第50回NHK障害福祉賞最優秀作品
「障害児を育てて、そして施設を作った」〜第2部門〜

著者:宮島 伸子 (みやじま のぶこ) 東京都

一.難産の結果

まず、子供の状態を話しましょう。歩くことができません。一人で座ることもできません。手も使えません。したがって寝たきりです。今までの五十四年間一度たりと自分の手でご飯を口に運んだことはありません。自分の口で話しかけたことも、自分の言葉で語ったこともありません。原因はお産でした。普通は回転しながら産道を通るのが、何かの拍子でひっかかってしまったらしいのです。すぐ処置をすれば帝王切開で元気に生まれたのですが、先生が油断をしたらしく(私があまり元気で順調だったため?)私の方は体全体が壊れるほど痛かったのですが、これはお産としてあたりまえなのだと、苦しいのを我慢してしまいました。今まで元気だった心音もだんだん聞こえなくなり、助産師さんがおかしいと先生に伝えた時は仮死の状態でした。無理に鉗子(かんし)で引っ張り出した時に、脳の一部を潰して出血してしまったのです。声も出さず、体はこげ茶色の強度の仮死状態で肺呼吸ができませんので、もちろん脳に酸素がいきません。その瞬間から脳細胞がどんどん壊れて行ったのです。CTスキャンでは梅干大の傷跡があり、そこの細胞がだめになったので、体幹機能障害という一種一級、最重度の脳性まひの体になってしまいました。

二.脳性まひと分かって

生まれて五、六年は死ぬか生きるかの状態でした。病院をいくつも訪ね歩き、その都度
「何でもありません」
と言われ、親が見てもおかしいと思うのに何でもないといわれると余計悩むものです。自分で勉強するしかないのだろうかと思う毎日でした。三か月経ち、とうとうケイレンが出てしまい、日に日に発作はひどくなり体の状態も悪くなり、意識もだんだん分からなくなり、何回目かに訪ねた愛育病院の内藤院長にはじめて
「脳性まひでケイレンが出てしまったら後遺症は残る。お母さん、人の十倍は手がかかりますよ」
と言われショックでした。では今までのお医者様の診断は何だったのか、ケイレンが出る前になぜ薬で抑えられなかったのか、という思いが強く、憤りさえ覚えました。薬の調合は名人芸とさえ言われる程難しいのですが、いただいた薬が効きだしてやっと発作が出なくなったのが生後一年の誕生日頃でした。それまでの発作で一回につき何万の脳細胞がこわれるといわれるように、精神的にも肉体的にも大きなダメージを受けていました。

三.親の思い

障害児をもった親が、必ず一度は考えることは、"この子と一緒に死のう。その方が子供も将来苦しまなくていいし、私も悲しまなくていい。子供もその方が幸せかもしれない"ということです。病院で呼吸困難になって酸素テントの中にいるとき、そしてボンベを私が替えなければ間違いなくこの子は死んでしまうという時、大きなペンチを手に考えたこともありました、でもそんな時どうしても理性が働いてしまうのです。人間としての理性が頭の中に悲しいくらい出てきてしまうのです。この子を道づれに自殺したら、後の残された人にどんな迷惑がかかるだろう。まず親が親不幸を悲しむだろう。まだ妹が結婚してなかったので、人殺しの妹として一生結婚できないかもしれない。他人の幸せまで奪うことは出来ない。まして一人の人間として尊い命を与えられ、この世に生まれてきた子を、祝福されてしかるべきこの子供が、一つのつまずきとはいえ子供に全く責任のないことなのに、親の勝手で命を奪うことなどなんで出来るのだろう。と、そんな毎日の繰り返しでした。主人も恐らく同じように悩んだと思います。でも男ですから決して弱音は言いませんでした。その主人の生来の明るさと、心の支え、
「あんただけに苦労はさせないよ」
と言ってくれた母をはじめ家族たちや親戚、友人の理解がなかったら、私はこんなに朗らかに生きては来られなかったと思います。今までの五十四年間、本当に良い方々に恵まれました。

