第49回NHK障害福祉賞 優秀作品
「リターン・トゥ・ワーク もう一度 はたらく」 〜第1部門〜

著者:小林 良子(こばやし よしこ) 滋賀県

小林 良子(反復性うつ病性障害)「平成二年八月二十一日。「うつ病により、長期療養を必要と診断する」
 初めて訪れた精神科で主治医から渡された診断書を私はどれくらいながめていただろうか? 病気の実体もわからず、これから、具体的にどう治療を進めるのかも判断できない。“とにかく、上司に連絡しなければ……”よもや、これから二十年以上にわたる「こころの病」との、それが出会いと始まりになるとは想像もできなかった。
 その年の三月、失恋をした。ほどなく、親友が自死をする。その時の精神状態は、言葉で表現できない。大事な人をうしなった、空っぽの心を抱え、その日一日をなんとかしのぐ毎日。ほころびはすぐに出てきた。職場には、出勤するものの、頭は全く働かない。五分もあれば仕上げられる文書作成に半日もかかる。周囲の視線が妙に気になり、同じ所をグルグル回っているような感覚。不眠が続き一か月で体重は十五キロも減った。
“これは、普通ではない”内科で「特に問題なし」の検査結果を受けとった私は、迷わず精神科を受診した。“こころがこわれたから精神科に行って治療を受ける”ことに、ためらいはなかった。今ほど、メンタルヘルスに対する世間の理解はない。だが、この苦しい状態をなんとか脱出したかった。
 訪れた病院は、とてもキレイで、音楽が静かに流れていた。私の主治医は、女性のT先生だ。真正面に私をみつめ、
「どうされました?」
 と、包み込むように聞いてくれた。
「何もできなくなりました。どうしていいか判らないのです」
 私も先生を見た。しばし沈黙があり、先生は言ってくれた。
「もう、頑張らなくていい。今まで、しんどかったね。よく来た。よく来たね」
 と──。
 次の瞬間、体中の力が抜けていくような、深い安心感を感じた。泣けて仕方がなかった。「もう、頑張らなくていい」と思うと肩の力がスーッと抜け、本当に楽になった。
 今も、感謝と共に思いだすのは、私が泣き止むまで、静かに待っていてくれたT先生の優しいまなざしだ。
 問診の後のいくつかの検査の結果、私は「うつ病」でとにかく休養が必要とのことだった。休職するという方法もあったが、T先生の判断は、「退職して、治療と休養に専念した方が良い」ということだった。
 うつの症状は、ゆっくり休んで治療を受ければ、必ず良くなると先生は言ってくれた。
 しかし、私の場合は、併せてカウンセリングを受けた方が良いとのことだった。
 失恋や親友の死をきっかけに、私の中で、解決されていない何かが、表面化してきたのだという。誰もが、大切な人をなくして発病するわけではない。私の生き方に、何か無理があるのなら、この際、しっかり治療をしよう。腹をくくった。八年、勤めた仕事を辞めた。
 うつ病は、一度回復しても、再発しやすい。働けない期間、生活費はどうするか?
 この病気のしんどい所は、働けなくなることだ。手元には、貯金、退職金、傷病手当金があり、これらを財源にあてた。すでに家族とは離れ、一人暮らしをしていた私にとって、「無収入」は、厳しい現実だ。しかし、これで二年は治療に専念できる。不安はつきなかったが、健康になることが一番だ。こんなふうにして、私の闘病生活はスタートした。
 カウンセリングが始まると、私の症状は、一気に加速した。私が受けたのは精神分析で幼児期からの記憶を一つ一つ検証していくのだ。私の記憶に残る母は、いつも泣いていた。父は時に暴力をふるい、とても怖かったことをよく覚えている。経済的にも楽ではなかった。休む暇もなく働く両親をながめながら、私はよく一人で本を読んでいる子供だった。しかし、私の同世代には、もっと、大変な生活をしている人がたくさんいた。私がそれほど不幸だったとは思えない。もしあるとすれば、私が必要以上に傷つきやすい性質だったのかもしれないが、カウンセリングが進むにつれ、自分では、「終わった」はずの、両親への不満がまだ自分の中にくすぶっており、学校でも会社でも「良い子」で評価を得ることにより、自分を成立させていることがわかった。本当の自己実現は、「ありのままの自分を尊重できる」ことにあると、カウンセラーは言う。社会の承認がないと立っていられない「私」は、未成熟だというのだ。
