第51回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第1部門〜
「チャレンジ。」

著者 : 佐々木 良子 (ささき りょうこ)  東京都

事故、そしてリハビリ

二〇一六年四月、私は二つの入学式に出席した。長男高校、次男中学への入学だった。
「こんな日が来るなんて……」
十二年前には、想像すらできない夢のまた夢だった。
十二年前、夫はうつ病を患っていた。頼りになる身内もいない私は、自分の胆石や椎間板ヘルニアに目を向ける余裕がなかった。夜中に激痛が走っても、ストレスからくる胃炎だと思い込み、腰の痛みは座薬と鎮痛剤でごまかした。その結果、取り返しのつかない事故が起きた。二〇〇四年秋、運転中に意識を喪失しガードレールに激突。幸い歩行者を巻き込むことはなかったものの、子どもたちも足の骨を折る重傷を負った。第四頸髄損傷、脳挫傷、肺挫傷、右股関節脱臼、左膝靭帯断裂、それが私に下された診断である。生きていたのが不思議なくらいの事故だったそうだ。意識が戻ったのは事故から一週間後のことだった。目が覚めると声が出せない。何が起きたのかさっぱり理解できずにいた。担当医師がやってきて状況を説明した。危険な状態は脱したので、しばらくして首の骨を固定する手術を行うと言う。このときまだ、手術が終われば歩いて家に帰れると思っていた。しかし医師から告げられたのは、手術が終わっても一生歩くことはできないということだった。
歩くどころか座ることも困難であり、人工呼吸器を外して自発呼吸ができるようになるかさえわからないと言う。手も足もまったく感覚のない状態では、「一生、車いす」と言われてもあまりピンとこない。ただ漠然と理解できたのは、息をすることさえできない自分が、無数の管に繋がれて、かろうじて生きていたことくらいだ。
朝も、昼も、夜もなく、集中治療室のベッドの上で天井だけを眺めていた。痛みはわからない。ただ苦しい、それだけだった。そんな中、子どもたちが無事だと知らされた。奇しくも私の意識が戻った日は、子どもたちが私の入院している病院へ転院してきた日だった。ちょうど集中治療室の真下に小児病棟がある。「無事でよかった」、その一言に尽きる。
「子どもたちもどんなにか怖かったことだろう。一日も早く、子どもたちの元へ戻らなければ」
私は覚悟を決めた。身体についている無数の管を、一本でも多く、一日でも早く外すこと。まずはそこからだ。自分の力で息をして声を取り戻すことを当座の目標にした。事故から三週間が過ぎ、容態が安定したのを受けて、首の手術が行われた。チタン製のボルトで首の骨を固定し、お尻の骨を移植することで強度が増すというものだった。六時間にも及ぶ手術は成功した。しかし麻酔から目覚めると何かが違う。
「苦しい」
手術前よりはるかに息苦しい。目をパチパチさせながら「誰か助けて」と必死に訴えた。すると担当医がやってきて、
「佐々木さん、苦しいのはね、人工呼吸器を外したからだよ」
あまりの苦しさに、口をパクパクさせながら涙目で訴える。
「苦しい。酸素、もっと」
「家に帰るんじゃないの? 人工呼吸器を持って帰るつもりなら酸素増やせるけど」
「悔しい」何て言いぐさだろう。
「悔しい……」
悔しくて、悔しくて涙がこぼれても拭うこともできない。呼吸が乱れてさらに苦しくなる。
私には泣く自由さえ残されてはいなかった。
しかし、つべこべ言ったってはじまらない。メソメソしたって苦しいだけだ。
「耐えるしかない。耐えて子どもたちに会いに行く」
奥歯をギュッとかみ締めた。
手術後一週間して一般病棟に移された。気管にチューブが入っているので声は出せない。口の形だけで意思を伝えるのは容易ではなかった。言葉のありがたみを痛感した。病棟ではリハビリも開始した。リハビリと言っても関節が硬くならないよう曲げ伸ばしをするくらい。
「はい、曲げて。伸ばして、曲げて」
