NHK銀の雫文芸賞2009最優秀作品「手の記憶」

著者 松並 百合愛(まつなみ ゆりあ)

(1)

「迷子になるで、手離しなや」
祭りの出店に群がる人の波に揉まれながら、優香はそういって振り返る祖母のタキに手を引かれていた。今年で十歳になる孫の優香を、タキは大変可愛がってくれた。両親が共働きなため、生れてからずっと、すぐそばに住むタキの家で育てられた。お絵かきもピアノも料理もみんなタキが教えてくれた。狭い家の中で二人で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをした。春には庭の桜の下でお花見を、秋にはどんぐりを拾って遊んだ。
年に一度の夏祭り。八月のぬるい風の中、町の人が浴衣を着込み、団扇を手にそぞろ歩く。あちらでは金魚すくい、ヨーヨー釣り、こちらでは綿菓子やベビーカステラの屋台が並ぶ。焼きとうもろこしの香ばしい匂いが漂い、煙が淡い紺色の空にたなびく。
「おばあちゃん、あれ」
「どれや、ああ、とうもろこしかいな。食べたいのんか、ほな、買うて帰ろ」
タキは小さな背で人ごみをかき分け、優香を引っ張って店の前で立ち止まる。醤油のしみこんだとうもろこしの黄色い粒々がはじけそうに実を膨らませている。
「これ、一本な」
「おばあちゃんの分は」
「ええねん、おばあちゃんは食べへんから」
「じゃあ、半分こ、半分こしよ」
タキは優香の頭を撫で、また慌てて手を握る。心配性なだけに一寸の隙も気が抜けないらしい。
そういえば優香が幼稚園に通っていた頃も、みんなは集団下校なのに優香だけはタキが門まで迎えに来ていた。先生に集団で帰らせたいから迎えを遠慮してくれといわれても、あの角に信号機が無いので横断が心配だから、とタキは譲らなかった。雨の日は傘を差し、日照りには帽子を被り、雪の日はマフラーを巻いて、いつも待ってくれていた。それは小学校に上がっても続いた。
もちろん、たった一人の孫だから可愛いということもあろうが、優香がひどい喘息持ちで体が弱いことがタキをさらに心配性にした。一度、学校帰りに発作が起こり門の前でしゃがみこんだとき、迎えにきていたタキは車を拾い、優香を負ぶって這うようにして乗り込むと救急病院まで連れていった。苦しむ優香の手をさすり、(大丈夫や、大丈夫やで)と念仏のように唱える小さいタキの、どこにそんな力があったのだろうと、優香は薄れる意識の中で思った。
優香は焼きとうもろこしを持ちながら、タキの温かな手がいつもより汗ばんでいるのに気付き、その湿り気を確かめた。
「おばあちゃん、帰って食べよっか」
優香はいつになく疲れているタキの横顔を心配そうに見上げた。タキはもともと高血圧なうえに腎臓が悪くたくさんの薬を服用している。七十を過ぎた頃から記憶もあいまいになり、ちゃんと薬を飲んだかはっきりしなくなってきた。優香は毎朝晩、タキの薬を勘定しては渇いた唇に運んでやっていた。
「金魚釣りはええのんか」
タキはまだ何も遊んでいない優香を気にかけて訊ねてくる。
「うん、いい。お家でとうもろこし食べよ」
「そうやな、そうしよか」
二人は表通りの喧騒を離れ、一本裏筋に入ったタキの家にゆらりゆらりと帰っていった。
並んで歩くと、優香の背丈はもうすこしでタキを超える。タキはいつも口では(あまり大きくなりなや)と言うけれど、目を細めてその成長を喜んでいた。夫に逃げられ、優香の母である娘の恵美子とは不仲なタキにとって、優香は一晩中その寝顔を見ていても飽きない大切な存在だった。
「今夜も泊まっていくやろ。お風呂焚いてあげるからな」
タキは、焼きとうもろこしを皿に盛る優香にそう言うと、洗面所のほうへ行った。
「うん、やったあ、一緒にはいろ」
恵美子の勤務が遅い日は、たいていこうしてタキの家に泊まった。畳に布団をふたつならべ、枕元の電気の下で一緒に絵本を読むのが童心に戻れて楽しかった。優香は今晩読む本を探しながらタキを待った。
包丁で半分に切った焼きとうもろこしが冷めてゆく。
「おばあちゃん、ねえ、食べようか」
優香は本を閉じると立ち上がり、洗面所を探した。たった三間の狭い家で見失うはずもない。まさかいつものかくれんぼでもないだろう。だがタキは風呂場にもいない。優香は薄ぼんやりとした裸電球が漏れるトイレのドアをノックしてゆっくり引いた。
そこには、トイレに座ったまま体を強張らせ、痙攣のためか唇を切り血を流しているタキがいた。