 でも、そんなことが分かったからといって、病気が治るわけではない。治療開始から、半年もたつと、家で寝ているだけではダメで、少しずつ起きて、動いて、何とか生活リズムを整えようと挑戦するようになっていった。
 この頃には、うつ病に関する本を読むだけでなく、地域支援センターの相談員や、家族会の人たちと話しあって、病気について様々な事を共有したり、社会復帰について考えるようになった。病状は一進一退の経過をたどり、一日中、起きられない日も、すごしやすい日もあり、安定しているとは言えないまでも「生きているだけで十分」と、自分に言いきかせながら、低空飛行の毎日を自分なりに必死に生きていた。幸い、主治医の他に、私にはサポートをおしまない友人がいてくれた。食事を届けてくれたり、グチを辛抱強く聞いてくれた。彼女たちの助けがなければ、私の「うつ生活」は、とても辛いものになったに違いない。希死願望がある時に、仕事を休んで側によりそってくれた友人の一人は、
「ほんとに、あんたにはハラハラさせられたわ。どうしようかと思ったよ」
 と今は笑う。
 人は誰でも病気になる。うつ病にだってなったっていい。その時に、当事者を助け、励ましてくれる人間関係のサポート──(それは、家族・恋人・友人……とにかく何でもいい)があれば、本当に助かる。「苦しいから、助けてほしい」と言えばいいのだ。病んだ時孤独は本当に辛い。病気で働けない間、私は友人のネットワークや社会資源を活用することで本当に助かった。後の話になるが、病気で働けない人の手助けをしたいという願望はこの頃にめばえていたのだと思う。
 不定愁訴の続く毎日だったが、退職から一年もたつ頃には、T先生から
「そろそろ、アルバイト始めてみる?」
 とすすめられた。
 現在のように「社会復帰プログラム」を持っている病院や施設はまだなく、復帰への第一歩は、T先生と様々、相談をしていく中でスタートを切った。
 私の最大の幸運は、T先生という主治医に巡りあえたことだと心から感謝している。
 時に絶望を感じ、生き続けることをやめたくなったこともあった。そんな時、先生は
「私とあなたはタッグをくんでいるのだから、負けないでほしい」
 と励ましてくれた。
 治療者として、T先生はいつも私の真横にいて、私を支え励まし続けて下さった。
 さて、今の自分には、何時間働ける体力があるのか? モニタリングは、そこから始めた。できるだけ、たやすい仕事が良い。
 私は百貨店の婦人服売り場で週三日、夕方の五時から八時まで販売のアルバイトを始めた。まだ、朝、決まった時間に起きるのは辛かったし、週一回は平日に病院に行かねばならない。比較的元気な夜を働く時間にあてた。職場の先輩たちは、親切に仕事を教えてくれた。初日の三時間はあっというまに過ぎた。
 ラッキーなことに、売上もあがった。洋服を買っていただけたのだ。閉店後のレジ処理をしながら、店長は
「一日三時間でいいの? 経済的には辛いのと違う? いつでもいいから、時間延長考えてみてね」
 と言ってくれた。
 涙がでるほど嬉しい申し出だったが、私はクローズ(病気をふせて働くこと)の患者だ。はやる心をおさえ、「欠勤しないこと」を第一目標にした。
 しかし、考えた以上にダメージは重かった。たった三時間の立ち仕事にもかかわらず、翌日に疲れはドッと出た。今までに経験したことがない種類の疲れ方だ。うつ状態もぶり返している。頭は全く働かず、体は鉛のように重い。幸いなことに、シフトは一日おきに組んであった。二日めは、とにかく休んだ。これが、私の現状なんだと思うと、情けなかったが、うつからの社会復帰って、難しいんだと自分に言いきかせた。
