第50回NHK障害福祉賞優秀作品
「それからの日々」〜第2部門〜

著者:堤 万里子 (つつみ まりこ) 佐賀県

一.帰ってきた兄

こんな人生もあるのだと、やはり私は言いたい。絶望しそうな人や、めげそうな時の自分にも、人の一生はわからないものだ、安易に捨ててはいけない、こんな人生もあるのだと。
私の兄は高一の時に精神を病んだ。幾度も入院を繰り返し、療養生活は四十五年に及んだ。その間両親がどれ程嘆き、どれ位生活に困窮し、どれだけの悲しい事があったか、とても言い尽くせはしない。私と兄を連れて、線路へ行く事を考えたと、母が語った事を今でも忘れない。
しかし私はいま、過ぎた悲嘆の日々を語りたいのではない。私が語りたいのは、退院し家族のもとへ帰ってきた兄の、生きている今の姿である。
私が三十七歳の時、母が亡くなった。父は既に亡く、母に代わって私が兄を支える時がきた。二週間に一度の精神病院への見舞いに、時折私の子ども達もついてきた。その優しさの中に、祖母が生きていると私は思った。
時がたち、子ども達も成長し、自立していった。思いがけない事にも出会って、私は離婚し一人となった。その私に残された課題と言えば、兄の人生にどうにか折り合いをつけてやる事である。それはただ一人の妹である、私にしかできない事でもあった。
一番望ましいのは、退院して家で暮らせるようになる事である。兄の病気は、年齢が進めば完治は難しくても寛解はあると聞いていた。当時兄は六十歳近く、病状に大きな変動も見られず、退院して通常の生活はできるのではないかと、病院とも話しあった。不安がないとは言えなかったが、通院治療をすることにして、退院が決まった。住居にも手を入れ、兄を迎える準備をした。親しい人の中には心配してくれる人も居たが、今が踏み切る時だと思った。表札には兄妹二人分の姓を刻んで、新しい生活が始まった。

二.新しい生活

兄が退院した時、私はまだ現役だった。昼間は兄が一人だけの生活である。冬の朝は起こさずに出勤する。食事は朝と昼の分を準備しておく。必要な事はメモに書いておく。お茶は最初はペットボトルを用意した。冷たくても、やけどをさせるよりましである。しかし教えたら、電気ポットからお茶をいれる事ができるようになった。掃除機も使ったことがないというので、手を取って教え、自分の部屋の掃除はできるようになった。テレビのリモコンは一番先に使い慣れた。毎朝新聞を見て、自分の好きな番組を選んでいる。昼間は一人だしテレビは見放題なのだが、自分が見たい番組が終わるとスッと消す。
昼間一人の暮らしも気楽ではあろうが、テレビと新聞以外楽しみがないのもつらいだろうと考えた。そこで、市立図書館に月二回程度連れて行く事にした。好きな本を選ぶよう勧めるが、なかなか手を出さない。ふと思い当たって、本は無料で借りられると説明した。
「そうね」
と言って、兄はそれから本を選ぶようになった。以来、行くたびに二〜三冊のペースで本を借りて読む。歴史小説が好みのようである。
それにしても、子どもの頃から無駄遣いもしない人だったと思い出す。そうやって貯めたお金をもって、クリスマスのプレゼントを買いに私を連れて行ってくれた。生まれて初めて食べたクリスマスケーキも、兄が私に買ってくれたものだった。
洗濯物の取り込みと、たまに来る宅急便の受け取りは、兄に分担してもらった。それだけでも、一人で暮らしている時より随分助かった。
電話は受け答えをしなくてはいけないし、変な電話がかかる事もあるので留守電にした。偶然取った電話で、親類の訃報を伝えてくれた時は、少し感動した。今は携帯電話を使うことが多く、私が話しているのを見て、そんな小さな電話で聞こえるとねと言う。長男に電話をさせ、携帯を渡したら、
「うん、聞こえる、聞こえる」
と喜んでいた。
兄にとって慣れるべき事の多い日々だったかもしれないが、何とか無事に毎日が過ぎていった。