(2)

「ママ、おばあちゃんどんな感じ」
優香は学校を早引きし恵美子と待ち合わせてタキのいる病院へと急いだ。夕べから寝ずに病院に詰める恵美子は血色が悪く言葉も少ない。黙られると余計に優香は不安が募った。
「まだ集中治療室だから、ママにもわからない」
タキをトイレで発見した優香はすぐに恵美子の携帯電話を鳴らし、救急車を呼んでもらった。タキに付き添い病院には行ったもののそこから先は恵美子に任せ、父に連れられ家に帰ったから後のことは知らない。ただ、脳梗塞だとは聞いていた。救急車の中でずっと痙攣を起こし、皺だらけの目元から涙を流すタキを思い出すとかわいそうでならなかった。
集中治療室の入り口は厳重な二重ドアで仕切られ、入り口で手洗いとマスクをさせられ、十分間だけ面会が許された。優香は恵美子の背に隠れるようにして部屋に踏み入ると広い部屋には医療用の管が張り巡らされ、多くの重症患者が意識もなく酸素マスクをしている。
チューブの森を進むと、ベッドの上に布団も掛けず横たわっているタキがいた。
「あ、おばあちゃん!」
タキは焦点の定まらない目で空を見ると、怖れたようにベッドの端へ端へと逃げる。力ない目は濡れて黒々と飛び出し、乾いた口からは言葉にならぬ低い呻きが漏れる。
タキの変わり果てた姿に、優香はすぐには歩み寄ることが出来なかった。一夜にしてやせ細った体にパジャマを纏った姿はぼろきれのようで、胸のあばらが覗き痛々しい。
タキは呻きながら窓のほうをしきりに指している。
「おばあちゃん、優香だよ。分かる?」
だがタキは呻いて窓のほうを指すばかりで何も言わない。しゃべれないのか記憶が無いのか、左右に開いた眼球は視力を失わず優香を捕えているのかどうかも定かではない。
「なあに、おばあちゃん、どうしたの? あ、ここね、病院だよ、夕べ救急車で運ばれたから、景色が違うんだよ」
優香はタキの目線にしゃがみ、天井近くの窓をみて言った。家から見える桜の木とはちがって、そこは高速道路の壁しかみえない。タキが不安がるのも理解できた。
タキは指を力なく下ろすとそのままベッドに崩れた。右頬や瞼や唇が激しく痙攣し始める。
優香が助けを求めるより先に看護師がタキの手をとり、恵美子と優香に退室を促した。
次の日も優香は恵美子と病院に見舞った。今日は一般病棟へ移されることになっていたので幾分か気も楽だった。
