第50回NHK障害福祉賞優秀作品
「明日がまたある」〜第1部門〜

著者:萱森 恵 (かやもり めぐみ) 東京都

「みうが生まれてきてよかった?」
娘(みう)は八歳。夫から離婚を言われ、ひとり親になって六年が経った。「自分が生まれてきてよかったのか?」こんなことを娘の口から聞くなんて。ショックだった。

二人を幸せにしてあげられそうにない

夫からの離婚の申し出は、寝耳に水ではなかった。私もそろそろ限界なのではと思っていた。それでも、帰宅後思いつめた顔で夫から「話があるんだ」と伝えられた時は血の気が引いた。「とうとうこの時が来た……」と。

離婚までのいきさつはこうだ。
私が妊娠五か月の時に夫から言われた衝撃的な言葉は今でも忘れられない。
私のせり出すお腹に、夫が父としてのプレッシャーに押しつぶされていくのを私も感じていた。まだ生まれていないのに、先のことを考えては、自分の自由になる時間もお金もなくなる、父親としてしなければならないことが増えると、マイナスばかりを考えては大人になることができない夫。「自分が欲しがった子どもなのに」私は釈然としなかった。釈然としなかったが、私は、夫の様子に気付かないふりをした。そうでもしなければ、夫のふがいなさに憤り、自分が疲れるばかりだと思ったからだ。子どもを宿した体を怒りで消耗したくはなかった。平穏に過ごしていたかった。けれど、それは束の間でしかなかった。彼はもう耐えきれなくなっていた。
「お腹の子どもは諦めろ。そして、俺と離婚しろ」
自分の決断が揺らぐのを避けるように命令口調で言い放つ夫。「離婚までしなければならないのか」ここまで想定していなかった。衝撃的な言葉。無言の私を置いて自室にこもった夫は中絶が違法でないかどうかの月齢を調べていた。
「妊娠五か月か、もうだめか。……それでも明日医者に行け」
夫は、そこに私がいないかのように、命令した。夫に従う気は、私には全く湧かなかった。まるで、お腹の子どもが「お母さん、大丈夫。離婚していいから二人で生きて行こう」と励ましてくれているようだった。不思議な感覚。ブレない強さが私を悲しみにおとしいれなかった。
私は、医者には(もちろん)行かなかった。その代わりに、シングルマザーがどうやって生きて行けるのか、行政の制度を調べることに時間を費やした。児童育成手当、児童扶養手当、母子生活支援施設。この三つが私の「一人で育てる」決意を固めてくれた。調べている間、頭では「もうこのまま死んでしまいたい」と絶望的な考えが浮かぶのに、未来へ進む前向きな気力が出ていた。「やっぱりお腹の子が私を後押ししている」そう感じた。うれしかった。
「大丈夫か?」
医者で中絶したと思い込んで帰宅した夫が言った。私は
「一人で行く気力はなかった。あなたが本気だったら一緒に行くはずじゃないの?」
夫は素直に納得していた。
「そうだな……」
夫自身が自分の気持ちがわからずにいるのだった。私は
「離婚はいつでもできるんだから、子どもの顔を見てから、考えたら?」
と、不安定な夫に時間を与えた。
自由になりたくなってどうしようもない夫。その夫に対する怒りを抱え苦しむ私。お腹の子どもにとって最悪とも言える胎児時期だった。お腹の子どもに申し訳ない気持ちでいっぱいでもあった。もう私は、ひとりでこの子を育てるには? と未来を見据え現実を模索することだけが、生きる力になっていた。
夫には腫れものに触るように接した。これ以上、夫が私に対して何か少しでもショックな言動をしたら、私の精神は崩壊寸前だったからだ。私とそしてお腹の子どもを守りたい、その一心だった。
さまざまな感情にさいなまれながらも、お腹の子と共に過ごすことは、私に力を与えていた。
「お母さん、大丈夫だよ。二人で生きていけるよ」そう励まされるような気力が自然と沸くことに驚き、そして、私は母親になっていた。
これらのことは、誰にも言わずにいた。言わずにいれた。もう私はひとりで育てる決意が固まっていたから、余計な心配は心をかき乱すものになるだろうから。私はこの時を娘と二人で平穏に過ごしたかった。そもそも、私の両親は離婚後再婚してそれぞれの家庭があったので、頼ろうなど思いもしなかった。

予定日を二日過ぎた冬の夜、女の子が生まれた。夫に命令されるまま、父方の実家に帰省。後妻さんの助けをもらいながらの里帰り出産だった。陣痛から九時間経て自然分娩で、小さな小さな娘は生まれた。私のこれからの人生でかけがえのない娘。
「いずれはこの子と二人で生きて行く」それでも人間はすぐには強くなれはしない。
何も知らない、お祝いする家族や親族、友人に笑顔で接しながらも、私の心の奥は深刻で、一人で育てる強さを持とうと、幼子を抱きしめながら、不安の渦の中でもがいていた。それなのに、幼子は私の腕の中で安心したように眠る。かけがえのない命。誰よりも私は感じているんだ!