四.親の決心

必死で生きようとしている子供の顔を見て、ある日主人が申しました。僕たち二人の子供だからどんな後遺症が出ても二人で大切に育てていこう、と。図らずも、私がどんなことがあっても生きていこうと思ったのと同じ時期でした。その時を境に、私はこの子の手足になろう、目になろう、口になろうと、仕事も辞め自分の夢は全部捨てました。障害児を育てることを生きがいにして、人の生活を羨んだりすることもやめました。そう決めると何でも出来てしまいます。楽しそうに親子で歩いていたり、食事をしていたり、旅行をしたりしている人を見ても、幸せそうでよかったなと思い、自分とは別なのだと割り切ることができるようになりました。
子供の体調を少しでも壊さないように、夏は涼しい御殿場の山の中や逗子に部屋を借り、体温調節ができない子供と二人きりでいると不安にさいなまれます。何日かに一度、主人が仕事の帰りに来てくれて、不安から突然の安堵(あんど)に変わり、心を許せるただ一人の人がそばの居てくれることを心の底からありがたいと思いました。

五.不安

誰でも同じだと思いますが、私どもの親は子供のことより自分の子供である私どもがこんな苦労をして可哀そうにと心配します。それがわかるだけに私も親に心配かけまいと元気に、こんなことヘッチャラと意識して明るくしていました。その開き直りが良かったのかわるかったのか解(わか)りませんが、とにかく毎日が胸の張り裂けそうな程苦しかったでしたし、この先どうなるだろう、この子は幸せになれるだろうか、何も分からないまま病気ばかりしているのではないか、という不安を消すには開き直りしかなかったのかもしれません。
子供を育てれば、何かしら苦しさや悲しさは味わうものです。自分の子供が障害を持ってしまったという事実によって、そのショックによって周りを見ることが出来なくなることがあります。かたくなな心を少し開いて冷静な判断で客観的に言ってくれる人の意見に耳を傾けることを心がけました。

六.命をつなぐ方法

食べることは今でも下手ですが、小さいときはミルクや水を飲むことも難しい状態でした。もちろん食事もうまく喉を通りません。むせて体力を消耗して食べられなくなります。今は当たり前の注入など当時はもっての外、自宅では工夫を重ねてペースト状のもので食べ物を包みながら喉を通りやすくしました。それでも食べられず命を落とすことは仕方がない、それでなければ生きていけないというのが当時の医者の考えでしたから、親は必死でした。食事も楽しんでほしい、少しでも人間らしい食事をしてほしいというのが願いでした。水分もスポイトで流し込み、唇を手で閉じて流れ出るのを防ぎます。その後スプーンでやるようになり、スポイトより量が多くなりますが、コップ一杯飲むのに一時間くらいかかりました。今のようにとろみをつけて水を食べさせるという考えがありませんでした。人間水が大事ですから体の調節をとるために何とかストローを練習させようと思い、熱帯魚の水槽に使うビニールの管を、消毒し唇にはさみ、手で閉じ、鼻をつまむと口からしか息を吸えないので、その勢いで水を飲ませる、少々荒療治ですがそうしなければ水分補給が間に合わないのでやりました。一日多くて二十分、それ以上すると親子とも大汗をかくので体力が消耗してしまいます。根気よく続け一年後です、考えられますか。親子でけんかをしながら根気良く続けて、ストローで飲めるようになったのが一年後でした。ある日唇を押さえたら、スーと本人の一番好きなミルク紅茶が口に吸い込まれた時の子供の笑顔は忘れられません。私は苦しかった毎日を思い返して涙が止まりませんでしたが、子供は笑っていたのです。おいしい紅茶が飲めたことを喜んでいるのです。その時私は「苦しさなんか思い返してはいけないのだ、子供の出来なかったことが出来るようになったことを喜んでやらねばいけないのだ」と気がつきました。重度の障害を持った子供に、しかも言葉もない知恵おくれの子供に教えられたのです。
それからは苦しみを乗り越えた時の喜びの方が強く感じられるようになり、その間の大変さなんか夢中でやればちっとも気にならなくなりました。それよりか、普通の子供なら本能的に出来ることも、障害を持った子供は、周りが、まして母親が死にものぐるいで訓練しなければ何もできません。それが小さなほんの小さなことでも出来た時の喜びは人様の何倍も大きいのです。それだけでも私は人様より幸せではないか。そう考えるようになると毎日の訓練も気にならなくなり、障害児を育てることに誇りさえ持つようになりました。