エレベーターを降りると暗い廊下の突き当たりに車椅子の影が見えた。優香たちが近づくにつれ、その影が手をあげて(おー)と叫んだ。
「おばあちゃん!」
優香と恵美子は駆け出していた。タキにあんな遠くから見る視力が残っていたこと、それを優香たちだと認識したことが何よりうれしかった。
「おばあちゃん、分かったの? あんな遠くから見えたの?」
車椅子を押す看護師は慣れた様子でタキを覗き込むと
「お孫さんが来てくれましたよ、かわいいお嬢ちゃんですねえ」
と言った。 だが、その途端、タキは急に車椅子から立ち上がろうとして暴れ出し、唸り声をあげた。
「おばあちゃん、どうしたの、何、何がしたいの」
タキは恵美子のバッグをつかむと、麻痺している手とは思えぬ渾身の力で引っ張る。そしてエレベーターホールへ向かって歩こうと足を踏み出す。
「待って、おばあちゃん、無理だよ、どうしたいの」
「無理よ、帰れないよ、病院にいなくちゃだめよ」
恵美子はタキが家に帰りたがって、家の鍵を探しているのを察知して制した。
「そうなの? 帰りたいのおばあちゃん、でもまだ無理だって、病院にいなくちゃ」
優香がバッグを掴むタキの手に手を重ねて宥めるがタキは険しい顔で怒り散らし、バッグを奪い取ろうとする。
「ね、おばあちゃん、我慢して。よくなったら一緒にお家に帰ろ、あっ」 タキの骨ばった手が優香の手をはたいた。怒りに燃える目で睨みつけ怒鳴ってくる。
それは、とても冷たい手だった。幼い頃からいつも優香を包んでくれていた柔らかな手が、今は敵を打ちのめすように優香に降りかかった。
優香と恵美子はまたもや看護師に促され、タキから見えない道を通って逃げ帰った。まるでタキを人質において帰るような後味の悪さが胸を占め、看護師に取り押さえられたタキの怒りとも泣き声ともつかぬ唸りがいつまでも耳底に染み込んでいた。
「ママ、帰ったら自棄け酒、飲もっか」
「そうね、ジュースで流し込もうか」
タキがいない不安、そしてタキが壊れてゆく不安が優香の中に黒い澱のようにひろがってゆく。病院の送迎バスの窓から見る町は雨に煙り、どこまでも暗い夜が続いていた。
それからタキは二度転院し、本格的なリハビリの日々が始まった。右半身の麻痺に言語障害が残り、杖なしでは歩けなくなった。食べることもしゃべることも出来なかったが、どうにか回復し、呂律の回らない舌で紡ぐ言葉を優香が拾う日々が続いた。

