くんだっけ、となって、じっとその場に立ち止まってしまう。多分右足を地面から離すのだが、右足ははたして上にあげるものなのか、前の方に出すものなのか、はたと分からなくなる。右足を地面から離すと左足だけで地面に立っていることになり、それってふつうに考えると、両足で立っていてバランスをとれている状態からバランスを崩すことであって、先々の見通しがつかぬまま片足で立ちバランスを崩してしまうことは、とても怖い。もしかすると転ぶかもしれない。
バンジージャンプを飛ぶときのように、えいっと気合を入れて右足をちょっと浮かしてみても、前には進めない。左足で地面を押さなければならない。左足だけで立ち、ゆらゆらしながらも、前に進みたいのだから重心を前に移さなければならない、と考える。ならば、と、踵、爪先……と順番に地面を押してゆく。ここまでくると、体はなんとなく覚えているようで、右足が浮いただけの状態からすいっと前に出る。一歩踏み出してしまえば、あとはその勢いで同じ動作を繰り返せば大丈夫。
探り探りで歩いているからか、昔から自分は歩き方が変だと感じていた。O脚だからかもしれないが、とにかく歩き方は変だった。油断すると爪先だけでふわふわ歩いてしまう。ありとあらゆる意味で「地に足がついていない」からかもしれない。

子供のころから、すべて一から十まで教わらないと判断がつかない。よく覚えているのは「おふろの入り方」。
浴槽は右足から入るの? 左足から入るの? なんていうのは、いいのだ。私は絶対右足から! という人がいたところで、それは願掛けだとか習慣だとか、そういう個人の自由の範疇のものだろう。
しかし、シャンプーの量など、三十センチの長さの髪に対しておおよそ二プッシュ程度、など、ある程度適した分量があるはずだと私は思う。だからまず、その適量、皆にとってのふつうっていうのを教えていただきたいのです、と私は考えていた。
まずはふつうを知って、そのふつうよりもっと私は泡立ちがほしいんです、と思えば、そこは科学物質の弊害だとか洗い流しの時間が長くなるとか、そういったリスクも考慮したうえで、自分で決める。でもまず、まずもって、前提としての「ふつう」を教えてほしい。
だから
「シャンプーってどのくらい使うの?(あなたが研究員ではないことは知っていますが、せめてあなたのこれまでの経験から得た知識を教えてください)」
と尋ねるのだが、母は
「好きなだけ」
と言う。
ありがとうお母さん、私の自主性を尊重してくれて。でもまず一般的な「ふつう」がどの程度なのか知りたかったな、私。うん。
マヨネーズのかける量なんかもそうだ。「好きなだけ」。いや、マヨネーズのこと、とても好きだから、「好きなだけ」って言われれば、好きなだけかけるよ? でも一般的に、世間がいわゆる「ふつう」としているのはどの程度の量なのか、とお伺いしたい。私は。
ありがとうお母さん。そうだよね、私の自由だよね。でも多分体に良くはないと思うから、皆よりちょっと多め、くらいに留めたい。で、その、皆? あんまり人がマヨネーズをぶっかけるタイミングに出会ったことがないので、予備知識として、マヨネーズって大体この千切りキャベツの量に対してはこんなもんだよね、っていうの、私は知ってみたかったな。うん。
「ふつうに」とか「ちゃっと」とか「ぱーっと」とか、私にはもう、ぜんぜん分からないのだもの。

私は昔から病院が嫌いだった。病状を自分で説明しろというのがよく分からないのだ。病院が嫌いになった理由のひとつにはこういうこともある。
子供のころ、背中が痛くて病院に行くと、痛みの種類をニュアンスで答えてください的なお医者さまがいらして、しきりに
「ガンガンですか? ズキズキですか?」
みたいなことを問われるのだが、あなた、そういうことはまずありとあらゆる種類の電流を私に流して「はい、これがズキズキの痛みです」「次に、これがチクチクの痛みです」「えー、これは、ガンガン、ですね」とかやってから尋ねてください、お願いします、と心底思ってしまった。
だって、どんな痛みが「ガンガン痛い」なのか、どんな痛みが「ズキズキ痛い」なのかを、私は知らない。私はそれきりその場で何も言えなくなってしまった。するとお医者さまは半笑いで、
「自分のことも言えないの?」
と言った。はい、分かりません。すみませんでした。それから私は病院もお医者さまも大嫌いだ。