 少しずつ、本当に少しずつ、私は前に進むことを再度決意した。焦らないこと、余力を残すこと、無理をしないこと……自分に言いきかせているうちに、私は、はっとした。
 私は成果を出すことに必死で自分の体の声を聴いていただろうか? 疲れた時に休んでいたか? 楽しんで働いていただろうか?
 いずれも否であった。自分がうつ病を発症することは必然だったかもしれない。
 病気になって初めてしんどい生き方を素直にみつめられるようになったのだ。
 勤務日二日めは、ソロソロと働きだした。接客の他に、在庫管理や店内のディスプレイなど仕事は山のようにあった。ゆっくり、ボチボチ働くことを信条に、スローステップでシフトをこなしていった。
 三か月後には、半日働くようになり、六か月が経つ頃には、一日八時間、週四日勤務することになった。あまりにもマイペースで動く私に
「もっとさっさとやってよ」
 と怒る先輩もいた。表面上、私は血色もよく、元気にみえる。病気だなんて、誰が思うだろうか?
 そんな私にT先生はおっしゃった。
「理解してもらえなくて辛いけど、元気にみえるから採用してもらえるんよ」
 私は、またまた、はっとした。
「自分にしかわからない病気」は、「自分がよく理解してコントロールしていけば良い」のだ。あいかわらず、症状は続いたが、精神的には少しずつ楽になっていった。
 一年がすぎた。
 私は、とうとう、フルタイムで働くようになっていた。もちろん、発病前のように、元気一杯、働くことはできない。おとろえを受け入れ、できない仕事は丁重に断って、他の人にやっていただくようにお願いした。以前の私なら、できないことにはトライしていただろう。しかし、今はまだまだ油断のできない体だ。たとえば、季節の変わりめや、気圧の変動の激しい時期には、私はいとも簡単にうつ状態におちいった。病気を完全に治すことより、不具合をかかえていても、生活ができ働けていれば良しとするように考え方をシフトさせた。今なら、「認知を修正した」ということになるのだろうか?
 正社員になる話もいただいたが、熟慮を重ねた結果、お断りした。経済的には楽になるが、ストレスのかかり方が全くちがう。ノルマを達成することやシフト調整、接客の合い間をぬって会議をする……等々、社員の仕事は、現況の自分には負荷がかかりすぎる。「心をなるべく楽な状態に保つ」ことができないでいると、どんどん辛くなって、結局は働くことができなくなってしまう。かっとうはいつもあったが、いくつかの失敗の後に、私は楽に働くことを選択した。以前の私には、考えられない事だが、自分に優しいと他人に対しても心に余裕が感じられた。
 職場の同僚にも、「持病があって、今も通院しているから無理はできない」と伝えられたのもこの頃だ。精神科に通っていることをふせたのは、誠意をもって説明しても、理解してもらえないばかりか、「なまけてるのと違う?」とか「気の持ちよう」といった言葉の他に、「感染する病気なの?」と、こちらが答えにつまる反応があったからだ。
 うつ病に市民権ができるのはいつになるのだろう? 外科や内科と一緒で、心が辛い時は精神科に行くという行為がごく普通に受け入れられたら、もっと安心して、自分のことを自然に発信できるかもしれない。
 様々な事を考えながら、私はとにかく働き続けた。家にいる時は、寝ていることがほとんどの日もあるにはあったが、自分は病気をかかえながら、とにもかくにも働き続けていられるのだという現実が、いつしか自負に変わっていった。誰にほめられるわけでもないが、とにかく、ベストを尽くして生活をおし進める自分を誇りに思うことにした。