三.病状

概ね穏やかに生活できてはいたが、兄の病気は完治するものでもなく、さまざまの症状があったことも事実である。当初、私は兄の様子をあまり気にしないように努めた。何かを思い出したように笑う位は良いが、声を上げて笑うのには、たまに訪れた人も驚いた表情をする。私はこういう時、兄もお客の様子も気にしない事にしている。が、それも頻繁だとやはり神経が疲れる。
ある時、好きな作家の本を読んでいたら、その方の父上の事が書かれていた。その作家の父上は結核菌で脳を侵され、二階の部屋でずっと声を上げ続けながら、やがて亡くなられたとあった。そういう症例もあるのかと驚いたが、その状態の患者を見守る家族のつらさを思った。ご本人も家族も、どんなに苦しかったことだろう。その本を読んだおかげで、私は思い直すことができた。たとえ病気であっても嘘であっても、苦しんだり泣いたりしていることを聞くよりは、笑い声の方がよほどいい。それから本当に気にならなくなった。
そして最近気がついたのだが、意味のない笑いや呟きが随分少なくなっている。薄皮を剥ぐという言葉のように、退院して十年以上の時が過ぎる間に、少しずつ兄は良くなっていたのだ。私が働いている間は忙しく、見過ごしていたのかもしれない。その兄の人間としての尊厳を、私は意識して守りたいと思う。
兄が発病した頃、父は兄の事を
「もう廃人だ」
としばしば口にした。小さな家の中で、敷きっぱなしの布団から兄が朝食に起き出して来ると、
「乞食が茶碗の音で目をさます」
と言い放ったこともある。その言葉は、当時小学生だった私の心にも、ずっと刺さったままである。確かめた事もないが、兄が記憶していなければ幸いだと思う。とても優秀で、この上なく優しかった兄でも精神を病めば、父親でさえも疎外する。そんな父に連れ添って、母の苦労は言うまでもない。父に対して、私にも子としての意地のようなものがあった。
兄はこの家の中に、ゆったりと存在できる場所が与えられて当然なのだ。かわいそうな人だからではない。家族だからである。そう思って、兄妹二人で生活してきた。夕食をとりながら、その日のでき事や思った事を兄に話している自分が居る。私はいま、兄に支えられているのだ。