私は「ふつう」が分からない。皆がなんとなく、ニュアンスで、自然と感じ取っていることを感じ取ることができない。そんな私が「ふつう」を知るための作業が「データを集める」というものだった。
おそらく皆はこれを無意識のうちにやっているのだが、私は意識的にしないとかなりの部分を取りこぼしてしまう。自分の中にデータをたくさん取り込み、そのなかから平均を探す。そうやって、いわゆる「ふつう」が徐々に分かるようになってきた。
「ふつう」というものが分からなかった子供のころは大変だったけれど、これから長く生きてゆくにつれてどんどんデータは増えていく一方であるからして、私はこれからどんどん生きやすくなることだろう。未来は明るい。

私は近頃よく聞く発達障害というやつで、ADHD(注意欠如・多動性障害)かつASD(自閉症スペクトラム障害)だと診断されている。
それとこれとが関係あるのか、いや、関係なくはないのだろうが、昔はそうと知らなかったわけであるし、なにより、「人と接することが苦手」なんて人はそこいらにごまんといることも分かっているつもりだ。
だからともかく、多少極端ではあるけれども、私は割とふつうに、……「ふつうに」だなんて自分でよく分からない言葉を口にするのは憚られるのだが、平均的に、という意味の「ふつうに」ではなく、ナチュラルに、という現代語的意味合いで今回は「ふつうに」を使わせていただきたいのだが、まあ、つまるところが、ふつうに人付き合いが得意でない、のだ。長くなってしまったが、単純にそういうことなのである。私は人付き合いが苦手だ。
誰かと接するときは必ずめちゃくちゃ気を遣うし、その分あとからどっと疲れる。対話でも文章でも、人と交流するととにかくなんだかしんどい。
でも、だからこそ、そこに一番注力してきたという側面もある。そこがうまくいくと、つまり、人とスムーズにコミュニケーションが取れたり、その中で相手になにかを感じてもらえたり、更にはそれによって私を好きになってもらえたりなどという結果・効果が表れると、私はこれまでの努力の成果が実った気がしてとてもうれしい。やりがいを感じる。

なんにせよ、生きてゆくのであれば、人と関わることは避けられない。私は、自分が人と接する力が弱いことに幼いころから気付いていたので、どうやって人と関わってゆくのかということについていつも考えていた。考えて、学んで、練習して、実行した。
人と目が合わせられなかった私は、人の目をじっと見つめる子供になった。けれど、じーっと目を見てばかりいると相手を威圧してしまうし、自分も本心が話せないことに気がついた。今度は視線の意味と効果について考えた。
無愛想でかわいげのなかった私は、いつも楽しそうににこにこしている子供になった。けれど、なにもないのに常ににこにこしていると、なにがそんなに楽しいの、こわい、と言われるようになった。今度は笑顔の意味と効果について考えた。
ほとんど発言をしなかった私は、人一倍言葉に敏感な子供になった。よい言葉、プラスの意味の言葉、美しい言葉が正義だと信じ、肯定的で明るい言葉しか使わなくなった。けれど、本心とは少なからず乖離しているし、人との距離をいっそう感じるようになった。今度は言葉の意味と効果について考えた。正しい言葉とは何か、考えた。

しかしあるとき気がついた。私はこの、「結果・効果」イコール「意味」ばかりを求めていたのではないか。
私には、わざわざ口に出すべきこと、というのが分からない。
「暑い」だとか「かわいい」だとか言う意味が分からず、続きの言葉をいつも待っている。
「暑いからクーラーつけてくれない?」
「かわいいからあれ買おうかと思うんだけど、あなたはどう思う?」
なら分かるのだ。私はいつも「わざわざそれを口に出す切実な理由」、つまり相手への欲求や意見がそこにあると思っている。
人に聞くとそう言うのだが、「ただ暑さを感じたから暑いと口に出す」ということが分からない。意識のあるなしに関わらず、意図なしの発言の存在が信じられない。
だから、ただ暑くて「暑い」と言ったところを「暑いから近づくな」や「暑いのになんでクーラーついてないの? 察してつけてよ」に曲解し卑屈になったりするのだ。まったくややこしい、と他人事のように思う。

