第51回NHK障害福祉賞 最優秀作品
〜第1部門より〜
「ヘン子の手紙」

著者 : 伊藤 議代 (いとう のりよ)  兵庫県

私は、小さい頃からヘンな子と、言われてきました。自分でも、何か皆のように出来ない、どこかぼーっと、したとこがあるな、とは思っていました。
幼稚園児の頃の私は、まず、ハーモニカが出来ない。先生の言うことが理解できない。ただ、怒られるのが、異常に怖くて、ごまかしてきました。吹く真似をしたり、隣を見たり、そんなことに、必死でした。先生の言っている事は、聞こえてないか、理解できないので、先生からみたら、ぼーっとして、何も考えてない様に、見えていたのではないかと思います。ただし、私自身は、理解できている数少ない単語から、指示された事を予測することで、脳をフル回転させていました。今でも少ない単語で、何が言いたいのか、考えています。なので、いつも人より、理解して、行動をするまでが、遅くなってしまいます。そして、自分に自信がありませんでした。臆測で判断して聞いているので、自信がなくて、当たり前の事ですよね。
小学校に入ると、ますます、苦しくなりましたが、低学年までは、周りも私の事をある程度知っていて、そぉーっと、してくれたので、人付き合いを無理にしなくても、何ら、問題なく、過ごせていました。休み時間の度に、鯉やメダカをひたすら、じぃーっと、見ていても、空を眺めて歩いてしまい、鉄棒にぶつかっても、別に目立つ事もなく、自然でいられました。学校から帰ると、川や池、山などを、ただ眺めたり、ぶらぶら歩いたりしていました。頭の中は、池で跳ねる鯉に感動したり、川の水の冷たさに感動したり、山の中でも感動していましたが。
よく、物語を自分で作って、山の神様になりきり、枝を振り回して、ぶつぶつつぶやいたりしていました。ただ、家に帰ると、宿題をやらずに遊んでいたので、毎日毎日怒られ、夜は家から締め出されて、反省しなさい、といった感じでした。私は、怖くて、泣くのですが、明日から宿題をしてから遊ぼうとかでもなく、そこまで母に言われても、耳に入っていなくて、学校が終われば自由だって感じでした。
それが、高学年になると、引っ越しをし、全てがガラッと変わりました。私は、今なら分かるのですが、ノイローゼの状態、パニック状態にありました。顔の表情があまり変わらない事に加えて、いつも、ぼーっとしているように見られるので、そんなに、死にたくなるぐらい、ノイローゼとは気づかれませんでした。学校に行くことが、毎日毎日激しい腹痛と頭痛、吐き気と闘いながらだった、とは、今でも誰も知りません。
環境の変化に弱く、先生からも、
「馴染めないのはあなたが変わろうとしないからだ」
と、責められ、厳しくされ。家でも責められ、塾でも怒られ、私のリラックスしていられる場所がなくなり、存在価値すら分からなくなってしまいました。
私は、放課後、元いた学校の近くの山や、川に会いに、自転車で三時間かけて、行くようになりました。そこで、何とか、また一日を過ぎるのに、耐えていたのです。
なぜ、苦しいと言わなかったのか? 分からなかったから。そして、発言するのが怖かったのです。何故なら、私がたまに発言すると、よく怒られ、火に油を注ぐ事が多々あったのです。今でも、発言すれば、するほど、相手に対して、失礼になってしまう、と、思うことが度々あります。なぜなのか、分かりません。自分では、正直に言って、褒めているつもりなのに、怒られたりするのです。だから、私は、あまり、喋らないほうが良い様に思っていました。
そして、聞かれても、分からない事も多々ありました。何が欲しいの? 何が食べたいの? 今でも、自分が分かりません。そのことが、おかしい事すら、知りませんでした。ただ、なんとなく
「これはなんか嫌だ」
「じゃあ、何がいいの?」
「分からない」
そんな感じだったので、イライラさせてばかりいました。勿論、今も変わりません。小学校高学年の様な生活は、高校卒業まで続きました。
進路も、母が、
「行けるなら、ここ位かね」
と、言った所にしました。何も思わず、何も感じずに。高校卒業後の進路も、母が、
「手に職をつけたら?」
と、言うので、思いつくまま、看護師を目指しました。勿論、テキパキ働く姿に物凄く憧れていました。しかし、今思えば、どう考えても向いてないですよね。初めて挫折を感じました。看護学校を病気で退学したのです。根は馬鹿が付くぐらい、真面目なので、それなりに出来ていたのですが、私は気を失う位、一杯いっぱいだったのです。