それから一年四か月が経った。

二人を幸せにしてあげられそうにない

父親業を出来る限りした夫が出した離婚の決断に、私はもう抗うことも彼をたしなめることもしなかった。夫は、娘の父親になろうと、抱きかかえてみたりしたが、不自由さ(夫であること、父であること)から解放されて自由になりたいという心の底の思いがなくなることはなかった。それを感じているのも私自身の苦痛だった。娘への思いが偽物のままだなんて。夫も娘も私も、不幸だった。離婚するのが最良の選択だと私も思い始めていた。そして、努力した夫に自然と感謝もしていた。
「わかりました。私は母子生活支援施設に申し込みます。そして、養育費は月に三万円、お願いします」
夫は(もちろん)快諾した。
数日後、夫は仕事を休み、二人で離婚届を出しに区役所に行った。私は、そのまま母子生活支援施設への申し込みをしに福祉課に向かった。夫の方は、届出を出して仕事に向かった。
「申し込みは一緒に行った方が良いかな?」
と夫なりの配慮を示したが、私はもうここからひとりでやるべきだと感じていたので、断った。母子生活支援施設への入所許可が出たのはそれから一か月後。娘は一歳四か月になっていた。歩くことも、離乳もできて、娘の成長は「母子家庭」で生きるために準備ができているようだった。

区内の母子生活支援施設に入ったのは、爽やかな風薫る五月。さまざまな理由で施設で生活する母子世帯が二十世帯。私と娘の新しい生活の場だ。
共同生活のため、ルールは多かった。特に、一室しかない、共同のコインシャワー(この母子生活支援施設にはお風呂がなかった)は、ようやく歩けるようになった娘と一緒に使うには苦労した。十五分の時間で脱ぎ着をしなければならなかったし、予約制で枠を取るのに、朝六時に事務所前で母親たちがジャンケンする。勝った順に好きな時間を取るのだが、毎朝のそれになかなか慣れなかった。子どもの寝る時間は早い。都合のいい時間が取れなかったら、となかなか寝付けなかった。
ちょっとしたことでも、今までの生活とは全く違う母子生活支援施設での生活。ひとりで育てることをスタートさせた私は、夫から解放された一方で、不慣れな環境に慣れるのだろうかという不安や先行きの不安で、不眠症になっていた。
一日中吐き気がする。待機児童数全国一位のこの区では、年度の途中で保育園を申し込んでも到底入園は難しかったため、吐き気を感じながらも、娘を公園に連れて行ったり、買い物に出かけたりしなければならなかった。初めての子育てとひとり親としての生活と、私は重圧でいっぱいだった。吐き気がするのは、そんな不安の象徴だと私は感じていた。実際にひとり親で子育てすることは、想像以上にしんどかった。

事務所に娘を一時預かりしてもらい、なかなか治らない吐き気を、消化器科クリニックで診てもらいに行った。
「ちゃんと寝ていますか?」
ドクターは、私に尋ねた。
「いいえ……」
「胃薬と、そして精神安定剤も出しておきますから、三日後、また来て下さい」
「精神安定剤?」
私は精神を病んでいるのか? そうかもしれない状況だったけれどすぐには認められなかった。半信半疑で飲んだ精神安定剤はすぐに効いた。消化器科医は近隣のメンタルクリニックを紹介してくれた。
開業して間もないメンタルクリニックは、予約制だったが、かなり待たされた。満員の待合室は一見普通の人ばかりで驚いた。そういう時代なんだ、と思えて、自分が特別でないことに少し安堵した。
「適応障害、今のところそういう診断になります。もし、保育園の入園や就労を望まれるのであれば、私が積極的に薦めることではありません、あなたが決めることですが、精神障害者保健福祉手帳を取得するという方法があります。調べてみてください。必要な場合は、私の方で申請書の記入などありますから」
先生は親身だった。ひとりで育てる大変さを、ほんの一か月で心でも体でも実感していた私にとって、メンタルクリニックはありがたい場だった。先生から教えてもらった精神障害者手帳も条件を満たす時期に申請書を提出して取得した。私はだんだんと、気持ちのよりどころがどんなに大切なのかを実感していた。ちょうど母子生活支援施設でも、平日は毎日心理士のカウンセリングを無償で受けることができた。私は積極的に受けることにした。私の療養が娘の心の安心に繋(つな)がることも感じていたのだ。
心理士の先生の前で、涙なしに語ることなどできなかった。傾聴に徹して聞いてくれる先生。心の内を吐き出すことに不慣れだった私も、半年、一年とカウンセリングを受けるごとに、自分の生い立ちやこれからの不安を素直に話せるようになっていた。
こうして、母子生活支援施設での生活にも慣れ、待機一年後に娘は保育園の二歳児クラスに入ることができ、自分の時間が持てるようになった私は、ようやく、体も気持ちも軽くなる気がした。
ただ、それでも、離婚や急な生活環境の変化、そして初めての子育てなど、不安が尽きることはなく、メンタルクリニックの受診、カウンセリングは続いた。

