写真:ジェームズ・マキロップさん近影

「私たちはいかにして『声』を獲得したか」
ジェームズ・マキロップさん
(スコットランド認知症ワーキンググループ初代議長)

みなさん、こんにちは。ジェームズ・マキロップです。スコットランドのグラスゴーで認知症と生きています。1999年11月、私は認知症と診断されました。残念ながら、認知症は進行性の病気ですので、悪化していくしかありません。でも私はそれを受け入れて、自分の人生を楽しめるうちは楽しんでいこうと強く決意しています。

診断前後の様子

診断の告知を受けるまでの数年間、私は人生を無駄にしてしまいました。例えば、私がカメラをキッチンテーブルの上に置いて2階に行き、戻ってくるとそのカメラがなくなっています。「誰がカメラを動かしたんだ!」と私は怒鳴ります。妻と子どもたちは「触ってもいません」と答えます。明らかに、私は自分でそのカメラを移動させておきながら、わずか数分でそのことを忘れてしまったのでしょう。それなのに怒って妻と子どもたちのせいにしたのですから、彼らにとっては悪夢だったに違いありません。不当な言いがかりをつけられて、家族はいら立ちました。私は家族の中で孤立していきました。家族が何かしているとき、私は仲間はずれにされました。そんな状態は、私にとっても、家族にとっても、地獄でした。今思えば病気のせいなのですが、その時の私の意識の中で、認知症は一番遠い所にありました。私は自宅で何もせず、じっとしていました。消えたままのテレビ画面をただ見つめていました。テレビのスイッチをつけようとする気力すら、ありませんでした。

認知症と診断されたときは、雷に打たれたように感じました。私は以前、ランカシャーという町の大きな精神病院で働いたことがあり、そこでたくさんの認知症の人を見ていました。彼らは絶望しきっていたために、失禁したり、よだれを垂らしたり、家族を求めて泣き叫んだりすることがさらにひどくなっていました。自分もそのうちにそういう姿になってしまうのかと思うと、私の胸を恐怖が突き刺しました。たとえ将来があったとしても、それは暗く荒れ果てたもののように思えました。
けれどもそんな私の人生が変わり始めました。認知症の診断がきっかけとなり、思っても見なかった夢のようなできごとが、次々と起こり始めたのです。

人生を変えた二人の女性との出会い

2人の女性との出会いが、私の人生を大きく変えました。1人は当時アルツハイマー協会の職員だったブレンダ・ビンセントで、私が「天使」と呼んだ人です。もう1人は、研究者のヘザー・ウィルキンソンで、現在はエディンバラ大学の教授です。
私が初めてブレンダに会ったのは、まだ認知症と知らされる前のことでした。精神科医は私の妻にだけ、認知症の告知を行いました。そして妻は年金手続きのためにアルツハイマー協会に助けを求め、やって来たのがブレンダだったのです。彼女は書類を記入するために来ただけで、役職の上では、再び会う必要のない人でした。でも私があまりにも落ち込んでいるのを見て、「放ってはおけない」と思ったと言います。

それはちょうどクリスマスの時期で、彼女の職場ではバザーを準備していました。ブレンダは私に「手伝ってほしいの」と言いました。私は断りました。すると、「売り物に値ふだを付けるだけでいいから」と言うのです。
そうやって彼女は私が家から出るようにうながしてくれました。驚いたことに、私はまだ人と話ができることがわかりました。以前は人と話す仕事をしていた私ですが、うつになり、自宅にひきこもっていたため、長いこと誰とも話していなかったのです。まだ話すことができ、「もっと買ってください」などとやりとりを交わし、お客さんに応対できる自分を発見してびっくりしました。

最初にブレンダがそのような支援を提供してくれ、困難に立ち向かって前向きにやれば、この先もまだ質の高い人生が待っている、という確信を持たせてくれました。そして次に、私はヘザーと出会いました。彼女は、「認知症の人から見た診断の体験」という研究をしていて、私は協力を求められ、インタビューを受けました。そのヘザーから、首都のエディンバラで大人数の前で話をしてほしい、と頼まれたのです。それが、私が講演するようになったきっかけです。「認知症の本人に人前で話させるなんて勇気がある人だな」、と私は驚きました。当時はそんなことは行われていませんでした。私はがぜん自信が湧いてきました。