倒れて、強制的に、母に辞めさせられ、その後が大変でした。私は今まで溜まったヘドロを吐き出すかの様に、不満をぶちまけ、自殺未遂を繰り返し、幼稚返りもしました。一部、記憶喪失の様にもなり、今でも看護学校での記憶は殆どありません。うつ病との診断も、一軒目の病院でされたのに、母は信じず、私を別の病院に連れて行ったりしていました。約二年間、家で寝て過ごしました。
私は、体力もガクンと無くなりましたが、徐々に焦り始めました。要領も良くて、はきはきした妹が、大学に入り就職も決まったのです。私は昔から、妹になりたくて、たまりませんでした。何でもスルスルとできてしまうのですから。勿論、今では、妹なりに、努力をしていたと思います。でも、ベースがもう違うのです。そして、私は、妹の様に、ではなく、妹になりたかったのです。私なんかいらないのです。勿論、今では、私なりに生きて行こうと、思っています。
焦った私は、バイトを探しました。何度も落とされて、ようやく、清掃のバイトにつけました。家からバス、電車で二時間かかりましたが、楽しく仕事をする事が出来ました。そんなに、話さなくても良いのと、綺麗にする達成感で、殆ど休みなく働きました。
その頃、今の夫と出会いました。結婚したのですが、引っ越し、新婚生活などの環境の変化によるストレス、三度の流産などで、生活を維持出来なくなり、またしても、母を頼りました。しかし、それが、災いのもとでした。
夫と母が、犬猿の仲になり、間に立たされた私には、もっと強いストレスが加わりました。母の言いなりに、別居もしました。その頃は、常に離婚が頭をよぎる状態でした。しかも、余りの混乱状態のため、入院することになりました。
私は、何故こんな事になったのか! なぜ、誰も私の事を分かってくれないのか! という怒りで爆発しました。誰も答えをくれませんでした。余りに怒っていた私は、医師、看護師に向けて手紙を書きました。勿論、返事はありません。そのうち仕方ないので、自分で自分に、返事をするようになりました。すると、何故か、瞬く間に怒りが消えていったのです。
「何で、私の事を分かってくれないのか?」
「分かってもらいたいのは、きっとつらかったねって、言ってもらいたいからだよね」
「大丈夫、私が言ってあげるよ」
そんな感じでレポート用紙、一冊分書きました。大丈夫、大丈夫、と、自分に言い聞かせている内に、このまま離婚したくない、自分の気持ちに気付きました。母は真っ向から反対しました。私は根こそぎ実家に荷物を持って帰らされていましたが、退院すると同時に、夫の待つ家に帰りました。布団もない状態でしたが、私は、初めて、自分だけの意思で行動をしました。そして、自分の気持ちに沿って、行動する事の喜びも知りました。三十路になっても、自分の着る服さえ母が決めて、自分では決められなかった、決めさせてもらえなかったのです。それぐらい、親は、私を支配していました。
自然にそうなったのだと思いますが、いい加減、自立しなくてはならないですよね。私が夫の元に帰るとき、親は、
「縁を切る。それでも、親よりあいつがいいのか?」
と言いました。そして、
「二度と、(私達の家には)行かない」
と、言いました。
私は、けっして、どちらを選ぶとかした訳ではないのですが、私自身の幸せを初めて考えました。このまま、母の言うように離婚したら、上手くいかない時に、母を恨んでしまう。私は本当に離婚したいのか? いや、納得してないと、気付いたのです。
夫は、私を待っていてくれました。離婚してやろうとも思った、と言っていましたが、私が自分の気持ちに気付くまで、待ってくれたのです。
私は、三度の流産の後に、二人の子供に恵まれました。発達障がいを持って生まれました。子供たちの療育を学んでいると、なぜか、私の辛さもよく似た所もあり、お願いして、私もテストを受けました。思った通りの結果でした。私も発達障がい者だったのです。分かった時は、今までの辛い出来事に、説明がつき、本当にほっとしました。私が悪いのではなく、脳の障がいのせいだったのです。同時に、苦手な事、少し得意な事も分かりました。子育ても、完璧には出来ません。放課後等デイサービスや、ヘルパーさんを利用して、頑張る事にしました。
この時も、夫は冷静に、
「そうだと、思っていた」
と、ボソッと言っただけでした。
いつも、冷静な夫に、感情的な私は、苛々する事も多いのですが、こうしてみると、随分と助かっているかもしれません。
今では、家族四人で、ワイワイ言いながら暮らしています。今が一番幸せです。
将来の不安は、いっぱいありますが、不安な時は、自分に手紙を書く事にしています。