人は複雑な生き物だと思う。人から助けてもらうことが、自分にとっても娘にとっても、大切だと、頭ではわかっていても、心のどこかでは素直に助けを受け入れることができずにいたからだ。本当はラクになりたいのに。
社長秘書を八年経験した私ならどんな困難も克服できると思っていたのだ。肩に力がいつも入っていた。神経質になり、娘に大らかに接することができなかった。余裕が全くなかった。社会人経験での自信が、誰かに助けを求めることを邪魔していた。だから、行政に頼ること、医療に頼ること、自分がラクになることに、負い目を持っていた。自分が弱い人間のようで。弱さは"悪いこと"という考えがしみついていた。

その頃、母子生活支援施設でトラブルが起こった。
向かい合った部屋のママの間で諍(いさか)いが起こり、片方が「殺す」といった脅迫状を送りつけ、警察が来て、そして二十四時間体制で警護がつくようになった。脅迫された側は緊急で別場所に避難。施設内は突然ものものしい状況になった。敏感な二歳の私の娘は自室以外の場所、例えば廊下ですら、ひとりで歩くのを怖がり、私はすがりつく重い娘を抱きかかえて施設内を移動した。特に、急な階段を上らなければならないコインシャワー室への移動はしんどかった。手すりはあっても、片手で手すりを持ちつつ、片手で娘を抱えて上り下りするため、腰を痛めた。
母子生活支援施設のスタッフはこのトラブルに追われ、なかなか娘たちの面倒を見ることはできなかったし、もともとが自立支援のため、できることは自分でやるよう指導されていた。私もここで力をつけなければ、と踏ん張った。

娘の発達障害について診断を受けたのもまさにこの時だった。言葉の遅れを小児検診の際に指摘され、紹介状をもらって行った国立成育医療センターの総合診療医から「視覚優位、そして、聴覚劣勢」と、発達障害(視覚能力と聴覚能力の乖離と聴覚情報処理障害)であると診断された。医師の薦めで、「心理療法」と「言語療法」の二つを区の福祉施設で受けることになった。
私が精神的に不安定だから娘の生育に障害がでているんだ、と自分を責めた。つらかった。
医師の勧めに従って、発達療育を受けることにしたが、それが、私のストレスになった。
「療育」という名のダメ出し。一年に一度、医師が発育の状況を診断するための資料を作るために、療法士さんたちはさまざまなテストをほんの四十五分間でする。娘の遅れている部分を見つけて、
「お母さんの方で日頃こういう点を促してください」
結局は、私がしなければいけない課題を提示される。私はまた自分を責めて、イライラしながらその指導に従い娘に優しくなれず、そんな自分をまた嫌に思う悪循環に陥った。
間もなくメンタルクリニックの先生が指摘した。
「うつ状態ですね」
私は、うつ病になっていた。
幼い娘にキツイことを言っている、している。自分は虐待している、そう思い落ち込み、消えてしまいたくなる。人に会いたくないから、外出時、例えば、娘を保育園に送り迎えする際は帽子をかぶって顔を隠した。誰にどう思われているか、気になって仕方がない。帽子で隠すことで無表情でいられた。気持ちが楽だった。
メンタルクリニックの薬は良く効き、「ま、いっか」と、流すことができるようになったが、副作用で、生理が来なくなった。婦人科で
「子宮が機能しなくなると不具合が生じます。三か月に一度は生理が来るように」
と厳しく指導された。メンタルの薬は継続服用しないと効果がでないものだった。頓服のように服用できないものだったので、生理が来るようにするには一か月間は服用を中止する必要があった。メンタルクリニックの先生に言わせれば「それではこの薬の効果が発揮されない」。迷った結果、この薬をやめた。別の薬にするが、以前のようにはラクにならなかった。苦しい日々が続いた。
母子生活支援施設のものものしい状況で落ち着かず、私も娘も不安定な心理状態が続き、私は不眠症とうつ症状を抱え、娘は発達に支障をきたしていた。ひとりで育てることの困難。想像以上だった。