頭では命令しているつもりでも、手足はピクリともしない。現実をまたひとつ思い知る。けれども悲観はしなかった。私の目標は声を出すこと。動かないものに涙するより、しっかり息をしなければ。ようやく前に向くことができた。うしろを振り向いたって何もない。あるのは前だけ。明日だけ。それからというもの、どんなに苦しい処置にも耐えることができた。耐えた分、管が一本減っていく。子どもたちに会える日が一日近づく。うれしかった。
この頃、偶然流れてきたテレビの音に耳を澄ました。目も見えず、耳も聞こえない大学准教授の話だった。通常の手話は見えないため、指点字なるもので意思の疎通を図り、大学で教鞭を執る。私は思わず自分に置き換えた。「私だったら? 私に一番必要なものは何だろう?」答えはすぐに出た。 私にとって必要なもの、それは子どもたちの成長を見届ける【目】と、子どもたちの名前を呼ぶための【声】だった。手も足もあればもちろん便利だ。今まではそれを【当たり前】としか思っていなかった。息ができるのも、声が出せるのも全て【当たり前】だった。失って初めてその大切さに気づく。 気づけてよかった。心がスッと軽くなる。また一歩、前に進めた。気持ちが動けば身体の回復も目覚しいものがある。
ちょうどその頃、子どもたちの退院日も決まった。しかし私はまだ、車いすに移れない。歯がゆいけれど焦ってはいけない。子どもたちが病室に会いに来てくれた。精一杯力を振り絞って二人の名を呼んだ。声にならない声。今の私にはこれが限界だった。
「もっともっと頑張って必ず家に戻るから待っていてね」
子どもたちに誓った。それから一か月後に気管のチューブが外された。はじめは窒息するのかと思うほどジタバタし苦しかった。声を出す以前の問題だ。鼻で息を吸い、口から吐く。これが案外難しい。たった三か月で息の仕方を忘れてしまった。今となっては笑い話である。首の方も徐々に安定してきた。とはいえ、重い頭を支えられるほどではないが、この頃から車いすに座る訓練も始まった。車いすに座るくらい大したことではないと思っていたのが大間違い。四人がかりで身体に敷いているバスタオルを持ち、宙を飛ぶように車いすへと移す。しかし、目を開けるとなぜかベッドの上。聞けば、移ったと同時に気を失いベッドへと戻されたようだ。新たな試練だった。
頚髄を損傷すると、起立性の低血圧になるらしく、座った姿勢でも気絶してしまう。車いすに座ることが想像をはるかに超えて難しかった。難しくても、これを乗り越えなければリハビリ専門の病院へは移れない。リハビリ病院へ行かなければ自宅へも戻れない。
「やるしかない」
車いすに座る。
目の前が真っ白になって耳鳴りがする。これの繰り返しだ。慣れるしかない。さらにリハビリでは、【起立台】という機械も使われた。身体をベルトで固定し、徐々に起こしていく。【張りつけ台】とでも言うべきだろうか。これは車いす以上にキツイ。内臓全部に負荷がかかって吐きそうになる。おまけに血圧も急降下してすぐさま気を失う。車いすで気絶しないためには必要不可欠なリハビリだった。起立台の角度を六十度で十分、車いすに二時間座る。とにかくやるしかない。
入院から四か月、いよいよリハビリ病院への転院が決まった。季節は秋から春へと移っていた。
リハビリ病院では新たな課題が与えられた。電動車いすの操作を覚えることと、ほんのわずかに動くようになった左手に【バランサー】というバネを着けて、自分で食事をし、字が書けるようになること。一気にハードルが上がった。ボーリングの玉が付いているような左手に、「動け、動け」と力を込める。込めたところで動くわけではないが、自分なりの目標も持った。しっかりリハビリして、子どもたちに手紙を書こう。そう決めたら力が湧いた。子どもたちを思えば何だってできた。それからというもの、通常のリハビリ時間に加え、食後の時間を使いペンを動かす練習をした。「子どもたちが私の帰りを待っている」弱音を吐くヒマはない。その方がかえってリハビリに集中できた。目標に向かってただひたすら進むだけ。その甲斐あって、ヨレヨレだけど字が書けるようになった。クレーンゲームのようだったが、食べ物も口元へ運ぶこともできた。
電動車いすも、院内の路上教習に合格した。
五か月間のリハビリを終え、いよいよ自宅へ戻る日が決まった。
二〇〇五年夏、次男二歳の誕生日だった。