(3)

—患者さんが見えません、病院の外も捜しましたが見当たらないんです。すみませんがご家族から警察に捜索願を出してください—
日曜の朝、それは唐突な電話で起こされた。誕生日だというのに発熱で寝ていた優香は恵美子が止めるのも聞かず雨の中に飛び出した。タキが病室から消えて四十分たつという。だがあの足では遠くにはいけない、それにパジャマ姿なら通行人が怪訝に思って見つけてくれるかもしれない……泣きそうな気持ちを抑え、優香は病院までの道のりを辿った。
「もういやだ、おばあちゃん、これ以上悲しませないでよ」
唇をかみ締め、こみ上げる熱いものに耐える。タキが車にでも轢かれたらと思うと熱も忘れてしまうかわりに胃がきりりと痛む。優香は雨脚の強くなる灰色の空を見上げた。
ふと、道路脇に布きれの塊が落ちているのが見え足をとめた。雨を含み重たそうな布きれはほんの少し動いてまた崩れた。
「……おばあちゃん?」
優香は車道の脇に倒れるタキのもとへ走った。すれ違う車のタイヤが水溜まりをはねてタキと優香を濡らす。
「ゆああん、あえあ、あえいくお(優香ちゃん、雨や、風邪引くよ)」
タキはきょとんとした顔で笑った。優香を見て喜ぶ屈託のない笑顔だった。
「おばあちゃん、こんなとこにいたの。よかった、おばあちゃんこそ風邪ひくよ」
「ゆああん、えんおくやあら、あはん(優香ちゃん、喘息やから、あかん)」
「私は大丈夫だよ、もう、心配したんだよ、どこ行こうとしたの」
「ゆああん、おあんおおいああら(優香ちゃん、お誕生日やから)」
タキは首からさげたバッグの中をごそごそとした。だが、プレゼントらしいものは出てこない。かわりに痩せた手に捕まれていたのは病室のテレビリモコンだった。
「ありがとう、おばあちゃん、それより早く良くなって。前歯折れてるじゃない」
優香は大声で泣いた。タキが倒れて初めての涙だった。
タキは肩をすくめてはずかしそうに口に手を宛てがって、また笑った。
「家族さんの気持ちも考えてあげて」
転院してからというものわがまま放題のタキに、主治医は泣き笑い顔でこぼした。歩行困難なため転倒防止の意味から、歩くときはナースコールを押すように言われても勝手に出歩く、そして転ぶ、見つかる、放っておいてくれと暴れる……最近でこそ流動食を食べられるようになったが、まだ嚥下がスムーズでないとき肺炎を起こすから水を飲んではいけないといわれているのにこっそり売店で買い食いする、見つかる、喧嘩する。薬を嫌がり「延命不要」と筆圧の弱い震える字で書いて医者に突き出す。すべては脳損傷による抑制不能のせいと分かっても、見ている優香も恵美子も辛かった。あれほど優しかったタキの、人が変ったような振る舞いを理解するには、かなりの忍耐と努力が必要だった。
そして、保護されたタキを待っていたのは主治医の説教と更なるリハビリだった。
悪びれた風もないタキは、土曜日に調理実習のリハビリがあると聞いて口を尖らせた。
「これが出来たら退院だから、がんばって作ろう。お孫さんに食べさせてあげたいでしょ」
さすがに先生の一言は効いたようで、タキはへそ曲がりに顔を横向けてはいたものの、言い返しはしなかった。
「おばあちゃん、包丁気をつけてね」
リハビリ病棟六階のキッチンで、優香はタキの隣ではらはらしていた。麻痺の残る右手に包丁を持ちジャガイモの皮を剥くタキが危なっかしい。ジャガイモの次は牛肉が待っている。しかもタキはふらつく足で流しにもたれかかるようにして立っている。
ここに転院してからというものタキは食欲が湧き、脳梗塞で十キロ減った体重が戻った。入院食だけでは到底足らず、朝から売店でパンやおにぎりを買い食いしては医者に叱られていた。でも、痩せていたタキがふっくらするのは優香にはうれしかったし、肺炎の心配を除けば食欲があるというのは生命力の証のようで、見ていて安心だった。
「大丈夫ですね、そうそう、はい、じゃ、お肉」
タキは立ち会っているリハビリ指導の女性になにやら訴える。
「いんいう」
「え、にんにく?」
「おう、いんいう、いうの(そう、にんにく、いるの)」
「あ、ごめんなさい、買ってきてないわ。そうね、カレーににんにくはつきものだものね」
タキは女性に呆れた、という表情を見せ、優香を振り向いて(ごめんな)と言った。
タキの作ってくれるカレーはいつもにんにくがたっぷりだった。週末、幼稚園や学校がお休みの前の夜、二人して気兼ねなく食べたものだ。優香は懐かしさが胸に広がり、にっこりと微笑み返した。
一時間かけて出来上がったカレーはとてもこくがあり、まばらに切れた不揃いな野菜が可愛らしかった。横に並ぶタキは、スプーンを止めて優香の食べるさまをじっと見ていた。
そしてそれが、最後のカレーとなった。

(4)

