第49回NHK障害福祉賞 優秀作品
「僕らを選んでくれてありがとう」 〜第2部門〜

著者:渡邉 治郎(わたなべ じろう) 静岡県

 糸山ハルカさんが脳梗塞(こうそく)で倒れたのは四十歳後半のことである。下半身に軽度の麻痺が残ったハルカさんは懸命のリハビリを始めたそうだ。元来の性格が、気が強く男勝りであったハルカさんは「こんなことで負けるもんか」「絶対元の私に戻って、バリバリ働いてやる」との思いで必死だったそうだ。しかし、その思いにハルカさんの身体は応えてくれず二度目の脳梗塞がハルカさんの身体を襲う。病室で目覚めた時、ハルカさんの下半身は全く動かなくなっていたそうだ。
 ハルカさんは、その時の思いを簡単な言葉で一言で片づけている。
「諦めたわ」
 と。
「だって、それしかないじゃない」
 と言う。実家に戻ったハルカさんは母と二人の静かな生活を始めたそうだ。植木を育て、散歩をし、写生を始めた。ハルカさんの遺品を片づけてみて初めてその頃描いた数々の作品を見た。ハルカさんらしい丁寧な写実であった。花弁の一つ一つの葉脈まで細かく描かれていた。そんな生活が五年も続いた頃だろうか。ハルカさんの母が突然亡くなってしまう。相続のことで親族と揉めたハルカさんは居場所を失った。こうして僕たちの施設、障碍(がい)者支援施設つわぶきに入所したのが今から十四年前。ハルカさん五十二歳の時である。
 身体障碍者がいて、知的障碍者もおり、精神障碍者もいる当施設つわぶきに入ってきたハルカさんは、のっけから異彩を放っていた。入所三日目の朝食後に
「こんなよだれを垂らして、こぼしながら食べる人たちと一緒にご飯など食べられるか!」
 と言い放ち自室に閉じこもってしまったのだ。その剣幕に恐れながらも当時の主任が午後の時間を丸々使って話をし、ハルカさんの居室から出てきた午後六時には、何とかお昼ご飯だけでも食堂でみんなと一緒に食べるという約束だった。主任がどう話したのかは知る由もないが、ハルカさんはこの約束をずっと守り自身が具合が悪くなり一人で食べられなくなった時まで続いた。ハルカさんは約束を守る人であった。約束といえば、ハルカさんは入所を決める時の話し合いで当施設とある約束をしていた。それは、㈰個室利用。㈪月一回は外出し買い物に行く。という二つである。当然ながら、その約束も守らされた。どんなに施設が人手不足でも買い物に出かけるのである。月末まぢかになっても買い物に行けていないと
「ひとみ〜なにやっとんじゃ! ちょっと来な!」
 と担当職員を呼び出して説教をし、ひとみちゃんが主任に外出に行けるよう時間の工面を頼んでいる姿をよく見かけたものだった。
 でも、そんなハルカさんの言動は施設慣れしていた我々職員や他の利用者にはとっても刺激的だった。いつの間にか普通の生活という感覚を忘れてのんべんだらりとした施設生活を送っていたことに気づかされた思いであった。買い物にいくことが普通、プライバシーが守れることが普通、そして、利用者にも主義主張があることが普通なのだった。お風呂がぬるいと言っては新人職員を泣くまで怒鳴り、トイレの可動式手すりが上がったままであるのは障碍者施設の職員として教育がなっていないと言っては主任を説教し、
「これ美味しかったからみんなで食べて」
 とネット注文した食品を職員に分けてくれる人であった。
 そんなハルカさんの当施設でのクライマックスは韓国旅行である。いつからはまったのかは誰もはっきり答えられないが、ハルカさんの居室にじゃんじゃん韓流ドラマのDVDが溜まっていったのである。壁にはヨン様のポスターが飾られ、掛け時計はチャン・ドンゴンモデル、洗面台の鏡に顔を映すと横にグンソク様が笑顔で笑いかけているのであった。少しずつ韓国語も覚え、韓国料理の味にも慣れたハルカさんは担当のひとみちゃんに
「韓国に行く」
 と伝える。
「お金はあたしが出すから、あんた連れてって」