ヘン子へ
今まで、本当に大変だったね。苦しくて、疲れ果てて、どうでもよくなって、死を望んだ事もあったね。今は、生かされている喜びを感じる様にまで、元気になれて、本当に良かった。
ヘン子なりの、夢も出来たね。
いつか、絵本を書きたいと。
とても、難しい夢で、昔なら、やる前から諦めていたよね。少しずつ、時計が動き出したみたいに、ゆっくりと、前に歩き出したね。
難しくても自分の意思で決めて、自分の考えを大事にする事の大切さを、学んだね。
ヘン子は三十路で、障がいに気が付いたけど、子供たちには、自分がしてきた苦労を、して欲しくない。そう思い、子育て頑張っているね。子供たちはヘン子には似ないで、ちゃんと意思表示出来ていて、ぼーっとしたところもあまりなくて良かった。子供たちに引っ張って貰っている所もあるけど、駄目だって思わず、楽しく子育て出来たらいいね。
障がい者なりに苦労した事、一杯あるよね。ヘン子には普通の事が、ヘンと言われてしまう。相変わらずだけど、隠そうとか、誤魔化そうとか、なくなったよね。そうしたら、凄く気持ちが楽になったね。
聞いて理解することが、極端に苦手だから、子供たちにも、「書いてくれる?」と、お願いしてみたり、勉強が全く出来ないので、勉強の分からない事は、自分に聞かずに先生に聞く様に、先生にもお願いできたり、工夫をする様になったね。
あまりにも、緊張して、パニック状態になった時には、毛糸を触ると落ち着く事も発見出来たね。帽子とマフラーしか編めないけど、編んでいると、とても、心が落ち着く。いい方法だと、病院の先生にも言われたよ。ただ、誰も使い手のない帽子とマフラーで一杯になりそう。
そして、十年苦しんできた、うつ病も簡単には治らない。酷く落ち込む時もあるけれど、きっと、風船がしぼんでいく様に、ゆっくり良くなっていく。そう信じて一日一日を過ごしていきたいね。
まだまだ、やりたい事も、しないといけない事も一杯あって、大変だけど、家族一緒の、今この時が一番幸せ。
これからも、色々あるだろうけど、その気持ちを忘れずに過ごしていきたいね。
支えて頂いている、皆さんへの感謝も忘れないで、伝えていきたいね。
ヘン子はヘン子のままだけど、少しずつ成長出来るよね。
これからも、宜しくお願い致しますね。
かしこ

夫へ
いつも冷静で、私には何を考えているのか、分からない事も多いけど、別居中は食事も出来ない位、家族を大切に思って、待っていてくれていた事、忘れません。
そして、私がうつ病で苦しんでいた時、なにもしなくていいと、言ってもらい、本当に有り難かったです。発達障がいが分かった時も、分かって良かった。と、責めることもなく、これまでと変わらず一緒にやって行こうと、言ってくれました。どんなに、ほっとしたことか。
たまには、率先して行動して欲しいと、我がままを思う私ですが、いつも、待っていてくれる、辛抱強くて、頼りになるあなたと、家庭を持てた事を、嬉しく思います。
いつも、生意気な事ばかり言うけど、許して下さい。
とても、直接は伝えられないので、手紙にしました。
ありがとう、を込めて。そして、これからも、どうぞよろしくお願い致します。
へン子より

伊藤 議代プロフィール

一九七七年生まれ 主婦 兵庫県姫路市在住

受賞のことば

「ヘン子、おめでとう」私は連絡を受けると、全身がこそばゆく感じ、興奮して思わず言いました。
自分の事を知りたいと、書き出したのは、三年前からです。苦しい過去に入り込んで、いつも書き終わらせる事が出来ませんでした。
でも、自立しようと買ったパソコンで、奮闘する内に、手紙の様な感じで書き切る事が出来ました。この度は、この様な素敵な賞を頂き、ありがとうございました。

選評(玉井 邦夫)

伊藤さんの作品は、発達障害と称される方たちが、自分と向き合い、折り合いをつけていく過程を見事に描いています。「なぜ苦しいと言わなかったのか? わからなかったから」。切ない文章です。どうしてできないの、に答えられるくらいならできるんだ! という幾多の子どもたちの叫びが聞こえてくるようです。その伊藤さんが、徐々に自分の進歩を認め、心地よい人間関係に身を任せていくようになる道のりを、ぜひ多くの方に一緒に辿っていただきたいと思います。

以上