四.取り戻す日々

兄が退院してから干支が一巡した。退院して間もない頃、国政選挙があった。楽しいことでもないが、それまで兄は一度も投票したことがなく、連れて行く事にした。それ以来、兄は一度も棄権していない。
先だっての地方選では、すでに慣れて余裕だったのか、ニコニコしながら投票所から出てきた。あんまりいい笑顔だったので、
「どうした?」
と聞いてみた。兄が言うには、間違って自分の名前を書いてしまったという。書き直したそうだが無効になっただろう。しかし消しゴムがある訳でなし、誰のかき損じかすぐ解る。ああ恥ずかしいと思ったが、兄も自分ながらおかしかったらしく笑っていた。半世紀ほどもかかって、ようやく取り戻した兄の健康な笑いであった。
気がつけば、テレビの愉快な場面でも笑うことが増えている。赤ちゃんや小さな動物、幼子の姿も喜んで見ている。たまに空笑いが混じるのがややこしい所ではあるが。時代劇も好きだし、Eテレの高校講座も決まって見る。本当に勉強が好きだったのだと、私はまた少し残念な気持ちになる。
紀行番組も好きで、世界のいろいろな所を映像で楽しんでいる。ある日、台湾の旅番組が流れていた。私が何げなく、
「ああ、懐かしい」
と口にした。以前、職場の人達と旅行したことがあったのだ。兄が振り向いて、
「行ったこと、あると?」
と聞いてきた。そうだと答えると、
「ふうん」
と言う。その声に含まれるものを感じながら、半分は仕方なく私も言った。
「行ってみたい?」
と。間髪を入れず、
「うん! 行ってみゅうごたる(行ってみたいなぁ)」
と返ってきた。
それまで旅行には何度か連れて行った。旅行社のツアーに、何とか違和感なく同行できるようにはなっていた。しかしそれまでには、途中から独り言が増えたり、意味のない動作が出たりして、正直来なければ良かったと思う時もあった。観光バスの中で漫才コンビのビデオが流れて、人の笑い声が高くなったことで救われたこともあった。最近落ち着いて旅にも慣れたか、飛行機は速くて良いとお気にいりである。
しかし海外となるとパスポートが要る。障害者だからパスポートが出ないとは思わないが、精神障害者の場合どうなのだろうか、兄にはまず、パスポート申請の必要があることを話し、それができたら台湾へ行けると説明した。
「うん! よかよか」
兄は嬉しさと納得の混じった返事をした。
早速、県の旅券センターに出向いて聞いてみた。兄は障害があり右手も震える。記名ができるか心もとないと尋ねると、町の受け付け窓口で本人が実際に書けないことが認められれば、代筆も可能だと言う。少しほっとしたが、他人の前で書けないことを確認させる位なら、この際兄に記名の練習をしてもらおうと思った。サインは本人しか書けないのが条件で、下手も上手もかまわないが、最低限名前が判読できた方が良いだろう。漢字練習帳を出し、記名の練習をしようと提案すると、うんと応じてくれた。漢字とカタカナで各十回ずつ、毎日練習をした。ここがちょっと、そこが少しと、本人が投げ出さない程度に助言をしながら練習を続けた。いま改めてそのノートを振り返ってみると、三十日間練習が続いていた。
何枚かもらってきていた申請書に記名し、これなら良いと思うものを厳選し、携えて、町役場の窓口へ向かった。書類を出すと、係の職員が難しい顔をして記名の欄を見た。サインは読めれば良いはずと主張すると、県へも問い合わせをしている。県の回答は、大抵のものは受け付けていると言ったそうだ。ならば提出してくれれば良いと言うと、もし返却されたら再度窓口に出向いてくれるかと言う。必要だから申請しているのであって、放置するはずもないだろうと応酬しているうち、だんだん不愉快になってきた。やっと、交付された時の引き換え書を書く段になった。また本人が記名しなくてはいけない。兄が緊張しながらした記名を、これではだめだと言う。申請書と同じ記名ではないかと声を荒げそうになった。再び兄に書き直しをさせたあげく、仕方がないと言わんばかりの顔で、今度は記名の両脇に小さな丸をふたつ書き、この中に名字を書くようにと言う。この書面をコピーしておいたのであらためて測ってみたら、径が五ミリと七ミリの楕円がひとつ、もうひとつは八ミリと三ミリの楕円である。何の意味か解らないが、この不揃いの小さな楕円の中に、漢字二字の名字を、兄が震える手で書けるはずないではないか。何のテストなのだろう。私は自分の気持ちを押さえながら言った。