 と。ナースも付いていくことを条件にハルカさんの韓国旅行計画はスタートする。パスポートを取りに行き、車いすでも泊まれるホテルを探し、絶対に行きたい場所がハルカさんでも行けるかをチェックしたりした。そうしてハルカさんは女の一念岩をも通すで、とうとうほんとに韓国に行ったのである。慣れない飛行機で体調を崩し、ヨン様が何かを誰かとしたという場所には行けなかったそうだが、日本とは違う大地を踏みしめて帰ってきたハルカさんは満足されていた。その表情を見て、満足するということがどういうことなのかが分かったような気がした思いだった。
 そのような日々が十二年。時には出前の注文を間違えたのはハルカさんか職員かで喧嘩をし、時にはこんな男はどう考えるかを相談し
「やめとけ」
 と一蹴され、時には携帯の電池が切れそうだからと充電器を夜勤の時に貸してもらい、時には今年は緑色でいくからと大量の黒色の服をもらったりしながらの日々が続いていた。
 そんなある日。ハルカさんが朝食後に職員のところにやって来て
「なんだか物を飲み込みにくい」
 と告白してきた。六十五歳の誕生日を一か月後に控え、焼き肉パーティーを企画していた頃であった。ナースに報告し、ナースが口の中を見る。ナースは
「なんだろう? なんだか良くないもののような気がする」
 と言った。ハルカさんの喉の周りには白いゴツゴツした突起がいくつもできていたのだった。二日後の内科往診で主治医に診ていただくと主治医は
「専門の病院に紹介状を書きましょう」
 との答えだった。相談員である私とナースとハルカさんで一番近くの大学病院まで、車で一時間半かけて行ったのは夏の終わりだった。車中いろいろ昔話をしてくれたハルカさんは饒舌(じょうぜつ)で何も心配していない様子であった。
 地域五万人の人たちの医療を支えている唯一の大学病院に着いたのは十時だった。人で溢れかえり、ハルカさんが診察を受ける時には時刻は十三時になっていた。咽頭科の若い医師はハルカさんの喉を診ると
「ふんふん。ふんふん」
 と頷きながら
「組織を取ります。検査をしないとはっきりしたことは言えませんので」
 と話す。麻酔をかけ、組織を取ると次回通院の話になったが、ここに来ることが大変であることハルカさんの体力的にそう頻繁に来られないことを伝えるとすぐに検査をしてくれることになった。その頃にはもう疲れ切っていたハルカさんを、待合室のソファを二つ繋げて簡単なベッドにし横にすると三人で結果を待った。あんなにいた他の患者さんも一人減り二人減りとうとう待合室には僕たち三人だけになった。僕もナースも誰もいないことをいいことにハルカさんを見習ってソファに横になってあられもない恰好で待たせていただいた。
 午後六時やっと結果が出た。まずは医師より僕とナースが呼ばれて話を聞くことになる。医師に
「本人に直接話しますか? それとも日を改めてご家族同席のもとで話しますか?」
 と確認された。悪い結果も予測していたナースと僕はあらかじめ相談し決めていた。
「本人に直接話してください」
 とお願いをし、ハルカさんが診察室に呼ばれた。そして、医師からハルカさんに伝えられた。
「喉のできものはガンです」
 と。ハルカさんは薄々気付いていたのだろうか、少し動揺は見せたが、今後の治療方針について説明する医師の話にしっかりと耳を傾けていた。
「入院して根治治療を希望します」
 とハルカさんは答え、一度施設に戻り、病室が空くのを待つことにする。帰りの車中もハルカさんは饒舌であった。敵が何かはっきりし、戦う気力で充満していたように見えた。
 さて、翌々日大学病院から連絡が入り、二週間後の入院が決まった。ハルカさんは入院前に計画していた焼き肉パーティーをやっぱり開きたいと言う。女性職員だけを呼んで、ハルカさんのおごりでホットプレートを囲んで上等な肉を提供していた。日に日にハルカさんは物が喉を通りにくくなっていて、本人はあまり食べることができなかったのだが、いっぱい買い込んできてくれていたそうだ。