七.兄弟

ある時、下の子供が友達にほっぺたを噛(か)まれて泣きながら帰ってきました。私はつい
「あんたも男ならやられてばかりいないでやり返しなさいよ」
と言った時、子供はじっと私の顔を見て
「お母さん、どのくらいのことだったらお兄ちゃんみたいにならない?」
と聞きました。ショックでした。私は自分の子供のことだけを考えていたのです。三、四歳の子が相手の安全を考えていたのに。教えられました。それ以来自分がやられて嫌なことは人にしない、自分が言われたら嫌なことは人に言わないようにしようねと約束しました。(己の欲せざること、人に施すことなかれ)という掛け軸がいまだにかかっています。

そのころ私は西宮に住んでいました。三男も生まれて親子五人の生活の中に障害児がいたので、髪の毛が逆立つほどの忙しさでしたが、今から思えばいろいろなことを学んだ懐かしい時期でした。買い物は、ボックス型の乳母車にぐにゃぐにゃの長男を乗せ、滑り止めにやっと座れるようになった三男をつめ、外側の枠の棒に次男が猿のようにつかまりながら行きました。下の子は生まれた時から私が長男の世話に追われていたわけですから手をかけてやることもできず、目と口で育てました。健康に生まれれば本当に手をかけなくても育ってくれるものだとつくづく感じました。