退院して一週間はあっという間だった。恵美子はタキのために介護用品のベッドや手すり、風呂場のマットなどを手配するのに忙しかったが、その顔はタキの入院中とは違い、うれしそうだった。優香も学校が終わるとまっすぐタキの家へ寄り、日に三度訪問するヘルパーともすっかり打ち解けて仲良くなっていた。
「おばあちゃん、今晩何食べる? 作ってあげるよ」
「ええんお、ゆああんあ。おああしゃん、うくたう(ええんよ、優香ちゃんは。おばあちゃん、作たる)」
そうは言うものの、結局はヘルパーが作るご飯を食べさせてもらい、タキは買ってきたお菓子をちゃぶ台に並べて優香にご馳走した気になっていた。リハビリのおかげで杖があれば家の周りを歩けるほどにはなったものの、右手の麻痺は依然冷蔵庫すら開けられない。
「それじゃ、また明日の朝うかがいますね。明日は土曜だからゴミ出しはないですね」
ヘルパーの女性が帰ろうとしたとき、タキが何か叫んだ。
「あひはは、ええから(明日は、ええから)」
タキは土日くらいはゆっくり過ごしたいと訴えた。ヘルパーにはやはり気を遣う、せめて週末は家族水入らずでいたい、と皺くちゃの顔にさらに皺を寄せた。 「かおく、だんはん(家族団らん)」
タキが唇を引き攣らせもどかしげに言葉を吐く口元を、優香はじっと見つめて頷いた。
「いいよ、おばあちゃん。私、明日は朝からずっとそばにいるから一緒にお散歩しようね」
「おういよ(そうしよ)」
タキはうれしそうに優香を見つめた。しゃべるのひとつとっても疲れるのか、タキはそのままちゃぶ台で横になると幸せそうに寝息を立てた。
土曜の朝、冬にしては眩しいほどの晴れ。いつの間にか夏祭りから四か月がたっていた。
「外は寒いよ、おばあちゃん大丈夫? マフラーちゃんと巻いて行こうね」
脳梗塞の発症以来食が細くなったタキは、前も小さかったのに一回り痩せてオーバーコートがだぶだぶだった。優香はこの冬タキに編んだモヘアの白いマフラーを巻いてやりコートの襟元に突っ込んであげると、玄関のドアを開けた。
冷たい風が入り、ここしばらく外出しなかったタキに鮮烈な空気を送り込む。
タキは緑色の杖を持つと、壁に手をついてゆっくり足を靴に通す。優香はしゃがみ、まるで幼い頃タキにしてもらったように靴を支えて足の通りをよくしてやる。
「いおあ(行こか)」
一歩出た途端、強い風がタキに吹きつけ白いマフラーがさらわれそうになる。それでも、タキは杖を一歩分前へ送り、あとから自身の足を一つ踏み出す。門扉までのわずかな土道に白い花が咲いている。いつもなら素通りした小径もタキとゆっくり歩けばいろんな発見がある。タキと植えたノースポールが足元を明るく飾り、ふたりの散歩を見送ってくれる。
「寒いのにお花が咲いてるよ、きれいだね、おばあちゃん」
門扉をあけてタキを通した優香の目の前で、小さな体がぐらりと揺れた。と、同時にかさついた手が優香の手を掴んだ。
それは小さな骨ばった手だった。
優香はそのまま片手で門扉を閉めると、ゆっくりとタキに並んで歩いた。何事もなかったように、タキはそのまま手を預けたまま空を見ている。
優香は今手の中にあるタキの手をそっと握りながら俯いた。その手は小さくて皺くちゃで、冷たかった。この手が自分を育ててくれたのだと思うと、そしていつも迷子にならないように引いてくれたのだと思うと、儚くて消えそうで、泣きそうだった。
「あっひ、いほか(あっち、行こか)」
転びかけたことを照れ隠しするように、杖で右前方を指しにこりと覗き込んで笑うタキが愛しかった。季節をふたつくらい跨いだせいで、優香の背はぐんと伸び、いつの間にかタキを見下ろすほどになっている。
「そうだね、すぐそこにコンビニがあるから、寄ろうか」
優香は鼻水まじりの声で答えると出来る限りのいい笑顔をみせた。
「ゆああん、はあおえあな、かえいいあや(優香ちゃん、鼻声やな、風邪ひきなや)」
さきほどまでの北風はやみ、かわりに雲間から光が差し、冷えたアスファルトを温める。
優香はタキの手をぎゅっと握って、日溜りの道を歩いた。

(5)