 そうそう、入院前にひと騒動あったのだった。入院に必要な書類に身元保証人を二名書かなければならない書類があったのだが、それがハルカさんにはいなかったのである。いや、いるにはいるのだが
「あの人たちには頭を下げたくない」
 とハルカさんが言うのだ。一人は遠い県に住んでいる姪(めい)で、これはすんなり記名をしていただけたのだが、近くに住む叔母に頼むのを嫌がるのだ。病院に電話し
「施設長で構わないか?」
 と確認すると
「親類がいるなら、親類にしてほしい」
 との返答。その旨を告げるがハルカさんは渋る。そして、話してくれたのは母が亡くなった時のゴタゴタ話だった。ある程度の遺産があって相続で揉めたそうだ。
「あんたたちに面倒見てもらおうなんて思っちゃいないよ!」
 と啖呵(たんか)を切って、ここに入所してきたのだそうだ。そう言えばハルカさんに面会に来る人は友人だけだったなあと思い返す。と、翌日。ハルカさんに呼ばれて部屋に行くと
「でも、結局何かあったら頼むしかないもんね。世話になるしかないやね」
 と言うと目の前で携帯で叔母に連絡を取ってくれる。十二年振りの連絡だ。ハルカさんは自分で病状を説明する。その電話は長く、十二年の不和が氷解していくのが会話の端々から感じられた。ハルカさんは
「やってみれば簡単なものね」
 と言う。叔母は入院中に面会にも来てくれたそうだ。その後、司法書士さんとも連絡を取り、遺言書の作成もされていた。少しずつ蝕(むしば)まれていく身体を押して銀行にも行かれ解約の手続きもされていた。手紙も何通か書いていたようだ。
 そうして、九月初旬再び僕とナースと三人で一時間半車に揺られ大学病院に行く。治療方針は㈰まず、抗ガン剤で叩く。㈪叩いて小さくなったら放射線で焼く。というものだった。病室に案内され、荷物を降ろすとハルカさんは出にくくなってきた声で
「いろいろありがとう。戻るから部屋空けといてね」
 と、笑顔で話していた。入院中もナースや担当のひとみちゃんや主任が面会に行ってくれていた。はじめは検査検査でなかなか治療を開始せず「なんだかね?」との話だったが、そのうち抗ガン剤の服用が始まると副作用で気持ち悪いのか話もできない状態のようだった。一か月が経過し、担当医とのカンファレンスがあり僕とナースが参加する。担当医
「抗ガン剤が効いています。こんなに効く方も珍しいです。かなり小さくなってきているので放射線治療をすれば根治すると思います。ただ、本人の身体と精神力が持たないかもしれません」
 とのことだった。その話のあとハルカさんの病室に近づくとナースコールを頻繁に鳴らしている人がいた。それがハルカさんだった。
「あちこち痛いみたいです。転移もなく痛み止めも服用しているのだけど効かなくて……。気持ち的なものと思うんですけど……」
 と話す病室看護師のピッチが二分とたたずに鳴っている。カーテンを開け覗くとグッタリしたハルカさんがナースコールを握りしめていた。抗ガン剤が効いている話などをしたがハルカさんは弱々しく頷くだけで返答はなく、腰が痛いというのでナースがしばらく腰をさすっていたがしかめていた顔は変わらなかった。一時間ほどいて退室したが、ついに「痛い」という言葉しかハルカさんの口から聞くことがなかった。
 それから二週間くらい経った頃だろうか、大学病院から「ハルカさんが呼んでいる」と連絡が入る。どうにかその日のうちに時間を工面し、ナースと僕が大学病院に着いたのが午後六時。病室に入ると目に涙をいっぱい溜めた。いや、すでにもう泣き出しているハルカさんがいた。そして、ナースに抱き付くと、
「帰りたい。もう、つわぶきに帰る」
 と言い、
「うん、帰ろう。つわぶきに帰ろう」
 と、ナースも泣きながら応えたのだった。
 その日ハルカさんは泣きながらいろいろ話した。
「もう治療には耐えられない」
「抗ガン剤でこんなに苦しい私が放射線治療に耐えられるはずはない」
「知っている顔がいない所で苦しみたくない」