講演ができるように助けてくれたのは、ブレンダでした。まず手始めに、看護師の小さな集まりで、私の経験を話すことをすすめてくれました。5分間のスピーチをタイプで打ち、私がちゃんとできるようになるまで何度もリハーサルをくり返しました。初めの頃は、私が話す時にブレンダは私の真横に座りました。回数を重ねるごとに、私が話す時間は長くなりました。彼女は私が言葉につまった時に助けるようそばに待機しましたが、1メートル、2メートルと次第に離れて座るようになっていきました。幸い、私が言葉につまることはまったくありませんでした。そして今では彼女がいなくても、私は発表できるようになりました。他の人が学んだら役に立つようなものを私は持っているんだ、と感じました。

医療関係者の多くは、認知症の人がその病気のためにどんな影響を受けているのかを理解していないのに、それを私たち本人に聞いてみようとは考えませんでした。認知症の人は自分の考えを声にして表現できないと思われていました。私たちに対する期待値はずいぶんと低いものでした。私は自分の経験から、すべての認知症の人が話せるのではないことを知っていましたから、その人たちにかわって、そして私自身のために、話す役割を引き受けたのです。

私が信念を持って話すのを見た人たちは、本当に驚きました。私のもとには変なコメントがたくさん寄せられました。頭のいい子にでもするように、私の頭をなでた人もいました。「誰が介添えをしたり、食事の介助をしたりしているんですか?」と質問した人もいました。みんな認知症について本当に何も知りませんでした。認知症は秘密にすべきことで、公けの場で話すようなことではありませんでした。私はそんな時期にちょうどそこに居合わせて、私や私と同じような認知症の人は、正常で筋の通った会話ができることを証明したのです。

認知症ワーキンググループの設立

ブレンダとヘザーと私の3人は、何度も集まっておしゃべりをしました。そして、なぜ認知症の人のグループがないのかという話になったのです。私はこう考えはじめました。「医師も、看護師も自分たちの団体がある。電車の運転手だって、バスの運転手だって、学生にだってある。介護者のグループも世界各地にある。それなのに、認知症の人のグループは世界のどこにも存在しない。それはおかしい。」
そこで、私たちはスコットランド認知症ワーキンググループを設立しました。当初、認知症の当事者は私だけでした。そこで私は、認知症の人がいそうなあらゆる場所に出向き、こう言いました。「一緒にやりませんか? グループを作りませんか? 私たちのグループですよ、認知症の人のグループです。」すでに多くのグループが存在していましたが、介護者が認知症の人に付き添ってやってきて、本人の代わりに話してしまう傾向がありました。介護している者が一番よくわかっていると思っていました。私は、「それはちがう!」と思いました。認知症の人たちだけが一緒に会って、自分たちの声を発することができるグループがほしいと思いました。

そのグループに集まってきたメンバーは、同じような仲間で集まって自由に話す機会に飢えていました。こうして私たちの活動は始まったのです。1年も経たずにメンバーは13名になり、どんどん成長し、世界で知られるまでになりました。私たちの話を聞きにくる人もいました。世界の他の場所で、グループの設立を目指して失敗し、「我々は失敗したのに、なぜあなたたちは成功できたのか」と尋ねる人もいました。
それはなぜでしょう。スコットランド人であることと関係があるでしょうか。私はそうは思いません。スコットランドの人びとは、日本の人たちと何ら変わらない普通の人たちだと思います。ただ、認知症の人が自分の力を発揮できる場であることが必要です。そして活動を開始してグループを作るように手助けし、本人に自信を与える人もいなければなりません。認知症と診断されると自信を失ってしまうからです。グループ活動を通して、その自信を取り戻すことができます。新たな生きる意味を得ることができます。

ワーキンググループの取り組み

写真:ジェームズさんがデザインしたヘルプカード。表紙には「私は認知症です。手助けと理解が必要です」と書かれていて、中には具体的にどのような手助けが必要かが書かれている