八.学校教育を受けさせたくて

学校入学に関してもいろいろな思いがあります。こんな障害を持った子供でも何かできる。何かわかるのではないか。チャンスを与えてやらねば。刺激を与えてやらねばと考えました。学齢期になってみると
「お宅のお子さんは教育を受けなくていいです」
当時養護学校は義務制ではありませんでした。教育委員会から
「学校へ行けますか、行って解りますか、教育なんて無理です。勉強してもわかりませんよ」
と言われるばかりでした。わが子がそう言われた時の親の気持ちがわかりますか。お宅の子供は教育を受ける価値もないと言われた時、私はこの子たちには刺激が必要なのです。一般的な学習は無理でも、親と子と二人でいるより集団生活、社会生活でいろいろな刺激を与えてやれば、何かが起こるかもしれないのです、とお願いしました。良くなるという確信があったわけではありません。不安でした。でも絶対無理だなんて断言できるのだろうか。やってみなければ解らないではないか。それまで訓練に通っていて、この子の言わんとしていることが理解出来るようになってきたのです。他人の中へ出して刺激を与えればさらに変わるかもしれない。子供が訴えられないなら、親が代わりにお願いするしかないと、親たち皆で何回も教育委員会に足を運びました。そして就学猶予で二年が過ぎ、やっと養護学校が重度でも受け入れてみようかと言ってくれました。全国よりも東京都よりも一歩早く西宮の教育委員会が受け入れてくれました。
それからは先生方も初めての経験ですから、どうしたらよいか解らず大変でした。教室の一部に畳一畳と絨毯(じゅうたん)を敷き、横にしながら絵を見せたり、字と合わせたり、体はどう動かしたらいいのか、食事はどうしたら少しでも上手に食べられるか、トイレはどうするか、本人も介護者も一番楽な方法はどうすることなのか、先生と親は研究と実験の繰り返しでした。もちろん親は毎日付き添って一緒に授業を受け、介助をし、必死で教育を受けさせるために努力しました。でも親が一人で家で悩んでいるより、先生や他の親たちと協力する方が解決はずっと早いのでした。何よりも子供の表情がどんどん変わりました。生き生きし、目がきらきらしてきたのです。今のようにスクールバスなどありません。おんぶしたり乳母車で連れて行きました。冷たい風で体調を崩し、また逆戻りしました。でも一生懸命治して学校へ連れて行きました。子供が喜ぶのです。そんな子供の顔を見るのが親はこの上なく嬉(うれ)しかったのです。そんな親の様子を見て教育委員会の方も考えが変わってきました。通学が大変だろうとタクシーの相乗りをさせてくれました。
東京へ帰ってからは京王線の百草園まで車で行き、駐車場で特別丈夫に作ったおんぶ紐(ひも)でおんぶして別にカバーを作ったバギーを持ち、かばんを持って二歳の三男を連れ電車に乗り、明大前で井の頭線に乗り換え学校に行きました。下の子も二歳でも、私の背中にはお兄ちゃんがいるので決して抱っことかおんぶとか言いませんでした。
その子も学校へ入学し始めて給食が始まり、ある時女の子が給食をこぼしてしまったそうで、先生が拾い汚れを拭いたりされたのでしょう。それが不思議でならなかったようです。家で私に話した時、私が
「それであなたも手伝ってお世話してあげたの?」
と聞くと、息子は意外そうな顔で
「ううん、だって手も足も全然不自由ではないんだよ。全部自分でできる子なんだよ」
私はシマッタと思いました。私が目と口でしか育ててやれず、四、五か月頃から哺乳瓶は両手で押さえて飲んでいましたし、箸も二歳前から上手に使い、助けてもらった覚えがない子だったので、人を助けることは、相手が不自由で、お兄ちゃんみたいに寝たきりの子に限ると思ってしまったようです。私は
「あなたは上手に何でも出来るようになったけど、まだ出来ない人もいるかもしれない。そんな時は助けてあげようね。あなたがお兄ちゃんのことを助けてくれるように。自分が出来ることで、もし誰かがそれを出来ないときは手伝ってあげて、その人が出来るようにしてあげよう。そういう人になってくれる方がお母さんはうれしい。これからあなたが大きくなって、人から助けてもらうことがたくさんあるはずだから」
と約束しました。
障害児を連れての通学は大変でした。時間は少しずらしましたが、だんだん混んできます。人様の迷惑にならないように隅の椅子のないところに立つのですが、二歳の子をかばいながら背中の子も押されて突っ張ります。おんぶといっても背丈があるので足が私の膝より下にきてしまいます。体はぐにゃぐにゃで四十キログラム程ですが、重く肩に紐が食い込んでしまいます。そんな時周りの方が助け船をよく出してくれました。

九.母親の小さな夢

母親は夜寝られれば疲れはとれますが、夜は夜で軽い布団でも掛けるとその重さで息子は寝返りが出来ませんので、何回も体位を変えてやらねばなりません。母親の疲れはとれる時がありませんでした。まして障害の中には非情にも親より先に逝くだろうと、寿命を決められてしまうのもあるのです。親は生きているときに精いっぱい充実した日々を与えてやろうと努力し、あとは苦しみに耐えるしかありません。これ以上の非情はないのです。それでも私たちは夢を見ます。障害児を育てていると大きな夢は持てないのです。