「あとどのくらいで焼きあがりますか」
「そうですね、十分ほどお待ちください」
焼き場の係員の言葉に、恵美子と優香は神妙な面持ちで頷いた。
師走の焼き場はどこも混み、待合室は満員なので、優香と恵美子はうろうろと歩き回る。
「焼きあがるって、パンじゃないんだから」
恵美子は優香を咎めながらも、目を合わせて小さく笑った。そうでもしていないと息が詰まる。灰色のコンクリート壁と備え付けの使い込まれた鉄扉は二人を暗く威圧し、今この四角い中でタキが焼かれていると思うといたたまれなかった。葬儀に集まったのも結局は優香と恵美子だけだというのも寂しくてちょっと悲しい。
タキの最期はあっけなかった。優香が散歩をした翌朝、恵美子が病院からもらった薬を渡しに訪れたらタキはベッドの横で倒れていた。右半身を硬直させ口から泡を吹き、もう意識はなかった。医者は脳梗塞の再発だと首を横に振り、そのままタキは亡くなった。
「だよね、私たち不謹慎かな」
優香はコンクリート壁にもたれて呟いた。昨日病院から家にタキを引き取り、通夜のあと棺に納まったタキとずっと一緒にいた。なんども観音開きの小窓を開けてはドライアイスで冷たくなったタキの頬を撫でてしゃべった。しゃべれどもしゃべれども言葉は尽きなかった。顎は硬直したけれど頬肉はいつまでも柔らかかった。優香はそれは自分が撫で続けたおかげだと自負していた。幼い頃互いの頬を触りあって遊んだ懐かしい記憶が甦る。
出棺の時になり、もうこれでお別れなんだと思うと、慌ててタキの髪を切りハンカチに包んでポケットに入れた。いままで我慢してきた分、葬儀屋の人が棺の小窓を閉めたとき、悲痛な思いがこみ上げみるみる涙が溢れた。気丈な恵美子も、このときばかりは目に涙を溜めて顔を真っ赤にしていた。
「だっておばあちゃんと言えばパンだもん。朝から売店に並んでさ、食欲あったもんね」
「そうそう、隠れて食べて、見つかっては喧嘩してねえ」
不思議なほど思い出が湧いてきて、そのどれもが面白可笑しい話ばかりだ。はじめこそ優香は脳を損傷したタキの変化に戸惑ったが、今となってはそんなわがままで食欲旺盛で勝手放題に振る舞ったタキが愛らしく思えて、つい頬が弛む。
そのとき、焼き場のチャイムがなり、係員の影が動いた。
優香と恵美子は四角い炉の周りに並び顔をこわばらせた。そうは言っても、変わり果てただろう姿に耐える自信はない。
大きな重い扉が開き、中からゆっくりとスローモーションのようにタキが現れた。
めらめらと熱気の立ち昇る中、優香は息を止め白灰色の骨辺になったタキを見つめた。
「それでは喪主さまから、お骨をお拾いください」
係員から恵美子が長い箸を受け取り、しばし考えたあと優香に譲った。
「え、私?」
優香は唾を呑みこんで受け取ると、箸を宙に浮かせたまま迷った。どこの骨を拾えばいいか分からない。
「あの、手は、……手の指の骨はどれですか」
係員は粉々に砕けた小さな骨の中を指した。
「……これが」
優香は箸でつまみあげた米粒ほどの骨を手にとった。それはまだ熱く、思わず落としそうになってあわてて両手で包んだ。
優香を育て、いつも引っ張ってくれていた小さな手。そして最後の散歩道でタキのほうから握ってくれた冷たかった手。今その手は熱く燃え、優香の手の中にある。
優香は小さな粒を握り締め、その熱を感じていた。
「おばあちゃん、ただいま、お腹すいたね!」
優香はリビングの写真に話しかけながらランドセルを下ろす。夏服の背に汗が滲んでいる。
「もうすぐママも帰ってくるよ。今夜はおばあちゃんの好きなトンカツだって。それでさ」
明日からの夏休みを前に山ほど宿題が出たこと、プールではじめて二十五メートル泳げたこと、電車で杖をついた老婆に思い切って席を譲ったこと、話題は尽きない。
「そうだ、今年も夏祭り一緒にいこうね。今度は私が連れてってあげるから」
優香はそういって何気なく壁のカレンダーを見ると、弾けたように立ち上がった。八月の第三土曜には誰がいつの間につけたのだろう、赤丸がついている。 滲む視界には、見慣れた筆圧の弱い赤丸が、黙ってうれしそうに数字を彩っていた。(完)