「死んでもいいから、気心の知れたつわぶきに帰りたい」
「もう充分わかった」
「あの人たちのいるところに戻りたい」
「たくさんコールを鳴らして、威張って、迷惑をかけるかもしれないけど、つわぶきに戻ってもよいか?」
 等々だった。ナースは
「うん。いいよ。帰ろう」
 と言い。僕はその後ろで頷くだけだった。
 そのあと、僕たちは担当医との面談を持った。担当医は話す。
「ガンを治す専門家としては非常にもったいない気がするのは事実です。ガンは小さくなっています。これは一時的なものかもしれませんけど、いろいろな治療を施せば更に小さくなるかもと思ってしまいます。ですが、医者として、これ以上の治療を施すのはハルカさんにとって酷なのかもしれないとも思っています。ハルカさんがここで痛みや苦しみと戦い一人涙するよりも、出来るだけ痛みを取り除き安心できる場所で残りの時間を楽しむことのほうが大事なのではないかと思うんです」
 と。この説明を聞き、僕とナースは「ハルカさんを施設で最後までお世話したい」という旨を担当医に伝える。担当医は快く承諾してくださり、退院の日取りが一週間後に決まった。
 さあ、それからが大変であった。施設に戻りスタッフに退院の日取りが決まったことを伝える。ただしそれは病気が良くなったからではない、死を前提とした余生を送る場所としての退院である。担当のひとみちゃん主導のもとハルカさんの居室の大規模な模様替えが行われた。というのも、退院後は処置が居室で行われるので、ある程度のスペースが必要だった。居室には大型テレビと冷蔵庫とパソコンとタンスが一つとハルカさんの母親の仏壇のみ残され、居室から廊下に出されたのは、おびただしい数のDVDの山、健康飲料、洋服、本、雑誌、缶詰、CD、ポスターであった。それらは廊下の片側を埋め尽くし、よくぞこれだけの量をこの四畳半ぐらいのスペースの居室にしまっていたなぁという思いだった。もちろん、事前に全職員で話し合いの場を持ち、対応方法の基本を決め、親族に連絡し、日々の細かな記録を取る用紙も作成した。
 こうしてその年の十一月。ハルカさんは大学病院から一時間半車に揺られて当施設に戻ってきた。天気の良い日で途中の海岸線沿いからは富士山が綺麗に見えていた。僕たちは路肩に車を一時駐車して三人で手を合わせて拝んだものだった。施設に到着すると事務員やデイのスタッフや施設長が玄関で出迎えてくれ、居室にはお帰りなさいと控えめのカードがベッドサイドテーブルに置かれていた。初めのころは痛みのコントロールもうまくいき、ハルカさんはパソコンをいじるなどの余裕も見られたが、次第に痛みが厳しくなってくる。入院前は絶対男性には行わせなかったトイレ介助を男性にも許していた。四週間経ち近くの提携病院へ行くと、ずっと診ていた主治医がハルカさんの喉をみて
「やあ、ずいぶん綺麗になったねぇ」
 と話しかけていた。そして痛み止めとして麻薬を処方した。主治医
「痛みが強いようなら使ってください。足りないようなら電話をください。届けさせますから」
 と話した。ハルカさんのガンはドンドン進行していた。帰りに早咲きの桜が植わっている並木通りを走ると
「もう一回だけ見たいねぇ」
 とハルカさんが言う。僕が
「何回でも見ましょうよ」
 と答えると
「そうだね」
 とハルカさんは笑って答えてくれていた。
 しかし、ハルカさんは早咲きの桜を見ることはできなかった。日に日に痛みの訴えは増え、一時間に何度体交しても落ち着くことができなくなり、麻薬を開始する。固形物が口にできなくなり、続いて、流動物も口にすることができなくなる。かろうじて直接胃に食物を補給することで栄養を補給できているが、喉が乾いてくっつき会話もままならなくなる。口の中を湿らせたガーゼで拭うが少しの水分でもむせてしまう。麻薬の影響で幻覚も見えてくるのか僕らには見えない人を追い払っていた。ナースコールは頻繁で、どうにか痛みがない体位、姿勢はないものかとスタッフは必死だった。新しいクッションを購入したり、アロマテラピーも行った。しかし、麻薬の影響と脱水症状も相まってか意識がだんだんと途切れがちになる。そうしてそのうち訴えそのものがなくなってきた。夜勤の職員はハルカさんの部屋の近くで仮眠をとる日が続いた。そして、その日の夜勤者はこう話す。