次に、スコットランド認知症ワーキンググループで取り組んだことをお話ししたいと思います。最初は、認知症の本人が使うためのヘルプカード。私がデザインしました。認知症であることを隠すのではなく、開示していくことで、店の人やバスの運転手、一般の人の助けを得るためのカードです。私はいつも財布に入れて持ち歩いています。さらに、認知症と診断された人が人生を楽しむために役立つ情報をまとめたパンフレットも作りました。

認知症について話すときの言葉に関して、私は言いたいことがありました。英語では "ディメンシア・サファラー (dementia sufferer)"「認知症に苦しむ人」とか「認知症患者」などと言いますが、これは見下した表現でよくありません。私は病気そのものではなく、「認知症に苦しむ人」でもありません。私は、夫であり、父であり、友であり、いろいろな者ですが、「認知症に苦しむ人」ではありません。そこで私は、専門家や一般人がそのような言葉を使わないようにキャンペーンを展開しました。
今ではヨーロッパ・アルツハイマー協会、イングランドのアルツハイマー病協会、スコットランド・アルツハイマー協会およびスコットランド政府では、この言葉は使用していません。それは2002年から私がキャンペーン活動を行い、そのような言葉でなく「認知症の人」と言うように求めたからです。「認知症のある人」「認知症とともに生きる人」というのはいい表現です。私たちは認知症を抱えて生きているのですから。つまり、人として扱ってください、ということです。私たちに話しかけ、私たちに聞いてください。そのためのキャンペーンです。過去に行われていたような扱いではなく、私たちを人として扱ってください、ということです。

私たちは、身近で小さなことから始めました。バスや電車やお店の問題です。そこから、「もっと発展させたらどうだろうか?」と考え、スコットランド議会に面会を希望する手紙を書きました。却下されても書き続け、やがて一年に一回、会合が持たれるようになりました。しかし、あまり聴いてくれてはいないな、と感じたこともありました。そこで私たちは事前に時間をかけて準備して、鋭い質問を投げかけました。私たちが話しの内容を理解しており、政府の支出を抑える方法について考えがあることを示したのです。
このような活動をつづけた結果、現在では、保健大臣と定期的に会合を持つようになりました。政府が認知症に関心を示し始めると、私だけではなく他のメンバーも政府の委員会に招かれはじめました。今では、政府が認知症にかかわろうとする時は、必ずワーキンググループのメンバーへの参加要請を行うほどになりました。これはとても大きな前進です。

国の認知症戦略策定に参加

ワーキンググループの最大の成果は、2009年、スコットランドの認知症戦略の策定に参加したことです。このときは、すべての会議でワーキンググループの参加が必須とされ、私たちの意見は国家戦略に反映されました。その一例が、「認知症と診断されたその日から始まる支援」です。認知症は治らない病気なので、早期に診断を受けて告知されると、生きる希望を失い、うつになる人が多くいました。私たちはそのような人に希望を与え、診断後もよく生きられることを伝えられると考えました。私たちがその生き証人です。
スコットランド政府は要望に応え、診断後支援を一年間保証する制度を作りました。診断を受けた人に対して、担当のリンクワーカーが一人つき、一年間対応します。これにはワーキンググループのメンバーをはじめとする当事者も協力しています。認知症と診断された人にとっては、人生を精一杯楽しんで生きている認知症の人やその家族に会うことが、一番の喜びになるからです。

私はこれほどうまく行くとは思っていませんでした。そうなることを願ってはいましたが、最初は拒絶されていました。私たちのことなど知りたくもなかったのでしょう。でも私は、「これはとても大事なことだから、あきらめてはいけない」と思い、気づいてくれるまで門を叩き続けました。当時、スコットランドでは、認知症の人は低くみられていましたから、多少警戒されていたのかも知れません。しかし私たちが訪問を果たし、きちんと筋の通った話をすると、ようやくこちらに注意を向けてくれるようになりました。私たちは「これをやってくれ!」と叫んだりはしませんでした。あくまでも合理的に、「こうしてみてはいかがですか? あれをやってみてはどうでしょうか?」「こんな選択肢は考えてみましたか?」と話しかけたのです。すると政府は納得して私たちを受け入れ、耳を傾ける価値がありそうだということになったのです。