近頃になってようやく、そこに「共有」というキーワードがあるということが分かってきた。今まで全く分かっていなかった自分に、むしろ驚いた。
そうだ、人には感覚や情報を共有するために言葉を発するという側面もあるのだ。これが、『「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ』(BY 俵万智さん『サラダ記念日』)、というやつか。
私はおそらく「共有する」という概念が薄い。人と分かり合いたいという欲求はあるのだが、その極北だけをただ見つめていて、そのための「共有する」という通過点が見えていない。
これは、私にとって大発見だった。当たり前だろうと思う人も多いかもしれないのだが、私に決定的に足りないものは、そこだったのかもしれない。だから人との関わりに対して、必要以上に気負ったり畏まったりして、無駄に疲れ果てていたのではないか。
私はどこか、コミュニケーションというものには目的があり、その目的到達のためにこそ行われるものなのだと信じていたらしい。だから私はこれまで雑談やだべることの意味が分からなかったのだ。
それってなんの意味があるの? 結局なにを求めているの? 時間がもったいないし、疲れるし、くだらない……じゃなくて。じゃなくて! なのだ。
そのやりとりそのものにこそ意味が、いや、また意味意味言ってしまった。この言い方からすると、「やりとりをする」という行為を通して「親交を深める」「情報を共有する」という結果・効果イコール意味があることになってしまうのだが、そんな重大な意味を持つ行為を、半ば無意識下で行っているということが凄い。と私は思う。ふつうの人って、凄い。

私はいつも、そんなふつうの人になりたくて頑張っていた。
自分はどこか人と違う。「ふつう」じゃない。子供のころからそう感じていた。けれど、そう思うことこそが「ふつう」なのだ。私は「ふつう」なのだから、ふつうになりたいなんて思うことはおかしいし、何も考えず、ただふつうに、「ふつう」じゃないそのままで、過ごすしかない。そう感じていた。
大人になって診断を受け、ようやく自分は人と少しばかり違うことが事実として認められた。私は自分がいわゆる「ふつう」でないことを知った。すばらしい発見だった。なぜならこれで、私はふつうでいられる。
人間なんて千差万別だ。一人一人違うことが当たり前なのだ。本当の意味でそれを認められたとき、私はようやく「ふつう」というガチガチに凝り固まった重い重い鎧を脱ぎ捨てることができた。私はこれまで知らず知らずのうちに、「ふつう」という鎧を身に纏っていたのだった。脱いでみて初めて気がついたことだった。
「ふつう」とはある方面から見ると相対的な言葉だが、また別の方面から見ると、それは絶対的な言葉となる。先程も長々と言った、「ナチュラルに」のほうの「ふつう」だ。つまり、自分自身のふつう、自然。それが一番の、正しい意味での「ふつう」なのではないだろうか。
これで私は、「なんか変だぞ」と感じているこの地点から、ふつうに、ふつうの言葉を放つことができる。
〇がだめで、それならと一〇〇にとんで、それでもだめで、中庸を探る旅。学習と経験で「よい加減」「よいあんばい」「適材適所」が分かってくる。ただそれもまだ、平均点に過ぎない。私は私の心地よいふつうを探す。
そうやってトライアンドエラーばかりを繰り返して、三歩進んで二歩下がるというあんばいで、今なお私は学習途中だ。
自分にとっての正しさ、ふつうをいつも探して、自分にぴったりの服を見つけたとき、それはとんでもなくよい気分でいられるということ。それに気がつけたこと、今はそんなふつうのことがひたすらうれしい。

田中 愛美プロフィール

一九九〇年生まれ サービス業 京都府京都市在住

受賞のことば

誰かの役に立つでもなければ壮大な困難を乗り越えた経験を語っているでもない拙文に、このような栄えある賞をいただけましたこと、心より感謝申し上げます。
ものを書くという行為は、記憶をひとつひとつ埋葬してゆくことだと感じます。では自分は何をしているのかと考えると、きっと、墓を作っているのですね。自分が死んだときに入る、納得のゆく墓を作ってゆけるよう、これからも精進してゆく所存です。
この度は誠にありがとうございました。

選評(柳田 邦男)

「ふつう」って、どういうことなのか。日常語の一つ一つの意味を厳密に定義されないと、思考が先に進めないと言う辛さ。その説明は哲学問答のようだが、哲学と違うのは、実生活を阻害する点にある。その説明の難しさを、田中さんの文章は、実によく伝えてくれていますね。田中さんは、手記の最後のところで、これまでは「ふつう」という状態を客観的に定義して、その枠に自分をはめ込もうとして苦しんでいたが、今は、「自分自身のふつう、自然、それが一番の、正しい意味での『ふつう』なのではないか」という思いに辿り着き、「そんなふつうのことがひたすらうれしい」と言い切れるようになったという。すごい思考の遍歴を、よくぞわかりやすく書いてくださいました。

以上