「ハルカさんは少し目を開けると私の方を見て頷いたので、私もハルカさんの腰をさすりながら頷きかえすと、さすっている私の手を止めて、両手を胸の前で手を合わせてお辞儀をしたんですよ」
「なんだか、ありがとうって言っているような気がしました」
 と。それを聞いた担当のひとみちゃんは
「こっちのほうがありがとうだよ〜」
 と涙を滲ませていた。
 ハルカさんは六十五歳の生涯の終わりの場所に当施設を選んでくれた。そのことを僕は誇りに思う。僕たち施設スタッフを誇りに思う。そして、ハルカさんに本当に感謝したい。ハルカさんから学んだことは数えきれないほどある。ハルカさんが苦しがっている時に腰をさすり手を握り励ましていた新人の職員がハルカさんの居室から出てきた後こっそり陰で泣いているのを見た。この新人を守ってやらなくちゃと僕は思った。そんな思いを僕に抱かせてくれたのはハルカさんだ。他にもいっぱいある。早咲きの桜がこんなに綺麗に街を彩るのかと思い出させてくれたのもハルカさんだ。きっと、僕だけじゃなくそれぞれのスタッフがそれぞれにハルカさんに感謝していることがあると思う。
 後日、司法書士さんがやってきて遺言を教えていただいた。「居室にあるものはすべて障碍者施設つわぶきに寄付する」とのことだった。今でも当施設では韓流ブームが続いている。ハルカさんが残していってくれたDVDの貸し出しが行われているのだ。ハマっている人に聞くと二年たった今でも見終わらないそうだ。そしてもう一つ、ハルカさんの本棚の中に『世界一周旅行の手引書』という分厚い本があった。とても重いので変だなと思い中を開くと、それは五百円玉硬貨を全世界二百の国地域一つ一つにはめ込んでいく厚紙で出来た本タイプの貯金箱だった。そのお金でつわぶきには一つのエアーマットが増えた。本当にありがとうハルカさん。天国でも自分らしく楽しんでいるのかなぁ?

渡邉 治郎 プロフィール

昭和四十六年生まれ 障害者支援施設 サービス管理責任者 静岡県賀茂郡在住

受賞の言葉

このたびはわたくしの作品を評価していただき、とてもうれしく思います。普段、仕事をしている時に、これで良かったのかな? また、間違えちゃったのかな? と、もんもんとしているので、少し「大丈夫だよ」と、背中を押してもらえたような気がします。 実を言いますと、わたくしもハルカさんとは二回ケンカをしています。一回目はベッドメイキングの手順が悪くて始まった口ゲンカですぐに仲直りしたのですが、二回目はハルカさんの苦情に対し「少しは自分で動いたらどうですか?」と言った時です。ハルカさんは顔を真っ赤にして「あんたは私たちの味方かと思っていたのに残念だよ!」と捨て台詞を吐いて扉をバチンと閉めてしまいました。その時に思ったのです。果たして自分は誰の味方なのだろうと、そういう思いに気づかせてくれたのが、わたくしにとってのハルカさんです。ハルカさん、本当にたくさんのことを教えてくださり、ありがとうございました。

選評(江草 安彦)

四十歳後半に脳梗塞で倒れられ、下半身に麻痺が残った糸山ハルカさんの壮絶な闘病が始まった。そのうちに二度目の脳梗塞が襲ってきた。その後障碍者支援施設つわぶきに入所され、集団生活の中で自分を見失わないだけでなく、主張を忘れず施設職員の常識からするといささかはみ出しの生活であったが畏敬の念をもたれるに至った。施設職員として時には「はみ出し」に困惑したが、やがてハルカさんから気心の知れたわが家、家族と思われるまでになった。ハルカさんは「世界一周旅行の手引書」で世界中を友人、施設職員と一緒に旅をしておられるだろう。