チャレンジ子育て

子どもたちも元気に待っていてくれた。夫や義父、市の子育て支援を受けながら私の帰りを待っていた。夜、九か月ぶりに家族で食事をした。
「誕生日、間に合ってよかった」
けれども、うれし涙に浸る時間は長くは続かなかった。
その日の晩、夫から離婚を告げられた。
「やっと家族が揃ったのに……」
「誰のために無理をして、身体を酷使してきたのだろう」
「悔しい」
目の前が真っ暗になった。しかし、離れてしまった心を繋ぎとめることもできない。私が彼にしてあげられることは何もなかった。
退院から半年後、夫は家を出た。当初子どもたちを引き取ると言っていたが、それだけは私が耐えられなかった。子どもたちと暮らすためにつらい治療やリハビリに耐えてきたのだ。だからどうしても子どもたちと離れてなど暮らすことはできない。とはいえ、全身麻痺の母親が、二歳と五歳の子育てができるわけもなく、私が子どもたちを引き取ることに周囲は猛反対した。
当然だった。自分でも無謀な挑戦だと思う。それでも一緒に暮らしたい。頼れる手は全部借りて、私たち親子が一緒に暮らせる手立てを探した。行政も、前例はないけれどできる範囲で力を貸してくれた。ヘルパー会社に主治医の先生、訪問看護師さん、リハビリの先生に弁護士さん。みんなの協力のおかげで三人暮らしがスタートした。朝、七時からヘルパーさんが入る。朝食を作り、保育園へと送る。しかし家での慣れない家事援助、何がどこにあるのか伝えるだけでも一苦労。加えて子どもたちも保育園へは行きたがらない。もともと幼稚園へ通っていた長男は、事故のせいで保育園へと移ることになった。環境も変わり、人の手も加わって、戸惑って当然だ。私は何もできずにベッドの上にいる。
本当の苦しみはこれからだった。自分で立ち上がって動いてしまえば簡単に済むことが、一から十まで全て言葉で伝えるしかない。食器やフライパンの場所、子どもたちの着替えに至るまで全て。イライラした。思った通りに伝わらずイライラしっぱなしだ。腹が立って泣けてくる。涙も鼻水も拭けやしないくせに、一人前に腹だけは立つ。情けなかった。
プライドなんて何の役にも立たない。天井を見つめながら考えた。自分だって、人の家に行ってスタスタと何でもできるはずがない。焦ってはダメだ。どうしたらいいか考えて考えて、また考えた。朝はベッドの上からしか話すことができないのなら、前の晩に食材や食器の位置を確認しておけばいい。子どもたちの服や持ち物も、それぞれ名前を貼ったかごを作り、入れておく。それだけでも朝の支度はずいぶん楽になった。私にもできることがあった。うれしかった。それからは車いすに移れる日中に、物を整理し記憶した。「一階クローゼットの白い引き出しの三段目に裁縫道具が」「冷蔵庫の上から二段目左側にヨーグルトがあります」と。子どもたちのためならそれぐらいたやすいことだった。
「もっともっと自分にできることを探そう」
伝わらないと腹を立てるよりずっと幸せだった。誰が見ても一目でわかるように工夫をした。子どもたちにも、自分のタンスや持ち物に貼れるよう、好きなキャラクターのシールをパソコンで作った。リハビリを頑張った甲斐がある。
生活は少しずつ落ち着いてきた。けれども子どもたちは変わらず保育園へ行くのを嫌がった。子どもたちが保育園へ行く間、私は週に二度の訪問看護を受ける。朝、泣きながら手を引かれていく姿に、何度涙したかわからない。
「ごめんね。ごめんね」
朝はどうしても保育園に送っていけないのなら、せめて帰りは私が迎えに行こう。ガタガタ道も凸凹道も何のその。
「夕方、お母さんがお迎えに行くから待っていてね」
そう約束をして送り出した。
「約束だよ」
笑顔で出発した。保育園からの帰り道、三人で歌を歌いながら帰る。ほかの子どもたちは車や自転車、手を繋いで帰る。私は手を繋ぐことはできない。せっかく迎えに行くのだから、子どもたちを喜ばせてあげたい。次の日、車いす業者に連絡した。ベビーカー用のステップを取り付けて、長男をステップに、次男はひざの上に乗せたら、三人仲良くくっついて帰ることができる。さっそく道具を購入し取り付けてみた。
三人乗りの車いす。エアコンもカーオーディオもないけれど、三人寄り添って移動できる。私たち親子のスペシャルカーだ。それからはどこへ行くにも三人乗り。すれ違う人にギョッと驚かれても、子どもたちの笑顔がしあわせにしてくれた。諦めなければ道は開ける。
それは料理でも同じだった。私の手は動かない。大好きだった料理も、もう自分の手では作ってあげられない。だけど諦めたりしない。台所へ行けないのなら、リビングに卓上IHコンロを置いて一緒に作ればいい。目分量だった調味料は、そのつど測ってノートに書き留めた。火加減くらい私だって見ていられる。手料理ではないけれど、心をこめてつくった【お袋の味=心料理】である。何より、
「おいしいね。お母さんのご飯おいしいね」
と言ってくれる息子たちのおかげで、私はますます料理が好きになった。子どもたちも私の手となり色々作れるようになった。長男は中学二年のときから、朝、自分でお弁当を詰めるようになった。次男は料理が大好きで、揚げ物までこなせる腕前に。ふたりとも本当に素直でやさしい子に成長してくれた。私にはもったいないくらいの息子たちだ。