 私にとってのプライドは、以前は「何かができる自分」だったけれど、今は、「何もできなくても、私は大切な人だ」と思えることだ。二十代後半に発症し、完全休養を含め約二十年間を治療しながら生きてきた私にとって、結婚や出産というライフイベントに参画することはできなかったが、それでよかったと思っている。人には、それぞれの生き方があり私は私の人生を精一杯、生き抜けばよいのだ。それが、いささか、人とは違うライフスタイルであっても、(少し大げさかもしれないが)「私は自分らしく、この人生を生きた」と心から思うことができれば、それもひとつの幸福のかたちではないだろうか?
 平成二十年の頃には、通院する・働くことが基本になり、生活基盤もなんとか整えることができた。発病時には、「寛解する」と診断されていた私の病気は、「反復性うつ病性障害」ということで、一生モノになった。障害者手帳を取得し、私は「精神障害者」に晴れてなった。手帳を申請する際、大笑いしたエピソードがある。市役所の担当窓口の方が、私に
「どなたがご本人ですか?」
 とたずねるので、
「私が当事者ですよ」
 と答えると、相手は目を丸くして、
「とても、ご病気にはみえませんね……。まだ病院に通っておられるんですか?」
 薬も治療も必要だから、手帳が取得できたんですよと返すと、私達は、顔をみあわせて笑った。このことをきっかけに、福祉課の職員と親しく話すようになった。
 聞くところによると、病気を公表(オープン)して働く人も多いという。ハローワークのカウンセラーに相談すると、
「あなたの経験をいかして、精神障害者の復職をサポートする仕事につくのもいいかもしれませんね」
 と言ってくれた。
 そんな事が可能なのかなあ……と思いつつ、主治医のT先生に相談させていただいた。
「誰かを助けられるとか、自分には力があるとうぬぼれなければ、やってみても、いいかもね。販売の仕事も大変でしょう? この際勉強したらどうですか?」
 T先生のアドバイスは的確だった。
 私は、ハローワークの精神障害者雇用の担当者と共に仕事を探し始めた。幸運なことに、世の中は障害のある人を進んで採用しようという機運が高まりつつあった。平成二十四年四月、私は念願かなって、精神障害者の復職を支援する施設に就職することができた。
 パートタイムで一か月十五日の勤務だが、今の私のエネルギーと、生活リズムには無理のないありがたい仕事と、心から感謝している。
 思えば二十年以上の歳月を「うつ病」と共に過ごしてきた。途中、そんな自分の生活に何度もため息をついてきた。しかし、今となっては、長く病気と歩んできたからこそ、今の生活があると思うし、過ぎた時間は、私に貴重な経験を与えてくれた。少々の困難や不具合をかかえていても、人生は生きるに値するのだ。願わくば、この先は、勉強に励み、精神保健福祉士の資格をとりたいと思っている。しかし、それ以上に祈り、願うことは、「心の病」をかかえた方々に、よりそい、悩みを共有しつつ、この社会で共々に生きていくことだ。健常であろうとなかろうと、それぞれが希求する生活を送れる社会の構築をめざして──。

小林 良子 プロフィール

昭和三十七年生まれ 団体職員 滋賀県近江八幡市在住

受賞の言葉

おもいがけず、入賞の連絡を頂き、「えっ?! ホントですかぁ?!」というのが最初の感想です。改めて、多くの方々に支えて頂いての現在の自分、と感謝しています。今は、精神障害者の方の「リワーク(復職)支援」の仕事に従事していますが、このことを励みに、これからも勉強し、努力してまいります。関係者のみなさまに改めて、御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

選評(鈴木 ひとみ)

全編を通して、著者の優しさと、柔らかな感性を感じました。障害者手帳取得の際に担当者が「あなたご本人には見えない」と投げかけられた言葉に不快感を持つどころか、笑いで共感していることなど、とても素敵です。発症から二十年以上、苦しみの中でもがいてきたことは決して無駄ではなく、むしろご自分が成長されたことが伝わってきました。小林さんの言葉「人生は生きるに値するのだ」、これは困難の末に彼女が獲得した心境です。