そんな小さなことが夢だったのです。発作、病気、介助でいつどうなるか分からない毎日だと大きな夢は持てませんでした。他の人の生活を羨ましいと思うことをやめようと心に決めた時から自分なりの目標を持ちました。今日一日生きることが出来たことを感謝する日々でしたから、この子が成長して手が離れたら主人と二人で旅行などをしてと考えることはできません。手が離れたらと思うことは、この子がなくなる(死ぬ)ということですから。私にできることは今日一日を精いっぱい生きること。明日がないかもしれないのに、今日はシンドイから止めよう、面倒だから明日にしよう。これは許されなかったのです。一寸手を抜けば死んでしまう子供でしたから。
三人の子供を育てながらでも私は一人しかいませんから、三人に平等にということはできませんでした。主人と話して今一番しなければならないことは何だろうと考え、結論を出しました。下の子には少々犠牲になってもらうこともありました。三男が三歳になった時保育園に入れ、主人が先に家を出て次に私と障害児が学校へ出かけます。小学二年になった次男に朝カギをかけさせ、弟を学校の隣の保育園へ送らせてから学校へ行かせました。やはり負担が重すぎたようです。二人とも熱ばかりだし、中耳炎にはなるし、これではいけないと話し合い養護学校へ行くのはやめ、日野市の訪問学級へお世話になりました。そんな時は理解が出来ないかもしれなくてもどの子にもよく話し、納得させ親子で決めたので悔いを残したことはありません。結果はどうであれ、考え、話し合い、我が家にとっては一番良いと決める方法をとったからです。障害児を育てるなんて、人にはやろうと思っても出来ることではないのです。それを私に与えられたのならそれを生きがいにしたらいい。逃げることだけは絶対よそう。

十.障害児は人間?

今では世の中に理解が深まってきましたが、五十年以上前はまだまだ障害児は特異なものでした。人間でないように思われていたかもしれません。私どもは別に恥ずかしいことでもないのだからと、いつも外に連れ出していました。必ず異様な目で見られましたが、愛宕山にあるNHKにも三人子供を連れて見学に行きました。
「こんなに見られるなら、顔はしょうがないとしても格好だけはあまりみっともないことはできないな」
と。仲間うちにはいろいろ体験しています。初めて子供を連れて故郷へ帰ろうとしたら親類から、
「子供を殺してから帰りなさい。みっともない」
また
「お前たちが障害児を産んだから家の娘の結婚を断られた。どうしてくれる」
「あなたが一人子供を産むたびに周りがどんなに迷惑しているか解っているの」
と言われるのです。
「言った人は恐らく後悔しているはずだ」
と母に言われたことを思いながら、許すことが出来ました。"人の痛み"を知ることが出来たのです。

私の息子を含めて重度な子供の多くは(この子はわからない)という態度で接する人には何も反応しません。無視します。けれども何を言おうとしているのか一生懸命解ろうとしてくださる方には表情も変わって反応を示してきます。不自由なだけに感受性は人一倍強いですから。私は心からの声をかけました。そして声かけに対してyes、noの返事を訓練しました。声でうーと言うだけでも、あるいは目でも手でも足の指でも何を使ってもよいから、親以外の人とでも生きていけるための基本だけでも身につけるようにしました。

十一.将来を考えて

そんな思いで育ててきましたが、親は年をとります。体も思うように動かなくなります。そんな親がある日倒れたら、その日から食事、排せつ、着替えすべてストップです。それはその子の死につながります。そのためには親亡き後もしっかり生きていけるように考えることが親の務めと思います。

十二.施設を作った!

主人と話し合って、親亡き後のことを考えました。下の子供の生活を犠牲にしてはならない、精神的な支えは頼むとしても肉体的な世話は頼んではならない。最終的には施設入所を考えようとの結論になりましたが、すぐに入れるところはありません。養護学校を卒業するにあたり、日野市には重度重複障害の子供が通える施設は何もありませんでした。仕方なく親たちが集まり、話し合い、お金を出し合って小さなアパートの一室を借りて通所施設を作りました。いつでも元気に回っているようにと「かざぐるまの家」と名付け、実績を作って東京都より補助金を受け二十年余り親たちと苦労しながら運営を続けました。