感謝、次なる挑戦

小さい頃、子どもたちはよく病気にかかった。熱を出しても、お腹を壊しても何もしてあげられない。そんなとき、手を差し伸べてくれたのが近所に住むヘルパーさんや訪問看護師さんだった。
「何時でもかまわないから、困ったら電話していいからね」
そう言って携帯番号をそっとメモしてくれた。感謝してもしきれない。子育ては一人でなんてできない。そのことを周りのみんなが教えてくれた。動けなくなった私は、やっと素直に
「助けてください。手を貸してください」
そう言えるようになった。それは決して恥ずかしいことではなかった。そして、そこには必ず「ありがとう」の言葉があった。その言葉に支えられ、私はこうして生きている。生きていてよかった。本当によかった。
「ありがとう」
そして私は次の目標に向かって歩きはじめた。今までは生きるだけで精一杯だった。子どもたちが中学生、高校生へと成長した今、私は仕事を探している。全身麻痺の私にできる仕事があるのかはわからない。わからないから挑戦する意味がある。息子たちに、働く親の背中を見せてあげたい。私の左手で、今度は二十歳の成人式のスーツを買ってあげたい。
道は険しいだろう。障害者雇用枠なんて私には当てはまらないだろう。それでも諦めない。
生かされた命、もう一度人の役に立ちたい。
私にできることがあれば、なんだってしたい。
諦めない。諦めない。諦めない。
諦めなければ、道は必ず開けると信じている。
今までも。そしてこれからも。

佐々木 良子プロフィール

一九七一年生まれ 全身麻痺のシングルマザー 東京都八王子市在住

受賞のことば

優秀賞受賞に際し思うことは、とにかく「諦めなくてよかった」ということです。私にできることは、左手に装具をつけて文字を打つことくらいです。それを、はじめから無理と諦めていたら、今日の受賞はありませんでした。「チャレンジ。」と題した通り、身体の自由を失ってからは、すべてがチャレンジの連続でした。これからは左手に未来を託します。息子たちに成人式のスーツを買ってあげられるように、自立をめざしていきます。

選評(鈴木 ひとみ)

脊髄損傷、中でも頸髄の損傷は障害が重く、佐々木さんの「第四番頸髄損傷」は一般の人には想像つかないほどの重度です。僅かに動く左手を鍛え、パソコンを使い、電動車いすを操る。残された機能は目、耳、考えることのできる頭、やっと出る声。その残存機能を一五〇%駆使して幼い二人の息子との生活を支えてきた。多くの人の手は借りていても、介助の体制を成立させる過程は自らで考え、その熱意が人の心を動かす。常に主体的に生きる佐々木さんの逞しさに勇気をもらいました。

以上