「あなたは、この中に漢字二字書けますか?」
すると相手が答えた。
「いや、私が書いてはだめなんですよ」
私はその人と話すのが阿呆らしくなってきた。
「名字を書いてから丸で囲めばいいでしょう」
と私が言うと、それでもいいと言う。兄にもう一度名字を書いてもらい、私が丸で囲んでやった。
申請が終わって家に帰ると、兄がこれまで見せた事のない不快な表情をしていた。私もとても腹が立っていた。思い出すだけでも不快になるので、このことには触れないことにした。どうなるかは解らないが、あれで駄目だったら、兄を傷つけただけで何もならない。余計な事を思い立ったと後悔した。兄もまた、その事は何も口にしなかった。
二か月ほどして、役場から電話がかかった。パスポートが出ているので受け取ってほしいという連絡だった。
「おや! おりたんですか」
と思いっ切り嫌みな返事をしてやった。
兄にパスポートが出たよと伝えると、
「そうね」
と笑顔を見せた。その顔を見て、私ももう一度聞いてみた。
「台湾、行ってみたい?」
兄がすぐ笑顔で答えた。
「うん! 行ってみゅうごたる」
それで私も心を決めた。何があるかわからないけど、余計な心配はするまい。兄を、生まれて初めての海外旅行に連れて行こうと。
台湾へは、私の友人のKさんと三人連れである。Kさんは、兄に対してもゆったりと接してくれる人だ。特別支援学校にも勤務の経験があり、人を差別しない明るく温かい人である。私は自分に誇るものはあまりないが、Kさんという友人のいる事は誇りである。三人で、福岡空港から台北へと飛びたった。
出入国の際に、また書類に記名が必要だった。兄はさっさと自分で書いたが、私は本人に練習させて良かったと思った。役場の窓口では、係がいかにも難しいという対応だったが、出入国の時にそんな顔をした係員は、日本にも台湾にも一人も居なかった。そのはずである。兄の記名はひと目でパスポートと同一とわかるし、誰もまねできない事がはっきりしているのだから。
旅は本当に順調だった。それはKさんとも喜びあったほどだ。台北で高速鉄道に乗る時、駅構内でエスカレーターに乗った兄が、少しバランスを崩しかけてヒヤリとした。私は二人分の荷物を持ち、兄は手ぶらだったから、手すりにつかまれると思ったのが油断だった。乗ってみて、日本のエスカレーターよりやや速度が速かったことが解った。その事があっただけで、他には困ったこともなく旅は順調だった。
最初に行った九〓(きゅうふん、「ふん」はにんべんに分)では、狭く急な坂道をかなり歩いた。はぐれてはいけないので、この時はずっと兄の手を離さなかった。兄も疲れただろうが、頑張って歩いた。どれほど疲れていたか、その夜のいびきでよく解った。旅行中、円卓で初対面の人と食事をすることが続いた。なかには兄を健常者ではないと見た人も居ただろうが、私が困るような事は何もおこらなかった。
九〓(きゅうふん)でお茶を飲みながらながめた海、数々の宝物を見た故宮博物院、寿山(じゅざん)から見下ろした基隆(きーるん)の港や海、台湾の歴史や文化にもたくさんふれて、兄の初めての海外旅行が無事に、しかも楽しく終わった。
旅行が終わり疲れもとれた頃、それまでと異なる雰囲気を兄に感じるようになった。何だか自信ができたというか、自分が生きている確信を持ったとでも言うか、兄の印象が少し変わったと私は思った。精神を病むという事がどういう感触なのか、私も十分には解っていない。察するに、よりどころのないような不安があるのではないか。自分の言動や行動に、これでよいという確信がもてないのではないだろうか。その不安を、兄は少しだけ克服したように思えた。六十年ぶりの、私にすれば奇跡に近い変化だった。
だから人生はわからないと思うのだ。人間がいま目の前の事だけを判断しても、運命は何を考えているのか、わかりはしない。絶望などしてはいけない。私達の母が絶望して、私達を連れて線路へ向かっていたら、今日の日は来なかった。私の子も孫も、生まれはしなかったのだ。