母子生活支援施設では、私たちと同じような状態の人が多かった。中には幼児で、癇癪がひどく廊下に出て泣き騒ぐ子もいた。その幼児もそのお母さんも精神安定剤を飲んでいた。幼児を育てる人たちの多くがメンタルクリニックに通っていた。彼女たちの入所までのいきさつを聞けば納得がいく。普通の精神状態でいられるわけがない。彼女たちのほとんどが、妊娠時から夫が働かず、出産後動くことのできない母子を顧みない。母親は母乳を幼子に与えるが、栄養が取れず激痩せし、見かねた友人知人が役所に相談して、母子生活支援施設に入所していた。「生き死に」の境を体験する、という壮絶な経験をしてきた彼女たち。こんな経験をしてきて精神を病まないはずがないじゃないか!
施設内ではいつも誰かが自分の子どもを怒鳴り飛ばしていた。イライラしていた。
私は、早くここから出たい! と強く思った。娘と私の心が落ち着く場所が必要だと思った。私の精神安定と娘の成長の安定、両方には落ち着いた環境が必須だった。
狂ったように、都営住宅と区営住宅の公営住宅に応募した。応募要項が出る日に役所に取りに行き、出ている住居一覧をくまなく見た。働く場の多いエリアがいい。娘が小学生に入る前には都営住宅に入りたい。転校は避けたかった。
神様に懇願する思いだった。私と娘だけの穏やかな生活の場があれば、私も娘も変われる、そう信じた。このまま施設にいたら、気が狂いそうだった。みんなが病んでいた。
都営住宅に当たるまでに四年かかった。申込回数は三十回以上。条件にこだわりすぎたかと迷った時期もあったが、仕事先も多く子どもが広々とした場所で遊べるスペースもある湾岸エリアの都営住宅に結果的に引っ越せた。苦しい四年間だったが、未来の方が長い。妥協せずに踏ん張った自分をねぎらった。自分の決断と行動に間違いがなかったと自信が生まれた。
娘はそこで小学生となり三年生になった。学校にも学童保育にも慣れ、自発性が生まれた。いまだに、私はメンタルクリニックに通院しているし、娘は聴覚情報処理能力が二年程遅れている発達障害がある。専門医との定期的な相談は欠かせない。
でも、これからだと私は確信する。自分たちの安定した場所を確保してまだ二年。根っこを伸ばし、伸び育つのはこれからだ。今度、娘は学童のイベントのリーダーをするそうだ。何事にも臆病で慎重に慎重に行動する娘の自発性を促そうと、学童で考えてくれたようだ。娘は信頼できるスタッフさんたちに応援してもらい、帰宅後、イベントの企画書を絵で描いた。聴力が低い分、視覚力が発達している娘の絵は、細部まで配慮のある絵で、学校でも評価が高かった、娘なりに自分の弱点を補って生きている。うれしかった。専門医も
「不得意を何とかしようとストレスを与えるより、得意分野でフォローするのがいいでしょう」
との結論。娘はそれを自然と自分で活かしている。成長してくれているのだ。だから、これから、これから私たちは伸びて行く。

夜は二人で小さなベッドに抱き合うように寝る。安心感を与えてあげたくて。そんな夜に娘は聞いてきた。
「みうが生まれてきてよかった?」
私はこう答えた。
「当たり前だよ。みうが生まれて、お母さん、うれしかったよ。みうがいなかったらね、お母さん生きてなかったかもしれないくらいだよ……」
「そっか」
と娘は言った。
"生きていなかったかも"なんて、強すぎたかな? と思ったけれど、私の心が伝わるだけで十分だったのだろうか。娘は安心したように眠りに落ちた。私は明日がまたあることに感謝した。

萱森 恵プロフィール

昭和四十八年生まれ 自由業 東京都江東区在住

受賞のことば

泣きながら書いた経験談です。書き終えた後は、私の中で渦巻くつらさが(書く=表現することで)�過去"へシフトした、そんな不思議な感覚を覚えました。「ああ、あんなこともあったな」と懐かしく愛おしく思える今です。娘との二人三脚はこれからもずっと続きます。もう明るい未来しかない、自然と思える。こんな貴重な機会を下さった事業団と事業に携わる方々へ感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。

選評(玉井 邦夫)

精神障害を抱えたシングルマザー——支援者は、しばしばそのような「ケース」に出会う。そして、心のどこかで「自分のことでさえ大変なのに子どもなんて……」と感じたりする。そんな経験のある方に、この作品を読んでほしい——選者として強くそう感じた。離婚に至る葛藤や、娘の「療育」を「ダメ出し」と感じる辛さ。「気が狂いそう」とまで苦しむ施設生活。しかし、そうした経過で一貫して、ただただ安心して子育てがしたいという思いを貫く。当たり前のお母さんが、当たり前ではない環境の中で、「明日がまたある」という当たり前のことに感謝するに至る道筋が、すべての「支援者」に自分たちの視線のあり方を問いかけてくれるはずである。

以上