私たちは多くのことを議論し、決定しました。スコットランド認知症ワーキンググループには委員会があり、その中で各議題について話し合います。通常は多数決をもって可決されますが、実際にやってみると、反対者はほとんどいません。みな賛成します。その理由は、メンバー全員が議論に加わることができ、お互いの話を聞く中で、意見が変わることもあるからです。自分の意見があって、他の人の発言に対して、「それは違うだろう、私はこの考えがいい」と思うこともあります。でも話し合いはおだやかで、敵対する意識はまったくありません。険悪な意見の相違も今までありませんでした。みな、友好的です。

認知症の人が政府の会議に参加するために重要なことがあります。政府や自治体の方が書類を作成するときは、わかりやすい言葉で書くべきです。私たちにわからない言葉を使ったり、説明もなくABCなどのアルファベットの略語を並べたりしないでください。私の場合は、文章を二度、三度とくり返して読むのですが、しまいには理解できて、「これはいい」とか、「これはだめだ」とか言うことができますし、必要に応じて代替案を出すこともできます。
そうやって私たちは、認知症の人だけでなく、家族や介護者もまた理解がしやすくなるようにものごとを変えたのです。政府や自治体がわかりやすい言葉で書いてくれれば、私たちみんなが理解できます。

私がある政府の会議に出席して、次の回にまた出たときに、「前回話したこの言葉の意味は何ですか?」と聞きました。すると誰もその意味を知りませんでした。出席者は全員専門家でした。別の会議に初めて出たときなどは、「理解できないから、行くのはもうやめよう」と思いました。けれども私は、「いや、こんなことでは負けないぞ」と、思いとどまりました。次の回に参加したとき、私は会議が始まる前にこう言いました。「議長、前回の会議は私には理解不能でした。どうかみなさん、認知症の人にわかるように話すことを徹底していただけませんか? やさしい言葉で話し、聞き慣れない用語は説明していただくようにお願いします。」その後、問題はなくなりました。わかりやすく話してくれれば、私もついていけますし、意見も言えますから、必ずそうしてほしいと言ったまでです。ちょっとの勇気で前進しました。専門家というものは、認知症の人がはっきりと考えて自分についても話せることを、なかなか受け入れられないようですね。

広がる活動

2007年、私はヨーロッパ・アルツハイマー協会に手紙を書き、認知症の人のグループを設けるように提案しました。それは2013年に実現しました。ヨーロッパ・アルツハイマー協会が、ヨーロッパ認知症ワーキンググループを立ち上げ、今では精力的に活動しています。一方、スコットランドでは多くの認知症の人が発表を行い、たくさんのグループが世界各地で講演を行うようになりました。私ができるのですから、みなさんにもできます! 他の人の人生がよりよくなるように変えることはできます。再び人生を楽しみ、自分のやりとげたことに誇りが持てるようになるのです。

写真:東京国際フォーラムで講演するジェームズさん。通訳者を挟んで右端には妻・モーリーンさんが座る

ワーキンググループの活動を通してわかったのは、自分の後に続く認知症の人たちの人生をもっとよくしたいという思いがあることです。私のときは制度があまりよくなくて、診断を受けないままでいる人が多くいました。また、本人に告知されないこともかなりあり、最終的に告知を受けても、その扱い方はいいものではありませんでした。私たちはその部分を改善しようとしているのです。
私の妻もいつか発症するかもしれませんし、子供たちもいつの日かそうなるかも知れません。彼らのためにも改善したいのです。そして、一般の人の認知症についての認識も向上させなければなりません。そうすれば日々の暮らしの中で、認知症の人にどう話しかけ、かかわり、助ければよいのかがわかるでしょう。

認知症は大変な病気ですので軽く扱ってはなりませんが、認知症になっても何らかのかたちで幸せな新しい生活を送っていくことはできるでしょう。それには、病気になる以前からできることに加えて、新たに学べるあらゆるスキルを足して、その二つを組み合わせることです。もちろん、私が得たようなよい支援も必要です。認知症のみなさんの新しい人生はみなさんが作るものであり、みなさんの努力そのものです。自分に自信を持ち、足りないところがあっても、きっとできるんだという信念を持たねばなりません。障壁はあるでしょうが、それを乗り越えようとする決意も高まるはずです。
みなさんの未来と、日本認知症ワーキンググループの成功を願ってやみません。