五.同行の日々

穏やかな日々が続いていた。四月の中頃の事だ。兄への投薬の内容が変わった。退院直後の頃から、下あごや右手が小さく震えるようになり、診察の折主治医にも話したが、当時それはどうにもできない事のようだった。今の生活ができるようになった事だけでも、感謝しなければと思っていた。半分あきらめていた症状が、新しい薬で良くなるのかと期待した。しかし、その薬を飲み始めると同時のように、夜眠れなくなった。兄は病人だから一人では寝かせられない。同じ部屋でやすむ私も、同じように眠れない。とうとう二人とも、一睡もできずに夜が明けた。
困ったと思ったが、体の震えを改善するには新しい薬が良いのだろう。一晩眠らなければ翌日は眠るに違いないと、様子を見た。さすがに翌日は眠った。しかしその翌日は、また眠れない。一晩おきの徹夜状態で二人ともフラフラで、兄は体重まで減った。これでは良くないと診察に出向き、詳細を話した。体の震えもだが、眠れないのはやはり良くないと、再度薬が変更された。おかげで不眠の状態は、幾分和らいだ。それまで飲んでいた薬では、朝の目ざめは本人の状態に任せていた。起こされると一日中、何かすっきりしない様子だったからだ。しかし今度は、生活習慣のリズムも大切という医師の指示もあり、不眠を改善するためにも、多少寝つきが悪くても、朝目がさめなくても、適切な時間に起こすことにした。日頃読書はしていても運動不足は明らかなので、雨の日以外は四十分程度の散歩をすることにした。夕食後の服薬のタイミングも考え、生活の内容をノートに記録するようにした。兄の症状が少しずつ良くなって、楽しい話や注目するでき事を書き始めたものだったが、今は病気を乗り越えるための記録である。
突然眠れなくなったことで、兄妹ともに疲労してしまった。誰より兄が不安だったであろうに、私は自分の困惑と疲れで、兄に対しても不快な表情をかくせなかった。その結果がどうであったか。
兄の表情に生まれていた、あの自信のようなものが消えた。残ったのは、不安を抱いている兄の姿だ。その原因をかみしめながら、私はつくづく自分が嫌になった。後悔しても追いつくものではない。
健康のために通っている町民プールで、泳ぎながら一人考えた。どうすれば良いのか。できる事は一つ、兄に謝ることだ。結果はどうあれ、他にできる事はない。家に帰ると、私は兄に謝った。
「兄ちゃん、ごめん! あんたのせいではないのにね。薬が変わったから、今度は大丈夫だよ」
そう言うと兄が小さく笑って、
「うん」
と答えてくれた。私にはその兄のほほ笑みが、花びらみたいに見えた。
至らぬ妹の心をくんでくれたか、兄は徐々に落ちついてきた。自分の部屋で読書をするのはいつもの事だが、最近はその集中度が違っている。散歩に誘うと以前のようにおっくうがらずに立ち上がる。兄も病気を乗り越えようと頑張っているのだ。その生きる意欲に触れた気がして、私も力が湧いてきた。負けないぞと思う。
兄は家族や身近な人達とふれあい、きれいな花やめずらしい物を時折ながめ、たまにおいしいものを食べたりして、穏やかに残りの人生を楽しみたいだけなのだ。私はその願いを成就させたい。幼い頃から私の手をとり、かわいがってくれた兄の手を、今は私がつないで歩く。私自身も考えたり悩んだりしながら、辛抱強い兄ちゃんを見習って歩くのだ。
きれい事で言うのではない。家族の意味は「悲」の共有。逃げようのない人間の悲しみでも、それを分けあって得られるやすらぎの有り難さを思う。
来年は父の五十回忌を迎える。施主は兄である。ささやかでも心の満たされる法要を、兄妹二人で協力して営む事を楽しみにしている。

堤 万里子プロフィール

昭和二十四年生まれ 無職 佐賀県吉野ヶ里町在住

受賞のことば

入選の連絡を受けて、その事を兄に話しました。「表彰式に、東京に行こうね」と言いましたら、少し照れた表情で「うん」と答えました。発病以来、兄の気持ちが晴れがましくなることなど、いくつあっただろうかという人生でした。素直に喜んでいる兄の表情を見て私も嬉しいと思いました。母も兄自身も、絶望しなかったおかげで今日の日があります。有り難いなと思い、私の体にもまた力が湧いてきました。

選評(鈴木 ひとみ)

——「家族」の意味は"悲"を分かち合うこと。逃げようのない人間の悲しみ、でもそれを共有することで得られるやすらぎの有難さを思う——堤さんの言葉です。これを体得するまでに味わった困難と同時に、手に入れられた穏やかな幸せは、堤さんの財産です。家族であっても、実現できている人がどれだけいるのだろうか、と私たちに問いかけられているようです。重い内容ながら静かに流れる文章は、堤さんの性格や気持ちの状態をよく表しています。

以上