誠心誠意運営をしました。親を夜中に寝かせるために子供たちを預かって宿泊訓練もしました。
「今日だけはゆっくり寝なさいよ」
と言って出かけました。現地の病院と連絡を取り、いざという時には連れて行かれるように。親たちの信頼も得られ、毎日を楽しく過ごしていました。しかし無認可の施設では職員の身分が保障されません。どうしても法人格を取らねばならないと、皆でお金を貯めました。平成十九年四月に市内のの二つの知的障害者施設と合同で念願の法人格を取り、八十名定員の通所施設を開所することにこぎつけました。非常に困難なことを乗り越えての運営は、長年主婦であった私には苦労の連続でした。しかし多くの方のご支援と市長はじめ市役所の指導もあり、何とか初代施設長として活動を始めました。三年で職員たちをまとめ、職員と利用者には「明日も来たいなと思うような施設にしようね」との目標を何とか達成できたので、四年目に若い人たちに交代し、現在は理事と相談役として非常勤で出勤しています。ただ、法の改正や、時代の流れの変化で、作る時の夢を叶わせるのは難しくなってきました。支援費だけで大勢の利用者と職員の命を預かる責任の重さは言葉では言い表せないほどです。
これまでの三十年余り、福祉とのかかわりは本人の代弁者となって続けてきました。主人が作ってくれたPCのソフトで事務的な仕事をこなし、利用者が楽しく通えるような施設づくりに必死でした。怖いもの知らずで始めた施設運営も、医療のかかわりが必要になってくる現在は療育センターの院長先生に直訴して関わっていただきました。現在まで続けられたのは関わってくださったすべての方々が温かく支援してくださった御陰にほかなりません。心からありがたいと思っています。

十三.現在の息子

今、息子は施設に入所して楽しく毎日を過ごさせていただいています。当時の施設長に、
「アー、この子は親と二人だけの生活では満足できなくなるよ、若い人たちの動きの中にいないと可哀そうだ」
と言われたことで決心しました。毎週面会に行き職員の会話で楽しそうにしている子供を見て「これで私も死ぬことが出来る」と安心できました。
思春期に救急車で運ばれるような発作の重責が起き、その二年後には生まれるときに鉗子で押さえられたところが破れて出血してしまいました。血管がミシン糸のように細くなっていて、CT検査では頭の中が血液で真っ白でした。手術で意識不明が続き八日目でしたでしょうか、初めて意識が戻り私の顔を見てニタッと笑ってくれた時の喜びは忘れることができません。幸いなことに右側だったことと、意識がないときから看護師さんに協力していただき、ラジオをつけっぱなしにしたり話しかけていただいたりしたことで、日に日に生気が戻りました。脳の骨を外して手術をしたため顔がひきつれ、前の面影はなく悲しく思いましたが、リハビリの方が専門的に治療してくださり顔も元に戻りました。施設にいたからこその回復でした。右脳の運動神経がやられて体は全く動かなくなりました。ぐにゃぐにゃがひどくなりトイレの時など一緒に倒れてしまい、二人でゲラゲラ笑ってしまいます。

今、息子は多くの優しさに囲まれて生活しています。その御恩返しのつもりで今の仕事をしています。息子のおかげで私は多くのことを学びました。また、多くの良い方々と出会うことが出来、支えていただきいろいろ教えていただきました。私も一生懸命多くの職員と障害者と共に働いてきました。
現在はただ感謝しながら、私の人生を終わりたいと考えています。

宮島 伸子プロフィール

昭和十二年生まれ 障害者通所施設理事・相談役 東京都日野市在住

受賞のことば

この度、矢野賞という立派な賞をいただきまして、本当に驚いております。私の体が張り裂けるかと思うほどの難産で産んだ長男が障害を負ったとわかってから五十余年、他にも沢山の経験があり全て勉強でした。主人始め下の弟達の協力をはじめ親戚、職員他私に関わってくださった全ての方々の支えのお蔭で今日があります。福祉の仕事の基本は「愛」だと改めて感じました。選んでくださいました先生方に心からお礼を申し上げます。

選評(浅谷 友一郎)

「この子の手足になろう、目になろう、口になろう」と仕事も捨て、夢も捨てて息子と歩んできた母のひたむきで壮絶な人生が伝わってきます。それだけではなく親亡き後のことも考えて、子供のために新たに施設を作った宮島さんの行動力は見事というしかありません。また文章の中に紹介されている夫や子供達の様子から、家族全員が協力して歩んできたことがわかります。宮島さんの経験は多くの人を勇気づけることでしょう。

以上